暗闇から響く、ざざん、ざざん……という波音を背にして俺と笹木は車に乗り込んだ。
真っ暗な国道を、何台も対向車線のヘッドライトが通り過ぎていく。
海ではしゃぎすぎたからか、助手席に座る俺はうたた寝していた。夢と現実の境目を彷徨い、背中を椅子にもたれさせていると「ガソリンスタンドに寄るね」と笹木の声が遠く聞こえた。
小さなガソリンスタンドに着き、笹木がドアを閉める。しばらく外でガソリンを入れている気配がした。
眠りかけている俺の瞼には、日中見た、たゆたう波の残像が揺れている。
きらきらと夏の日差しが反射する水面。
響き合う笑い声が夢の中で木霊していた。久しぶりに味わった平穏が体中を包んでいる。
それでも何かが「違う」と囁いていた。ピースが一つ、なにか、欠けている、と。だがそのピースが分からない。
その時、首に、虫が這うような違和感を感じた。
俺の首筋をスッ……と何かが這っている。暗闇に滑るように蠢いて──真っ白な、人間の手だ。
「!?」
仰け反る俺を押さえつけるように、それは蝶の羽のようにバッと開くと、俺の首を掴み上げた。
ギュゥッと力を込められていく。
女のような華奢な手なのに、異常な力だ。首輪のように離れない。どんなに藻掻いても、首がどんどん締まっていく。
酸素が足りなくなる頭で感じたのは、強い恐怖だった。うつらうつらしていた時に、昼間通ったトンネルを抜けたのを思い出した。
N町に帰ってきたのだ。
じゃあ、やっぱり、こいつらは……N町の……。
「ッハ……うぐッ……!うッッ……!」
町の外へ出た俺を咎めるように、首に掛かる手首が、その指先を食い込ませて締め上げてくる。
その白い肌に爪を突きたてて、足をばたつかせ、俺は必死に抵抗するがびくともしない。
もがく俺を嘲笑うように「アハハハハハハハハハ!!!!!」と甲高い声がした。
フロントガラスにバン!!!と大きな音を立てて何かがぶつかった。赤黒い肉塊と血しぶきが、ガラス一面に広がる。
赤黒い血が雨のようにガラスを伝う。塊は……女の頭だ。顔の右半分が石榴のようにぐちゃぐちゃに潰れている。
黄ばんだ歯を獣のようにむき出しにして、女は首をかしげて嗤った。
「そうすけ、ア、アンタアンタナンカね、そうすけ、アンタなんかアハハハハ!!!!」
──いらないのに。
「うッ……!ッッ……!」
俺は目をギュッと閉じた。女がけたたましく嗤い続け、いつしか車の中にも生臭い血液が流れ込んでくる。足首を浸す血の海を、俺の足が空しく踊る。
掠れていく意識の中で、心の中で必死に叫んだ。
助けてくれ。
助けて。頼む。どうか、俺を……。
「……ッ!!」
誰かの名前を、俺は力いっぱい叫んでいた。
叫んだ瞬間、ガチャッとロックが外れる音がした。
フロントガラスの女が怒りに満ちた目で俺を睨み付け、霧散した。白い手首も消えている。
俺は震える手でなんとかシートベルトを外し、ドアから転がり出た。
「宗介くん!?」
携帯電話を耳に当てていた笹木が、こちらに駆け寄った。周囲の客や店員が、笹木の叫び声でこちらを振り向く。
荒い呼吸を繰り返す俺を抱き上げる笹木に、俺は息継ぎしながら伝えた。
「また……化け物が……俺の首を……ハッ……今度は、殺そうと、してきた……」
笹木の顔が青ざめる。攻撃の度合いが強まっている。今までの怪異以上に、俺の命を奪うという強烈な意志を感じさせた。
震える俺の指を笹木がぎゅっと握りしめた。
「どこ、行ってたんだよ……」
安堵からか、恐怖なのか、俺の目から涙が一筋こぼれた。
「呼んだんだぞ、あんたの名前……、助けるって、守るって言ったくせに……!」
怪異に殺されそうになった刹那、俺は本能的にこの男の名前を呼んでいた。
「……宗介くん、ごめん」
笹木は眉を寄せ、俺の肩に大きな掌を置いた。
「君をもう一人にさせない。今後のことも色々と話そう。でも今はミツさんが」
「……婆ちゃん?」
真剣な笹木の表情を見上げて、俺が呟くと「キャァッ!」と誰かの悲鳴が聞こえた。
ガソリンスタンドの女性店員が、恐怖に青ざめた顔で、俺たちの車を凝視している。笹木に支えられながら、俺も立ち上がる。
フロントガラスに、おびただしい量の血と、鳥の羽がぶちまけられていた。
ガソリンスタンドで事態を収めた後、車を走らせると、自宅の前に赤いサイレンが見えた。
パトカーの横に軽トラが止まるやいなや、俺は「婆ちゃん!」と飛び出していた。
暗がりの中、縁側に婆ちゃんは座っていた。赤い傘をギュッと握りしめて、うつろな目で地面を見つめている。
「婆ちゃん!」
俺は婆ちゃんの膝にすがるように駆け寄った。迷子のように小さく座っている婆ちゃんは、俺の顔をゆっくりと見た。
「巡回中にお一人で歩いているのを見かけましてね。いや、雨でもないのに傘をさしてフラフラとされてるのは、おかしいなと」
小太りの警官が、俺ではなく、笹木に説明し始めた。警官は訝しげに、アロハシャツ姿の笹木を眺め、責めるような口調で続けた。
「近所の方から通報がありましてね。すこしおかしなご様子でしたが、ご自宅まで案内していただきました。……てっきり、一人暮らしの方かと」
「いや、俺は居候の身の上でして」
「婆ちゃん!大丈夫?怪我してない?」
「宗介ェ……?」
婆ちゃんはにこりと笑った。だが、目がどこか上の空だ。ガラス玉のように空虚な瞳の中に、俺が二人映っている。
「百合ちゃんがね、傘がないまま、おでかけしちゃったでしょう。お迎えにいかなきゃと思ってね」
婆ちゃんはギュッと赤い傘の持ち手を握った。
そんな様子を見て、小声で警官が笹木に何かを話しているのが視界の隅に映った。
あの夏の日の一本道。母を待って立ち尽くした5歳の俺を、迎えに来てくれたのは婆ちゃんだった。
婆ちゃんは悲しそうな顔で微笑みながら、俺の小さな手をさすりながら、こう言った。
(宗介、お母さんが帰ってくるまで、お婆ちゃんとお留守番、しようね)
あれからもう十年も経っている。
婆ちゃんの心は、あの一本道で迷子になってしまった。
「婆ちゃん……」
どこか視線を遠くに向けて微笑んだまま、婆ちゃんは優しく俺の手をさすった。
「……今日は疲れたろう、宗介くん。そろそろ寝ようか」
警官を見送った笹木の声が後ろで聞こえる。
「どうせ、眠れない。こんなんじゃ」
婆ちゃんは自分の布団ですやすやと眠っている。せめて、美しくて楽しい夢を見ていてほしい。
ずいぶん痩せてしまった手を握りながら、俺は婆ちゃんの寝顔を眺めていた。
笹木はそんな俺に尋ねた。
「ずっと気付いてたんだろう、宗介くん」
いつからだい、と笹木の問う声が部屋に響いた。
大きすぎるテレビの音、噛み合わない会話。
何本もラックに買い置きした醤油瓶。
作りすぎてしまう、痛んだおかず。
帰らない娘を待ち続ける姿。
少しずつ糸がほつれるように、大事な部品が欠けていくように、
婆ちゃんがゆっくりと壊れていくのを、俺は些細なことだと、ごまかしてきた。
だけど。
黙り込む俺の背中に向かって、淡々と笹木が説明をし出した。
「近所の人やさっきのお巡りさんにも相談したんだけど、もう、ここからは福祉の手を借りるべきだ」
俺の隣に座り、笹木がすっと差し出したのは、町役場でもらったという簡素な冊子だった。
ページをめくると、「訪問介護」「短期入所サービス」など、見慣れない文字が羅列している。
「もう、君一人じゃミツさんは守れない。町場に行って未成年の君への生活支援も」
「……今更」
俺の喉から怒りの声が沸いた。
「余計なことするな!余所者の他人がしゃしゃりでてくるなよ!」
「……じゃあ湯山くんなら助けてくれる?」
笹木の口から、不意に、親友の名が出て、しんと、空気が静まりかえった。
見上げた笹木は、氷のように冷たいまなざしで俺を見ている。
その唇が、俺が今まで気付かぬふりをしていた事実を告げた。
「湯山くんは、もう、君のところには帰ってこないよ」
冷えた声で笹木が続ける。
「手紙も寄越さない。ここの電話番号だって知ってるんだろう?なのに1ヶ月経って連絡ひとつ寄越さないなんて薄情な親友だね」
「……やめろ」
怒りで声が震えた。俺が睨み付けても、笹木の表情は崩れない。
「宗介くんを黒木龍也から助けていたのもいい格好したかっただけじゃないかな。自分よりも弱い立場の君を守ることで優越感を感じていた……とか?
何の力も無いくせに、ヒーローを気取る、傲慢な子供だ。宗介くんと逃げられるなんて本気で考えてなかったのさ」
「やめろっていってるだろ!」
床に並べられた冊子を蹴り上げるように、俺は笹木の胸ぐらに飛びかかった。俺よりも体格のいい笹木の体はびくともしない。
それでも拳を振り上げて、俺はわめいた。
「お前になにが分かる!湯山を悪く言うなッ!湯山は」
俺をいつも助けてくれた。孤独な心を満たしてくれた。
「じゃあ、なんで君は俺の名前を呼んだの」
(呼んだんだぞ、あんたの名前……、助けるって、守るって言ったくせに……!)
俺を背負って逃げたのも、あやすように撫でながら隣で寝てくれたのも、海で一緒に過ごしてくれたのも。
湯山じゃなかった。
「俺はいるよ、ここに。君が生きるための方法を考えられる、大人として」
嘘つきだ。
お前も、東京に行ってしまうくせに。
そう罵りたいのに、頭を撫でる掌がどうしようなく温かくて、俺の目から涙が溢れた。
「ッく……婆ちゃんは、俺のこと、育ててくれて」
「うん」
「婆ちゃんだけはっ……俺を捨てなかった……から……っ」
母に捨てられた時も、
黒木に殴られ、嘲笑われた時も、
湯山にひどい言葉をぶつけた時も、
今まで泣けなかったのに、
どうしてこいつの前では泣けてしまうんだろう。
「頑張ったんだね、宗介くん。本当に今まで頑張ってきたね」
笹木の手が俺の背をゆっくりと叩く。
君は一人じゃない。頼っていいんだよ。
父か兄のような声が優しくて、温かくて、怖いぐらいに心が満たされてしまう。
笹木のシャツに俺の涙がじわりと染みては消え、また新たな染みをつくる。背中をさする大きな掌が温かくて、余計に涙がこぼれてしまう。
いつしか、夜に紛れるように、窓を優しく叩く雨音が聞こえ始めていた。その音に紛れるように、俺は声を噛み殺しながら、泣き続けた。


