【救】(きゅう)
すくう。助け出す。
「求(もとめる)」に「攵(うつ・働きかける)」が加わり、手を差し伸べて求めに応じ、危機から引き上げる意となる。
「いいのか、ほんとにこれで」
作戦会議の2時間後、俺と笹木は軽トラに乗って国道を南下していた。運転席の笹木は、口笛なんか吹いてえらくご機嫌だ。
「いいのいいのー!ところで、宗介くん、俺の愛車の乗り心地はどう?」
「ずいぶん揺れる愛車だな」
俺は冷めた目線をドライバーに向けながら答えた。笹木が近所のおじさんに借りたという、オンボロの軽トラは、堆肥臭い上に、縄やら農機具やらを積んでいるので走る度にガタガタとうるさい。
「仮説そのいち!『町に原因がある説』の実証だよ、宗介くん!町を出ても怪異が現れたら、町が原因とは限らない可能性が高い……はず」
「頼りにならねぇな」
「えーーー?きこえなーーーい!!」
笹木は、がなり立てるエンジン音に負けないよう、声を張り上げた。よく見れば、笹木はサングラスをかけて派手なアロハシャツに着替えている。こいつ、調査も怪異も忘れて、自分が遊びたいだけじゃないか。
笹木のサンダルが、アクセルをゆっくりと長く踏み込んでいく。
車はスピードを上げ、やがてトンネルへさしかかった。
「まぁ、それはさておき。たまには外にでなきゃカビが生えちゃうよ」
町を出たら、外に出たら、どうなるんだろう。
不意に、未知の恐怖を感じた。ぐんぐん向かってくるトンネルが、怪物の口に見える。飲み込まれる直前、俺は思わずギュッと目をつむった。
瞼の裏がチカチカするほど、俺は強く長く、ぎゅっと目をつぶった。
暗闇の中を笹木がスピードをぐんぐんあげていくのもなんだか怖くて、思わずシートベルトを掴む。
白くまばゆい光が、俺をおおった。トンネルから抜けたのだ。
窓から潮風が入り込み、目を開けた俺は思わず息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、一面の青。
初めて見た海に、言葉を失った。
波の音が近い。ガラスの破片を砕いたように、海面に光が拡散していた。遠く彼方に、タンカーらしき大きな船影が見えた。
この時、怪異だとか悪夢だとかを、ほんの一瞬だけ、俺は忘れた。車窓から入る風に前髪を遊ばせながら、俺は海に見とれていた。
「仮説1の検証をします!」なんて、それらしいことを言っていたが、笹木はやはり遊ぶ気満々のようだった。
岸壁の影になっている小さな入江で、笹木は軽トラを停めた。海水浴シーズンだが、人はいなかった。脇道に入ったその場所は最高の穴場のようだ。
「よっこいしょ。えーと……」
笹木は黒いバックパックを車から下ろした。そこから秘密道具を収集しているポケットのように、次から次へとオモチャを出していく。ビーチボールに、水鉄砲、それから俺の分のビーチサンダルまで。どこで買ったのか、ダサいクマのキャラクターが描かれている。
「砂が熱いだろうから、ほら、宗介くん、これ履いて」
「いい。いらない」
サンダルなんてもったいない。
俺は履きつぶしていたスニーカーを投げ捨てた。
さらさらとした砂はそれほど熱くない。貝や流木の破片に気を付けながら、俺は海を目指して走った。
体が軽い。潮の匂いも、砂浜の熱も、それらを踏みしめる素足の感触も心地よかった。
「冷たッ……ははっ……」
水際を撫でる波に足先を遊ばせると、楽しそうな悲鳴が俺の喉から溢れた。波も俺と遊ぶように、深く、浅く、俺の足を濡らす。
俺を誘うように引いていく波を追い、迫る波に乗るように走った。
足首ぐらいまでにしようと思ったが、ふくらはぎまで冷たい海につかってしまった。
「なんだよー!宗介くんってば、めっちゃ、たのしそうじゃーん!」
流れ着いた流木に腰を下ろした笹木が、大きな声で俺に呼びかけた。ムスッとした俺を笹木は更にからかった。
「案外、子どもっぽいんだね、宗介くんも」
「誰が言ってんだよ。自分が一番子供のクセして」
「……なんだとぉ」
俺が煽ると、ニヤリと笹木は唇の端を上げた。そして足下の大きな水鉄砲を抱え、こちらに近づいてきた。
だが丸腰の俺にも、この足がある。俺は、目の前の笹木に向かって、思いっきり水を蹴り上げた。
「うわぁあ!」
笹木の悲鳴と、弓なりに飛び上がる水飛沫。
スローモーションで見たら、ひとつひとつの水の塊に、笑っている俺が映っているかもしれない。
そう思っていると、放射線状に冷たい水が俺の脇腹に勢いよく当たった。痛みと冷たさから「ひゃあ!」なんて情けない声が出てしまった。
笹木はニヤニヤしながら、マシンガンのようなデカい水鉄砲を海水に沈めて、次の攻撃を準備している。
「おい!替えの服、持ってねぇんだぞ!」
「子供だから分かりませんね、そんなことは」
憎まれ口を叩きながら、サングラスの男は舌を「べー!」と出した。
「クソッ……!」
相手がそう来るなら、と俺は両手をざぶりと水につけた。笹木も水鉄砲を構える。
髪や肌に当たる潮の冷たさ。太陽が輝く水面を、何度も何度も両手で掬っては、空に放り投げる。
互いをからかう言葉や、攻撃に対する非難の言葉さえ、可笑しかった。
誰にも知られてない小さな入り江が、しばらくの間、笑い声と水音で騒がしくなった。
「あー……ったく、ビショビショだよ、もう」
「でも『チョー気持ちいい』って感じ」
「なんだそれ」
水の撃ち合いで一通りはしゃいだあと、息を切らしながら、俺たちは砂浜に戻った。
海水がべたべたして気持ち悪いが、まだ太陽は高い。その内、乾くだろう。
「ねぇー!宗介くん、見て見て!」
笹木がいつの間にか、岸壁側の浅瀬にしゃがみこんでいた。
波がぶつかる岩場を用心深く進むと、俺が海に落ちないよう、笹木が肩を支えてくれる。
「ほら!」と笹木が指差す小さな潮だまりを見ると、いくつもの影がチョコチョコ動いている。
「ね、かわいくない?」
フジツボが密集し、小さなカニや、透明なエビみたいなやつがひしめいていた。小さな水族館のようだ。
笹木の隣にしゃがみ、俺もまじまじと磯の中を観察する。
「……こんなとこにも、いるんだな」
「『こんなとこ』だからいるんだよ。天敵もいなくて安全なんじゃない?」
時折、穴に入り込む海水のプランクトンでも食べているのだろうか。互いの体によじ登ったり、ぶつかったりしながら、小さな生き物たちはうまく共存しているように見える。
笹木は指先で軽く叩くように、水面を揺らした。波紋が広がって、カニや貝たちが一斉に、岩肌の穴や影に身を潜める。
その様子を見て、笹木がぽつりと呟いた。
「でもさ、ちょっと怖いかも」
「何が」
「いや、結構ここ穴ぼこだらけじゃん。もしも今みたいに、せまーい穴にうっかり入り込んでさ、一生出られなくなったら怖いなって」
「……何だよ急に」
「昔、そんな小説よんだんだよね。サンショウウオと……カニだったかな?こんな感じの穴蔵に閉じ込められちゃう話」
岩場は深さの分からぬ穴があちこちに空いている。人間にはさもない穴のように見えて、実は奥が深く、そこに未知の生物がひっそりと息づいているのかも知れない。住処であり、逃げ道でもあり、しかし、光の届かない深淵。
「で、どう終わるんだよ、その話」
「閉じこめられて、出られないで、おわり」
「は?」
あっけらかんと笹木が語るオチはあまりにも救いがなかった。
だが、笹木は、その小説を読んだ時を思い出しているのか、顎を押さえながら言った。
「でも、これはこれで幸せなのかも、って俺は思ったんだよね。むかーし、読んだからあんまり覚えてないけど」
目の前の岩穴と、小説の中の、閉じ込められた2匹の生き物がリンクする。すると、目の前をチョコチョコ……と歩く小さな白い蟹が現れた。波が強くかかり、ちっぽけなそれは波に弄ばれ、今にも海へと流されてしまいそうだ。
俺は、そっと手を伸ばして、小さなカニを指先で掬おうとした。
――が。
触れた、はずなのに。
すり抜けたような気がした。
「ん……?」
もう一度やる。今度はちゃんと触れた。硬い殻の感触が、指に返ってくる。そのまま蟹を掬い取って、海水が溜まった窪みに戻してやる。カニは慌てたように岩陰に姿を消した。
「ふぅーん。宗介くん、優しいねぇ」
「いや……別に」
波が引いていく。さっきより静かになった水面を見ながら、俺はカニの隠れた窪みから目を逸らした。
いつしか、太陽が海の向こうに沈み始め、空の南側に星が一つ輝き始めていた。
青色に闇が混ざり始め、空と海の境目が曖昧になっていく。
一日中海を遊び尽くしたのに、不思議なほど、全く体は疲れていない。
少しブカブカの笹木のパーカーを羽織って、俺は暮れゆく海を見つめていた。
「やっぱ、海の最後はこれでしょ」
笹木が、「花火百万発!!」「夏を彩る豪華絢爛!」とか派手なキャッチコピーが躍る大きな袋を取り出した。
「定番だな」と呆れながら、俺も久しぶりの花火に胸が躍った。
パチッと短く爆ぜると、そのあと勢いよく緑色の光線が発射される。それから、白色にスパークして、消える。
赤や、白、緑。閃光が砂浜を幾つも照らし、火花が派手な音を立てて爆ぜた。
「きれーだねー!」
あはは、と笑いながら、笹木は二本の花火に点火した。「人間大車輪!」なんて謎の技名をいいながら、火花をまき散らしてぐるぐる回転した。
馬鹿だ。でもそんなくだらないのが、いまとても嬉しい。
気がつくと俺も声を上げて笑っていた。二人分のガキの笑い声が岩肌にぶつかって反響する。
「……久しぶりに笑った。というか笑えた」
流木に腰掛けながら俺は、線香花火に火を灯していた。ジジジ……と鈍い音を立てながら、やがて徐々に細い火花が弾けていく。
笹木もその横で、うーんと背伸びをして、満足げに天を仰いだ。
「んー!俺も、2度目の海だからはしゃいじゃった」
「2度目?」
「うん。俺ん家、こう見えても超厳しいからね。典型的な教育パパなの、親父が」
笹木は濡れた髪を後ろで結い、飄々とした口調で続けた。
「まぁ、結局大ゲンカして、今は絶縁状態だけどね。
だから、海も山も連れてってもらった記憶まっっったくなくて。じゃ、どうせ行くなら海でしょって。思い出の作り直し、ってやつだね」
それきり笹木は何も言わない。お気楽暮らしの大学生かと思っていたが、語りたくない過去や家族の事情ってやつがこの男にもあったのだ。
「……」
線香花火がじわりと丸い玉を作って、すぐにぽとりと落ちた。夕闇が濃くなる海辺で、静かに波音だけが響く。
それが妙に俺を感傷的な気分にさせた。ざざん、ざざん、と揺れる暗い海が、俺の心の傷を呼び起こし始めた。
「俺は初めてだ、海。……それに、もしかしたら、ここに来る予定だったかもしれない」
「え?誰と?」
笹木が尋ねる。
(宗ちゃん、今度さ、海にいかない?穴場見つけたんだよ)
「親友が誘ってくれたんだ。湯山ってやつ。……俺の唯一の友達。もう、いないけど」
人なつっこい笑顔が頭に浮かんだ。アイツが東京に行って──あんな最悪の別れ方をして、まだ1ヶ月しか経ってないのに、妙に懐かしい。名前を口にすると胸がちくりと痛んだ。
「俺、いつも黒木たちにいじめられてて、その時、唯一かばってくれたのが湯山だった」
あの日も、俺は男子トイレに呼び出されて、黒木龍也とその取り巻きに囲まれていた。
毎日繰り返されるひどい悪口にやり返す気力もなく、俺は心を無にして立っていた。
しかし、母を「売女」だと嗤った黒木を、キッと睨んだのが気にくわなかったらしい。
「……ンだよ。てめぇ、宗介。その目はァ!!」
黒木の右ストレートが頬にあたり、俺は床に倒れ込んだ。そういう時、決まって湯山がやってくるのだ。
「お前ら!なにやってんだ!いい加減にしろ!」
湯山は、体格もよく、優等生で周囲からも評判のいい生徒だった。母子家庭だったが、実父が東京の会社社長か何かで援助を受けているという眉唾な噂も聞いた。成績優秀で温厚な、でも家庭に事情のある少年。湯山は、俺と同じぐらい噂の的だったが、俺と違い、湯山に向けられる視線の大半は「憧れ」や「妬み」だった。湯山が現れると、黒木たちも悔しそうな顔で去って行く。
「大丈夫?宗ちゃん」
そう笑う湯山は、俺にとってのスーパーヒーローだった。悔しいけれど、憧れの存在でもあった。
「かっこよすぎだろ、お前は」
と切れた唇の血を拭うと、
「宗ちゃんもかっこいいよ。あいつらに負けてないもん」
なんて変なことを真顔で言う。そんなちょっとずれたところも好ましかった。
今でも、湯山がどうしてこんな俺を気にかけてくれたかは分からない。
複雑な家庭環境にシンパシーを感じていたのだろうか。俺は湯山に救われ、湯山も俺といるのが一番楽しい、と言ってくれた。
「宗ちゃん、今週のアレ、読んだ?」
「読んだよ。あのオチはないわ」
「えぇー!そうかな。俺はアレ、ハッピーエンドで結構好き」
夕闇が迫る河原で、帰りを促す放送が遠く聞こえてきても、よく二人でしゃべっていた。
少年漫画の展開を予想したり、給食で何が一番マズイか、とか、大人になったらどんな仕事に就きたいか、とか。
くだらなくて、ばかみたいな話ばかりだった。
でも、それは、婆ちゃんや、影の薄い母親とじゃ出来ない、大事な会話だった。
少しでも家に帰りたくなくて、甘い罪悪感を感じながら、俺たちはとるにたらない時間を楽しんだ。
そんな時間がずっと続くと思った。
初めてできた親友だった。2人でいつも笑っていた。
大嫌いだった夏も、湯山といたら、きっと楽しめるはずだと思っていた。
「宗ちゃん、今度さ、海にいかない?穴場見つけたんだよ」
その約束は、果たされなかった。
夏休みを前に、湯山は東京に引っ越すことになった。教室で先生の口からそれを聞いた時、俺は呆然とし、湯山は俯いていた。
どういう事情でそうなったかを湯山は俺に言わなかった。湯山自身も納得していない顔をしていた。今までも「大人は身勝手だ」と何度か口にしていたのを覚えている。
だから、湯山は決死の覚悟で「一緒に逃げてくれ」と俺に言ったのだ。俺にはそれが分かっていたはずだった。
湯山の気持ちが痛いほど分かっていたのに。
なのに、俺は。
「俺がここから出られないの、お前が一番分かってるくせに、なんでそんな事言うんだよ!お前となんか行けるわけないだろ!」
踏切の音。忌々しい夏空。泣きそうな湯山の顔。
湯山と共に過ごすはずだった夏が、一生忘れられない痛みを俺に残した。
「お前なんか、大嫌いだ」
パチパチッ……と笹木が灯した線香花火が、徐々に勢いを弱めていく。それが最後の一本だ。すっかり夜になってしまった海辺は、昼の姿を一変させ、黒い大きな塊のように揺れている。闇夜に響く波音も、大きな獣のうなり声のようだ。
「……その、湯山って子に会いたい?」
笹木はそう尋ねた。俺は静かに頷いた。
「会って、どうしたい?」
「え……」
俺は笹木の持っている線香花火を見つめた。ジワジワ……と火が赤く溜まっていく。
願っても叶わないことは諦める主義だった。俺を捨てた母が振り返らなかったように、きっと湯山はここには戻らない。
だが、口にすることだけなら、誰も俺を咎めはしないだろう。
「湯山に、会えたら……俺は……」
駅の改札口で泣きそうな湯山が、俺を待ってる夢を何度も何度も見てきた。
(宗ちゃん、俺と逃げてよ。こんなとこから逃げてさ。宗ちゃん、一緒に行こう)
暗い岩穴の、淀んだ水の中で生きてきた。
でも本当は、空の広さと眩い光に憧れてもいたのだ。
夜風が冷たくなった気がして、俺は笹木から借りているパーカーを被った。小さな声で、ぽつりと呟く。
「今度こそ、湯山と一緒に町を出ていって、2人で生きていきたい」
笹木の持っていた線香花火が音もなく落ちて、俺たちは暗闇に飲まれていった。


