夏が囁く



「宗ちゃん、俺と逃げてよ」

雲一つない夏空が広がっている。その空を背に、泣き出しそうな声で幼なじみの湯山が言った。

鄙びた改札口はカビの匂いが染みついていて、大きな蛾がコンクリートの床を這っていた。
15歳になったばかりの俺は、その大きな羽の目玉を睨みつけながら黙っていた。

「こんなとこから逃げてさ。宗ちゃん、一緒に行こう」

湯山。俺もそうしたかった。なのに、俺は。



悲しい記憶の欠片を残しながら、夢から目覚めていく。目を開くと、肩までの黒髪を布団に流して、俺の隣で男がニヤニヤと微笑んでいた。

黒木家を訪れて以来、笹木とこうして2人で眠るようになった。その効果なのか、悪夢もなく、異形のものも現れてはいない。町中の慰霊碑や、遺跡を訪れたりと、笹木のフィールドワークに付き合ってもいるが、異変は全く起きていない。

そんな日々を過ごす内に、笹木と共に眠ることに俺は慣れてしまった。というか、笹木無しでは安眠できなくなってしまった。
これは大問題だと思う。
更に問題なのは、そのことで笹木が調子に乗っていることだ。

「おはよ、宗介くん」

骨ばった大人の掌でしっかりと俺の手を握りながら、うっとりと愛しそうに見ているので、俺は思わず笹木を睨みつけた。

「何見てんだよ。気色わりぃ」

「ん?いや、こう見えても心配してたんだよ?怖い夢は見てない?隣にイケメンの俺がいるから大丈夫?」

「うるせぇ。変態」

「えへへ」

笹木は俺に詰られても嬉しそうに笑っている。付き合ってられるか。俺は無言で布団の中に顔を隠した。

その上を、ぽんと、大きな掌が乗った。

「安心しきった子どもの顔で寝てたよ、宗介くん」

──俺が君を守るからね。

布団の上から、笹木がそう囁くのが聞こえた。今まで縁がなかった「父親」とか「兄貴」みたいな優しい声だ。
ぽんぽんと俺の頭を笹木が布団越しに撫でるので、なかなか俺は布団から出られなくなった。



朝の光は、いつものように白く、容赦なく部屋に落ちてきた。ジワジワと蝉の声が地面を這い、耳の遠い祖母がつけたテレビが、大きすぎる声でテレビを流している。いつもの日常風景だ。

スタジオでは政治家の汚職事件について激論が交わされていた。どいつもこいつも高級そうな服に身を包んで、庶民派の正義とやらを語っている。どこかで起きた殺人事件のことなんてとうに忘れてしまってる。そして明日にはまた違う誰かの悲劇で大はしゃぎするのだろう。俺は黙って電源を切った。

「宗介、はい。朝ごはん、運んでねぇ」

婆ちゃんが、いつものように柔らかい笑顔で盆を抱えてきた。お椀は三つ。

笹木も甲斐甲斐しく小皿や箸を並べている。

里芋の煮物、ほうれん草のお浸し、豆腐とワカメの味噌汁。質素な料理が、円卓に静かに並ぶ。

「宗介くん、どれか少し食べてみなよ。美味しいよ」

相変わらず夏バテ気味で食欲は戻っていない。だが、笹木に促され、婆ちゃんの笑顔をちらりと一瞥すると、俺は箸を掴んだ。

里芋を一口、口に含む。舌の上で妙にねばつく感触。それから喉に絡みつく異臭。思わず顔をしかめた。じわりと吐き気がこみ上げてきた。

「……ん?」

笹木がすぐに反応した。俺の手元から小皿を取ると、匂いをスンスンと嗅いだ。

「あ!ちょっと酸っぱい匂いがする。宗介くん、ぺって出しな。ぺって!」

俺は婆ちゃんから見えないように小皿に吐き出した。喉にはまだ腐った匂いや味がこびりついている気がした。

婆ちゃんが慌てて他の料理にも顔を近づけ、申し訳なさそうに目を細めた。

「ごめんねェ……最近、目が悪くなってきて……」

「夏場は傷みやすいですからね。俺もよくダメにしてますよ」

笹木は笑顔のまま立ち上がり、腐った小鉢をさっと下げた。婆ちゃんは申し訳なさそうに何度も頭を下げながら、残りの料理を並べ直している。

そして、俺の方へ向き、婆ちゃんは笑った。右目のこめかみに蠅が一匹止まっている。

「お昼は何が食べたいかね?宗介」



朝食が終わると、扇風機の音が遠くで響く中、皿洗いを終えた笹木は緑色の手帳をバッと開いた。同時にちゃぶ台に大きく地図が広げられる。

「さーて!作戦会議、しよっか」

笹木は、子どもがいたずらを考えるみたいにウキウキしている。

笹木が広げた地図をのぞき込むと、10枚ほど付箋が貼ってあり、それらとは別の3箇所に赤い丸が付いていた。

「付箋は俺が調べた人柱伝説や慰霊碑だよ。ね、なかなかのもんでしょ」

山にあった石灯籠。黒木建設が撤去しようとしてる南東の慰霊碑。残存してるものもあれば、開発の歴史で名前だけ遺すものもあり、それらも含めると町全体が付箋で覆われているように見えた。

そして3箇所の赤い丸。郷土資料館のカーブミラーと、子供の化け物が出た俺の家、蛾の怪異が現れた黒木龍也の自宅だ。

「どうしてここに怪異が現れているのか、俺は二つの仮説を立ててみたんだ」

笹木はボールペンでトン、とN町の地図を叩いた。

「一つ目は、『この町に原因がある』という仮説。人柱伝説が積み重なった土地の、長い悲しみや社会の歪みが、怪異を生み出しているのかもしれない。二つ目は……」

笹木はちらりと俺を見た。

「『宗介くんの心に原因がある』という仮説だ。宗介くんの抱えるなにかが、怪異を引き寄せているのかもしれない」

俺は顔をしかめた。心に怪異を呼ぶ原因がある、と言われるのはあまりいい気分ではない。笹木は俺の表情を見て、慌てて手を振った。

「あ!誤解しないで。宗介くんが悪いってわけじゃないからね!でも、ちょっとコレ見て」

今度は手帳を開く。イコールの後ろの文字は、俺の話を聞いて後から、書き足されたものらしい。

  N町=人柱伝説
  ・赤いワンピースの女=母
  ・白い顔の子ども=自宅・宗介くんの声・お婆ちゃんの手
  ・死ねと連呼する蛾の群れ=同級生、黒木龍也の自宅

この紙を見れば、笹木が言わんとすることが分かった。

「俺に関連する場所や人が、化け物になってる……ってことか」

「そーゆーこと!」

笹木が指をパチン!と鳴らした。役者じみたしぐさに少しイラッとしたが、コイツ以外に頼れないのだから仕方ない。

「ほら、この赤いワンピースの女。お母さんもよく赤いワンピースを着てたんだよね?」

俺は頷いた。

「こっちは白い顔の子どもが老人の手と一緒に出るやつ、はミツさんの手の仕草に似てる、と」

俺が「あと、俺の声に似てた気がする」と付け加えると、笹木は「そうそう!」と大きく首を振った。

「それと……「死ね」と繰り返す蛾の群れ、は……宗介くんの同級生の自宅前で出現しているでしょ?」

そこまで聞いて、俺は笹木に視線を向けた。

「俺にしか見えないのも、『俺の心』が関係してるからなのか」

「うーん……正確には『黒木のオッサン』にも見えてたから、宗介くんだけとは言い切れないんだけど」

黒木家の住人であるという、あの男の正体も結局わからないままだ。笹木と同年代の、20代の男。俺の同級生、黒木龍也とはどういう関係なんだろうか。そういえば、怪異抜きにしても、あれは日中の住宅街を襲った小さな事件だったと思うが、ニュースや噂の類は耳に届かない。

一つの謎が現れて解決せぬ間に、次の謎に襲われてしまう。そもそも「怪異」が現れる事象に真実なんてあるのだろうか。

笹木が冷凍庫から、棒付きのアイスキャンディーを一つ出した。水色の涼しげなそれを口にくわえながら、机につっぷし、笹木はぼやいた。

「怪異の正体も目的もわからない。宗介くんと『黒木のオッサン』にしか見えない理由もね。
……あ──ッ!俺が超能力や最強の呪術使いだったらよかったよ――ッ!」

笹木はグシャグシャグシャと髪の毛をかき回して叫んだ。八方塞がり、という感じだ。俺はおずおずと笹木に声をかけた。

「……あんたさ、いいのかよ」

「ん?」

「大学の……その、調査」

俺は畳の目に視線を落として言った。寂しい、という気持ちをこいつに気取られないよう、淡々と続ける。

「東京に帰るんだろ、もうすぐ。だったら俺のことなんか」

「何言ってるの!宗介くん!」

笹木ががばっと俺に体を寄せたので、思わず体がびくついた。鼻と鼻が付きそうなぐらいの至近距離で、怖い顔をしている。

「言ったろ?俺が研究してるのは『実践的な民俗学』!宗介くんに平穏な暮らしが戻るのが最優先です!」

間近で真剣な顔をして言うので、笹木の迫力におされ、「お、おう……」と呑まれたように答えた。

「まぁ、でも全然わかんないんだけどねー」

再び、笹木は手帳と地図を見つめて睨めっこしだした。

俺もそのノートを見ながら、頭の中で整理する。
ここまで分かっていることで、可能性の高い事柄は3つある。

  1 怪異は俺と黒木のオッサンにしか見えない

  2  怪異はN町で現れる

  3 怪異は俺に関係したものや場所に由来する 
    可能性が高い

そして、笹木の手帳に書いてない項目が一つある。

4 俺が「笹木」といると奴らは現れない

これこそ最も気のせいだと思いたいが、笹木が手を繋いで眠るようになって以来、怪異も悪夢も現れていない。これこそが最大の謎のような気がする。

謎を秘めた奇妙な大学生は、そのことに気付かず、アイスの棒をかじりながら、ウンウン唸っていた。
 
「……よしッ!わかったぁッ!」

笹木は名刑事よろしく、両手をパンッとたたき、人差し指を突き立てた。何か名案が思いついたらしい。

そしてくるりと俺を振り返ると、ニヤァっと笑った。

「検証してみよっか、宗介くん?」

俺はなんだか嫌な予感がした。