夏が囁く



真っ白に照り返された畦道を、15歳の俺が立っている。

随分長い時間、ここで誰かを待っている気がするのに、誰を待っているのかも思い出せない。何年も何百年もずっとこうして立っているのに。

山桜の葉陰の中で、俺は遠くから現れる誰かを待っていた。身体は見えない力で縛られて、石のように重く動かない。

やがて、道にゆらめく陽炎の向こうから、赤い点が見えた。それはシミのように、視界の中で大きくなり、やがて赤いワンピースを着た女の姿になる。長いロングヘアーを風に揺らして、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
 
俺はそれを見ている。

ワンピースと同じぐらい真っ赤な唇が、何かを囁くように、微かに動いた。

遠くからじゃ聞こえないよ。

俺は女に向かって声をあげた。

だめだ。まだ遠い。もっと近くにきて。

なんて言ってるの。ねぇ、教えてよ。ずっと待ってたんだよ。

──お母さん。

母の姿を模したそれは、俺の言葉に満足したようにけたたましく哄笑した。関節を折り曲げながら身体中をガクガクと揺らし、切り裂くような悲鳴をあげながら、俺を──。



息苦しさから目を覚ますと、いつもの天井が俺を見下ろしていた。

……いや、違う。今日見た悪夢は、いつか見たそれとは種類が違った。短く息が吐き出されるばかりで、空気を吸うことさえもままならない。女に腕を掴まれた感触が残っている気がして、俺は震えるそれを押さえた。

「……宗介くん」

襖をノックしながら笹木の声がした。心配している、というより、落ち込んでいる声だった。

「ごめんね。体調はどうだい。……悪かった。調子にのって、俺があんな話をしたからだ」

怪談めいた笹木の「人柱伝承」の話のせいで幻をみてしまったのだろうか。あんなにリアルに?夢にまで見たのに?だが、俺も笹木の言葉を信じたい。怖いお話を聞いて、ビビって幽霊が見えただけなのだと。

立ち上がると、パイプベッドがぎしりと軋んだ。
襖をがらりと開けると、笹木が俺を見下ろしていた。眉を八の字にして、申し訳なさそうな顔をしている。ご主人に叱られてる、耳を垂らした、デカい犬みたいだ。俺はじっと笹木の顔を睨んだ。

「本当に、あんたは何も?」

「見てないよ。怪談話は研究対象だけどまったく霊感ないし」

「俺もないはず……なんだけど」

俺は黙り込んだ。カーブミラーに「あれ」が映ったのは一瞬だった。気のせいだと俺も思いたい。
笹木は顎をさすりながら「うーん」と考えている。

「宗介くんが見たのは女の化け物だっけ?赤いワンピースの」

俺は頷く。鮮血のようなあの色は、残像のように目に焼きついている。

「定番っちゃ定番だよね。初めて見た?なんか思い当たる節とか……どこかで以前見たことある、とか」

落ち込んだ表情から一転、笹木は明るい口調で俺に尋ねた。怖がってる俺を慰めようとしているような気がした。
 
母に、と言いかけて辞めた。俺を捨てた女の話など、他人に言う話じゃない。
だが、すぐに、昨日、笹木がこの町の人間から「俺の家族の話」を聞き出していたのを思い出した。実践的民俗学だのなんだのと大層なことを言ってごまかされて、うっかり忘れていた。

人のプライバシーを詮索するような真似しやがって。笹木が知っているのなら黙っているのもバカらしくなった。

俺はつっけんどんに笹木に返事をした。

「母親に似てた。ロクな女じゃないから顔は覚えてない。でも、赤いワンピースをよく着てた」

「ふぅん。なるほどね、なるほどなるほど」

ポケットからいつもの手帳を連れ出し、笹木はガリガリと何かを書き出した。俺はそれを覗き込もうと、背伸びをした。しかし、すぐにバタン!と閉じると「だめだ!ぜんぜんわからない!」と笹木は叫んだ。

「あんた、そういうの専門じゃないのかよ」

「俺は漫画みたいに霊感もかっこいい能力もない、ただのFラン学生ですよ。宗介くんの期待を裏切るようで悪いけど」

笹木はあっけらかんとしている。気味の悪さをどことなくこの男から感じていたが、ただの変人なのかもしれない。

「でも……そうだな、宗介くんをまた怖がらせちゃうかもしれないけど」

手帳の表紙を見つめながら、笹木は呟くように言った。

「『まだ』わかんないってことかな。これだけじゃね」



ジワジワジワと鳴く蝉の声。耳の悪い婆ちゃんがつけたテレビが、大きすぎる声でがなりたてている。毎朝繰り返す日常だ。

今度は、高校生が校内で起こした、別の殺人事件をテレビが伝えていた。亡くなった3人の被害者たちは、卒業アルバムから持ってきた写真なのか、みんなセーラー服や学ラン姿だ。
その写真を画面の隅に載せながら、同級生たちが亡き人の思い出をインタビュアーに語っている。

「挨拶もよくしてくれて……本当にいい子で…なんでこんなことに……」

涙ながらの声で彼らが答えたあと、画面はスタジオに切り替わった。
訳知り顔のコメンテーターが「命を軽んじる学校教育」だの「暴力を助長するマンガやアニメ」だの、死者にとっては無関係な言葉を無責任に並べ立てている。
俺は、電源を切った。

「宗介、はい。朝ごはん、運んでねぇ」

婆ちゃんがニコニコと盆を運んできた。お椀は3つ。笹木も甲斐甲斐しく小皿や箸やらを運んでいる。

「いやぁ、ミツさんのお料理は本当に美味しいなぁ!」

里芋の煮物にほうれん草のお浸し、豆腐とワカメのおみそ汁。質素だが栄養バランスのある料理が円卓に並んでいる。食堂を営んでいたこともあって、婆ちゃんは料理上手だ。

「東京の人にこんなのばかり出して恥ずかしいねぇ」 

「どれも美味しいですよ。おふくろの味って感じで」

白米を頬張りながら、笹木は幸せそうに言った。そして、ちらりと心配そうに俺の方を見た。

「宗介くん、食欲ない?ちっとも進んでない」

「……」

ガタガタ軋みながら回る扇風機の風に額を当てながら、俺は黙っていた。昨日の女といい、夢の中の女といい、不気味な違和感がぬぐえず、食欲もわかないのだ。俺の様子を思案するように、笹木が見つめている。

「じゃあ、これなら食べれるんじゃない?俺、これ一番好き」

笹木が小鉢を一つ、俺の方へ寄せた。人参とごぼうのきんぴらだ。赤い鷹の爪とゴマが合わさって、甘じょっぱい中にピリリと辛い。婆ちゃんの得意料理だ。

「あぁ、それ、宗介の好物だねぇ」

「そうなんだ!気が合うね、宗介くん!」

婆ちゃんの言葉に、笹木が大袈裟に笑みを浮かべた。コイツが来てから婆ちゃんと二人きりの食卓がずいぶん騒がしくなった。婆ちゃんは皺の深く刻まれた目尻を下げて、笹木に頷いている。

「百合ちゃんもねぇ。好きなの、これ」

ベタつくような甘い声で祖母は笑った。麦茶の入ったグラスから水滴がつぅー…と流れていく。

笑顔のまま小首を傾げてる笹木に「俺の母親」とぶっきらぼうに言うと、「あぁ!そうなんだ」とゲラゲラ笑った。そこは笑うところなのだろうか。相変わらず気味が悪くて無神経な奴だ。

朝食が終わった。台所から水がジャーッと勢いよく流れる音が聞こえる。それから調子はずれの口笛。
笹木はここに来た初めての日から、皿洗いを率先してやっている。婆ちゃんは遠慮したのだが、暫く世話になるからこれぐらいは、と言って聞かないのだ。居酒屋のバイトをしていたらしく、他人の家なのに随分手際がいい。

「さー!今日もやりますか!」

笹木が腕まくりすると、真っ白な腕が覗いた。筋肉質の、大人の男の腕だ。日焼けした俺のそれとは違う。俺はその後ろ姿を見ながら冷ややかに声をかけた。

「謝礼もちゃんと払えよ」

「それは当然だよ!他にも困ってることあったら手伝うからねー」

それならば、連日続く悪夢と奇妙な女の存在をどうにかしてほしい。だが霊感が皆無だという、このおちゃらけた大学生にはどうすることもできないだろう。熱帯夜のせいなんだ。人柱の話を聞いたせいなんだ。とりあえずそう思うことで、粘りつくような恐怖の残滓を拭い捨てたかった。

灼熱の太陽も今日は有難かった。すべての影を焼き尽くしてくれそうだ。だけど……夜は……と思うと、胸に再びじわりと恐怖が入り込んでくる。

ガガガ……と扇風機が軋みながら回る。安っぽい青い羽根がぐるぐる回って、生ぬるい風が頬に当たった。

その風が、笹木の手帳のページをパラパラパラ……と開いたり、閉じたりを繰り返している。紙の端々に書き込まれた字が気になって、俺はちらりとそれを覗いた。

・N町 

・人柱伝説

・赤いワンピースの女=母

乱雑な字で、いくつか言葉が走り書きされている。こんな情報だけじゃ、確かに怪異の謎がわかるわけない。俺はため息をついた。
パタパタと動くページを手で押さえると、それらの言葉をつなぐように、明らかに丁寧な筆跡で、

宗介?

と書かれていた。背中にひやりと冷たいものが走った。これも笹木の字だと思う。だが自分の名前の後ろについた「?」から目が離せない。「N町」「人柱伝説」「赤いワンピース」。それを繋げるように記された「宗介?」─笹木はもしかして「俺」と怪異になにか関係があると考えているのだろうか。

気の所為でも、たまたまでも、まして大嫌いな夏のせいでもないとしたら。

赤いワンピースを着た母の幻想が、俺の名前に重なる。

そう思った時、ページを押さえている俺の手にそっと手が添えられた。日に焼けた褐色の掌はじんわりと冷たい。婆ちゃんの手だ。婆ちゃんは昔からこうして俺の手をさすってくれる。手と手を重ねながら、子守唄のように婆ちゃんは笑うのだ。

(こうしてるとね、寂しいのも悲しいのもみーんな、いなくなるよ、宗介)

俺は顔をあげた。

子どもがこちらを見ていた。

いや、子どもなはずがない。俺を掴む手は老人のそれなのに、顔だけが子どもなんてありえない。

紙のように真っ白な子供の顔だ。虫の目のように漆黒の目玉が俺を捕らえた。

目線だけ横にずらすと、婆ちゃんは縁側で、こくりこくりとうたた寝をしている。

婆ちゃん、助けて。そう言いたいのに、凍り付いたように声が出ない。ハッ、ハッと短い呼吸をなんとか繰り返す。

祖母の腕だけを真似した化け物がゆっくりと俺の腕をさする。その仕草も祖母と同じなことに気づいて、呼吸がますます荒くなる。

俺の恐怖を見透かすように、黒目しかない目が静かに俺を見つめた。2つの漆黒に、恐怖で固まる俺がゆらゆらと映っている。

化け物の口がニチャアと濡れた音を立てて、開いた。歯もすべて黒く、舌が滴る血のように赤い。なにかをゆっくり歌うように、そいつは口を動かす。

ねぇ、どこにいくの。

──そう囁いている。聞き覚えのある声で、無表情のまま、化け物は続ける。

置いてかないで。いい子にするから。

ねぇ、待って。行かないで。ずっとずっといい子にするから。

子どもの口から、5歳の俺の悲痛な声が聞こえた。

──お母さん。



「宗介くん、宗介くん!」

笹木の声で、ハッと意識が戻る。皿洗いの途中で俺の異変に気づいたのか、手には洗剤の泡をつけて、俺の肩を抱き寄せている。

ガガガ……と扇風機が回っている。外で鳴いている蝉の声に、草木に照りつける太陽の光。あれは、あの子供は、夢だったのか。 

しかし、笹木の強張った顔にそうではないのだとわかる。きっと俺は青白い、酷い顔をしてるのだろう。震えが収まらない俺の掌に、ナメクジが這うような湿り気が残っている気がした。

笹木が俺を落ち着かせるように、穏やかな低音で問いかけた。

「またなにか、見た?」

「母さんじゃない」

笹木の大きな掌がゆっくりと俺の肩をさすった。その熱に少しずつ呼吸を落ち着かせながら、俺は笹木にまくしたてた。

「子どもだった。真っ白な顔で、でも、皺だらけの手で俺の腕を掴んでた。それで、俺の声で、こんな昼間に、家でも見えるなんて、俺にだけ」

言葉で説明すると余計に恐怖が募った。俺は思わず笹木の手をぎゅっと掴んだ。笹木の顔を見上げて、震える声で問いかけた。

「俺にだけ見えるなんて、俺がおかしいのか?」

笹木が一瞬、息をのむのが分かった。
笹木は答えてくれない。ただじっと静かに俺を見つめている。まるで俺の心から何かを掬い取るように。

「ごめんね、宗介くん」

沈黙のあと、笹木が眉を潜めて苦しそうに答えた。

「俺にもまだ分からない。でもきっとなにか理由があるはずだ」

笹木も俺の手をぎゅっと握り返してくれた。恐怖に溺れてしまいそうな心に、唯一の命綱のように感じられた。力強い指先に、俺もすがるように指を重ねた。

笹木が言う「理由」を明らかにすれば、俺はもう酷い夢に囚われないですむのだろうか。だが化け物どもの「理由」を明らかにした時、それを見続けた俺はマトモでいられるのだろうか。

熱を帯びた風に煽られて、「宗介?」と書かれたページがパラパラパラと揺れているのを俺は見つめた。




何も知らない婆ちゃんは、昼過ぎに、老人会の寄合へ行くと言って出かけた。婆ちゃんにも異形どもが見えないのは、唯一の安心だった。
山を降りて、麓の公民館まで婆ちゃんを送り届けると、笹木が立っていた。

「家にいたくないかと思ってね。一緒に俺の調査に付き合ってくれない?」

正直、ホッとした。一人でいるのも、子どもの化け物がでた家にいるのも怖くて仕方なかった。散々悪態をついた笹木を頼るのも複雑だが、笹木の申し出をありがたく受けることにする。

俺が小さく頷くと、笹木は「よし!任せて」と力強く応えた。そして、犬でも撫でるように俺の髪をくしゃくしゃと撫でた。前なら絶対怒っただろうが、俺は笹木のやりたいようにさせた。

「……宗介くんはさ、どうして俺にこんな町に来たのか、って言ったよね」

と笹木は俺に話しかけた。商店街のひび割れたタイルの上を、ペタペタと、笹木の履くサンダルの間抜けな音が響いた。

「日本各地の『人柱伝承』を調査してるんだろ」

「うん。そうだよ。で、実際、フィールドワーク……つまり現地に来る前に、事前に調べたんだけど」

笹木の口調は柔らかいが、それは俺を怖がらせない意図なのだと気づいた。

「N町はね『その手のもの』が多すぎるんだ」

「え」

俺は笹木の顔を凝視した。笹木は眼鏡をかけ直しながら、前に広がるシャッター街を猫背で歩き続ける。

「何かを作るために誰かの命を捧げてきた痕跡が異様に遺っている。……こんな所は珍しいね」

不意に、俺は笹木が並べた3つの石を思い出した。

(圧政や掟、経済的な事情などの従わざるを得ない『社会構造の歪み』)

(その『歪み』から生まれる『人の悲しみや恐怖』)

(やがてそれは『怪異』として姿を顕す)

3つの石で作られた三角形。今はそれがN町のように思える。諦めたような大人たちが暮らす痩せた土地。夏は作物が枯れ、冬は雪で光も届かない。
昏い顔をしたそいつらは、一体この場所に何を埋めたのか。

「だから『怪異』が見える『理由』は、宗介くんにじゃなくて、この土地にあるのかな、ってそう思ってさ」

俺はハッとした。「俺がおかしいのか」と笹木に救いを求めたのを思い出す。

笹木は続けた。
 
「人柱伝承の犠牲者はほとんどが子どもや若い女性だ……というのは言ったっけ?未来ある若者たちを殺して誰も彼もがスッキリ解決したわけじゃない、と俺は思う」

笹木の呟きが脳に響いた。
子どもや女を生き埋めにした歴史が遺る町。自分が歩いている土の下で悲しい魂が眠っている。そこから何かが生まれてもおかしくない気がしてきた。

「人柱自体は悪い風習だけど、後世に語り継いで弔う気持ちは悪じゃない」

独り言のようにポツリと笹木が言った。

「……でもそれも永遠に遺るわけじゃない」

笹木は額にかかる前髪をかきあげた。



笹木が訪れたのは、商店街を抜けた先にある、立派な日本家屋だった。周囲を白い漆喰の壁が囲み、城のように大きな家が鎮座している。門扉の宛名に「黒木」とあり、その下に「黒木建設」と仰々しい書体で書かれている。

俺は足を止めた。

……黒木龍也の家だ。

幼馴染とは名ばかりの、あのいじめっ子の家。親が町の有力者だというのをいいことに、弱い者を見下し、笑いながら腹を蹴ったりしている。俺のことは特に気にくわないのか、散々な目に遭っていた。

「お前の母ちゃん、男と逃げたんだって?」と下品な声で絡んできた記憶が蘇る。俺が言い返したり、睨んだりすると、すぐに拳が飛んでくる。夏休みだから顔を合わさずに済んでいたのに、まさか自分からヤツの家に来ることになるとは。

「宗介くん?」

笹木から数歩遅れて立ち止まる俺に、笹木が振り返った。

「同級生の家なんだ。嫌な奴。……クズ野郎だ」

不愉快な気持ちのまま、黒木が現れないかと周囲を見渡す。

「ここに何の用なんだよ」

「N町の南東にね、何百年前かの洪水で大勢の人が亡くなった場所があるんだ。そこに今、魚の加工工場の建設計画がもちあがって、ここが受注している。……そして、その場所には慰霊碑が立っている」

その小さな、古びた石碑は、なんとなく見覚えがあった。しかし、由来も工場建設のニュースも俺は知らなかった。

「黒木建設は『新しいものを作るためには古いものを壊さなきゃ』って主張してて、建設反対派とかなり揉めてるんだ。
今日はその慰霊碑建設工事について、少し話を聞きにね」

笹木の説明を聞きながら、俺は胸の奥がざわついた。

古いものを壊す。

新しい橋のために人柱にされた娘も、きっと誰かにとっては「古いもの」だったんだろう。

誰かの犠牲で成り立ったことを簡単に忘れて、壊して、新しい何かで豊かになったフリをしている。

吐き気がした。

「……俺だったら、こんな町のために閉じ込められるなんて死んでも嫌だね」

黒木への嫌悪もあってそう毒づくと、笹木は少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。

「そっか。そうだよね、宗介くんはここが嫌いなんだもんね」

その声には、どこか考え込むような響きがあった。

「『慰霊碑のある土地についてインタビューしたい』なんて言ったら、余所者(おれ)も殴られるかもしれないから、聞けるだけ聞いてさっさと退散しようね」

玄関のインターホンを鳴らす。ピンポーンと明るい音が響き渡るが、しんと静まりかえっている。不在のようだった。

「いないのかなぁ……ちょっと裏庭の方に回ってみようかな」

ちらりと心配そうに笹木は俺を見た。民家や小さな商店もある場所なので、車も人もわりと行き来していた。太陽が真上にのぼるお昼時、人目につきやすいここなら「赤い服の女」も「白い顔の子ども」も現れない気がする。

それよりも長居をすれば、意地悪な黒木に見つかるほうが可能性が高い。そちらの方が厄介だ。

「俺はいいよ。ここにいる。いざって時は……」

俺は腕を組んでギロリと笹木を睨んだ。

「すぐ助けにこい」

俺の命令に笹木はニヤァと笑った。ヘビみたいな気色悪い笑顔だ。

「すぐに!すぐに帰ってくるからね!ピュピューッてね!」

何がそんなに嬉しいんだが、スキップしながら笹木は駆けていった。

俺も門扉から家の様子を伺う。誰かが出てくる気配は無い。
2階建ての日本家屋を、上へと視線を上げていく。屋根裏部屋があるのだろうか。小さな小窓が見えた。そこに人影が映った……ような気がする。

太陽の光が鈍くガラスに反射して、俺は目を細めた。

玄関前で待っている俺をよそに、軽トラやワゴン車が、俺の後ろを数台通りかかった。

こうして立っているだけで、暑さでじわりと背中に汗が伝う。麦わら帽子を被った若い母親がベビーカーを押しながら歩いてきた。一瞬、身構えたが、母親は俺に気にせず、赤ん坊に笑みを浮かべて去っていく。

「おい!!」

突然、ドアが乱暴に開く音と共に、野太い怒声が響き渡った。咄嗟に「怪異」が現れたのだ、と思った。しかし、声に驚いているのは俺だけではなかった。ベビーカーを押していた若い母親が怯えた顔で、声がした方を振り返っている。

男が、黒木家の門扉の外に立っていた。

フー、フー、と荒い息をしながら、尋常じゃないぐらいの汗をかいている。
30半ばだろうか、下腹部がブヨブヨに太り、脂ぎった長い髪、肌も荒れているのが見てとれた。人間だ。生きてる。まずはそれが分かって安心する。しかし、男は怯えた声音で支離滅裂な叫びを喚き散らし始めた。さっきまで静かだった住宅街に、異様な緊張感が漂い始めた。

「な、なんでお前、こんなところにい、いるんだ…?!く、来るな来るな!俺のとこに来るなァ!」

サッとしゃがんで、母親がベビーカーの中の子を抱き寄せた。周囲の家々や、通り過ぎる車から不審そうな視線が叫び続ける男に向けられた。

男は俺を見ていた。口から唾を飛ばし、追い払うように手を振り、俺を罵ってる。──いや、俺じゃない。

「どうひて、どうしてェ……!」

うつろな男の目は怯えながら「俺の背後」に喚いている。

鉄が錆びるような音。何かが落ちる音。

奇妙な音が背後で聞こえ始めた。この音、どこかで聞いたことがある。でも思い出そうとすると頭に激痛が走り、俺は思わずこめかみを押さえた。

キィー、カタん、トん、キィー、カタん、トん……

ベビーカーを置いて、子どもを抱いた母親が一目散に男から逃れる為に──「その音」の方へ走り去っていく。他の人間も車もそちらへ一斉に走っていく。ただ、半狂乱の男だけが「その音」を見つめて喚いてる。

(俺にだけ見えるなんて、俺がおかしいのか?)

(何かを作るために誰かの命を捧げてきた痕跡が異様に遺っている。……こんな所は珍しいね)

(だから『怪異』が見える『理由』は、宗介くんにじゃなくて、この土地にあるのかな、ってそう思ってさ)

無辜の死が今、この土地から目覚めようとしているのなら、その憎悪を誰に向けるのだろう。

──男には、何もないはずの場所に、俺の背後の、何かが、見えている。耳を塞ぎたくなるような、長い長い男の悲鳴が響き渡った。

「どうして、今更俺のところにーーーッ」

キィーーーーッ……トん………

俺は、男から顔を背けて、その音を振り返った。

蛾の羽が何かを覆っている。数百も、数千もの大きな目玉の羽が、俺を、いや、男と俺を見ている。

キィーーーーー………

金属同士がこすれ合うよな耳障りな音に、羽たちは大きく一度だけ羽を揺らした。まるで、まばたきのようだ。

トんッ…………!

何かを落とす音と同時に、一斉に蛾たちは俺を目掛けて飛んできた。数千、数百の蛾たちに思わず、両腕を交差させて身を守る。しかし奴らは俺を無視し、数メートル先の男に飛び掛った。

「ヒィ…ヒィ……!や、やめろ、やめろ……!」

目玉の怪異を手で追い払いながら、男は地面に蹲った。猛禽類が獲物の内臓を啄むように、蛾の群れは男に一斉に襲いかかる。蛾たちの羽ばたきはやがて誰かの声になっていった。

「お前なんかさ」「生きてる価値あんの?」「情けねぇ」「泣けよ」
「お前なんか」「責任取って死ねよ」「お前なんて」「消えろよ」

敵意の眼差し、嫉妬の眼差し。誰よりも人間らしい声音で、蟲たちは呪詛と憎悪の言葉を吐きつづけた。
その声はぐわんぐわんと俺の頭にも反響し、思わず俺はよろめいた。

「おまええなん、なんかさ」「生きてる、るる価値あんの?」「情けねぇね情け」「消え消えろよよ消えろろろろ」

醜い羽で埋め尽くされ、男の姿はもう見えない。まるで黒い樹液が溢れる木のように、男の体を蛾たちは貪っている。ザワザワザワと触覚や羽が男の皮膚を這い、口や鼻から侵入しようと蠢く。男の目がぐるんと白目をむいた。

「ひッ……!」

その恐ろしい光景に、俺の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。

「宗介くん!!」

肩を掴まれた感触にハッとする。笹木が必死な顔で俺を見ている。何かを口にする前に、笹木は叫んだ。

「逃げるよ!」

笹木にもこの蛾たちが見えてるのか。怪奇が、現実を侵食し始めている。

俺の手を掴むその力強さに、恐怖で固まっていた心がじわりと熱を帯びていく。蠢く目玉の羽音が迫ってくる。俺はその腕をつかみ直した。

「あっ……!」

笹木の手を掴んで逃げ始めた瞬間、強ばっていた足がもつれた。膝が地面に激しくぶつかり、俺は派手に前のめりに倒れた。

「っ……!」

痛みより先に、腰から下が完全に抜けたような感覚が襲ってきた。足に力が入らない。立ち上がろうとしても、膝がガクガクと震えて地面を掻くだけだ。

後ろから、ギャーッと男の悲鳴が聞こえた。腹を打ち付けたからなのか、内臓を抉られるような鋭い痛みに、俺は顔をしかめる。

「宗介くん!」

笹木の声が近くで響いた。俺は涙ぐみながら、必死に手を伸ばした。
 
無意識に、笹木の手を強く掴んでいた。

「動けねぇ……腰が、抜けて……」

声が震えて、情けなくて悔しい。泣きそうになる自分が、腹立たしい。そしてたまらなく怖い。

笹木は一瞬だけ息を飲み、すぐに俺の腕を掴んで引き起こそうとした。しかし俺の足は言うことを聞かない。数千の視線が新たな獲物を目指して迫ってくる。息が荒くなる。笹木が叫んだ。

「宗介くん、俺に掴まって!」

笹木の声は低く、迷いがなかった。
力強い腕が俺の体を軽く抱き上げ、背負った。
突然、大人の男の背中が、俺の胸と腹に密着する。シャツ越しに伝わる体温と、肩の骨ばった感触、汗の匂い。生者の感触だ。

「しっかり掴まってて。離すなよ」

笹木の声がすぐ耳元で響く。笹木の息が頬にかかった瞬間、ふわりと体が浮いた。思わず俺は笹木の肩にしがみついた。

「走るよ。目、つぶってていいから」

笹木が走り出すと、風が耳元を切り裂いた。背中で俺の体重を感じながらも、笹木の足取りはしっかりしていた。

恐怖が少しずつ、笹木の体温に溶かされていく。
この背中が、妙に頼もしくて、安心してしまう。恥ずかしさと安心と恐怖でぐちゃぐちゃになって、俺は笹木の背に頭を押し付けた。

「もう大丈夫だ。大丈夫だよ、宗介くん」

笹木が息を切らしながら、低く繰り返した。その声に、身体の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。

(……こいつ、なんで、俺に、こんなに……)

大人の男の体温と、確かな力強さを感じながら、俺は意識を失った。



目が覚めた時、一瞬どこだか分からなかった。

しかし徐々に感覚を取り戻していく。古い本の匂い。埃が薄くつもるボトルシップ。演歌の入ったカセットテープが無造作に置かれている。俺が赤ん坊の頃に死んだ爺ちゃんの部屋だ。蜩の声とともに、襖や文机に夕闇がせまっている。

「よかった。目が覚めて」

ぼんやりとした視界に、安堵の笑みを浮かべる笹木の顔が見えた。そうだ。今はこの部屋を笹木に使わせているのだ。笹木は、髪が乱れて、少し疲れた顔をしている。徐々に記憶が蘇り、俺は跳ね起きた。

「あ、あの、蛾は……!?逃げ切れたのか?!」

「蛾?」

笹木はぽかんとしている。

「俺は『通り魔だ!』とか言ってみんなが逃げてきたから、慌てて宗介くんのところに戻ったんだよ。そしたら……」

笹木には、あの蛾の大群は見えていなかった。

いたのは、地面に蹲って意味不明なことをわめきたてている男と、2、3メートルほどの距離に離れて立ち尽くす中学生。確かに事件だと思って血相かえて飛んでくるだろう。

「……うーん。ますます謎が深まってきたねぇ」

俺から「蛾の怪異」の話を聞き、笹木は例の手帳を開き、文字を書き加えた。


N町=人柱伝説

・赤いワンピースの女=母
・白い顔の子ども 老人の腕
・死ねと連呼する蛾の群れ

そして「宗介?」と書かれた字の2行下に、「黒木家の息子?」とまたしても言葉が加えられた。あの男、黒木家の人間だったのか。

「うん、多分ね。これも聞いた話なんだけど、あの家には、5年ぐらい引きこもっている息子がいるんだって。宗介くん、知らない?」

同級生でいじめの主犯格の黒木龍也には確か、2人ほど兄貴がいた。何度か、町のコンビニで出くわしたことがあるが、どちらもガラの悪そうな奴らだった。今日見た肥満体型の不気味な男はそいつらではなさそうだ。それに、勝ち気な悪ガキの黒木龍也とあの太った男がどうしても結びつかない。黒木が最も嫌うようなタイプの男に見えた。

俺が首を横に振ると、笹木が俺の目をまっすぐ見つめながら説明した。

「中学校卒業の際に同級生が事故死したらしいんだけど、何か関わってたのかな。
それ以来、5年近く、ずっと引きこもっているらしい。……なんで急に外に出てきたんだろうね」

(な、なんでお前、こんなところにい、いるんだ…?!く、来るな来るな!俺のとこに来るなァ!)

怪異が自分の元に訪れたから、恐怖心に我を忘れて、外に飛び出したのだろうか。

N町同様、慰霊碑を撤去しようとしてる黒木家にも、羽蟲を引き寄せる暴力と死が蔓延していた。そういえばあんなに大騒ぎになっていたのに、家から龍也はおろか、誰も出てこなかった。家族が発狂する様を傍観するように、大きな邸宅は静まり返っていた。

笹木の手帳の「宗介?」「黒木家の息子?」の文字を見つめながら、俺は疑問を口にした。

「……どうして俺とあのオッサンにだけ、化け物が見えたんだろう」

そう呟いた俺を、「えぇ??」と笹木が素っ頓狂なな声で小首を傾げた。明らかに面白がってる顔だ。せっかく人が真面目に考えてるのに、ふざけた奴だ。

「……なんだよ」

「今、宗介くん、オッサンって言ったけどさ、あの人、近所の人によると俺と同年代らしいよ」

「え、でも」

目の前のハタチになる男はニヤニヤ笑ってる。言わんとすることが分かって、俺はその顔を睨みつけた。

「俺の方がカッコいい?若く見える?ね、イケメン?」

「は?イケメン?なんだよそれ。変な言葉つかうなよ」

都会の若者言葉だろうか。聞き慣れない単語に苛立ちを覚えながらも、なんとか無事に生きて危機を脱したことに安堵する。あの時、足がもつれて倒れ込んだが、ケガもないようだ。

「……っ!!」

途端に俺は顔が熱くなった。そういえば逃げるときに、コイツに背負われた気がする。逃げるために仕方なかったとは言え、15歳にもなって、ぎゅっとしがみついてしまった。身体に残るコロンと汗の匂いが急にふわりと香った気がして、俺は恥ずかしくなる。

「宗介くん、あのさ」

突然、布団の上で座る俺の隣に、ごろんと笹木は横になった。それから畳の上をポンポンと叩く。

「今日はここでさ、一緒に寝よっか」

「な!!?」

「いや、やましい意味はまったくないよ?」

赤く染まった中学生の顔を、笹木は悪いオトナの顔で笑っている。畳に頬杖をつきながら、上目遣いに俺を見つめながら、笹木は喋った。

「宗介くん、最近、寝不足だったろ。もしかして最近の変な出来事が関係してるのかなーって」

「……それは」

連日続く悪夢を、笹木は見抜いているようだった。布団をぎゅっと握りしめ、拒絶の言葉を言おうとするが、不安は隠せなかった。
俺の心をすくい上げるように、眼鏡の奥の鳶色の瞳が柔らかく微笑んだ。

「さっきまで、宗介くんの手、握ってたんだよ。そしたら、宗介くん、よく眠れてたみたいだったし」

俺もそのほうが安心だよ、という囁きが、なぜか甘く聞こえて、俺はカッと頬が熱くなった。

──ここ最近、悪夢や怪異やらに追われて、俺は心が弱っていた……のだろう。
この変な大学生に、ほんの少しだけ、心を許しはじめるぐらいには。

結局、不安と恐怖に勝てず、笹木の部屋で布団を並べて横になった。
電気を消した部屋は真っ暗で、天井の木目だけがかろうじて見える。

チッチッチッ……と、秒針を走らせる、時計の音がデカい。いや、これは俺の心臓の音だろうか。

寝るのが怖い。飛び交う大きな目玉たちと、あの男のくぐもった声が脳裏によみがえる。
目を閉じたら最後、カーテンの端から何かが現れそうな不安に襲われる。そんな妄想で頭が冴えてしまい、とても眠れそうになかった。
笹木に一緒に添い寝されて、それでこんなに怯えて、15にもなるのに自分が情けない。

しばらく天井を睨んでいたが、そっと隣を伺うと、笹木も俺を見ていた。眼鏡を外したその顔は、いつもと雰囲気がちがう。

少し口元に笑みを浮かべた、優しい瞳に見つめられて、俺は言葉を詰まらせた。

「な、なんだよ……」

暗闇の中で、笹木が静かに口を開いた。

「宗介くんはどうしたい?不気味な現象の真実を知るのか。それとも平穏な暮らしを続けたい?」

変な質問だと思った。

その答えはイコール、もしくはプラスにならないのだろうか。一番の模範解答は「不気味な現象の謎を解いて、平穏な暮らしを手に入れる」だと思うのに。

穏やかな湖のような笹木のまなざしが、俺の心を映す鏡のように見えた。

「俺は」

天井の電灯を見上げて、俺は答えた。

「アイツらの正体なんか知りたくない。普通に暮らせたら、それでいい」

笹木は小さく笑った。

「そっか。そうだよね。宗介くんが選んだのならそれでいいと思う」

暗闇の中で、笹木の指がそっと俺の手を探り当てた。

前ならその手を振りほどいたのに、俺は笹木の好きなようにさせた。

「まずは、今日ちゃんと眠れるようにしてあげるね」

おやすみ、宗介くん。

笹木がそう囁いて、手を優しく握ったまま目を閉じた。
その体温が、俺を助けてくれた背中と同じ熱を持っていて、強ばった体がほどけていくのを感じた。

俺も笹木の寝顔を見守って、そっと目を閉じる。暗闇の中に光の残像が浮遊している。笹木の体温と、静かな寝息。徐々に眠気が訪れる。

夢も見ずに、俺は深い眠りの世界に沈み込んでいった。



部屋に差し込む白い朝日で、ゆっくりと目が覚めた。

久しぶりに、悪夢を見ずに眠れた。体は軽く、起きたばかりのふわふわとした感覚が心地よかった。

傍らに、俺の手を握ったまま、すうすうと寝息を立てている笹木がいた。

眼鏡を外した顔は、いつもよりずっと幼くて、子どもみたいだった。長い前髪が額にかかり、昨日の恐怖などなかったみたいに健やかな寝息をたてている。

俺はしばらく、その寝顔をじっと見つめていた。
そんな風に誰かの寝顔をまじまじと見たことは15年も生きていて一度もなかった。

俺をからかったり、悲しい顔で石灯籠を見つめていたり、必死に俺のことを助けてくれたり。笹木が俺に見せた顔が頭によぎる。

無神経で軽薄な男、だと思っていたのに。

昨夜、手を握ってくれた温もり。暗闇の中で「平穏に暮らしたい」と言った俺を、ただ受け止めてくれた声。全部が、胸の奥に残っている。

笹木の寝顔をみている内に、俺は懐かしい痛みが胸に走った。

──こいつが、東京に帰るの、いつだっけ。

笹木の寝息を聞きながら、俺はそっと握られた手を握り返した。