夏が囁く



翌日の午後も、茹だるような熱気が町を包んでいた。
俺は婆ちゃんから買い物を頼まれ、商店街へと来ていた。商店街は今日も人気が少なく、小さなスーパーの軒先で飾られた風鈴がチリリンと鳴っている。

頼まれていたのは、醤油だった。いつもの安いメーカーのそれを見つけ、手に取ろうとして──やめた。
そういえば、先週も頼まれて買い置きしてあった気がする。確か、キッチンの横のラックにあるはずだ。婆ちゃんに言ってあげなきゃ。

そのまま家に帰ろうと手ぶらで歩いていると、シャッターの閉まった店の前で男女が二人、会話をしていた。見覚えのあるシルエットに俺は顔を顰めた。

「……家族の問題って複雑ですからね……特にご高齢の方お一人だと」

胸元に名札をつけた40かそこらの女が、深刻ぶった顔でそう言っているのが聞こえた。男は女の話にうんうん頷きながら手元の手帳にメモをしている。だが、俺の刺すような視線に気づいたのか、こちらを見た。そして笑みを浮かべる。

「宗介くーん!お買いものー?」

野暮ったい眼鏡をかけた笹木が、人懐っこそうに手をブンブンと振った。笹木と会話している女も、こちらを見た。
一瞬、その目と視線が合った気がしたが、焦点はどこか合っていない。

俺には、女が露骨に俺を避けているように感じた。こんな人気のない道で無視かよ。そう思って俺が睨みつけると、女はサッと笹木に視線を戻した。

女とは真逆にニコニコと俺に手を振る笹木を尻目に、女はそそくさと去っていった。

笹木は、女の後ろ姿に「あ、お話、ありがとうございましたァー」といい加減な礼を言うと、俺の方へ嬉しそうに走ってきた。サンダルがペタペタと鳴っている。目の前にやってきた笹木に、俺は口火を切った。

「お前、何が目的だ」

「え?」

「とぼけるな」

ずっと前から抱いていた疑念を、俺はついに本人にぶつけた。

「今、俺と婆ちゃんの話を聞いてただろ。わざわざこんな町まで来て調査ってそれかよ。何者なんだ、お前」

(……家族の問題って複雑ですからね……特にご高齢の方お一人だと)

さっきの女が言ってた「家族」とは、きっと俺の家のことだ。若い女が腹をデカくして帰ってきて、婆ちゃんに子供を預けて男とどこかへ消えた。5年以上たっても、俺たち家族の話はこの町の「噂話」として味がするのだ。
甘くて甘くて、何度食い尽くしても足りない他人の不幸、ってやつだ。

「綾川さんちにお世話になってます……って話しただけだよ。世間話さ」

肩をすくめて、飄々と笹木は言った。子どもの癇癪をなだめる大人の仕草に、ますます苛立つ。

「信用できない。婆ちゃんは騙せても俺は騙せないからな」

「俺、もしかして嫌われてる?」

わざとらしく、同情を誘うような笹木の顔に、睨むことで返答する。ウェーブした茶髪を揺らしながら、笹木は「困ったなぁ」と頭をポリポリとかく。だが、俺は攻撃の手を緩めなかった。

「婆ちゃんからもいろいろ聞き出してるだろ。何が目的だ」

笹木の目がスッと細くなる。正体を現しそうな、化け狐みたいな目だ。婆ちゃんと仲良くしている風を装っているが、こいつが婆ちゃんから、昔話やら体調のことやら聞き出しては、例の緑色の手帳にガリガリと書き込んでいるのを俺は知ってるのだ。

何が調査だ。こいつは人のいい婆ちゃんを騙している悪い奴だ。

「婆ちゃんを傷つけたら許さねぇ。はやく出ていけ」

「まさか、そんな!」

大袈裟に口に手をやり、笹木は目を丸くした。そして暫くうんうん唸っていたが、「そうだ!」と明るい声を発した。片手に持っていた緑色の手帳を、菓子でも自慢するように俺に見せた。

「じゃあさぁ、こんなのはどうかな?
宗介くんに俺の調査に付き合ってもらって、俺がどんな人間なのか知ってもらう……ってのは?」

試すような目でじっとりと俺を見つめながら、笹木は俺に提案した。



小高い丘の上に、俺たちはいた。
「N町ふれあい広場」と古びた看板が立っているが、人一人いない。ただ黄色い枯れ草が広がっているだけだ。
 麓の町を一望することができるが、もちろん、おもしろみも感激も無い。俺はため息をついた。

「こんな所に何があるんだよ」

「ふふ。宗介くんも知らないかー。ほら、あれだよ、あれ」

気味の悪い微笑を浮かべ、笹木が指さした。

山桜の葉が日陰を作るその場所に、ぽつんと一つ、石灯籠が立っていた。俺の腰ぐらいまでの小さなやつだ。
寺や神社でよく見かける、ごくありふれた灯籠だが、社も池もない空間に一つだけ建っているのは珍しい気がした。

そして、その横には木札で、この石灯籠の名前と由来が書かれていた。

文字は色あせ、風雨に晒された跡がある。所々潰れて読めない文字を飛ばしながら、目で説明文を追った。

『■■12年8月、今のN町Y区に橋を架けるため、大規模な橋梁工事が行われた。
しかし工事は難航し、なかなか橋は完成しない。
城主の怒りを恐れた村人が、一人の娘を人柱として捧げた。人柱となった魂を哀れみ、娘の名を記したこの石灯籠は建立された』

人柱。

聞いたことがなくても、すぐにそれがどういうものか分かった。

「これが、俺の研究テーマだよ」

笹木は石灯籠の真横に進み、娘の名前が刻まれている箇所をそっと撫でた。

「日本中にこういうのってたくさんあるんだよ。城や橋が無事に出来るように生け贄を……って話がね。
あるいは台風とか日照りとかの災害を鎮める、とかかな。生きたまま土の中に埋められたのがほとんどだね。
これはその慰霊のためにつくられたものだ」

生きたまま、土の中に。意識がある内に冷たい土のなかへ入れられ、その頭上を大きな石が蓋をする。

血の気が引くのを感じた。

「こんなもの……」

俺の口から、思わず怒りが滲んだ言葉が溢れた。

「こんなもの、死んだ本人からしたら何の意味もないだろ」

「そうだね、宗介くん。これはあくまで社会構造側の『贖罪』にすぎない」

しょくざい、という言葉が分からず呟く俺に、「罪滅ぼし、ってことだね」と淋しそうに笑った。

「さらには『すすり泣く女の声』だの『子どもの幽霊』だの、本人たちが望まない姿として恐れられることもある。
……随分身勝手な話だろ?自分たちの都合で殺しといて、化け物にまでしちゃうんだから」

さっきまでおどけた口調だったのに、凪いだ海のような瞳で笹木は俺を静かに見つめた。

「それがあんたの調査目的か」

「そういうこと。長年住んでる人の昔話を聞きたくて、君のお婆ちゃんからも色々聞かせてもらってたんだ」

笹木は草むらに腰を下ろすと、掌に収まるほどの石を三つ並べた。

「圧政や掟、経済的な事情などの従わざるを得ない『社会構造の歪み』」

まず、一つ並べる。

「その『歪み』から生まれる『人の悲しみや恐怖』」

その斜め前に、もう一つ。

「やがてそれは『怪異』として姿を顕す」

最後の石が手前に置かれる。

笹木が並べた三つの石が、土の上で三角形を形作り、不気味な儀式ように見えた。

「『社会の歪み』が『悲しみ』を生み、それが『怪異』を見せる。怪異は単なる迷信じゃない。人間社会の暗部を映す鏡なんだ」

と大きく腕を広げて見せた。

「そして俺は、それを現実の社会問題の解決に結びつける。……これが、俺の目指している『実践的民俗学』だ」

そして三角形を崩すように一気に3つの石をまとめた。

笹木は俺の顔をぱっと見上げて、

「中学生にはすこし難しいかな?でも、お兄さんがマジメな大学生だ……ってのはわかってくれる?」

すがるような口調で言った。
咄嗟に返答に困ったが「……まぁ、少しは」と答えておいた。笹木は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。

「そっかそっか!あー!よかったー!せっかくだから宗介くんとは仲良くしたいんだよ。年も近いしね!」

「5つも離れてるのは近くないだろ」

中学生の生意気な物言いさえも嬉しそうだ。真面目な話をしたあとにバカみたいに大笑いして、おかしな奴。

正直、笹木の話は難しかった。民俗学がどうとか言っていたが、あまり聞き慣れない単語ばかりだった。幽霊とか、怪談みたいなものを社会にどう役立てるんだろう。理解は半分にも満たなかった。
 
だが……笹木は、悪い奴じゃないのかも知れない。

石灯籠を慈しむように見ていた目を、とりあえず信じることにした。

サァッ……と生ぬるい風が吹いた。夕闇に呼ばれたように蜩が鳴き始めていた。
濃くなり始めた陰に包まれて、石灯籠は建っている。

難しいことはよく分からない。でも……と俺はその石灯籠を見ながら思った。

娘を殺された家族は何も思わなかったのだろうか。友人や、恋人はどう思ったんだろう。

辛いとか、許せないとか。

それとも村のために仕方ないと、何も声をあげずに諦めたのだろうか。

だとしたら、土の中の娘はあまりに孤独だ。

彼女の理不尽な死を「可哀想」で片付けるにはあまりに痛ましく、「絶望する」にはあまりに長い時代を経てしまっていた。

ただ、もう彼女を待つ人はいないのだ、という事実だけが、この置き捨てられた石碑を見ていると分かった。

突然、広場に設置してある有線放送から楽しげな音楽が流れ始めた。

軽快な音楽にあわせて、間延びした子供の声で「よい子はお家にかえりましょう」とアナウンスが続く。

「さーて、よい子は帰ろうか」

うーんと、背伸びをして笹木が笑った。オレンジ色の夕日がだんだん色を濃くしていく。
石灯籠を背にして、俺と笹木は帰路についた。

「あ!そうだ。ちょっと、本を予約していてね。ちょっと待っててくれる?」

坂を下りきったところで、思い出したように、笹木は慌ててすぐ駆けていった。蔦に覆われたレンガ調の古い建物は「郷土資料館」だ。社会科見学で小学生の時に行ったことがある。古い農機具や、巻物が展示されていたような気がするが、同級生を始め、俺もまったく興味をそそられなかった。

あんな所に何を見に行くんだろ。ますます変人だ。

笹木を待つ理由も無いのだが、置いて帰るのは気が引けて、俺はガードレールに背を預けた。

有線放送はオルゴールのようなメロディーを流して、子ども達の帰宅を促している。この曲なんだっけ……とぼんやり考えながら、俺は指先のささくれを小さくひっかいていた。

ガガ……ガガガ……ガ……と、音楽が途切れ途切れになっていることに、ふと気付いた。

音楽が不快なノイズによって途切れ、同じフレーズだけが何度も引き延ばされる。

「よい子は──よい子は──よい子は──」

同じ言葉が、少しずつ形を崩していく。

「かえ、かえ、かえ、かえかえか」

最後には、言葉ですらなかった。

そして突然、ぷつ、と虫を押しつぶすような音を響かせて、切れた。

夕闇がいつのまにか深く、昏く辺りを染めていた。家々の明かりがあってもいいのに、鬱蒼とした木々の影がそれらを飲み込んでいる。
葉が揺れる音もしない。いつもの風景にいるはずが、まるで鏡に映った風景に閉じ込められたような感覚。

誰か、いる。

誰かが、そこで、俺を見ている。

咄嗟に感じた直感がじわじわと広がって、全身が麻痺していく。でも、五感が何かを感じ取ろうとしていた。

振り返りたくない。振り返ることが、できない。だが、確かめずにはいられない。
心臓を冷たい何かで握りしめられているように、俺の体は強ばり、目だけがゆっくりと動いた。

カーブミラーが薄暗い闇の中にぽつんと立っていた。事故でもあったのか、黄色い首をすこしひしゃげたそれは、湾曲した鏡の顔で俺を見下ろしていた。
鏡のくせに、確かに、こちらを「見ている」。

そこに赤いなにかが映っている。

黒を溶かしたような夕闇に、その赤だけが禍々しく俺の目を侵していく。

女だ、と思った。

思った途端に、その赤い何かが、赤いワンピースになっていく。

血の気の無い青白い腕をだらんと下げて、髪の長い、その赤い服の女だけがカーブミラー越しに、ずっとこっちを見ている。

俺の心臓がサイレンを鳴らしはじめた。早く目をそらさなきゃ、ここから逃げなきゃ。それなのにその赤い女から目を離せない。

湾曲した鏡ごしに、俺と女の目がかちあった。

黒目が、ない。

どくん、と心臓が鳴った。人間なはずがない。

あれは、俺を見てる。それで。

異形のまなざしが、切り落とした爪のようにキュウウウッと細められていく。

女は口を引き裂くように広げ、けたたましく哄笑した。

「よよよよいこはかえかえあろうねええうえーーーーーーーーーー」

その長い長い叫びに、立ち尽くして震えることしか出来ない。

こないで、どうか─思わず、ぎゅっと目をつむった瞬間、ひやりとしたものが、首筋に触れた。

「っ!?」

思わず振り払うと、ガラス瓶が地面に当たって鈍い音を立てた。

「ごめん、びっくりした?ラムネだよ」

振り返ると、笹木が笑っていた。「あーあ、割れちゃった」

「な、なにすんだよ……!今、俺……!」

「え?どしたの、宗介くん」

身体中をガタガタ震わす俺の異常な様子に、笹木もさすがに表情を変えた。

「……なにか、あった?」

笹木は何も見ていないのか。家々には家族を迎えるための灯りが灯っている。かすかに踏切の音も聞こえた。

不意に日常が戻ってきても、肌に張り付いてしまった恐怖が拭いきれない。必死に気の所為だと思い込もうとするのに脳がそれを拒む。心臓の脈打つ音が痛いほど響いている。

息が荒いまま、もう一度ミラーを振り返った。

─もう、何も、映っていなかった。俺が割ったラムネの破片が粉々になって、地面で鈍く光っていた。