翌日の午後も、茹だるような熱気が町を包んでいた。
俺は婆ちゃんから買い物を頼まれ、商店街へと来ていた。商店街は今日も人気が少なく、金物屋の軒先で飾られた風鈴がチリリンと鳴っている。
家に帰ろうと歩いていると、シャッターの閉まった店の前で男女が二人、会話をしていた。見覚えのあるシルエットに俺は顔を顰めた。
「……えぇ、でもね、そういうのはご家族の問題だからねぇ」
40かそこらの女が、深刻ぶった顔でそう言っているのが聞こえた。男は女の話にうんうん頷きながら手元の手帳にメモをしている。だが、俺の刺すような視線に気づいたのか、こちらを見た。そして笑みを浮かべる。
「宗介くーん!お買いものー?」
野暮ったい眼鏡をかけた笹木が、人懐っこそうに手をブンブンと振った。笹木に訝しげな目を向けた女もこちらを見た。俺を見て不快そうに眉を潜めている。それから笹木に視線を戻し、気まずそうに微笑むとそそくさと去っていった。
笹木は、女の後ろ姿に「あ、お話、ありがとうございましたァー」といい加減な礼を言うと、俺の方へ嬉しそうに走ってきた。サンダルがペタペタと鳴っている。
「あんた、何が目的だ」
「え?」
「とぼけるな」
俺はついに笹木への疑念を本人にぶつけた。
「今、俺と婆ちゃんの話を聞いてただろ。わざわざこんな町まで来て調査ってそれかよ。何者なんだ、あんた」
(……えぇ、でもね、そういうのはご家族の問題だからねぇ)
さっきの女が言ってた「家族」とは、きっと俺の家のことだ。若い女が腹をデカくして帰ってきて、子どもを捨てて男とどこかへ消えた。5年以上たっても、俺たち家族の話はこの町の「噂話」として味がするのだ。
甘くて甘くて、何度食い尽くしても足りない他人の不幸、ってやつだ。
「綾川さんちにお世話になってます……って話しただけだよ。世間話さ」
肩をすくめて、飄々と笹木は言った。子どもの癇癪をなだめる大人の仕草に、ますます苛立つ。
「信用できない。婆ちゃんは騙せても俺は騙せないからな」
「俺、もしかして嫌われてる?」
言葉では無く、笹木を睨むことで返答する。肩までの黒髪を揺らしながら、笹木は「困ったなぁ」と頭をポリポリとかく。
「婆ちゃんを苦しませたら許さねぇ。はやく出ていけ」
「まさか、そんな!」
大袈裟に口に手をやり、笹木は目を丸くした。そして暫くうんうん唸っていたが、「そうだ!」と明るい声を発した。片手に持っていた緑色の手帳を、菓子でも自慢するように俺に見せた。
「じゃあさぁ、こんなのはどうかな?
宗介くんに、俺の研究に少し付き合ってもらって、俺が何者か信じてもらう……ってのは?」
試すような目でじっとりと俺を見つめながら、笹木は俺に提案した。
小高い丘の上に、俺たちはいた。
「N町ふれあい広場」と古びた看板が立っているが、人一人いない。ただ黄色い枯れ草が広がっているだけだ。
麓の町を一望することができるが、もちろん、おもしろみも感激も無い。俺はため息をついた。
「こんな所になにがあるんだよ」
「ふふ。宗介くんも知らないかー。ほら、あれだよ、あれ」
気味の悪い微笑を浮かべ、笹木が指さした。
山桜の葉が日陰を作るその場所に、ぽつんと一つ、石灯籠が立っていた。俺の腰ぐらいまでの小さなやつだ
寺や神社でよく見かけるが、何もない空間に一つだけ建っているのは珍しい気がした。
そして、その横には木札で、この石灯籠の名前と由来が書かれていた。
文字は色あせ、風雨に晒された跡がある。
『昔、この町に橋を架けるため、工事が行われた。
しかし工事は難航し、なかなか橋は完成しない。
城主の怒りを恐れた村人が、一人の娘を人柱として捧げた。人柱となった魂を哀れみ、娘の名を記したこの石灯籠は建立された。』
人柱。
聞いたことがなくても、すぐにそれがどういうものか分かった。
「これが、俺の研究テーマだ」
笹木は石灯籠の真横に進み、娘の名前が刻まれている箇所をそっと撫でた。
「日本中にこういうのってたくさんあるんだ。城や橋が無事に出来るように生け贄を……って話がそこらじゅうにある。
あるいは台風とか日照りとかの災害を鎮めるとかかな。生きたまま土の中に埋められたのがほとんどだね」
生きたまま、土の中に。意識がある内に冷たい土のなかへ入れられ、その頭上を大きな石が蓋をする。
血の気が引くのを感じた。
「こんなもの……」
俺の口から、思わず怒りが滲んだ言葉が溢れた。
「こんなもの、死んだ本人からしたら何の意味もないだろ」
「そうだね、宗介くん。これはあくまで社会構造側の『贖罪』にすぎない」
しょくざい、という言葉が分からず呟く俺に、「罪滅ぼし、ってことだね」と淋しそうに笑った。
「さらには『すすり泣く女の声』だの『子どもの幽霊』だの、本人たちが望まない姿として恐れられることもある。
……随分身勝手な話だろ?自分たちの都合で殺しといて、化け物にまでしちゃうんだから」
さっきまでおどけた口調だったのに、凪いだ海のような瞳で笹木は俺を静かに見つめた。
「それがあんたの調査目的か」
「そういうことになるね」
笹木は草むらに腰を下ろすと、掌に収まるほどの石を三つ並べた。
「圧政や掟、経済的な事情などの従わざるを得ない『社会構造の歪み』」
まず、一つ並べる。
「その『歪み』から生まれる『人の悲しみや恐怖』」
その斜め前に、もう一つ。
「やがてそれは『怪異』として姿を顕す」
最後の石が手前に置かれる。
笹木が並べた三つの石が、土の上で三角形を形作り、不気味な儀式ように見えた。
「『社会の歪み』が、『悲しみ』を生み、それが『怪異』を見せる。怪異は単なる迷信じゃない。人間社会の暗部を映す鏡なんだ」
と大きく腕を広げて見せた。
「そして俺は、それを現実の社会問題の解決に結びつける─これが、俺の研究してる『実践的民俗学』だ」
そして三角形を崩すように一気に3つの石をまとめた。
笹木は俺の顔をぱっと見上げて、
「中学生にはすこし難しいかな?でも、お兄さんがマジメな大学生だ……ってのはわかってくれる?」
すがるような口調で言った。
咄嗟に返答に困ったが「……まぁ、少しは」と答えておいた。笹木は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「そっかそっか!あー!よかったー!せっかくだから宗介くんとは仲良くしたいんだよ。年も近いしね!」
「5つも離れてるのは近くないだろ」
中学生の生意気な物言いさえも嬉しそうだ。真面目な話をしたあとにバカみたいに大笑いして、おかしな奴。
それに正直、笹木の話は難しかった。民俗学がどうとか、もあまり聞き慣れない単語ばかりだった。幽霊とか、怪談みたいなものを社会にどう役立てるんだろう。理解は半分にも満たなかった。
だが……笹木は、悪い奴じゃないのかも知れない。
石灯籠を慈しむように見ていた目を、とりあえず信じることにした。
サァッ……と生ぬるい風が吹いた。夕闇に呼ばれたように蜩が鳴き始めていた。
濃くなり始めた陰に包まれて、石灯籠は建っている。
難しいことはよく分からない。でも、と、俺はその石灯籠を見ながら思った。
娘を殺された家族は何も思わなかったのだろうか。友人や、恋人はどう思ったんだろう。
辛いとか、許せないとか。
それとも村のために仕方ないと、何も声をあげだずに諦めたのだろうか。
だとしたら、土の中の娘はあまりに孤独だ。
彼女の理不尽な死を「可哀想」で片付けるにはあまりに痛ましく、「絶望する」にはあまりに長い時代を経てしまっていた。
ただ、もう彼女を待つ人はいないのだ、という事実だけが、この置き捨てられた石碑を見ていると分かった。
突然、広場に設置してある有線放送から楽しげな音楽が流れ始めた。
軽快な音楽にあわせて、間延びした子供の声で「よい子はお家にかえりましょう」とアナウンスが続く。
「さーて、よい子は帰ろうか」
うーんと、背伸びをして笹木が笑った。オレンジ色の夕日がだんだん色を濃くしていく。
石灯籠を背にして、俺と笹木は帰路についた。
「あ!そうだ。ちょっと、本を予約していてね。ちょっと待っててくれる?」
坂を下りきったところで、思い出したように、笹木は慌ててすぐ駆けてった。蔦に覆われたレンガ調の古い建物は「郷土資料館」だ。社会科見学で小学生の時に行ったことがある。古い農機具や、巻物が展示されていたような気がするが、同級生を始め、俺もまったく興味をそそられなかった。
あんな所に何を見に行くんだろ。ますます変人だ。
笹木を待つ理由も無いのだが、置いて帰るのは気が引けて、俺はガードレールに背を預けた。
有線放送はオルゴールのようなメロディーを流して、子ども達の帰宅を促している。この曲なんだっけ……とぼんやり考えながら、俺は指先のささくれを小さくひっかいていた。
ガガ……ガガガ……ガ……と、音楽途切れ途切れになっていることに、ふと気付いた。
音楽が不快なノイズによって途切れ、同じフレーズだけが何度も引き延ばされる。
「よい子は──よい子は──よい子は──」
同じ言葉が、少しずつ形を崩していく。
「かえ、かえ、かえ、かえかえか」
最後には、言葉ですらなかった。
そして突然、ぷつ、と虫を押しつぶすような音を響かせて、切れた。
夕闇がいつのまにか深く、昏く辺りを染めていた。家々の明かりがあってもいいのに、鬱蒼とした木々の影がそれらを飲み込んでいる。
葉が揺れる音もしない。
誰か、いる。
誰かが、そこで、俺を見ている。
咄嗟に感じた直感がじわじわと広がって、全身が麻痺していく。でも、五感が何かを感じ取ろうとしていた。
振り返りたくない。振り返ることが、できない。だが、確かめずにはいられない。
心臓を冷たい何かで握りしめられているように、俺の体は強ばり、目だけがゆっくりと動いた。
カーブミラーが薄暗い闇の中にぽつんと立っていた。事故でもあったのか、黄色い首をすこしひしゃげたそれは、湾曲した鏡の顔で俺を見下ろしていた。
鏡のくせに、確かに、こちらを「見ている」。
そこに赤いなにかが映っている。
黒を溶かしたような夕闇に、その赤だけが禍々しく俺の目を侵していく。
女だ、と思った。
思った途端に、その赤い何かが、赤いワンピースになっていく。
血の気の無い青白い腕をだらんと下げて、髪の長い、その赤い服の女だけがカーブミラー越しに、ずっとこっちを見ている。
俺の心臓がサイレンを鳴らしはじめた。早く目をそらさなきゃ、ここから逃げなきゃ。それなのにその赤い女から目を離せない。
湾曲した鏡ごしに、俺と女の目がかちあった。
黒目が、ない。
異形のまなざしが、三日月のようにキュウウウッと細められていく。
女は口を引き裂くように広げ、けたたましく哄笑した。
「よよよよいこはかえかえあろうねええうえーーーーーーーーーー」
その長い長い叫びに、立ち尽くして震えることしか出来ない。
髪を振り乱し、女が笑いながら前へ前へと進んでくる。
四肢をうごめかせ、カーブミラーの中から這い出てくる。
こないで、どうか──ひやりとしたものが、首筋に触れた。
「っ!?」
思わず振り払うと、ガラス瓶が地面に当たって鈍い音を立てた。
「ごめん、びっくりした?ラムネだよ」
振り返ると、笹木が笑っていた。「あーあ、割れちゃった」
「な、なにすんだよ……!今、俺……!」
「え?どしたの、宗介くん」
身体中をガタガタ震わす俺の異常な様子に、笹木もさすがに表情を変えた。
「……なにか、あった?」
笹木は何も見ていないのか。家々には家族を迎えるための灯りが灯っている。かすかに踏切の音も聞こえた。
不意に日常が戻ってきても、肌に張り付いてしまった恐怖が拭いきれない。必死に気の所為だと思い込もうとするのに脳がそれを拒む。心臓の脈打つ音が痛いほど響いている。
息が荒いまま、もう一度ミラーを振り返った。
──もう、何も、映っていなかった。俺が割ったラムネの破片が粉々になって、地面で鈍く光っていた。

