夏が囁く



【怪】(かい)
あやしむ。不思議で常ならぬこと。
「又(右手の象形)」で「土(土地の神)」に触れ、「忄(心)」に異常を覚えるさまを表す。


今朝も、ひどい悪夢を見た。

連日続く熱帯夜のせいなのか。息苦しさから目を覚ますと、いつもの天井が俺を見下ろしていた。夢の名残だけが脳を痺れさせている。どんな夢だったかも覚えていない。だが何か、奇妙なものに呼ばれていて、それから必死で逃げ続けていたような気がする。

俺の名前を繰り返し、繰り返し……あれは……

……いや、やめよう。今はただ、シャツに張り付く寝汗が気持ち悪かった。今日もうんざりするほど暑いのだろう。汗を拭いながら、俺は自室を出た。

ジワジワジワと鳴く蝉の声。婆ちゃんがつけたテレビが、大きすぎる声でがなりたてている。毎朝繰り返す日常は、複写(コピー)しすぎて、おもしろみの欠片も無い。

白昼の田舎町で起きた連続殺人事件のニュース。何日も前から、センセーショナルにテレビが伝えていた。警察が、ガソリンをかぶった犯人を取り囲んでる映像は、現実感が希薄で、遠い世界の幻のようだ。真面目くさった顔をして、犯人の悲惨な幼少期を伝えていたアナウンサーが、突然「さーて、次は都内のスイーツ特集です!」と歯をむき出しにしたところで、俺は電源を切った。

「宗介、おはよう。味噌汁、できたからねぇ」

婆ちゃんがしわがれた声で俺を呼んだ。盆に載せたお椀は3つ。俺は眉を顰めた。

「あいつ、どこにいんの」

「あいつ?……やだね、お客さんにそんなこと言うんじゃないよ」

乱暴な物言いを婆ちゃんが咎めた。本当は「あいつ、どこにいんの」ではなく「あいつ、まだいんの」と言ってやりたかった。古い扇風機が首をガクガク揺らしながら回っている。縁側から差す夏の日差しさえも忌々しかった。

ふてくされた顔のまま、薄い座布団を三つ運び、婆ちゃんの作った料理を円卓に並べ始めた。その時、玄関をガラガラと開けながら「やー、暑い暑い」と笑いながら例の「あいつ」が帰ってきた。



「あいつ」──笹木樹の存在を初めて知ったのは、7月も終わりの、一本の電話だった。

婆ちゃんと二人きりで住む家にかかってくるのは、セールスや詐欺めいた電話ばかりだった。ある昼下がり、廊下から婆ちゃんの笑い声が聞こえた。誰かと電話で談笑しているようだった。婆ちゃんが受話器を置く音を待って、俺は居間に顔をのぞかせた。

「誰、いまの」

婆ちゃんがあんなに楽しそうに電話してるなんて珍しかった。婆ちゃんは老眼鏡をかけ直しながら「田辺ん所の勇だよ」と答えた。

婆ちゃんの兄の孫にあたる……そういうのは何というのだろう。ともかく、遠縁の親戚というやつだ。俺も小さい頃に会ったことがあるらしいが、記憶がない。今は、東京で大学生をやっているんだと、婆ちゃんから聞いた。忙しい中、時折こうして電話してくるのだと、婆ちゃんは嬉しそうに俺に説明した。

だが、そんなことはどうでもよかった。うろ覚えの婆ちゃんの話を寄せ集めると、田辺勇の用件は、だいたいこんな感じだった。

「……そうそう、それでさ。ちょっと婆ちゃんに頼みたいことがあってね。

実は、俺の大学の後輩がさ。婆ちゃんの住んでいるN町に興味があるらしくて。でもほら、近くにホテルも民宿もないだろ?

で、つい『そういえば俺の親戚がそこに住んでるわ』って言っちまったんだな。N町で食堂を営んでいる婆ちゃんの話をさ。

そしたらそいつ、寝泊まりするだけでいいから世話になりたいって……

食事の支度とかはいいんだよ、泊めるだけ。

勿論、謝礼は十分に払うって。
 
だからどうかな……婆ちゃんさえ、よければ……」

8月の間、2週間ほど泊まらせてほしい。

「嘘だろ、婆ちゃん。まさか」

冗談じゃない。婆ちゃんが食堂を営んでいたのは、もう随分昔の話だ。食堂は埃まみれの物置きとなり、俺たちは婆ちゃんの年金で細々と暮らしている。2週間も得体のしれない他人を住まわせる余裕はない。俺は慌てて婆ちゃんを問い詰めた。

「でも、もう勇には、返事しちゃったからねェ」

婆ちゃんは、事の重大さを理解していない表情でのんびりと答えた。

「勇がね、とってもいい子だから大丈夫って。宗介と年も近いし、いいじゃないか」

婆ちゃんは柔和な目を細めて笑った。耳の悪い婆ちゃんは多分、田辺勇の電話内容もよく分からないまま、安請け合いしたに違いない。泊める相手の名前さえも曖昧で、そんな婆ちゃんを前に、俺は頭を抱えた。

謝礼があるのは正直有難いが、正体不明の男を2週間も同居させるなんて絶対に嫌だった。婆ちゃんの優しさに付け込んだ、田辺への怒りもあった。しかし、どう抵抗しても、家主でもあり、唯一の保護者が引き受けたのであれば、俺に発言権はなかった。



かくして「とってもいい子」だという、笹木樹はやってきた。赤の他人の家に押しかける図々しさを持ち合わせたその大学生は、炎天下の中、電車を何本も乗り継ぎ、この田舎の町へ現れた。

インターホンが鳴り、戸を開けて笹木を迎えたのは俺だった。大きなバックパックを背負ったその男は、俺よりずいぶん大きく見えた。
細身だが、だぶついた服装だ。肩まで伸びた長い茶髪、アメコミみたいな絵が描かれたTシャツに、穴の空いたデニム。それから、丸フレームのメガネ。野暮ったいファッションだが、ピアスが一つ銀色に光っていた。

胡散臭いその見た目は、ますます俺の嫌悪感を募らせた。俺は挨拶もせずに、ドアを開けたまま、男を睨みつけた。

いかにも余所者らしいその男も、俺を見て、思わず驚いたような顔をし、しばらく立ち尽くしていた。

婆ちゃんしか住んでいない、とでも思っていたのだろうか。田辺勇も不親切な奴だ。紹介するならちゃんと教えてやればいいのに。

メガネの奥の目も、しばらく、俺を見つめていたが、

「君、もしかして……」

と口を開き、ネジが切れたロボットのように再び静止した。そのうちに、目がキラキラと輝き始めた。

「綾川……宗介くん、かい?ミツさんのお孫さんの」

その聞き方に、更にムカついた。年下の子供に好かれるならこういう台詞だ、とキメた、甘ったるい演技に見えた。初対面のガキに好かれようと笑みを浮かべる客を、俺は一瞬で大嫌いになった。無神経で、キザで軽薄そうな、都会から来た男。

「そうですけど」

露骨に嫌悪をにじませながら、俺はつっけんどんに返事をした。ただでさえ最近眠れてなかった。こんな素性も分からない奴を泊めたら、余計に不眠が悪化しそうだ。

男は、威嚇する俺を嬉しそうに見ながら、寝不足の神経を逆撫でするような明るい声で「笹木樹」だと名乗った。

「田辺先輩からご紹介いただきました、笹木樹と申します。この度は大変ご迷惑をおかけします。──ミツさんはご在宅かな。あ、これお土産ね」

「……婆ちゃんなら中に。どうぞ」

「おじゃましまーす!」

笹木は、はしゃいだ声音で、ほぼ同じような挨拶を婆ちゃんにした。首が取れそうな音で唸る扇風機の横で、婆ちゃんは笹木からの東京土産を物珍しそうに眺めた。

「食事は適当に済ませますからどうぞお構いなく。ただ、寝泊まりできるお部屋をお借りしたくて……いやぁ、助かりました。この辺ホテルも宿もなくて」

滞在する2週間のスケジュールを、取り出した手帳にガリガリと書きながら、笹木は喋り続けた。  

人のいい婆ちゃんは笹木から何を言われても「はぁ。どうぞどうぞ」とニコニコとしている。俺には嫌われた笹木だが、お人好しの婆ちゃんは騙せたようだ。

「あんた、お幾つだね」

「10月でハタチの、2回生です」

「あらそう。じゃあ、宗介と年が近いかねぇ」

「宗介くん、オトナっぽいですね。何歳?」

「15」

ぶっきらぼうに返すと、笹木は目を三日月のように歪めた。そして、「今が一番楽しい時期だね」と意味もなく笑う。紙に細いペンで描き殴ったような、薄っぺらい笑顔だった。やっぱり好きになれそうになかった。



そんな笹木がやってきて、今日で3日になる。食事の準備はしなくていいはずなのに、婆ちゃんは笹木の分まで作ってしまう。食卓の味噌汁からは湯気が上がっていた。外から帰ってきた笹木は俺の正面に座り、それを美味そうに啜ると「いやぁー、塩分が染みるなぁ!」と大袈裟に言った。

笹木の傍らには、緑色のノートサイズの手帳が置かれている。コイツはいつもこれを肌身離さず持ち歩いているのだ。

(……何をコソコソ調べてんだか知らねぇけど)

気持ち悪い男だ。

3日間共に生活をしてみて、ただでさえマイナスな笹木の印象は悪くなる一方だった。「宗介くん」と甘ったるく呼ばれるのも、居心地が悪い。自転車で村中を走り回っては何かとメモをとっているのも、誰彼構わずお喋りしているのも、不気味な笑みで俺をじっと見てくるのも、ぜんぶ嫌いだ。

「この町はいいですね、自然もあって歴史もある。いいところだ」

「そうですか。私にはようわからんけど、都会の人には物珍しいかもねぇ」

食事を終え、笹木は冷えた麦茶を飲みながら、婆ちゃんと談笑している。この町がいい?どこが、と俺は心の中で毒づいた。

N町は、山に囲まれた小さな町だ。

背後には山々が壁のように町をぐるりと囲っていて、まるでこの町を外の世界から意図的に切り離してるようだ。

電車で二駅も行けば海も見られるのだが、山に遮られたこの町にいると、そんなものが本当に存在するのかさえ疑わしくなる。

山の稜線が視界の大部分を占めていて、波の音もこの町には届かない。山に囲まれているせいで、夏は逃げ場のない熱がこもり、冬になれば雪が出口を塞ぐ。

特に今年、1999年の夏は、異常だった。地面から立ち上る陽炎が揺らめき、吸うたびに肺に熱い湿気がまとわりついた。

更に嫌気が差すのは天候だけではない。わずかな商店街のシャッターは半分以上、下りたまま。公衆電話は高熱を帯び、誰も使おうとしない。空き家も多く、誰かが住んでいた痕跡だけが残り、町そのものがゆっくりと干からびていくように見えた。

俺の家はその商店街から少し離れた、山沿いの古い一軒家だ。
婆ちゃんが昔やっていた「あいかわ食堂」の看板は、長い夏の日差しで色が抜け、文字がほとんど読めなくなっている。庭の土はカラカラにひび割れ、古い長靴が何足も干されている。

この町に生まれて15年。いい町だね、なんて、ここの住民なら絶対に言わない。観光客の薄っぺらい称賛に、俺の喉はざらついた。

「宗介くんは食べないのー?暑くて食欲ないのかな」

俺の敵意に気づかず、笹木はニコニコと話しかけた。

その軽薄な笑顔を俺は無言で睨みつけ、背中を向けて、自室へと足早に戻った。