夏が囁く



【錠】(じょう)
とざすもの。封じる具。
「金」に「定(さだめる)」を組み合わせ、金属で固定し、開閉を定めて閉じるものを表す。


東京には空がない、という誰かの詩を時々思い出す。

15の夏に来て以来、東京には空がない、と俺も思っていた。
無計画に乱立するビル群は空を覆い尽くさんばかりで、まるでガラスで出来た墓標のように思えた。小さな空を、都会の烏たちが飛び立っていく。

東京には空がない。

だが、それを心から実感するのは夜だった。

闇が支配するはずの真夜中でもこの街は眠らない。墓標の上に、赤い目玉のような航空灯が何百と灯り、高層マンションの窓は、マスゲームのように光で飾り立てられている。安っぽいネオン、お祭り騒ぎのイルミネーション、車のクラクションとヘッドライト。どこを見ても目がチカチカするような目映い光で溢れている。

東京には夜がない。まるで闇を恐れて、文明の力で塗りつぶさんとしているようだ。

俺はそれがいいとか、嫌いだとかそういう話をしたいんじゃない。ただ、そう感じるというだけの話だ。

──それから、夜は、音が生き物になる。

俺の下手な口笛も、雑音のない暗闇だとなんだかサマになってる。

光が溢れる都心に背を向けて、薄ぼんやりとした街灯の下、俺は帰路についていた。ペタッペタッと響くサンダルの足音も闇の中、やたら大きく聞こえる。

口笛と共に歩きながら、俺は、携帯電話に残っている、録音メッセージを再生し始めた。

ピー…!

「あー…湯山?俺だけど、田辺」

大学の先輩、田辺勇が気まずそうに名乗った。何度電話をかけても俺が出ないので、しぶしぶメッセージを残したのだろう。

いい加減そうに見えて律儀な人だ。いや、罪悪感か?─そんなこと、考える必要まったくないのに。

「婆ちゃんのこと、ありがとな。おかげで婆ちゃんは施設で元気にやってるみたいだ。他人のお前に任せてしまって本当に申し訳ない。それで、だな」

しばらく沈黙があった。田辺が躊躇っているのがわかる。

「それで、その、お前……大丈夫か」

誰かが夜中に出したゴミ袋を、烏が食い破っている。散乱した生ゴミを嘴で啄みながら、歩いてくる俺を見上げた。ガラス玉みたいな黒い目玉が俺を見つめて、動きを止めた。

「大怪我して帰ってきてさ、バイトも学校も来てないだろ。俺、心配で。俺が婆ちゃんのことお前に頼んだからだろ。なにかあったのかな、って」

田辺は何を心配しているんだろう。肩の深い傷跡はむしろいい思い出だし、バイトも学校も俺にはもう必要がないのに。

「俺になにかできることがあれば」

と続いた録音を途中で、俺は切った。カンカンカンカン、と古いアパートの階段を、口笛と共に登っていく。

東京の狭い空には届きそうにない、闇にひっそりと佇む、小さな安アパートの二階。そこが俺の住処だ。

鍵をまわす。ギィ、と軋んだ音をたててドアが開いた。

電気はつけない。部屋に忍び込む、街灯のぼんやりとした光だけで十分だ。薄闇の中、ビニール袋を無造作にテーブルに置く。袋の中には、頭でっかちの山椒魚が表紙に描かれた文庫本が入っている。読みたがっていたから、本屋に行って買ってきたのだ。テーブルの上には、2004年と記された緑の手帳と付箋だらけの地図。それから花火の袋。クマのビーチサンダル。水鉄砲。

全部、あの楽しかった最高の夏の宝物だ。

俺が満足気にそれらを眺めていると、突然、

ドン!

とドアが叩かれた。

更にドアは強く、何度も何度も叩かれる。

「やれやれ、またかぁ……」

長くため息をついて、ガリガリと頭をかいた。随分しつこい奴らだ。

俺は、テレビ台が置かれた部屋の隅を振り返った。テレビ台のリモコンがカタカタカタ……と震え、床に落ちた。

俺は優しく微笑んだ。

「そんなに怯えないで。大丈夫、あいつらは俺には手を出せないよ。霊感も能力もなんにもない俺にはね」

ドン!ドン!ドン!

俺の背後で、ドアを強く叩く音はしばらく続いた。けれど奴らは、俺になんの危害もくわえられない。

「未練をのこしたまま」「死んでしまった」魂を回収する怪異どもには、「なんの未練もなく」「生きている」俺を連れて行くことはできないのだ。

その内、諦めたのか、怪異たちはその気配を消した。

「ほらね?俺の言った通りでしょ。あははは」

そう笑うと、「それ」も笑う気配がする。

きっと「調子にのるな」とか「たまたまだろ」とか生意気な口を叩いているに違いない。

そんなことを考えていると、すっと、白い少年の手が闇の中から現れた。そして、俺の首に、ゆるやかにかかる。

冷たくて、懐かしい感触。

俺はそっと、その冷たい手を握り返した。

15歳のままの、細くて少し震える手。
あの夏、俺が背負った小さな体温を、俺は今でもはっきりと覚えている。

寂しくて悲しくてたまらないのに、誰にも甘え方を教えてもらえなかった、可哀想な俺の親友。

あの夏と同じように、それは俺に体を委ねてくれる。

(宗ちゃん、俺が君を守るからね)

あの町でも、東京でもない、「ここ」で。

今度こそ二度と離さない。

怪談に怯える幼い弟を守るように、静かに俺は寄り添った。

なにかが、俺の耳元で囁く。

俺は微笑んだ。


──夏に魅せられたのは俺か、君か。


カチャリ、と錠が閉まり、夏が再び閉じられていく。