夏が囁く



【黒木龍也の述懐】

【2004年8月 20歳】

ドクロをあしらった真っ赤なTシャツを着て、ツーブロックで目つきの悪いガキが俺を見ている。値踏みするような視線で、身体をゆらゆらさせて、相手をどういたぶろうかと舌なめずりをしている。

「俺の父ちゃんがいつも言ってんだけどさァ、男はやっぱ強くなくっちゃいけないんだって」

そうだ。こいつはいつも父親の話題を振ってくる。それだけが自慢だから。

「俺の父ちゃんはスゲーんだぜ!昔、中学と高校でアタマはってて、で、今は建設会社の社長だもん!そういうの、『カリスマ』って言うんだよな」

その頃、テレビでそんな言葉が流行っていた気がする。もうずいぶん昔の話だ。

「だから俺も父ちゃんみたいになりたくて、最近、ボクシングとか習い始めたんだ!ほら!」

そう言いながら、シュッシュッと唇をすぼめて、空に向かってパンチを繰り出している。筋がいいのか悪いのか俺にはわからない。

「父ちゃんは弱い奴が大嫌いなんだ。弱くてウジウジして教室の隅で漫画とか読んでる暗い奴はぶっ飛ばしたくなるって言ってた。アハハハ!センコーも父ちゃんの前だとビクビクするからおもしれーんだよな!」

授業参観の度に他の親から目を逸らされて、職員室で「厄介な親」って言われてるのが、そんなにおもしろいのか。

「あ?」

動きをとめて、奴が俺を振り返る。
今なら分かる。お前の父親はクズだ。

「……お前、今、父ちゃんの悪口、言ったか?」

そんなに父ちゃんが好きか?

「当たり前だろ!父ちゃんはつえーし、それに」

だから弱い奴が許せないのか?

「……そうだよ」

だから、アイツを、宗介をイジメてるのか?

「宗介……ッ!」

俺の言葉に、ギリッ、と音が鳴るほど歯を噛み締めて、顔をゆがめている。

「アイツ、ムカつくんだよ!貧乏で親もいねぇくせにすかしやがって……!俺がボクシングの練習台に使ってやっても、うんともすんとも言わねぇ……。生意気な目ェ、しやがって……!」

目。そうだ、宗介の目だ。

「アイツの殴られても蹴られても俺を見てくる、あの」

光の届かない、真っ暗な海底みたいな目が怖かった。

お前は、宗介のあの目にいつも怯えていたんだ。

「違う!勝手なこと、言うな!」

タバコ買ってこいよって親父に無茶言われて、出来なくてボコボコにされて、半泣きだったお前を、宗介に見られたことがあったな。

「……そ、それは」

学校ではワルぶってるのに、家ではささいなことで「教育」だとか「しつけ」だとか言われて、親父に蹴られてたよな。

兄貴も母親も笑ってた。だからこれは仕方ないことなんだ、笑えるジョークなんだって思って誤魔化してた。なのに。

あの時、宗介だけは笑わずに、親父に殴られてたお前のこと、じっと見てた。

軽蔑と憐憫と絶望が混ざり合った目だ。

それからだよ。お前が宗介の目に怯えるようになるのは。

──なぁ。父ちゃんが好きか。許せないか、弱い奴が。宗介がそんなに怖かったのか。

憎くて憎くてたまらなかったか、弱くてなんにも持っていない自分が。

「やめろ!!」

誰かの叫び声が、俺の喉から発せられて、覚醒した。

何十本も床に置かれたペッドボトルや空き缶から漂う甘い腐敗臭。壁や床の黒い染み。
風呂に入ったのは1ヶ月前も前だっただろうか。皮膚をかくと、灰色の垢が爪にたまった。

最低限の風呂は、夜、人目を忍んで。苦しみを紛らわすポテトチップスやカップラーメンも、夜、2週間分をため込んで豚のように貪る。
5年前の冬以来、俺はこの屋根裏部屋に─穴蔵の中で暮らしている。

母親は俺がおかしくなってすぐに出て行った。元々親父の暴力に嫌気がさしていたんだと、真っ赤なネイルに息を吹きかけながら言っていた。金髪の若い男に腕を絡めて出て行くのを、この屋根裏部屋の一つしか無い窓から俺は見ていた。

兄貴たちも、ここから逃げられると分かって、とっくに出て行った。だから、このでかい家には親父と俺しかいない。

階下に下りると最初は俺をなじっていた親父も、もう最近では、化け物に遭遇しないように避けていく。

今は臭いものに蓋をして、世間体のために俺を飼い殺しているが、いつか親父も、我慢の限界を迎えるだろう。自分に力と金があるうちにきっと俺を殺すはずだ。ここにはシャベルも斧もチェンソーもある。トラックだって重機だって。親父が今携わっている水産加工工場にはきっと大きな冷凍庫もある。材木を切り出すための山もたくさん知っているはずだ。俺は親父が階段を上がってくるその日を恐れて、ここに閉じこもっている。

それとも俺が親父を殺すのが早いだろうか。そして、誰よりも強い親父を殺したら俺が一番強いことになるんだろうか。
暴力しか学ばなかったから、暴力で生き残る方法しか見いだせない。

「お前なんかさ……生きてる価値あんの?」

そんな俺に誰かが囁く。

うるさい。耳元にザワザワと羽音がざわめく。俺は思わず口を押さえた。

「お前なんか誰も助けてくれねえよ」

「町の面汚しだもんな」

「責任取って死ねよ」

「お前なんて」

「消えろよ」

止まらない止まらない止められない。自分で自分にかけた呪いが止まらない。

「ウッ……ヴゥ……!」

俺は吐き気を押さえるように、自分の首を強くぎゅううと押さえつけた。目から涙が幾筋も幾筋も溢れた。

どうしてこうなってしまったんだろう。自分で自分の空虚な人生を振り返るたびに、死にたくなる。

俺も父ちゃんみたいに強い男になりたかった。

「嘘だ。あんな奴大嫌いだ」

倫理とか常識とか蹴散らして、ほしいものは全部手に入れる男に。

「殴られるのも蹴られるのももう嫌だ」

弱い奴が悪い。醜い奴が悪い。

「どうして俺のことを誰も助けてくれないの」

だから、俺がこうなってしまった。

ピンポーン!!

その時、布団の中に蹲ってうめいている俺を笑うように、間延びしたインターフォンが聞こえた。

──どうして、あの時、いつも穴蔵に息を詰めてくらしている俺が、訪問客を見ようと、窓の縁に指を掴んだのか。

何かに呼ばれるように、ゴミ袋をかき分けながら、鈍い光が揺れる窓辺へ近づいていく。

分からない。

あの宗介が死んだのも、どうして、俺は、あの場所に、どうして、まだ、俺は生きているんだろう。

玄関に立っていたのは、見慣れぬ男だった。肩までの長い茶髪をうっとうしそうにかきあげた、その顔にどこか見覚えがあった。

だが思い出せない。その男は後ろにいる、誰かに話しかけた。そしてその誰かを置いて、裏庭のほうへ走って行く。

玄関に取り残された、もう一人の人影。

(湯山に助けられて嬉しそうに微笑んでいる顔)

(北校舎の三階の一番端の男子トイレで、殴りつける俺を睨む顔)

知ってる。あいつは、まさか、でも、そんな、そんなこと、あるはずがないのに。
 
(クラクションが響き渡る、トラックのハイビームに照らされた青白い顔)

そいつが顔を上げた。

あの海の底のような、宗介の真っ黒な瞳が、俺をとらえた。