窓から、白い雪が降り始めていた。これから春先まで、灰色の空と白い雪でこの町は覆われるだろう。
冬休み明けの学校は、生徒達もすぐに下校してしまい、教室も廊下もしんと静まりかえっている。
だから誰も、俺がどこへ行ったか知らない。
塩素の匂いがつく、北校舎の三階。一番端の男子トイレ。床に敷き詰められた青いタイルが所々ひび割れていて、それが嫌いだった。
なんだか、そのツヤツヤした青色と赤い血がそぐわない気がして、殴られる度に、顔が床に押しつけられる度に、たまらなく嫌だった。
キィー、カタん、トん、キィー、カタん、トん……
一番奥の個室のドアが、窓から入る隙間風で寂しげな音を立てる。俺はそれをいつも数えながら、黒木龍也が俺に飽きるのを待っていた。
黒木龍也は新学期が始まって以来、いつも俺をここに呼び出すようになった。
湯山が7月にこの町を去って、こいつの加虐欲はいよいよ手がつけられなくなっていた。
仲間を囲んで暴行をくわえる日もあったし、今日のように、二人っきりで暴言を浴びせて愉しむ日もあった。
暴力のレパートリーの多さに驚く。こいつはどこで、いや、「誰」からそれを学んだのだろう。
「……なに考えてんだよ、宗介ェッ!」
細身だが、筋肉がしっかりついたその腕が、俺の腹にめり込む。思わず手で押さえて、体を折り曲げると、すかさず、横蹴りが入った。
床に倒れ込む。青いタイルのひんやりした感触と、視界に映る黒木の汚い上履き。嫌悪感と激痛に、俺は目を閉じた。
「お前なんかさ……生きてる価値あんの?」
潰れた芋虫を棒でつつくように、黒木の上履きが俺の背中を踏みつける。
「父ちゃんが教えてくれたぞ。お前の母ちゃんはいつも違った男といたって」
「あーあ情けねぇなぁ。湯山がいねえとなにもできねえのか」
「お前なんか誰も助けてくれねえよ」
「町の面汚しだもんな」
「責任取って死ねよ」
「お前なんて」
「消えろよ」
俺を傷つけたくてたまらないのだろう。黒木の口から吐き出される悪意が、耳障りな虫の羽音のように聞こえる。
もう今更、心は痛まない。無反応な奴隷の態度が暴君の癪に障ったのだろう。舌打ちとともに、強く背骨が踏まれて、俺は痛みから短くうめき声をあげた。二度、三度と背中の骨が軋む。
殴られて蹴られて罵られる。それは「傷害」とか「暴行」とか、そう言われるはずだ。ニュースでそんな事件ばかりをよく見る。
なのに、教室の隅や、男子トイレで行われれば「いじめ」に姿を変えてしまう。
黒木たちに俺が暴力を受けているのを、学校中が知っていた。だが教師も同級生も見て見ぬふりだ。地元の有力者である黒木の父親が怖いのも一つだろうが、きっと関わりたくないのだ。「見ない」のなら「いない」のと同じだから。
痣が増えていくのも、教科書を真っ黒に塗りつぶされるのも、耳に刻まれる罵倒の数々も。
全部俺にしか「見えて」いないんだろう。
俺がみんなから「見えて」いないように。
「あーあ、つまんねぇなぁ。ちっとは反応しろよ」
上履きの爪先で、黒木が俺の顎を持ち上げた。ニヤニヤと笑うその目の上に、消えかかっているが青黒いたんこぶが出来ている。
おそらく黒木龍也自身も暴力を受けている。汚い下水の匂いを嗅ぎ分けるネズミのように、俺はそれに気付いていた。
昔はヤンチャしてたワルで、今でもその学生時代の武勇を誇る父親。自慢げにクラスメイトに披露しながら、黒木龍也はどこか怯えた目をいつもしている。父や兄たちにこづかれて、ベソをかきながらコンビニの前を歩いてる姿を、一度、見たことがある。
だからなのか。俺に暴力をふるうのは。黒木が父親から暴力を受けていると俺が知って……いや、むしろ俺になら分かってもらえると思っているのだろうか。
父親から教わった苦痛をなぞって、黒木は、何度も何度も俺の体を痛めつける。
憎しみと苦痛が連鎖して、まるで悪夢みたいだ。
馬鹿馬鹿しい。
笑みを浮かべた俺の唇を見て、黒木が目を見開いた。
「俺の婆ちゃんは、俺を殴ったりしない。お前の親父と違ってな、黒木」
唯一の武器をもって、俺は黒木を睨んだ。黒木の顔が屈辱と怒りで真っ赤に歪んでいく。
「その目が、ムカつくんだよ……ッ!宗介ッ!」
短く吠えたかと思うと、黒木は足を高く俺の背中に振り下ろした。
しんしんと、音も無く雪が降っている。町中の有線放送が「よい子はおうちに帰りましょう」と無機質に流すのを聞きながら、俺は痛む足を引きずって、家路を歩いていた。雪の中を歩く俺を、いくつもの傘が通り過ぎていく。頬の傷に、雪が染みこんで溶けた。
急いで帰らなくちゃ。
婆ちゃんが心配だった。年のせいでもあるのだろうか、桜が散り始めた頃から、少し、婆ちゃんは物忘れが多くなった。
あんなにきれい好きだったのに、台所のシンクが汚れた皿でいっぱいだったりする。
醤油の瓶が何本もあるのに、次の日にまた買ってきてしまう。今日何をしたか、さっき俺と何を話したか、記憶が曖昧な時が増えた。
それに時々、遠い目をするようになった。突然、そのまま、フッと婆ちゃんが姿を消してしまいそうで、怖い。
砂がさらさらと漏れていき、空っぽになってしぼんでいくような不安。
あの夏の、湯山の「一緒に逃げよう」という言葉。逃げられるはずがない。婆ちゃんに育ててもらった俺は、湯山の申し出に、背を向けるしかなかったのだ。
雪が舞い散る中、一本道の向こうに、赤い傘が小さく見えた。心配そうな顔で婆ちゃんがぽつんと立っていた。思わず、ほっとすると、俺の目にじわりと何かが滲んだ。
(婆ちゃんの前では、泣いた顔を見せちゃいけない)
ゴシゴシと目元をこすって、鼻をすすり、学ランの襟を直して、ごまかす。
婆ちゃんには昔から不思議な力があった。俺が外で辛い目に遭うと、いつもああやって外で待っていてくれるのだ。雨や雪の日は、俺がすぐに見つけられるように赤い傘を差して、婆ちゃんは俺の帰りを待っている。まるで、俺がすぐに甘えられるように。
(あぁ、こんなに冷えて。さぁ、宗介、はやく帰ろう)
そして何も聞かずに、あの暖かなしわしわの掌で、ぎゅっと俺の手を包み、さすってくれる。
俺はもう15歳になるのに、子供みたいに、雪が積もったあぜ道を駆けた。
俺は黒木とは違う。婆ちゃんは俺を愛してくれているから。
「婆ちゃん、ただいま」
目の前の赤い傘に向かって俺は大きな声で言った。傘の端が上がる。婆ちゃんは俺を見つめてニコッと笑った。
「百合ちゃん、おかえりぃ」
……あぁ、今日もか。
最近、婆ちゃんは、俺といなくなった母親を混同する。目元なんて特に似ていると昔から言われてきたが、最近は母親そのものに見えるらしい。でも、時間が経てば、普段通り「宗介」と呼んでくれる。─だから、大丈夫だ。
俺は無理矢理笑顔を作った。
「婆ちゃん、遅くなってごめんね。腹減っちゃった。ねぇ、今日のごはんなに。俺さ」
「百合ちゃん、ごめんね」
婆ちゃんの手が俺の手をギュッと握った。骨張った男の手を、婆ちゃんは優しく撫でる。
そして慈愛に満ちた瞳で、俺に──いや、「娘」に囁いた。
「あんたが産みたくないなら産まなくてもいい。父親のわからん子なんだもの」
雪が静寂とともに降る。婆ちゃんの手に包まれた俺の指先が震えた。
おかあさんにすてられても、ともだちがいなくなっても、たたかれても、がまんできた。
やさしくて、だいすきなおばあちゃんがいてくれたから。
「百合ちゃんが嫌なら、あたしがおとうさんを説得してあげるよ」
雪、雪、雪。血と涙が混じった呼吸で、俺は真っ白な闇の中を歩き続けた。
どれだけの時間を歩いたのか、雪に染まった公園や家々を通り過ぎ、町外れの国道に出た。
閃光のようなハイビームが、前から後ろからもいくつもいくつも通り過ぎていく。
こんなに狭い町でも光はどこかに灯っているのに、誰も、俺を見つけようとしない。
車が行き交う光の渦の向こうに、うっすらとトンネルらしきものが見えた。
あぁ、あの向こうには別の町が、外がある。海がある。東京にもいつかつくだろう。
でも、どこへ行っても、俺を待っている人なんていない。
一本道で待っていた日も、冬の夜道をこうして一人で歩いていても。
ぽっかりとした空洞が、大きな口を開けて待っているだけだ。
「宗ちゃん、俺と逃げてよ」
──あぁ、そうか。
雲一つない夏空が広がっている。その空を背に、泣き出しそうな声で幼なじみの湯山が言ったのを思い出す。
「こんなとこから逃げてさ。宗ちゃん、一緒に行こう」
婆ちゃんを理由に、湯山から背を向けたわけじゃない。
窮屈な町が嫌で、外の世界に出たかったわけでもない。
暗い山道でも、光眩い都会でも、世界の果てでもどこでもよかった。
俺は誰かに、そばにいてほしかっただけなんだ。
それなのに、みんな俺からいなくなってしまう。いや、最初からだれも俺を必要としていない。
気がついたらなんだかおかしくて、さみしくて、どうしようなく辛くて、苦しい。
俺は笑った。或いは泣いたのだろうか。何かを叫んでも、車のエンジン音にかき消されて、誰にも届かない。
ふと、反対側の歩道に人影が見えた。同じ背丈ぐらいに見える。
子供でないから甘えられず、大人でもないから逃げ方が分からない。
困り果てて立ち尽くした、誰からも望まれない15歳の影のように見えた。
(婆ちゃん、ごめんね)
俺は笑って、その影へと足を踏み出した。
クラクションが、その時、まばゆい閃光が。
「『あの冬』に死んだくせに、どうして今更、戻ってきたんだよ、そうすけぇえええええええ!!!!」
記憶か幻覚か。
白夜の悪夢から、俺は意識を取り戻した。顔の右半分が焼けるように痛みだした。思わず手で右目を覆う。
フロントガラスを砕く鈍い音と、骨と肉がぐしゃりと潰れる感触。雪の上に散乱する俺の一部。
全部、思い出した。
血走った男の目と錆びた刃物が、再び俺を終わらせるために、頭上に振り上げられる。
そのまま勢いよく振り下ろされた斧が、俺の肉体を砕く。
だが痛みは無い。目を開くと、視界に大きな背中があった。
その肩が、赤黒くじわりと滲んでいく。
「笹木ッ!!」
混乱する頭で俺はその背中にしがみついた。笹木は、凶刃から俺を守るように手で俺をかばった。
ひどい怪我を負っているのに息も乱さず、笹木は目の前の男―変わり果てた黒木龍也を、ゾッとするほど冷たい眼差しで見続けている。
笹木は男に、淡々と言った。
「黒木龍也、宗介くんと俺はね、海に行ったよ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった黒木が、宗介の言葉に呆然としている。
「宗介くんはお前なんか呪わないし殺さない。宗介くんをお前みたいな化け物にするな。お前がしたことを宗介くんのせいにして目をそらすな。お前は一生宗介くんに詫び続けて苦しんで惨めに」
死ね。
その言葉が合図だったように、ぐにゃりと、黒木の口元が歪みはじめた。奴の口から、無数の黒い蛾がぶわああと飛び出す。無関心と嗜虐心を羽の両面に宿した化け物たちが、バタバタと羽音を一斉に打ち鳴らした。
黒木の口から溢れでた蛾たちは、そのまま部屋の天井まで飛び立つと、一匹また一匹と黒木を覆っていく。漆黒の、大きな大きな波のようだ。その波に揉まれながら黒木は痙攣し、恐怖に目を見開いた。
羽音がこすれる度に、なにかが聞こえた。
「父ちゃんが教えてくれたぞ。お前の母ちゃんはいつも違った男といたって」
「あーあ情けねぇなぁ。湯山がいねえとなにもできねえのか」
「お前なんか誰も助けてくれねえよ」
「町の面汚しだもんな」
「責任取って死ねよ」
「お前なんて」
「消えろよ」
自分で吐き出した悪意が、文字通り自分に還っていく。蛾の大群に押し込まれながら黒木の顔が赤黒く歪んでいく。
「うぐ……!ゔゔううぅ……ッ!!」
徐々にその巨体は縮み、苦悶の声も弱々しくなる。やがて静寂が戻り、蛾たちはすっと消えた。黒木もいなくなっていた。
笹木の血がついた手斧だけが、悪夢の残滓のように、畳の上に突き刺さっていた。
俺はその場に立ち尽くし、震える手で笹木の背中をぎゅっと掴んだ。
笹木は「ふぅ」と短く息を吐くと、ゆっくりその場に崩れ落ちるように座った。
安堵の笑みをうがべながら、穏やかな顔をしている。だが、額や首筋にはじんわりと汗の玉が浮いていた。
「笹木……だいじょうぶ……」
「ん?あぁ、グロいね、けっこう」
低く、落ち着いた声で笹木は笑った。いつものおどけた顔だ。痛みを堪えているはずなのに、声は少しも震えていない。
「でも、血が……! 動くな、押さえてるから!」
俺は必死に傷口を震える両手で押さえた。指の間から温かい血が溢れ、じわりと広がっていく。鉄の匂いが鼻を突いた。だが。
俺は自分の手のひらを見た。赤黒く汚れているはずが、一点の血痕もついていない。
「……傷は見た目ほど深くない。筋肉を浅く切り裂いただけみたい。心配しないで」
笹木は優しく言った。それでも痛みはあるのか、眉根を寄せて、短く呼吸をしている。
俺は笹木の血がつかない掌を、自分の胸に当てた。なにもない。熱も、鼓動も、感触も、なにもかも。
「1999年に、俺は」
死んだんだ、と自分に言い聞かせるように、鼓動の鳴らぬ心臓を押さえながら言った。
暗闇の中で何かが蠢く気配を感じた。
「奴ら」が喜んでいる。今の俺には分かった。
母の記憶。祖母の記憶。黒木龍也と町の記憶。笹木への思い。それから、俺自身の最期。
俺の悲しみと苦しみを模して、ずっと昏い闇に招いていた「怪異」ども。
5年前に死に損なった俺が、ようやく自分の死に気付いたのだと嘲笑っているのだ。
「なんで……!」
俺はぎゅっと胸を押さえつけて声を絞り出した。
「自分が死んだ日も、どうして死んだのかも全部思い出した。自分で選んで死んだんだ。
……でもなんで、俺、化け物なんかに……あいつらみたいになっちゃったんだ」
「君は化け物じゃない。アレとはちがう」
笹木は答えた。
「絶望して死を選んだその瞬間も、君はお婆ちゃんが心配だったんじゃないかな。だからずっとそばにいてあげたんでしょ」
1999年の夏。
婆ちゃんが元気だった最後の夏。
(宗介くんはどうしたい?不気味な現象の真実を知るのか。それとも平穏な暮らしを続けたい?)
(アイツらの正体なんか知りたくない。普通に暮らせたら、それでいい)
笹木が隣で寝てくれた時、俺はそう答えた。
普通に暮らせたら、それだけでよかった。普通の暮らしができていた、1999年の夏をずっと生きていたかった。
(婆ちゃん、ごめんね)
ハイビームの光に飛び出した時の、自分の未練が蘇る。
俺は自分に呪いをかけて、俺自身をあの夏に閉じ込めたのだ。
そして、その呪いを解いたのは。
「君は誰よりも優しい。恨みや苦しみからそうなったんじゃないんだよ」
俺の目から涙が滲んだ。心臓がとうに動かない化け物なのに、涙が出るなんておかしな話だ。でもぽろぽろと熱い涙がこぼれてしまう。
笹木といる時に怪異は現れない。
最大の謎がようやくわかった。
(俺はこいつといる時にしか泣けない)
俺を助けてくれたのは、こいつだけだ。
笹木は、泣きじゃくる俺を見てゆっくりと抱き寄せてくれた。大人の男の匂いが血に紛れて俺を包んだ。
死者のくせに、その鼓動や体温にほっとしてしまう。
「お婆ちゃんはもう大丈夫だよ。それは分かる?」
「うん……もう、思い残すことはないよ、ほんとに」
死に際の幽霊そのものだ。自分で言っててなんだか間が抜けていて、俺は思わず笑った。
「助けてくれてありがとな」
「……なに、らしくないこと言ってんの」
「最後くらい言わせろよ」
笹木の胸元に髪をこするように、俺は顔を埋めた。笹木の熱を帯びた手が、俺の手をぎゅっと握る。
「あんたに見届けられて死ねて、よかった」
これでいい。
誰かに守られる幸福感に満たされて死ねるなら、もうそれでよかった。
俺は誰かに、そばにいてほしかっただけなんだ。
この時をずっと、ずっと、生まれた時から待ち望んでいたような気がする。
耳元に囁きが届く。
「やっと迎えにこれたよ、『宗ちゃん』」
俺は目を見開いた。そして、そいつの顔をゆっくりと見上げた。


