夏が囁く



【序】(ジョ)
ひさし・いとぐち。
「广(いえ・建物)」のもとに「予(伸びる)」を置き、家の東西に伸びた垣根を指す。順序、秩序の意味を表す。


【1999年 7月 15歳】

夏は、いつも俺から誰かを奪っていく。

母が俺を捨てたのも、蒸し暑い夏の日だった。
母は男を選んでここを出ていくのに、その時、「夏が母に俺を捨てさせるのだ」と考えていた。──いや、そう思い込もうとしていただけかもしれない。

俺を見る目が冷たかった以外、母の思い出は特にない。思い出そうとすると、甘ったるい化粧品の匂いが微かに蘇る。

あの日の母も、鬱陶しそうな目を俺に向けて、出ていった。

5歳の夏だった。バカみたいに単純な青空に、真っ白な入道雲。その下を赤いワンピースが遠ざかっていく。

母は一度も振り返らなかった。今からでも泣いて、叫んで、引き留めなきゃ、と思うのに喉が渇ききって声一つ出なかった。
舗装されていない道が、真っ白な光で照らされていた。汗が肌にまとわりつくのを感じながら、俺はそこでずっと母の後ろ姿を見ていた。

母はきっと帰ってこない。一度だって抱きしめてもらった記憶さえないから、そんなことは分かっているのに、いつまでもそこから動けない。

そんな俺を嘲笑うかのように、蝉が喚き散らしていた。いつまでもその悲鳴が耳から離れない。

「宗ちゃん」

泣き出しそうな声で、湯山が俺の名を呼んだ。町に住む誰よりも日焼けした肌。風にそよぐ短髪。山々を見て育った、澄んだ瞳。

いつもの湯山だ。そして、きっとこれが最後だ。

「宗ちゃん、俺と逃げよう」

聞き慣れたはずの親友の声は、切実な響きで、俺の耳に届いた。

湯山の背には、絵の具を全て使い切ったような、まっさらな夏空が広がっている。母を見送った、10年前の畦道を湯山と歩いてきたから、どうしてもあの夏が重なってしまう。

鄙びた改札口はカビの匂いが染みついている。大きな蛾が羽を弱々しく震わせて、コンクリートの床を這っていた。15歳になったばかりの俺は、その大きな羽の目玉を睨みつけながら黙っていた。

「こんなとこから逃げてさ。宗ちゃん、一緒に行こう」

答えない俺の腕を、湯山が掴んだ。俺はそれを振りほどき、叫んだ。

「行けるわけないだろ!甘ったれたこと言うな!」

俺の怒鳴り声が、誰もいない駅舎に響いた。すがるような湯山の瞳が俺を見つめている。心が握りつぶされるような痛みが走った。

「宗ちゃん……」

「俺がここから出られないの、お前が一番分かってるくせに、なんでそんな事言うんだよ!お前となんか行けるわけないだろ!」

湯山と一緒に行けたら。この場所から2人で逃げられたら。

一瞬でも夢見てしまった自分が、許せなかった。

湯山はそんな俺を苦しそうに見つめていた。
 
優しい湯山はきっと、俺を見捨てたと後悔するだろう。そんな思いを、親友にはさせたくなかった。

もう二度と、お前みたいないいやつは、こんなところに来てはいけない。俺なんか、忘れてほしい。

「お前なんか、大嫌いだ」

俺の声を嘲笑うように、カンカンカンカンと踏切の音が鳴り始めた。蛍光灯で焼け死んだ羽虫が何匹も蜘蛛の巣に絡まっている。これが、逃げられない奴の末路なのか。俺は唇を噛み締めた。

夏が嫌いだ。その季節はいつも、俺の大切なものを奪っていく。──そう、思っていた。