夏が囁く



 夏は、いつも俺から誰かを奪っていく。

 母が俺を捨てたのも、蒸し暑い夏の日だった。
 母は男を理由に俺を捨てるのに、「夏が母に俺を捨てさせたのだ」と感じていた。─いや、そう思い込もうとしていたのも知れない。

 俺を見る目が冷たかった以外、母の思い出は特にない。思い出そうとすると、甘ったるい化粧品の匂いがよぎる。
あの日の母も、鬱陶しそうな目を俺に向けて、出ていった。

 9歳の夏、バカみたいに単純な青空に真っ白な入道雲が湧き上がっていた。その下を赤いワンピースが遠ざかっていく。俺はそれを見ていた。

 母は一度も振り返らなかった。今からでも泣いて、叫んで、引き留めなきゃ、と思うのに喉が渇ききって声一つ出なかった。
舗装されていない道が、真っ白な光で照らされていた。汗が肌にまとわりつくのを感じながら、俺はそこでずっと母の後ろ姿を見ていた。

 母さんはきっと帰ってこない。愛された記憶が欠けているから、そんなことは分かっているのに、いつまでもそこから動けない。

 そんな俺を嘲笑うかのように蝉が喚き散らしていた。いつまでもその悲鳴が耳を離れない。


「宗ちゃん、俺と逃げてよ」

 雲一つない夏空が広がっている。その空を背に、泣き出しそうな声で幼なじみの湯山が言った。母を見送った一本道を湯山と歩いてきたから、どうしてもあの夏が重なってしまう。

 鄙びた改札口はカビの匂いが染みついていて、大きな蛾がコンクリートの床を這っていた。15歳になったばかりの俺は、その大きな羽の目玉を睨みつけながら黙っていた。

「こんなとこから逃げてさ。宗ちゃん、一緒に行こう」

 湯山が俺の腕を取った。俺は思わず振りほどき、叫んだ。

「行けるわけないだろ!甘ったれたこと言うな!」

 俺の怒声が誰もいないホームに響いた。すがるような湯山の瞳が俺を見つめている。心が握りつぶされるような痛みが走った。

「宗ちゃん」

「俺がここから出られないの、お前が一番分かってるくせに、なんでそんな事言うんだよ!お前となんか行けるわけないだろ!」

 湯山と一緒に行けたら。この場所から2人で逃げられたら。

 一瞬でも夢を見てしまった自分に一番怒りが湧いた。

 きっと俺の顔は惨めさと悲しみで醜く歪んでいる。湯山はそんな俺を苦しそうに見つめていた。
 
 優しい湯山はきっと俺を見捨てたと後悔するだろう。そんな思いを、親友にはさせたくなかった。

 もう二度と、お前みたいないいやつはこんなところに来てはいけない。俺なんか忘れてほしい。

「お前なんか、嫌いだ」

 俺の声を嘲笑うように、カンカンカンカンと踏切の音が鳴り始めた。蛍光灯で焼け死んだ羽虫が何匹も蜘蛛の巣に絡まっている。これが、逃げられない奴の末路なのか。俺は唇を噛み締めた。

 夏が嫌いだ。その季節はいつも、俺の大切なものを奪っていく。─そう、思っていた。