金たらいを手にしたまま広い廊下に出た征一郎は、あまりにも汚れた水に眉間に皺を寄せた。
手はあかぎれや傷でボロボロ、爪も割れ、働く者の手をしていた。
別邸に住まわせてはいたが『お荷物』とはどういうことだ?
確かに『ひっそりと暮らせ』とは言ったが、散財や豪遊せずに暮らせという意味で、あんな身なりで働きに行く理由がわからない。
「菊乃を執務室に呼べ」
金たらいを使用人に渡しながら征一郎は命令する。
執務室へ行き、棚から帳簿を取り出した征一郎は、目当てのページを探し出した。
連行されてきた菊乃は、こちらが問う前に必死に弁解を始める。
「奥様は勝手に外へ……! まさか逃げ出すなんて」
あんなにお世話してあげたのに。
私は何も知りませんと菊乃は涙ながらに訴える。
征一郎はゆっくりと振り返ると、帳簿を机に叩きつけた。
「これは、俺が別邸へ回すように指示していた食材と炭の管理表だ。だが、実際に運ばれていたのは、家畜も食わんような乾いたパンと、具のないスープだったそうだな」
「そ、そんなことは……」
征一郎はの威圧感に耐えきれず、菊乃は床に膝をつく。
「真冬の離れに暖房も入れず、食事も与えず。俺が守るべきものを、お前が弄んでいたとはな」
「も、申し訳ございません! でも、あの方は身代わりの、偽物の奥様で……! 旦那様も興味がないと……!」
征一郎は、菊乃をジロッと睨みつける。
「確かに蔑ろにしていた。その点では、俺にも責任があるだろう。だが食事を与えないとはどういうことだ」
「そ、それは、あの方が質素でいいと……」
「……本当に本人がそう言ったのか?」
征一郎は静かな殺意に満ちた声で菊乃を責めた。
「菊乃。お前は今日限りで解雇だ」
「そ、そんな……旦那様、お許しを! 奥様に謝ります、何でもしますから!」
「連れて行け。二度と静香の視界に入れるな」
泣き叫びながら床に縋り付いた菊乃は、屈強な男たちによって引きずり出されていく。
静まり返った執務室で、征一郎は先ほどまで静香の手に触れていた自分の手を見つめた。
「あいつは食事も与えられなかったから、あんなに細かったのか……?」
あんなに細く折れそうな手で、過酷な労働環境の診療所で働かなくてはならないほど空腹だったとは。
すべては菊乃の報告を鵜呑みにし、一度として様子を見に行かなかった己の落ち度だ。
いや、落ち度などという生易しいものではない。
己の立場に慢心し、他者の痛みに無頓着であった傲慢さゆえの過失だ。
親の言いなりで動く感情を失った人形のような女。そう決めつけていた。
だが、あいつは少年の命が助かった時には聖母のような慈しみで微笑み、俺に見つかった瞬間、絶望に塗りつぶされた瞳で俺を射抜いた。
そして、ついには牙を剥いたのだ。
自分を拒絶し怯えきったあの小鳥を、どうすれば二度と空へ逃さぬよう籠に縛り付けておけるか。
……どうすれば幼き日の記憶にある、あの無垢な笑顔を俺に向けてくれるのか。
「……どうかしている。こんな仕打ちをした俺が許されるはずがないのに」
長年探し求めていた恩人は、姉ではなく妹のあいつだった。
あろうことか命を救ってくれたかけがえのない女性を、自らの手で地獄へ叩き落としていたのだ。
征一郎は自分の無能を後悔しながらネクタイを緩め、どうしたら償えるか頭を悩ませた。
手はあかぎれや傷でボロボロ、爪も割れ、働く者の手をしていた。
別邸に住まわせてはいたが『お荷物』とはどういうことだ?
確かに『ひっそりと暮らせ』とは言ったが、散財や豪遊せずに暮らせという意味で、あんな身なりで働きに行く理由がわからない。
「菊乃を執務室に呼べ」
金たらいを使用人に渡しながら征一郎は命令する。
執務室へ行き、棚から帳簿を取り出した征一郎は、目当てのページを探し出した。
連行されてきた菊乃は、こちらが問う前に必死に弁解を始める。
「奥様は勝手に外へ……! まさか逃げ出すなんて」
あんなにお世話してあげたのに。
私は何も知りませんと菊乃は涙ながらに訴える。
征一郎はゆっくりと振り返ると、帳簿を机に叩きつけた。
「これは、俺が別邸へ回すように指示していた食材と炭の管理表だ。だが、実際に運ばれていたのは、家畜も食わんような乾いたパンと、具のないスープだったそうだな」
「そ、そんなことは……」
征一郎はの威圧感に耐えきれず、菊乃は床に膝をつく。
「真冬の離れに暖房も入れず、食事も与えず。俺が守るべきものを、お前が弄んでいたとはな」
「も、申し訳ございません! でも、あの方は身代わりの、偽物の奥様で……! 旦那様も興味がないと……!」
征一郎は、菊乃をジロッと睨みつける。
「確かに蔑ろにしていた。その点では、俺にも責任があるだろう。だが食事を与えないとはどういうことだ」
「そ、それは、あの方が質素でいいと……」
「……本当に本人がそう言ったのか?」
征一郎は静かな殺意に満ちた声で菊乃を責めた。
「菊乃。お前は今日限りで解雇だ」
「そ、そんな……旦那様、お許しを! 奥様に謝ります、何でもしますから!」
「連れて行け。二度と静香の視界に入れるな」
泣き叫びながら床に縋り付いた菊乃は、屈強な男たちによって引きずり出されていく。
静まり返った執務室で、征一郎は先ほどまで静香の手に触れていた自分の手を見つめた。
「あいつは食事も与えられなかったから、あんなに細かったのか……?」
あんなに細く折れそうな手で、過酷な労働環境の診療所で働かなくてはならないほど空腹だったとは。
すべては菊乃の報告を鵜呑みにし、一度として様子を見に行かなかった己の落ち度だ。
いや、落ち度などという生易しいものではない。
己の立場に慢心し、他者の痛みに無頓着であった傲慢さゆえの過失だ。
親の言いなりで動く感情を失った人形のような女。そう決めつけていた。
だが、あいつは少年の命が助かった時には聖母のような慈しみで微笑み、俺に見つかった瞬間、絶望に塗りつぶされた瞳で俺を射抜いた。
そして、ついには牙を剥いたのだ。
自分を拒絶し怯えきったあの小鳥を、どうすれば二度と空へ逃さぬよう籠に縛り付けておけるか。
……どうすれば幼き日の記憶にある、あの無垢な笑顔を俺に向けてくれるのか。
「……どうかしている。こんな仕打ちをした俺が許されるはずがないのに」
長年探し求めていた恩人は、姉ではなく妹のあいつだった。
あろうことか命を救ってくれたかけがえのない女性を、自らの手で地獄へ叩き落としていたのだ。
征一郎は自分の無能を後悔しながらネクタイを緩め、どうしたら償えるか頭を悩ませた。


