「嵯峨くん」
「大隈会長、先日はありがとうございました」
征一郎が仕事の話で引き止められた隙に、静香は一人で夜のバルコニーへと逃げ出す。
やはり自分に華やかな場所は似合わない。
薄暗い誰もいないバルコニーの冷たい風が、静香をホッとさせた。
鋭い三日月の冷ややかな光が自分の境遇をあざ笑っているように思えた静香は小さく溜息をつく。
「……やはり、私はあの方の隣にふさわしくないわ」
征一郎の放つ圧倒的な存在感。
それに見合うのは、夜会の花として咲き誇る令嬢たちで、自分のような影の薄い女ではない。
そう再確認した瞬間、背後の重厚な扉が開いた。
「相変わらず陰気な子」
「お姉様!? 今までどこに」
会場の誰よりも鮮やかなドレスを纏った姉、麗華の姿に静香は目を見開く。
「まさか嵯峨様があんな素敵な殿方だったなんて」
夜会にも現れない冷徹な男なんて、よほどの不細工なのか偏屈じじいだと思っていたと、麗華は歩きながら肩をすくめた。
「ごくろうさま。もう実家に帰っていいわ」
「……え?」
「相変わらず勘の悪い子ね。あんたはもう用済みだって言ってるのよ」
麗華はツカツカと静香の隣まで歩き、肩をドンッと突き飛ばす。
「身代わりは終わり。私が嵯峨夫人よ」
さっさと消えなさいと命令された静香は、身体の横でギュッと拳を握った。
かつての自分なら震えて俯いていただろう。
だが、似合うかは別として今着ているドレスは征一郎が選んでくれた『勿忘草色』だ。
このドレスを着ている限り、この色にふさわしい芯の強さを持っていたい。
「わかりました、お姉様。私は出ていきます」
姉のためなんかじゃない。
姉の『身代わり』を、私自身がもう終わりにしたいからだ。
華やかな会場を後にした静香は、当然だが乗って帰る馬車も車もお金もなく、徒歩で実家を目指すしかなかった。
だが、歩き始めた静香はふと思った。
このまま実家にも帰らなかったら……?
誰からも必要とされていないのに、戻る必要があるのだろうか?
「この素敵なドレスだけは、あとでお返ししないとね」
静香は踵を返し、暗い夜道の中に消えた。
煌びやかな会場の中、ようやく知人から解放された征一郎は辺りを見渡した。
壁際、軽食コーナー、もちろんダンスフロアにも妻、静香の姿が見当たらない。
「静香……?」
胸の奥をざわつかせる嫌な予感が、征一郎の足を速めた。
「嵯峨様」
麗華は征一郎に近づくと、淑女の微笑みを浮かべる。
「静香なら気分が悪いと言って帰りましたわ」
麗華はわざとらしく溜息をつくと、征一郎の腕に手を伸ばした。
「静香が俺に黙って帰るはずがない」
麗華の手を無造作に振り払うと、征一郎は鋭い視線で麗華を射抜く。
「あら、怖いお顔ですこと。出来損ないの妹に代わって、私が貴方の『妻』になるので、優しくしてくださいませ」
「妹……? おまえが逃げ出した姉か。静香に何を吹き込んだ?」
「私はただ、身の程を教えただけですわ」
野暮ったい妹にあんな高級ドレスは似合わないと笑う麗華の姿に、征一郎は眉間に皺を寄せた。
「身の程だと?」
征一郎の周囲に、凄まじい圧力が立ち込める。
「俺は静香しかいらん。もしあいつの身に何かあれば、お前の実家ごと、この帝都から消してやる」
征一郎は麗華に一歩詰め寄ると、地を這うような低い声で囁いた。
会場を飛び出した征一郎は、門番や御者、車の運転手に静香の容姿を伝え行き先を尋ねる。
歩いて門から出て行ったこと、左の方へ向かったことしか彼らは知らなかった。
「……くそっ」
ようやく手に入れたのに、小鳥のように飛んで行ってしまった妻、静香。
征一郎は車を走らせ、嵯峨邸そして静香の実家へと向かったが、静香を見つけることはできなかった。
「大隈会長、先日はありがとうございました」
征一郎が仕事の話で引き止められた隙に、静香は一人で夜のバルコニーへと逃げ出す。
やはり自分に華やかな場所は似合わない。
薄暗い誰もいないバルコニーの冷たい風が、静香をホッとさせた。
鋭い三日月の冷ややかな光が自分の境遇をあざ笑っているように思えた静香は小さく溜息をつく。
「……やはり、私はあの方の隣にふさわしくないわ」
征一郎の放つ圧倒的な存在感。
それに見合うのは、夜会の花として咲き誇る令嬢たちで、自分のような影の薄い女ではない。
そう再確認した瞬間、背後の重厚な扉が開いた。
「相変わらず陰気な子」
「お姉様!? 今までどこに」
会場の誰よりも鮮やかなドレスを纏った姉、麗華の姿に静香は目を見開く。
「まさか嵯峨様があんな素敵な殿方だったなんて」
夜会にも現れない冷徹な男なんて、よほどの不細工なのか偏屈じじいだと思っていたと、麗華は歩きながら肩をすくめた。
「ごくろうさま。もう実家に帰っていいわ」
「……え?」
「相変わらず勘の悪い子ね。あんたはもう用済みだって言ってるのよ」
麗華はツカツカと静香の隣まで歩き、肩をドンッと突き飛ばす。
「身代わりは終わり。私が嵯峨夫人よ」
さっさと消えなさいと命令された静香は、身体の横でギュッと拳を握った。
かつての自分なら震えて俯いていただろう。
だが、似合うかは別として今着ているドレスは征一郎が選んでくれた『勿忘草色』だ。
このドレスを着ている限り、この色にふさわしい芯の強さを持っていたい。
「わかりました、お姉様。私は出ていきます」
姉のためなんかじゃない。
姉の『身代わり』を、私自身がもう終わりにしたいからだ。
華やかな会場を後にした静香は、当然だが乗って帰る馬車も車もお金もなく、徒歩で実家を目指すしかなかった。
だが、歩き始めた静香はふと思った。
このまま実家にも帰らなかったら……?
誰からも必要とされていないのに、戻る必要があるのだろうか?
「この素敵なドレスだけは、あとでお返ししないとね」
静香は踵を返し、暗い夜道の中に消えた。
煌びやかな会場の中、ようやく知人から解放された征一郎は辺りを見渡した。
壁際、軽食コーナー、もちろんダンスフロアにも妻、静香の姿が見当たらない。
「静香……?」
胸の奥をざわつかせる嫌な予感が、征一郎の足を速めた。
「嵯峨様」
麗華は征一郎に近づくと、淑女の微笑みを浮かべる。
「静香なら気分が悪いと言って帰りましたわ」
麗華はわざとらしく溜息をつくと、征一郎の腕に手を伸ばした。
「静香が俺に黙って帰るはずがない」
麗華の手を無造作に振り払うと、征一郎は鋭い視線で麗華を射抜く。
「あら、怖いお顔ですこと。出来損ないの妹に代わって、私が貴方の『妻』になるので、優しくしてくださいませ」
「妹……? おまえが逃げ出した姉か。静香に何を吹き込んだ?」
「私はただ、身の程を教えただけですわ」
野暮ったい妹にあんな高級ドレスは似合わないと笑う麗華の姿に、征一郎は眉間に皺を寄せた。
「身の程だと?」
征一郎の周囲に、凄まじい圧力が立ち込める。
「俺は静香しかいらん。もしあいつの身に何かあれば、お前の実家ごと、この帝都から消してやる」
征一郎は麗華に一歩詰め寄ると、地を這うような低い声で囁いた。
会場を飛び出した征一郎は、門番や御者、車の運転手に静香の容姿を伝え行き先を尋ねる。
歩いて門から出て行ったこと、左の方へ向かったことしか彼らは知らなかった。
「……くそっ」
ようやく手に入れたのに、小鳥のように飛んで行ってしまった妻、静香。
征一郎は車を走らせ、嵯峨邸そして静香の実家へと向かったが、静香を見つけることはできなかった。


