第9話 家族のための嘘
白藍渡しの朝は、思ったより白かった。
入り江の水が朝靄をうすく抱き、昨夜は黒く見えた舟縁も、いまは洗った米みたいな色をしている。障子の隙間から入る光で目が覚めたとき、ゆかりは最初、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。次に思い出したのは、屏風越しの低い声だった。
――そうであってほしい。
思い出したとたん、布団の中で足先が落ち着かなくなる。
屏風の向こうはもう片づいていた。圭介の布団はきれいに畳まれ、文机の上には昨夜の記録が重ねてある。本人は障子を半分開けた縁側で、帳面を膝に置いて何か書いていた。
「おはようございます」
声が少しだけ掠れた。眠れていないのがばれそうで嫌だったが、圭介は顔を上げ、いつもどおりの調子で返した。
「おはよう。熱はないか」
「ありません」
「顔色は悪い」
「そちらもです」
言い返すと、圭介は「そうか」とだけ言った。
その一言に昨夜の続きは混ざっていない。ないのに、こちらだけが勝手に探してしまう。
身支度をして下へ降りると、食事処にはもう数組の客が集まっていた。婚礼前の家は朝が早い。母親たちは娘の髪や襟を見て、仲立ちの老婆は粥をすすりながら縁起の良い日取りを並べ立てる。表向きは穏やかだが、匂いはどこも硬かった。
帳場の脇に、昨夜見たのと同じ細長い封筒が積まれている。薄桃色の和紙に、水鶏楼の紋と、小さく礼縁局式の番号札。甘く煮詰めた蜜のような、あの匂いがまたした。
ゆかりが視線を向けたのに気づいて、圭介が湯飲みを置いた。
「朝のうちに動く」
「女将さんの目もあるのに?」
「だから朝だ。人が多いぶん紛れる」
無駄のない説明だった。昨夜のことがなければ、きっと素直に頷けた。
けれど、胸のどこかがまだざわついていて、ゆかりは味噌の薄い香りを落ち着いて吸えない。
そこへ、材木問屋らしい初老の男が帳場へ歩いていった。女将が封筒を一つ差し出し、男はそれを大事そうに袖へしまう。
「これで安心ですな」
「ええ。先生方のお目が通っておりますから。相手の家柄も気質も、揉めにくさも」
揉めにくさ。
その言い方に、ゆかりの鼻先がぴりついた。人の暮らしを包む布ではなく、荷をくくる縄の匂いがする。
男が去ったあと、給仕の娘が帳場の裏へ膳を下げに入った。昨夜、火傷をした娘だ。まだ手の甲に赤みが残っている。
「大丈夫?」
通りすがりに小声で聞くと、娘は目を丸くしてから小さく笑った。
「はい。今朝は水仕事を減らしてもらえました」
「それならよかった」
「でも、帳場の中のほうがよほど怖いです」
「え?」
娘はすぐ、しまったという顔をした。
「なんでもありません。女将に聞かれたら、私、また叱られるので」
その言い方の底に、濡れた紙みたいな不安があった。
圭介も聞き逃していなかったらしい。湯飲みを置いた気配が変わる。
朝餉のあと、二人は宿の裏手へ回った。荷運びの小道を見てくる、と言っておけば、婚礼前の宿では不自然ではない。入り江からの風が板塀を鳴らし、干した白布がはためいている。
帳場の裏口は半開きだった。中では女将と若い帳付けが、朝の札をまとめている。圭介は荷車の陰で立ち止まり、ゆかりへ目だけで合図した。匂いを見るのは自分、足音を消すのは彼の仕事だ。
ゆかりは板塀沿いに身を寄せ、鼻を澄ませた。
米。墨。古い帳面。干物。そこに混ざって、例の甘ったるい紙の匂い。さらにもう一つ、気になる匂いがある。乾いた榊の葉。雨が降る前の庭土。前にもどこかで嗅いだ。
榊の家だ。
思い当たった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。英美子の着物からはいつも、香より先に、きりっと乾いた葉の匂いがしていた。
「中に、榊の家の匂いがあります」
ほとんど息だけで言う。
圭介の目が細くなる。
そのとき、帳付けの若い男が一枚の紙を落とした。拾い上げようとして、女将が慌ててそれを奪う。
「それは表へ出すなと言ったでしょう」
「でも、今日の荷に混ざっていて」
「混ざるわけがない。こっちは古い控えよ」
古い控え。
女将は紙を細箱へ押し込み、帳場の奥の引き出しへしまった。その動作だけで、隠したいものだとわかる。
圭介が一歩前へ出ようとしたとき、入り江側から大きな声がした。
「舟が着いたぞ!」
荷入れの合図で、裏手の者たちが一斉に外へ向かう。帳場は一瞬だけ空になった。
圭介は迷わなかった。裏口からするりと入り、引き出しを開ける。ゆかりも後に続いた。
中には細長い封筒の束と、紐で綴じた薄い帳面、それに数枚の書付があった。圭介がそのうち一冊を開く。婚礼宿へ紹介された家の一覧と、備考欄。相性、気性、家格、縁談の調整注意。書きぶりは役所の事務そのものだが、ところどころに、妙に人の暮らしへ踏み込みすぎた文がある。
《娘、思案深すぎて破談時に長引くおそれ》
《母、主導強し。柔順な婿が望ましい》
《恋慕先あり。先に縁鍵交換を急がせるべし》
読みながら、ゆかりの喉が冷えた。
人の人生が、木材の等級みたいに並んでいる。
「こっち」
圭介の低い声で振り向く。
彼が開いていたのは、別の綴じだった。新しい帳面ではない。表紙の角が水に濡れたように波打っている。何年も前のものだ。
最初の数頁には、婚礼指南所や宿場へ回された娘たちの名があった。年頃、家筋、不得手、注意点。ひとりひとりの後ろに、紹介元の印が小さく添えられている。
そして、頁の下のほうに、小さな字でこうあった。
《藤代香舗娘 ゆかり》
《祝言場への同席を避けること》
《理由 橋の件以後、ことばの香を拾いすぎる》
《英美子より》
息が止まった。
紙に顔を近づけなくても、そこから榊の葉の匂いがした。間違いない。英美子の字だとまではわからない。でも、あの人が関わっている。
「……何、これ」
喉から出た声が、ひどく乾いていた。
圭介は次の頁もめくり、目を止めた。
《十年前 朱鷺見橋夕刻 濁鍵接触あり》
《本人には伏す》
本人には伏す。
ゆかりは紙を奪うように見た。そこに並ぶ文字は短い。短いのに、胸の中のどこへ刺さるかをちゃんと知っているみたいだった。
「橋の件、って」
「ここで読むには足りない」
圭介が帳面を閉じた。
「持ち出す」
「でも」
「戻ってきたら面倒では済まない。行くぞ」
裏口の外で、荷を担ぐ足音が近づいていた。
二人は帳面と書付を袖の内へ収め、何事もなかった顔で廊下を抜けた。階段口で女将と鉢合わせたが、圭介は少しも顔色を変えない。
「入り江の荷を見せていただいた。昨夜遅くに着いた細箱もあるようだ」
「ええ、それが何か」
「礼縁局の記録番号に似た札が見えた。婚礼宿にしては念入りだ」
女将のまぶたがぴくりと動く。
「お客様、何をお疑いで」
「疑っているのではなく、確かめている」
圭介は懐から小さな封鍵具を半分だけ見せた。
「鍵守寮だ」
女将の顔から色が引いた。
昨夜まで都からの婚約客として通していた相手が、実は役目持ちだと知ったのだ。だが圭介は脅すような口調を取らない。静かなぶん、逃げ道だけが先になくなる。
「今朝の控えを確認した。後日、正式に改める」
「そんな、うちはただ、紹介された通りに」
「誰に」
問われ、女将の唇がきつく結ばれた。
「……礼縁局と、榊の家の先生方です。縁談で困る娘を、安全な家へつなぐためだと」
安全。
その言葉の匂いは、古い戸棚の中に長く閉じ込めた布みたいだった。守るため、という顔をして、人を黙らせる匂い。
「藤代ゆかりの名も、その中にあったか」
圭介が重ねて問う。
女将はゆかりの顔を見て、はっと目を見開いた。
「まさか、ご本人……」
それが答えだった。
宿を出るころには、朝の白さはすっかり消えていた。舟着き場へ下る道で、ゆかりは何度か足元を踏み外しそうになった。水面がぎらつく。風がやけに耳障りだ。
「大丈夫か」
圭介が隣で言う。
「大丈夫に見えます?」
尖った返しになった。すぐ後悔したが、言葉は戻らない。
圭介は責めなかった。
「見えない。だから聞いた」
その言い方が余計につらい。
見えないくせに、見えないなりに確かめようとする人だ。昨夜の一言だって、こういうところへ繋がっている気がして、ゆかりはますます自分の胸の内がわからなくなる。
都へ戻る舟の上で、二人はほとんど話さなかった。
圭介は帳面を膝に置き、必要な箇所だけをもう一度確かめている。ゆかりは水を見た。水面のきらめきの下に、十年前という言葉だけが何度も沈んでは浮かぶ。
朱鷺見橋。夕刻。濁鍵接触。
そんなことが、あっただろうか。
断片ならある。橋の石の冷たさ。誰かを呼ぶ声。手のひらを焼くみたいな痛み。母に抱え上げられたあと、何日か熱を出したこと。けれど、それをきちんと繋いで話してくれた大人は、誰もいない。
都へ着くと、圭介は迷わず榊の家へ向かった。世凪と央和を呼ぶのかと思ったが、彼は「まだ早い」とだけ言った。大勢で詰め寄る話ではない、ということだろう。
榊の家の門は昼過ぎの光の中でもきれいに閉じていた。
取り次ぎの娘が中へ走り、ほどなく英美子自身が出てくる。薄鼠の単衣に深緑の帯。いつものきりりとした姿だが、ゆかりと圭介の顔を見るなり、彼女のまなざしがほんの少しだけ深くなった。
「お二人そろって、どうしました」
「伺いたいことがあります」
圭介が言う。
「ここではなく、中で」
英美子はすぐには動かなかった。
代わりに、ゆかりの顔をじっと見た。逃げるつもりか、誤魔化すつもりか、ほんの一息で決めようとしている。けれど、結局その人は目をそらさなかった。
「……よろしい。客間へ」
通された座敷には、榊の若葉を挿した小さな瓶が置かれていた。茶は香ばしい番茶だ。ふだんなら落ち着く匂いのはずなのに、今日は土の匂いばかり立つ。
英美子が座るのを待たず、ゆかりは懐から書付を出した。紙が畳へ触れる乾いた音が、やけに大きい。
「これ、見ました」
英美子は書付へ視線を落とし、すぐには手を伸ばさなかった。
「白藍渡しで」
ゆかりの声が、少し震える。
「なんで私の名前があるんですか。なんで、祝言場に同席を避けろなんて、勝手に書かれてるんですか」
英美子はようやく紙を手に取った。目を走らせる。そのあいだ、顔色はほとんど変わらない。変わらないのに、匂いだけが少し苦くなった。
「古い控えね」
「控えなら何を書いてもいいんですか」
「そういう意味ではありません」
「じゃあどういう意味です」
言いながら、胸の奥の熱が上がっていく。
いままで何度も、婚礼の仕事から外されてきた。店の手伝いはしても、祝言の真ん中へはあまり出ないように言われた。縁談の席へ顔を出せば、どこかで必ず別の用が入った。自分が向いていないのだと思っていた。人の言葉の匂いを嗅ぎすぎる自分が悪いのだと。
でも違ったのだ。
誰かが先回りして、そうなるようにしていた。
「橋の件って何ですか」
ゆかりは紙の二行目を指さした。
「十年前の朱鷺見橋で、私に何があったんですか」
英美子はそこで、初めて長く息を吐いた。
「……覚えていないのね」
「覚えていたら聞きません」
きつい言い方になっても、英美子は眉を動かさなかった。
ただ、湯呑の脇へ手を置き、ゆっくり口を開く。
「あなたはあの日、店の使いの帰りに、夕暮れの橋で足を止めた」
ゆかりの背筋がひやりとした。
「橋の欄干に、小さな縁鍵が置かれていたそうです。濁りの強い鍵でした。そこへ綻びが開きかけた。通りがかった大人は逃げたけれど、あなたは逃げなかった」
「……誰か、いたんですか」
「いたのでしょうね」
英美子の目が、遠いところを見た。
「私は騒ぎを聞いて後から着いたの。あなたは橋のたもとで倒れていた。手のひらを赤く腫らして、息を切らして、それでも『まだあっちに』と泣いていた」
断片がひとつ、胸の底から浮いた。
赤く焼けた手。石畳に落ちる涙。夕陽がまぶしすぎて、誰の顔も見えなかったこと。
「その日からよ」
英美子が続ける。
「あなたが、人の言葉に混じるものを、前より強く拾うようになったのは」
ゆかりは何も言えなかった。
それは幼い頃からの体質だと思っていた。たしかに小さいころから、人の声の奥に妙な味があると感じることはあった。けれど、今みたいにはっきりではない。祝言の席で息が詰まるようになったのは、もっと後からだ。
「最初は熱のせいだと皆で思った」
英美子は静かに言う。
「でも違った。祝いの席へ出せば顔色を悪くする。求婚の口上を聞けば吐きそうになる。相手の言っていないことまで拾って、傷つく」
「だから、遠ざけたんですか」
ゆかりの口が勝手に動く。
「私が使われないように」
英美子は否定しなかった。
「礼縁局だけではありません。仲人も、家同士の取次ぎも、口先だけは立派な人ほど、あなたの耳と鼻を欲しがる。『本心のわかる娘』がいれば、相手の家の腹も、花婿の嘘も、嫁入り前の娘の迷いも、先に量れる。そんなもの、守りになるどころか、札として使われる」
番茶の湯気がまっすぐ上がっていく。
「だから私は、あなたを祝言の中心へ出さないようにした。店にも、ご家族にも、婚礼宿にも、榊の家にも話を通した。嫌われてもいいと思った」
「でも私は知らなかった」
自分でも驚くくらい、声が細かった。
「知らなかったんです。向いてないからだと思ってた。私がいると場が濁るからだって、自分で思ってた」
胸の奥のほうが、ゆっくり裂けるみたいに痛む。
「守るためだったとしても」
うまく息が吸えない。
「守るためだったとしても、信じて話してほしかった」
言い切ると、座敷がしんとした。
英美子の顔は変わらない。けれど、匂いだけが、焦げた紙みたいに苦い。
「そうね」
長い沈黙のあとで、ようやくその人は言った。
「それは、その通りです。私はあなたに嫌われる役なら引き受けられると思っていた。でも、知らされない孤独まで引き受けさせていたのなら、見誤っていた」
ゆかりは唇を噛んだ。
責めたいのに、責めきれない。目の前の人の言葉には嘘がない。それがかえって苦しい。
圭介が、そのとき初めて口を開いた。
「朱鷺見橋と聞いた」
ゆかりも英美子も、そちらを見る。
圭介の手は膝の上で組まれていたが、指先だけがわずかに硬い。
「夕刻。濁った縁鍵。橋の上で子どもが倒れていた」
彼は英美子をまっすぐ見た。
「その話に、俺も覚えがある」
ゆかりの胸が跳ねた。
「圭介さんも?」
圭介はすぐには頷かなかった。
まるで、自分の中の何かへ手を差し入れて、確かな形を探しているみたいだった。
「断片だけだ」
ようやく出た声は低い。
「橋の匂いと、水の音と……誰かの手の熱。そこから先がつながらない」
英美子の視線が、はじめて圭介へわずかに揺れた。
「あなた、まさか」
だが彼女はその先を言わなかった。言えないのか、まだ言うべきではないと思ったのかはわからない。ただ、湯呑の縁へ置いた指が、ほんの少しだけ震えた。
「今日はこれ以上、昔のことを掘り返しても、余計に混乱させるだけでしょう」
英美子が言う。
「ただ一つだけ、はっきり言います。私はあなたを檻に入れたかったわけではない。危ない手へ渡したくなかった」
「でも、私が選ぶ前に決めた」
ゆかりが返す。
英美子は、静かに目を伏せた。
「ええ」
榊の家を出ると、空はもう夕方へ傾きはじめていた。
帰り道の石畳はまだ温かいのに、風だけが少し冷たい。都の人波はいつもと変わらない。魚売りが声を張り、子どもが橋へ駆け、女たちが布を抱えて行き交う。自分だけが違う日に迷い込んだみたいだった。
「家へ戻るか」
圭介が言う。
その家が、どちらを指すのか、一瞬わからなかった。
藤代香舗か。鍵守寮か。仮の婚約者として並ぶ先のどこかか。
「……店へ」
ゆかりは答えた。
藤代香舗の戸を開けると、乾いた香木の匂いがした。いつもの匂いだ。白檀、丁子、龍脳。子どものころから知っている安心の匂いのはずなのに、今日はその奥に、黙っていた人たちの気配がある。
帳場にいた母は、ゆかりと圭介の顔を見て、すぐに箪笥の引き出しを閉めた。
「どうしたの」
その声の底に、小さな覚悟の匂いが混ざっていた。
知っている。何を聞かれるか、もう半分わかっている。
ゆかりは座敷へ上がり、橋の件と書付のことをそのまま話した。母は最初こそ「そんな古いこと」と誤魔化しかけたが、ゆかりが黙って見つめると、とうとう肩を落とした。
「……英美子さんに、お願いしたの」
母の指が膝の上で重なる。
「あなたが熱を出したあと、祝言の音を聞くだけで具合が悪くなったでしょう。人の言葉へ怯えるようにもなった。店の仕事をしていても、笑って帰ってきたかと思えば、夜に一人で泣いていた」
知られていないと思っていたことを、きちんと見られていた。
「何かに使われるより、遠ざけたほうがいいと思ったの」
母は続ける。
「あなたが悪いからじゃない。ただ、世の中には、便利なものへ手を伸ばす人がいるから」
「だったら、どうして言ってくれなかったの」
今度は母が答えに詰まる番だった。
「小さかったから」
「今は?」
「今も……怖かった」
母の匂いは嘘ではなかった。自分の娘を守ろうとした人の匂いだ。だから余計に、ゆかりは強く言えなくなる。
「私はずっと、自分が祝言に向いてないんだと思ってた」
視界が少し滲む。
「匂いを嗅ぎすぎて、場を壊すから、外に置かれるんだって」
母の口元が震えた。
「ごめんね」
その謝り方がずるい、と少しだけ思う。謝られてしまうと、娘はそれ以上、相手を悪者にしきれない。
圭介は座敷の端で黙っていた。余計な口を挟まない。その沈黙が、いまはありがたかった。
話を終えて店を出たときには、空がすっかり橙に染まっていた。
朱鷺見橋へ続く水路の上に、長い光が揺れている。
ゆかりは気づけば、その橋のほうへ足を向けていた。圭介も止めない。二人で並んで石段を上がると、欄干の冷たさが掌へ伝わる。十年前の記憶はまだ輪郭を持たないのに、体だけが何かを知っているみたいだった。
「ここで」
ゆかりが呟く。
「私、誰を助けようとしたんでしょうね」
圭介はすぐには答えなかった。
川面を見て、それからゆっくり言う。
「俺にもわからない」
少し間を置いて、続ける。
「だが、覚えていることが一つある」
ゆかりは顔を向けた。
「ひどく怖い場所だったのに、誰かが手を伸ばしてきた」
圭介の声は、夕方の風にまぎれそうなくらい低い。
「その熱だけ、まだ残っている」
それが自分の手だったのかどうか、彼は言わない。
でも、言わないまま欄干へ置いた指先が、ほんの少しだけ力を帯びている。
川向こうで、夕餉の支度の音がした。鍋の蓋。笑い声。犬の吠える声。都はいつも通り動いているのに、ゆかりの中だけが、少し前の場所へ戻れない。
「守るため、だったんでしょうね」
ゆかりは水面を見たまま言う。
「英美子さんも、母も」
「そうだろう」
「でも、守られるって、息が詰まることもあるんですね」
言葉にすると、胸のつかえが少しだけ形を持った。
圭介は否定もしないし、綺麗な慰めも寄越さない。
ただ、橋の上で隣に立ったまま、同じ方角を見ている。
「藤代」
「はい」
「話されなかったことがあるなら、これから聞き返せばいい」
それは励ましにしては不器用で、約束にしては簡素だった。
けれど今のゆかりには、その雑なまっすぐさがちょうどよかった。
「一人で聞くと、腹が立ちすぎるので」
ゆかりは鼻をすすらずに言った。
「次も付き合ってください」
圭介は、ほんのわずかにこちらを見た。
「もとよりそのつもりだ」
夕陽が水へ落ちていく。
十年前の夕暮れも、きっとこんな色だった。
家族がついた嘘は、たしかに守るためのものだったのだろう。けれど、その嘘に包まれているあいだ、ゆかりは自分で自分を選ぶ場所まで、少しずつ遠ざけられていた。
だったら、もう取り返すしかない。
何を聞かされず、何を勝手に決められ、何を守られてきたのか。匂いに飲まれるだけではなく、自分の足で確かめるしかない。
橋の欄干へ置いた手に、ひやりとした石の感触が残る。
その横へ、圭介の手が同じように置かれた。触れはしない。けれど、不思議と距離は遠くなかった。
夕暮れの風が二人の袖を鳴らし、川の匂いを運んでいく。
忘れていた日の入口が、ようやくこちらを向いた気がした。
【終】
白藍渡しの朝は、思ったより白かった。
入り江の水が朝靄をうすく抱き、昨夜は黒く見えた舟縁も、いまは洗った米みたいな色をしている。障子の隙間から入る光で目が覚めたとき、ゆかりは最初、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。次に思い出したのは、屏風越しの低い声だった。
――そうであってほしい。
思い出したとたん、布団の中で足先が落ち着かなくなる。
屏風の向こうはもう片づいていた。圭介の布団はきれいに畳まれ、文机の上には昨夜の記録が重ねてある。本人は障子を半分開けた縁側で、帳面を膝に置いて何か書いていた。
「おはようございます」
声が少しだけ掠れた。眠れていないのがばれそうで嫌だったが、圭介は顔を上げ、いつもどおりの調子で返した。
「おはよう。熱はないか」
「ありません」
「顔色は悪い」
「そちらもです」
言い返すと、圭介は「そうか」とだけ言った。
その一言に昨夜の続きは混ざっていない。ないのに、こちらだけが勝手に探してしまう。
身支度をして下へ降りると、食事処にはもう数組の客が集まっていた。婚礼前の家は朝が早い。母親たちは娘の髪や襟を見て、仲立ちの老婆は粥をすすりながら縁起の良い日取りを並べ立てる。表向きは穏やかだが、匂いはどこも硬かった。
帳場の脇に、昨夜見たのと同じ細長い封筒が積まれている。薄桃色の和紙に、水鶏楼の紋と、小さく礼縁局式の番号札。甘く煮詰めた蜜のような、あの匂いがまたした。
ゆかりが視線を向けたのに気づいて、圭介が湯飲みを置いた。
「朝のうちに動く」
「女将さんの目もあるのに?」
「だから朝だ。人が多いぶん紛れる」
無駄のない説明だった。昨夜のことがなければ、きっと素直に頷けた。
けれど、胸のどこかがまだざわついていて、ゆかりは味噌の薄い香りを落ち着いて吸えない。
そこへ、材木問屋らしい初老の男が帳場へ歩いていった。女将が封筒を一つ差し出し、男はそれを大事そうに袖へしまう。
「これで安心ですな」
「ええ。先生方のお目が通っておりますから。相手の家柄も気質も、揉めにくさも」
揉めにくさ。
その言い方に、ゆかりの鼻先がぴりついた。人の暮らしを包む布ではなく、荷をくくる縄の匂いがする。
男が去ったあと、給仕の娘が帳場の裏へ膳を下げに入った。昨夜、火傷をした娘だ。まだ手の甲に赤みが残っている。
「大丈夫?」
通りすがりに小声で聞くと、娘は目を丸くしてから小さく笑った。
「はい。今朝は水仕事を減らしてもらえました」
「それならよかった」
「でも、帳場の中のほうがよほど怖いです」
「え?」
娘はすぐ、しまったという顔をした。
「なんでもありません。女将に聞かれたら、私、また叱られるので」
その言い方の底に、濡れた紙みたいな不安があった。
圭介も聞き逃していなかったらしい。湯飲みを置いた気配が変わる。
朝餉のあと、二人は宿の裏手へ回った。荷運びの小道を見てくる、と言っておけば、婚礼前の宿では不自然ではない。入り江からの風が板塀を鳴らし、干した白布がはためいている。
帳場の裏口は半開きだった。中では女将と若い帳付けが、朝の札をまとめている。圭介は荷車の陰で立ち止まり、ゆかりへ目だけで合図した。匂いを見るのは自分、足音を消すのは彼の仕事だ。
ゆかりは板塀沿いに身を寄せ、鼻を澄ませた。
米。墨。古い帳面。干物。そこに混ざって、例の甘ったるい紙の匂い。さらにもう一つ、気になる匂いがある。乾いた榊の葉。雨が降る前の庭土。前にもどこかで嗅いだ。
榊の家だ。
思い当たった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。英美子の着物からはいつも、香より先に、きりっと乾いた葉の匂いがしていた。
「中に、榊の家の匂いがあります」
ほとんど息だけで言う。
圭介の目が細くなる。
そのとき、帳付けの若い男が一枚の紙を落とした。拾い上げようとして、女将が慌ててそれを奪う。
「それは表へ出すなと言ったでしょう」
「でも、今日の荷に混ざっていて」
「混ざるわけがない。こっちは古い控えよ」
古い控え。
女将は紙を細箱へ押し込み、帳場の奥の引き出しへしまった。その動作だけで、隠したいものだとわかる。
圭介が一歩前へ出ようとしたとき、入り江側から大きな声がした。
「舟が着いたぞ!」
荷入れの合図で、裏手の者たちが一斉に外へ向かう。帳場は一瞬だけ空になった。
圭介は迷わなかった。裏口からするりと入り、引き出しを開ける。ゆかりも後に続いた。
中には細長い封筒の束と、紐で綴じた薄い帳面、それに数枚の書付があった。圭介がそのうち一冊を開く。婚礼宿へ紹介された家の一覧と、備考欄。相性、気性、家格、縁談の調整注意。書きぶりは役所の事務そのものだが、ところどころに、妙に人の暮らしへ踏み込みすぎた文がある。
《娘、思案深すぎて破談時に長引くおそれ》
《母、主導強し。柔順な婿が望ましい》
《恋慕先あり。先に縁鍵交換を急がせるべし》
読みながら、ゆかりの喉が冷えた。
人の人生が、木材の等級みたいに並んでいる。
「こっち」
圭介の低い声で振り向く。
彼が開いていたのは、別の綴じだった。新しい帳面ではない。表紙の角が水に濡れたように波打っている。何年も前のものだ。
最初の数頁には、婚礼指南所や宿場へ回された娘たちの名があった。年頃、家筋、不得手、注意点。ひとりひとりの後ろに、紹介元の印が小さく添えられている。
そして、頁の下のほうに、小さな字でこうあった。
《藤代香舗娘 ゆかり》
《祝言場への同席を避けること》
《理由 橋の件以後、ことばの香を拾いすぎる》
《英美子より》
息が止まった。
紙に顔を近づけなくても、そこから榊の葉の匂いがした。間違いない。英美子の字だとまではわからない。でも、あの人が関わっている。
「……何、これ」
喉から出た声が、ひどく乾いていた。
圭介は次の頁もめくり、目を止めた。
《十年前 朱鷺見橋夕刻 濁鍵接触あり》
《本人には伏す》
本人には伏す。
ゆかりは紙を奪うように見た。そこに並ぶ文字は短い。短いのに、胸の中のどこへ刺さるかをちゃんと知っているみたいだった。
「橋の件、って」
「ここで読むには足りない」
圭介が帳面を閉じた。
「持ち出す」
「でも」
「戻ってきたら面倒では済まない。行くぞ」
裏口の外で、荷を担ぐ足音が近づいていた。
二人は帳面と書付を袖の内へ収め、何事もなかった顔で廊下を抜けた。階段口で女将と鉢合わせたが、圭介は少しも顔色を変えない。
「入り江の荷を見せていただいた。昨夜遅くに着いた細箱もあるようだ」
「ええ、それが何か」
「礼縁局の記録番号に似た札が見えた。婚礼宿にしては念入りだ」
女将のまぶたがぴくりと動く。
「お客様、何をお疑いで」
「疑っているのではなく、確かめている」
圭介は懐から小さな封鍵具を半分だけ見せた。
「鍵守寮だ」
女将の顔から色が引いた。
昨夜まで都からの婚約客として通していた相手が、実は役目持ちだと知ったのだ。だが圭介は脅すような口調を取らない。静かなぶん、逃げ道だけが先になくなる。
「今朝の控えを確認した。後日、正式に改める」
「そんな、うちはただ、紹介された通りに」
「誰に」
問われ、女将の唇がきつく結ばれた。
「……礼縁局と、榊の家の先生方です。縁談で困る娘を、安全な家へつなぐためだと」
安全。
その言葉の匂いは、古い戸棚の中に長く閉じ込めた布みたいだった。守るため、という顔をして、人を黙らせる匂い。
「藤代ゆかりの名も、その中にあったか」
圭介が重ねて問う。
女将はゆかりの顔を見て、はっと目を見開いた。
「まさか、ご本人……」
それが答えだった。
宿を出るころには、朝の白さはすっかり消えていた。舟着き場へ下る道で、ゆかりは何度か足元を踏み外しそうになった。水面がぎらつく。風がやけに耳障りだ。
「大丈夫か」
圭介が隣で言う。
「大丈夫に見えます?」
尖った返しになった。すぐ後悔したが、言葉は戻らない。
圭介は責めなかった。
「見えない。だから聞いた」
その言い方が余計につらい。
見えないくせに、見えないなりに確かめようとする人だ。昨夜の一言だって、こういうところへ繋がっている気がして、ゆかりはますます自分の胸の内がわからなくなる。
都へ戻る舟の上で、二人はほとんど話さなかった。
圭介は帳面を膝に置き、必要な箇所だけをもう一度確かめている。ゆかりは水を見た。水面のきらめきの下に、十年前という言葉だけが何度も沈んでは浮かぶ。
朱鷺見橋。夕刻。濁鍵接触。
そんなことが、あっただろうか。
断片ならある。橋の石の冷たさ。誰かを呼ぶ声。手のひらを焼くみたいな痛み。母に抱え上げられたあと、何日か熱を出したこと。けれど、それをきちんと繋いで話してくれた大人は、誰もいない。
都へ着くと、圭介は迷わず榊の家へ向かった。世凪と央和を呼ぶのかと思ったが、彼は「まだ早い」とだけ言った。大勢で詰め寄る話ではない、ということだろう。
榊の家の門は昼過ぎの光の中でもきれいに閉じていた。
取り次ぎの娘が中へ走り、ほどなく英美子自身が出てくる。薄鼠の単衣に深緑の帯。いつものきりりとした姿だが、ゆかりと圭介の顔を見るなり、彼女のまなざしがほんの少しだけ深くなった。
「お二人そろって、どうしました」
「伺いたいことがあります」
圭介が言う。
「ここではなく、中で」
英美子はすぐには動かなかった。
代わりに、ゆかりの顔をじっと見た。逃げるつもりか、誤魔化すつもりか、ほんの一息で決めようとしている。けれど、結局その人は目をそらさなかった。
「……よろしい。客間へ」
通された座敷には、榊の若葉を挿した小さな瓶が置かれていた。茶は香ばしい番茶だ。ふだんなら落ち着く匂いのはずなのに、今日は土の匂いばかり立つ。
英美子が座るのを待たず、ゆかりは懐から書付を出した。紙が畳へ触れる乾いた音が、やけに大きい。
「これ、見ました」
英美子は書付へ視線を落とし、すぐには手を伸ばさなかった。
「白藍渡しで」
ゆかりの声が、少し震える。
「なんで私の名前があるんですか。なんで、祝言場に同席を避けろなんて、勝手に書かれてるんですか」
英美子はようやく紙を手に取った。目を走らせる。そのあいだ、顔色はほとんど変わらない。変わらないのに、匂いだけが少し苦くなった。
「古い控えね」
「控えなら何を書いてもいいんですか」
「そういう意味ではありません」
「じゃあどういう意味です」
言いながら、胸の奥の熱が上がっていく。
いままで何度も、婚礼の仕事から外されてきた。店の手伝いはしても、祝言の真ん中へはあまり出ないように言われた。縁談の席へ顔を出せば、どこかで必ず別の用が入った。自分が向いていないのだと思っていた。人の言葉の匂いを嗅ぎすぎる自分が悪いのだと。
でも違ったのだ。
誰かが先回りして、そうなるようにしていた。
「橋の件って何ですか」
ゆかりは紙の二行目を指さした。
「十年前の朱鷺見橋で、私に何があったんですか」
英美子はそこで、初めて長く息を吐いた。
「……覚えていないのね」
「覚えていたら聞きません」
きつい言い方になっても、英美子は眉を動かさなかった。
ただ、湯呑の脇へ手を置き、ゆっくり口を開く。
「あなたはあの日、店の使いの帰りに、夕暮れの橋で足を止めた」
ゆかりの背筋がひやりとした。
「橋の欄干に、小さな縁鍵が置かれていたそうです。濁りの強い鍵でした。そこへ綻びが開きかけた。通りがかった大人は逃げたけれど、あなたは逃げなかった」
「……誰か、いたんですか」
「いたのでしょうね」
英美子の目が、遠いところを見た。
「私は騒ぎを聞いて後から着いたの。あなたは橋のたもとで倒れていた。手のひらを赤く腫らして、息を切らして、それでも『まだあっちに』と泣いていた」
断片がひとつ、胸の底から浮いた。
赤く焼けた手。石畳に落ちる涙。夕陽がまぶしすぎて、誰の顔も見えなかったこと。
「その日からよ」
英美子が続ける。
「あなたが、人の言葉に混じるものを、前より強く拾うようになったのは」
ゆかりは何も言えなかった。
それは幼い頃からの体質だと思っていた。たしかに小さいころから、人の声の奥に妙な味があると感じることはあった。けれど、今みたいにはっきりではない。祝言の席で息が詰まるようになったのは、もっと後からだ。
「最初は熱のせいだと皆で思った」
英美子は静かに言う。
「でも違った。祝いの席へ出せば顔色を悪くする。求婚の口上を聞けば吐きそうになる。相手の言っていないことまで拾って、傷つく」
「だから、遠ざけたんですか」
ゆかりの口が勝手に動く。
「私が使われないように」
英美子は否定しなかった。
「礼縁局だけではありません。仲人も、家同士の取次ぎも、口先だけは立派な人ほど、あなたの耳と鼻を欲しがる。『本心のわかる娘』がいれば、相手の家の腹も、花婿の嘘も、嫁入り前の娘の迷いも、先に量れる。そんなもの、守りになるどころか、札として使われる」
番茶の湯気がまっすぐ上がっていく。
「だから私は、あなたを祝言の中心へ出さないようにした。店にも、ご家族にも、婚礼宿にも、榊の家にも話を通した。嫌われてもいいと思った」
「でも私は知らなかった」
自分でも驚くくらい、声が細かった。
「知らなかったんです。向いてないからだと思ってた。私がいると場が濁るからだって、自分で思ってた」
胸の奥のほうが、ゆっくり裂けるみたいに痛む。
「守るためだったとしても」
うまく息が吸えない。
「守るためだったとしても、信じて話してほしかった」
言い切ると、座敷がしんとした。
英美子の顔は変わらない。けれど、匂いだけが、焦げた紙みたいに苦い。
「そうね」
長い沈黙のあとで、ようやくその人は言った。
「それは、その通りです。私はあなたに嫌われる役なら引き受けられると思っていた。でも、知らされない孤独まで引き受けさせていたのなら、見誤っていた」
ゆかりは唇を噛んだ。
責めたいのに、責めきれない。目の前の人の言葉には嘘がない。それがかえって苦しい。
圭介が、そのとき初めて口を開いた。
「朱鷺見橋と聞いた」
ゆかりも英美子も、そちらを見る。
圭介の手は膝の上で組まれていたが、指先だけがわずかに硬い。
「夕刻。濁った縁鍵。橋の上で子どもが倒れていた」
彼は英美子をまっすぐ見た。
「その話に、俺も覚えがある」
ゆかりの胸が跳ねた。
「圭介さんも?」
圭介はすぐには頷かなかった。
まるで、自分の中の何かへ手を差し入れて、確かな形を探しているみたいだった。
「断片だけだ」
ようやく出た声は低い。
「橋の匂いと、水の音と……誰かの手の熱。そこから先がつながらない」
英美子の視線が、はじめて圭介へわずかに揺れた。
「あなた、まさか」
だが彼女はその先を言わなかった。言えないのか、まだ言うべきではないと思ったのかはわからない。ただ、湯呑の縁へ置いた指が、ほんの少しだけ震えた。
「今日はこれ以上、昔のことを掘り返しても、余計に混乱させるだけでしょう」
英美子が言う。
「ただ一つだけ、はっきり言います。私はあなたを檻に入れたかったわけではない。危ない手へ渡したくなかった」
「でも、私が選ぶ前に決めた」
ゆかりが返す。
英美子は、静かに目を伏せた。
「ええ」
榊の家を出ると、空はもう夕方へ傾きはじめていた。
帰り道の石畳はまだ温かいのに、風だけが少し冷たい。都の人波はいつもと変わらない。魚売りが声を張り、子どもが橋へ駆け、女たちが布を抱えて行き交う。自分だけが違う日に迷い込んだみたいだった。
「家へ戻るか」
圭介が言う。
その家が、どちらを指すのか、一瞬わからなかった。
藤代香舗か。鍵守寮か。仮の婚約者として並ぶ先のどこかか。
「……店へ」
ゆかりは答えた。
藤代香舗の戸を開けると、乾いた香木の匂いがした。いつもの匂いだ。白檀、丁子、龍脳。子どものころから知っている安心の匂いのはずなのに、今日はその奥に、黙っていた人たちの気配がある。
帳場にいた母は、ゆかりと圭介の顔を見て、すぐに箪笥の引き出しを閉めた。
「どうしたの」
その声の底に、小さな覚悟の匂いが混ざっていた。
知っている。何を聞かれるか、もう半分わかっている。
ゆかりは座敷へ上がり、橋の件と書付のことをそのまま話した。母は最初こそ「そんな古いこと」と誤魔化しかけたが、ゆかりが黙って見つめると、とうとう肩を落とした。
「……英美子さんに、お願いしたの」
母の指が膝の上で重なる。
「あなたが熱を出したあと、祝言の音を聞くだけで具合が悪くなったでしょう。人の言葉へ怯えるようにもなった。店の仕事をしていても、笑って帰ってきたかと思えば、夜に一人で泣いていた」
知られていないと思っていたことを、きちんと見られていた。
「何かに使われるより、遠ざけたほうがいいと思ったの」
母は続ける。
「あなたが悪いからじゃない。ただ、世の中には、便利なものへ手を伸ばす人がいるから」
「だったら、どうして言ってくれなかったの」
今度は母が答えに詰まる番だった。
「小さかったから」
「今は?」
「今も……怖かった」
母の匂いは嘘ではなかった。自分の娘を守ろうとした人の匂いだ。だから余計に、ゆかりは強く言えなくなる。
「私はずっと、自分が祝言に向いてないんだと思ってた」
視界が少し滲む。
「匂いを嗅ぎすぎて、場を壊すから、外に置かれるんだって」
母の口元が震えた。
「ごめんね」
その謝り方がずるい、と少しだけ思う。謝られてしまうと、娘はそれ以上、相手を悪者にしきれない。
圭介は座敷の端で黙っていた。余計な口を挟まない。その沈黙が、いまはありがたかった。
話を終えて店を出たときには、空がすっかり橙に染まっていた。
朱鷺見橋へ続く水路の上に、長い光が揺れている。
ゆかりは気づけば、その橋のほうへ足を向けていた。圭介も止めない。二人で並んで石段を上がると、欄干の冷たさが掌へ伝わる。十年前の記憶はまだ輪郭を持たないのに、体だけが何かを知っているみたいだった。
「ここで」
ゆかりが呟く。
「私、誰を助けようとしたんでしょうね」
圭介はすぐには答えなかった。
川面を見て、それからゆっくり言う。
「俺にもわからない」
少し間を置いて、続ける。
「だが、覚えていることが一つある」
ゆかりは顔を向けた。
「ひどく怖い場所だったのに、誰かが手を伸ばしてきた」
圭介の声は、夕方の風にまぎれそうなくらい低い。
「その熱だけ、まだ残っている」
それが自分の手だったのかどうか、彼は言わない。
でも、言わないまま欄干へ置いた指先が、ほんの少しだけ力を帯びている。
川向こうで、夕餉の支度の音がした。鍋の蓋。笑い声。犬の吠える声。都はいつも通り動いているのに、ゆかりの中だけが、少し前の場所へ戻れない。
「守るため、だったんでしょうね」
ゆかりは水面を見たまま言う。
「英美子さんも、母も」
「そうだろう」
「でも、守られるって、息が詰まることもあるんですね」
言葉にすると、胸のつかえが少しだけ形を持った。
圭介は否定もしないし、綺麗な慰めも寄越さない。
ただ、橋の上で隣に立ったまま、同じ方角を見ている。
「藤代」
「はい」
「話されなかったことがあるなら、これから聞き返せばいい」
それは励ましにしては不器用で、約束にしては簡素だった。
けれど今のゆかりには、その雑なまっすぐさがちょうどよかった。
「一人で聞くと、腹が立ちすぎるので」
ゆかりは鼻をすすらずに言った。
「次も付き合ってください」
圭介は、ほんのわずかにこちらを見た。
「もとよりそのつもりだ」
夕陽が水へ落ちていく。
十年前の夕暮れも、きっとこんな色だった。
家族がついた嘘は、たしかに守るためのものだったのだろう。けれど、その嘘に包まれているあいだ、ゆかりは自分で自分を選ぶ場所まで、少しずつ遠ざけられていた。
だったら、もう取り返すしかない。
何を聞かされず、何を勝手に決められ、何を守られてきたのか。匂いに飲まれるだけではなく、自分の足で確かめるしかない。
橋の欄干へ置いた手に、ひやりとした石の感触が残る。
その横へ、圭介の手が同じように置かれた。触れはしない。けれど、不思議と距離は遠くなかった。
夕暮れの風が二人の袖を鳴らし、川の匂いを運んでいく。
忘れていた日の入口が、ようやくこちらを向いた気がした。
【終】


