第8話 本気になんてならない
灯籠流しの翌朝、鍵守寮の机の上には、帳面が三冊、濡れたままの札が二枚、世凪の寝癖が一つ、きちんと並んでいた。
「寝癖は資料じゃありませんよね?」
ゆかりが言うと、世凪は紙束の上に頬杖をついたまま胸を張った。
「昨夜から働き詰めの書記見習いの勲章です」
「ただの寝不足です」
央和が無表情で言い切る。
祭りの最中に橋へ細工を入れた男の足取りを、寄進台帳、宿帳、舟着き場の記録で追った結果、ひとつの名が浮いた。
礼縁局の札を下げていた男は、局の者ではなかった。偽の札を使い、婚礼前の家を回っては「揉めにくい相手を見立てる相談役」を名乗っていたらしい。そして、縁談を進める家が都の外れへ泊まるとき、よく同じ宿を使わせていた。
「白藍渡しの先、《水鶏楼》」
麻里佳が宿帳の行を指で押さえる。
「ここ半年で、破談になった家、婚礼直前で揉めた家、縁鍵が濁った家。どれも一度はここへ泊まっています」
「婚礼宿か」
圭介が短く言った。
白藍渡しは雨鏡京の東の水門を抜けた先、小さな入り江に面した宿場だ。都で顔合わせをする前の家が一泊したり、川向こうから来る親族が休んだりする、祝言前にはよく使われる場所らしい。
「しかも今夜、丹波から来る呉服商の家と、都の材木問屋の家が《仮納め》をするそうです」
麻里佳が帳面をめくる。
「婚約前の顔合わせですね。表向きは食事会、実態は半分品定め」
「嫌な言い方ですねえ」
世凪が口をとがらせた。
「でもそういう席です」
ゆかりは帳面の墨を見ながら答えた。紙から立つ匂いは弱い。けれど、薄い蜜を水で引き延ばしたみたいな、ぺたりと甘い気配がまだ残っている。昨夜、橋で嗅いだものと同じ系統だった。
圭介が帳面を閉じる。
「今夜の宿へ入る」
「入るって、どうやって」
「婚約中の二人として」
あまりにも迷いのない声だったので、ゆかりは返事を一拍遅らせた。
「……またですか」
「まただ」
言ってから圭介は少しだけ目を細めた。
「今回は宿泊も必要になる」
「宿泊」
「婚礼前の家の動きは夜に偏る。帳場、荷の受け渡し、使いの出入り。日帰りでは拾えない」
世凪が急に元気になった。
「いいですねえ、泊まり込み捜査。夫婦っぽい所作の稽古なら、英美子さんが山ほど」
「余計なことを言うな」
圭介が即座に切る。
しかし世凪はへこたれない。
「だって宿の人って見ますよ。食事のときの箸の取り方、部屋の出入り、寝間着の向き、朝の顔色。妙な距離を取ったら、すぐに『あら仲がよろしくないのかしら』ってなります」
「詳しいですね」
「文献で読みました」
「実地じゃないんですね」
「痛っ」
今度は麻里佳に帳面の角で小突かれた。
昼過ぎ、ゆかりは藤代香舗へひと声かけてから、着替えを包んだ風呂敷を提げて東水門へ向かった。
春とも夏ともつかないやわらかい風が、水門の格子を抜けてくる。舟着き場には婚礼用らしい桐箱や、反物を包んだ長持がいくつも並んでいた。白藍渡しへ向かう屋形舟は、祝言前の家族連れで思ったより混んでいる。
圭介はすでに桟橋に立っていた。いつもの黒羽織ではなく、濃い藍の羽織に替えている。役所の気配を消すためだろうが、色が変わるだけで妙に遠くの人に見える。
「遅くなってません?」
「いや」
言いながら、彼はゆかりの手元を見た。
「荷が重いなら持つ」
「自分の着替えぐらい持てます」
「そうか」
それ以上は言わない。だが舟へ乗り込むとき、揺れた板の上で一度だけ、肘に触れないぎりぎりの距離で手を添えた。触れないくせに、転ばせもしない。その半端な気遣いが、かえってずるい。
舟はゆるやかに川幅を横切った。水路脇の柳が流れ、屋根の低い倉が続き、やがて都の石畳が土の道に変わる。白藍渡しの宿場は、入り江を囲むように十数軒の建物が並んだ小さな町だった。魚を干す棚、婚礼用の白布を染める桶、川向こうから来た馬車の轍。都の外れなのに、祝言の支度だけは妙に立派だ。
《水鶏楼》はそのいちばん奥、入り江を見下ろす高台にあった。
白壁の二階建てで、玄関先には水鳥の紋が打たれた提灯が二つ。華やかすぎないが、金を使う家に恥をかかせない程度の整え方をしている。
「ようこそ。お待ちしておりました」
出迎えた女将は、四十代半ばほどの細身の女だった。髪はきっちり結い、声だけが妙にやわらかい。
「都からのご婚約のお二人、と伺っております」
「ええ」
圭介が答える。
「雨宮です。こちらは藤代」
名乗りが自然すぎて、ゆかりは横で少しだけ腹が立った。こっちはまだ、胸の内で「はい、婚約者役です」と言い聞かせないと歩き方まで変になりそうなのに。
帳場には、今夜の客の名が細かく書かれた札が下がっていた。呉服商の一行、材木問屋の一行、それに縁談の仲立ちをする老婆、婚礼支度を請け負う髪結い、花嫁衣装の直し屋。祝いの席は明日なのに、今日のうちから人が多い。
「お部屋は二階の東です」
女将が言う。
「昨夜から客が詰まっておりまして、少々手狭ですが」
「二部屋は取れないのですか」
ゆかりが思わず聞くと、女将は一瞬だけ目を上げた。
「あら、婚約中でいらっしゃるのに?」
「い、いえ、その」
「縁談前のご家族が多い晩でございます。お二人が別々では、かえって詮索を招きますよ」
言い返す隙なく通され、階段を上がった先の部屋を見て、ゆかりは立ち尽くした。
六畳の座敷に、文机が一つ、障子の向こうに細い縁側。押し入れは広いが、布団を二組敷いたらほとんど終わりだ。屏風が一枚あるのがせめてもの情けだった。
「手狭、の意味をもっと大事にしてほしい……」
小さく言うと、圭介は部屋の四隅を見回してから頷いた。
「夜の見張りには都合がいい」
「都合の問題じゃないんですが」
「そうか」
またそれだ。
荷を置いてすぐ、二人は宿の中をそれとなく見て回った。
一階は帳場と食事処、奥に湯殿と納戸。裏口からは荷運び用の小道が入り江へ下りている。婚礼前の家が泊まるだけあって、廊下には花嫁道具を載せた箱がいくつも置かれていた。鏡箱、櫛箱、白無垢を入れた長持。どれも鍵がきちんと掛かっている。なのに、廊下の曲がり角へ来るたび、ゆかりの鼻先に、あの甘い紙みたいな匂いがかすかに触れた。
「この宿、何か混ざってます」
声を潜めて言う。
「台帳だけじゃなく、廊下にも」
「場所は」
「まだ薄いです。でも、帳場と二階の角で強くなる」
圭介は視線だけで頷き、表の顔のまま廊下の柱や建具を見ていった。
夕餉は、客ごとに仕切られた広間だった。
焼き魚、筍の含め煮、豆腐田楽、浅蜊の潮汁。それに小鉢で、柚子蜜をかけた豆乳寒天が付く。祝い事の前らしく、くどすぎないが手間はかかっている。
ゆかりは席についたとたん、斜め前の呉服商の母親が娘へ向ける笑顔から、薄い錆みたいな匂いを嗅いだ。可愛い、似合う、よくできた子。口ではそう言う。けれどその下に、「失敗するな」が重なっている。娘のほうはほうで、「外れたくない」が苦い。
見ない、嗅がない、飲まれない。
心の中で唱えて、ゆかりは目の前の膳へ意識を戻した。
すると、圭介の箸がすっと動き、自分の小鉢をこちらの膳の端へ寄せた。
「食べないんですか」
「甘いものは後回しでいい」
「あとで食べるでしょう」
「藤代が好きだと思った」
あまりにも平然と言うので、ゆかりは手を止めた。
「なんで」
「前に茶屋で、寒天だけ先に食べていた」
「見てたんですか」
「目に入った」
それだけで会話を終えるつもりらしい。柚子蜜の匂いが、急に落ち着かないものになる。
ゆかりは小鉢を戻そうとしたが、圭介はすでに焼き魚へ箸を移していた。断るのも大げさで、結局そのまま受け取る。口に入れた寒天は、ひんやりして、少しだけ甘すぎた。
食事の途中、給仕の若い娘が鉄瓶を抱えてよろけた。
熱い湯が少し手の甲へかかり、娘は声を呑む。だが広間の視線を気にしたのか、すぐに「大丈夫です」と笑って下がろうとした。
「大丈夫じゃないです」
ゆかりは立ち上がっていた。
「水、どこですか」
「こちらに」
戸惑う娘を勝手口まで連れていき、水桶に手を浸させる。細い指が小刻みに震えていた。
「今夜、忙しいんでしょうけど、無理に持たなくていいです。誰か呼んで」
「でも、お客様が」
「火傷のほうが困ります」
娘はようやく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その礼には、作った笑顔の匂いが混ざっていなかった。
広間へ戻ると、圭介が黙って席を空けて待っていた。
「食事、冷めますよ」
ゆかりが座り直しながら言う。
「知っている」
「なら先に食べていれば」
「藤代の分の汁物が下げられそうだった」
「……そうですか」
その一言がなぜか胸の内に残った。
夕餉のあと、二人は帳場の裏手を見に行くふりをして、荷出し口の記録を確かめた。
婚礼前の家へ渡される包みの中に、同じ印の封筒がいくつもある。中を改めるわけにはいかないが、廊下の角で匂いが強くなる理由はわかった。その封筒だ。
「見立て書、か」
圭介が小さく言う。
「相性、暮らし向き、家格、揉めにくさ。そういうものを並べた紙だろう」
「紙から、すごく同じ匂いがします」
「昨夜の橋と同じか」
「はい。甘く見せようとして、底がねばつく感じ」
そのとき、裏口の外で小さな物音がした。
圭介がすぐ身をずらし、柱の陰から外を見る。荷を積んだ小舟が一艘、もう暗くなりかけた入り江へ着いていた。舟から降りた男が、帳場の者へ細長い箱を渡す。顔までは見えない。だが、男が袖からのぞかせた札の紐は、礼縁局で使う色に似ていた。
「今夜また動く」
圭介が言った。
「藤代、部屋へ戻れ。入浴も今のうちに済ませておけ」
「圭介さんは」
「見張る」
「一人で?」
「そのために来た」
言い方はいつも通りだ。だが、無茶をする気配も、隠す気もない。
ゆかりは少しだけ迷ってから言った。
「じゃあ、戻ったらお茶いれておきます」
圭介がこちらを見た。
「……頼む」
湯殿は混んでいた。
縁談前の娘たちが、髪を濡らしすぎないよう気をつけながら、ひそひそ声で明日の相手の話をしている。笑っているのに、匂いはみんな強張っていた。気にしないふりをしていても、肩や指先がこわばるのは同じらしい。
部屋へ戻ると、先ほどの給仕の娘が寝間着を届けに来た。ゆかりが礼を言うと、娘は少しだけ表情をゆるめた。
「さっきは助かりました」
「手、冷やしました?」
「はい。女将には内緒にしましたけど」
「内緒にするところまで含めて、あとで叱られますよ」
娘はくすりと笑って去っていく。その背を見送ってから、ゆかりは急須に湯を落とした。
しばらくして圭介が戻ったのは、夜半に近い時刻だった。
障子が開く音に振り向くと、夜気を連れて入ってきた彼の肩先が少しだけ湿っている。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
返事があると思っていなかったのか、自分で言ってから少しだけ黙る。ゆかりも同じくらい黙ってしまった。
「お茶、冷める前でぎりぎりです」
湯呑を差し出すと、圭介は座って受け取った。
「外、どうでした」
「帳場から二つの封筒が運ばれた。片方は呉服商の親族部屋、もう片方は材木問屋の控え間。中身までは見ていない」
「やっぱり、相手の見立て書ですかね」
「その可能性が高い」
圭介は湯呑を口元へ寄せ、それから一度だけ手を止めた。
「藤代」
「はい」
「給仕の娘の手当てをしていたな」
「火傷は早いほうがいいので」
「自分の食事より先に」
「見えてたんですか」
「見ていた」
まただ。
この人は、見ていないような顔で、変なところばかり見ている。
「別に、たいしたことじゃないです」
ゆかりは急須の蓋をいじりながら言った。
「忙しそうでしたし。私なんかより、あっちのほうが困ってたから」
「それを先に選べるのは、たいしたことだ」
圭介の声は低く、湯気の向こうで静かだった。
胸のどこかが、急に落ち着かなくなる。
こんなふうに真っ直ぐ言われると困る。嘘かどうか嗅ぎたくなるのに、この人からは肝心なところが薄すぎて、よくわからない。
布団を敷くと、部屋はますます狭くなった。
屏風を真ん中へ立て、片側にゆかり、片側に圭介。笑ってしまうほどの気休めだが、ないよりはましだ。
「先に休め」
圭介が言う。
「俺は少し記録を見る」
「寝不足なのはお互いです」
「慣れている」
「自慢になりませんよ」
灯りを落として横になっても、廊下を歩く足音、遠くの波の音、隣の部屋で誰かが小さくむせる声が、やけにはっきり聞こえた。
眠れないのは狭い部屋のせいだけではない。
夕餉の小鉢、戻りを待っていた汁物、給仕の娘の手を見ていた視線。そんな細かいものばかり、頭の中で順番に光る。
しばらくして、屏風の向こうから紙を閉じる音がした。
「起きていますか」
ゆかりは小声で言った。
「起きている」
「……確認なんですけど」
「何を」
「今回のこれも、あくまで捜査のためですよね」
少し間が空いた。
すぐに「そうだ」と返ると思っていたのに、圭介は一度、呼吸を置いた。
「そうだ」
それから、もう一度。
「契約の範囲だ」
それを聞いて、なぜか安心とがっかりが同時に来る。自分でも勝手だと思う。だから先に、笑ったような声を作った。
「ですよね。本気になんてならないですし」
言い切った瞬間、屏風の向こうがしんとした。
廊下を渡る風の音だけがしている。
やがて圭介が、いつもより少し低い声で言った。
「……そうであってほしい」
ゆかりは目を開けた。
暗い天井が、さっきまでより近い。
「え」
思わず起き上がりかけて、布団が鳴った。
けれど屏風の向こうからは、それ以上何も返ってこなかった。
そうであってほしい。
それは、こちらを拒む言葉なのか。自分に言い聞かせているのか。踏み込まれたら困るということか。踏み込みたいのに困るということか。
わからない。
いちばん知りたいところだけ、この人はいつも薄い。
眠れるはずがなかった。
横を向いても、仰向けになっても、さっきの一言が耳の奥に残る。胸の下で何かがじりじり熱を持ち、柚子蜜の甘さみたいに後を引く。
その夜、ゆかりは夜明け前まで何度も目を閉じ直した。
屏風の向こうは静かだったが、本当に眠っているのかどうかもわからない。
わからないことばかりだ。
けれど一つだけ確かなのは、白藍渡しの宿の暗がりより、見立て書の甘ったるい匂いより、たった今交わした短い会話のほうが、よほど厄介だということだった。
障子の向こうがうっすらと青みはじめる。
朝の鳥が一声だけ鳴いた。
本気になんてならない。
そう言ったのは自分だ。
なのに、その言葉がいちばん信用できなくなったまま、夜が明けてしまった。
【終】
灯籠流しの翌朝、鍵守寮の机の上には、帳面が三冊、濡れたままの札が二枚、世凪の寝癖が一つ、きちんと並んでいた。
「寝癖は資料じゃありませんよね?」
ゆかりが言うと、世凪は紙束の上に頬杖をついたまま胸を張った。
「昨夜から働き詰めの書記見習いの勲章です」
「ただの寝不足です」
央和が無表情で言い切る。
祭りの最中に橋へ細工を入れた男の足取りを、寄進台帳、宿帳、舟着き場の記録で追った結果、ひとつの名が浮いた。
礼縁局の札を下げていた男は、局の者ではなかった。偽の札を使い、婚礼前の家を回っては「揉めにくい相手を見立てる相談役」を名乗っていたらしい。そして、縁談を進める家が都の外れへ泊まるとき、よく同じ宿を使わせていた。
「白藍渡しの先、《水鶏楼》」
麻里佳が宿帳の行を指で押さえる。
「ここ半年で、破談になった家、婚礼直前で揉めた家、縁鍵が濁った家。どれも一度はここへ泊まっています」
「婚礼宿か」
圭介が短く言った。
白藍渡しは雨鏡京の東の水門を抜けた先、小さな入り江に面した宿場だ。都で顔合わせをする前の家が一泊したり、川向こうから来る親族が休んだりする、祝言前にはよく使われる場所らしい。
「しかも今夜、丹波から来る呉服商の家と、都の材木問屋の家が《仮納め》をするそうです」
麻里佳が帳面をめくる。
「婚約前の顔合わせですね。表向きは食事会、実態は半分品定め」
「嫌な言い方ですねえ」
世凪が口をとがらせた。
「でもそういう席です」
ゆかりは帳面の墨を見ながら答えた。紙から立つ匂いは弱い。けれど、薄い蜜を水で引き延ばしたみたいな、ぺたりと甘い気配がまだ残っている。昨夜、橋で嗅いだものと同じ系統だった。
圭介が帳面を閉じる。
「今夜の宿へ入る」
「入るって、どうやって」
「婚約中の二人として」
あまりにも迷いのない声だったので、ゆかりは返事を一拍遅らせた。
「……またですか」
「まただ」
言ってから圭介は少しだけ目を細めた。
「今回は宿泊も必要になる」
「宿泊」
「婚礼前の家の動きは夜に偏る。帳場、荷の受け渡し、使いの出入り。日帰りでは拾えない」
世凪が急に元気になった。
「いいですねえ、泊まり込み捜査。夫婦っぽい所作の稽古なら、英美子さんが山ほど」
「余計なことを言うな」
圭介が即座に切る。
しかし世凪はへこたれない。
「だって宿の人って見ますよ。食事のときの箸の取り方、部屋の出入り、寝間着の向き、朝の顔色。妙な距離を取ったら、すぐに『あら仲がよろしくないのかしら』ってなります」
「詳しいですね」
「文献で読みました」
「実地じゃないんですね」
「痛っ」
今度は麻里佳に帳面の角で小突かれた。
昼過ぎ、ゆかりは藤代香舗へひと声かけてから、着替えを包んだ風呂敷を提げて東水門へ向かった。
春とも夏ともつかないやわらかい風が、水門の格子を抜けてくる。舟着き場には婚礼用らしい桐箱や、反物を包んだ長持がいくつも並んでいた。白藍渡しへ向かう屋形舟は、祝言前の家族連れで思ったより混んでいる。
圭介はすでに桟橋に立っていた。いつもの黒羽織ではなく、濃い藍の羽織に替えている。役所の気配を消すためだろうが、色が変わるだけで妙に遠くの人に見える。
「遅くなってません?」
「いや」
言いながら、彼はゆかりの手元を見た。
「荷が重いなら持つ」
「自分の着替えぐらい持てます」
「そうか」
それ以上は言わない。だが舟へ乗り込むとき、揺れた板の上で一度だけ、肘に触れないぎりぎりの距離で手を添えた。触れないくせに、転ばせもしない。その半端な気遣いが、かえってずるい。
舟はゆるやかに川幅を横切った。水路脇の柳が流れ、屋根の低い倉が続き、やがて都の石畳が土の道に変わる。白藍渡しの宿場は、入り江を囲むように十数軒の建物が並んだ小さな町だった。魚を干す棚、婚礼用の白布を染める桶、川向こうから来た馬車の轍。都の外れなのに、祝言の支度だけは妙に立派だ。
《水鶏楼》はそのいちばん奥、入り江を見下ろす高台にあった。
白壁の二階建てで、玄関先には水鳥の紋が打たれた提灯が二つ。華やかすぎないが、金を使う家に恥をかかせない程度の整え方をしている。
「ようこそ。お待ちしておりました」
出迎えた女将は、四十代半ばほどの細身の女だった。髪はきっちり結い、声だけが妙にやわらかい。
「都からのご婚約のお二人、と伺っております」
「ええ」
圭介が答える。
「雨宮です。こちらは藤代」
名乗りが自然すぎて、ゆかりは横で少しだけ腹が立った。こっちはまだ、胸の内で「はい、婚約者役です」と言い聞かせないと歩き方まで変になりそうなのに。
帳場には、今夜の客の名が細かく書かれた札が下がっていた。呉服商の一行、材木問屋の一行、それに縁談の仲立ちをする老婆、婚礼支度を請け負う髪結い、花嫁衣装の直し屋。祝いの席は明日なのに、今日のうちから人が多い。
「お部屋は二階の東です」
女将が言う。
「昨夜から客が詰まっておりまして、少々手狭ですが」
「二部屋は取れないのですか」
ゆかりが思わず聞くと、女将は一瞬だけ目を上げた。
「あら、婚約中でいらっしゃるのに?」
「い、いえ、その」
「縁談前のご家族が多い晩でございます。お二人が別々では、かえって詮索を招きますよ」
言い返す隙なく通され、階段を上がった先の部屋を見て、ゆかりは立ち尽くした。
六畳の座敷に、文机が一つ、障子の向こうに細い縁側。押し入れは広いが、布団を二組敷いたらほとんど終わりだ。屏風が一枚あるのがせめてもの情けだった。
「手狭、の意味をもっと大事にしてほしい……」
小さく言うと、圭介は部屋の四隅を見回してから頷いた。
「夜の見張りには都合がいい」
「都合の問題じゃないんですが」
「そうか」
またそれだ。
荷を置いてすぐ、二人は宿の中をそれとなく見て回った。
一階は帳場と食事処、奥に湯殿と納戸。裏口からは荷運び用の小道が入り江へ下りている。婚礼前の家が泊まるだけあって、廊下には花嫁道具を載せた箱がいくつも置かれていた。鏡箱、櫛箱、白無垢を入れた長持。どれも鍵がきちんと掛かっている。なのに、廊下の曲がり角へ来るたび、ゆかりの鼻先に、あの甘い紙みたいな匂いがかすかに触れた。
「この宿、何か混ざってます」
声を潜めて言う。
「台帳だけじゃなく、廊下にも」
「場所は」
「まだ薄いです。でも、帳場と二階の角で強くなる」
圭介は視線だけで頷き、表の顔のまま廊下の柱や建具を見ていった。
夕餉は、客ごとに仕切られた広間だった。
焼き魚、筍の含め煮、豆腐田楽、浅蜊の潮汁。それに小鉢で、柚子蜜をかけた豆乳寒天が付く。祝い事の前らしく、くどすぎないが手間はかかっている。
ゆかりは席についたとたん、斜め前の呉服商の母親が娘へ向ける笑顔から、薄い錆みたいな匂いを嗅いだ。可愛い、似合う、よくできた子。口ではそう言う。けれどその下に、「失敗するな」が重なっている。娘のほうはほうで、「外れたくない」が苦い。
見ない、嗅がない、飲まれない。
心の中で唱えて、ゆかりは目の前の膳へ意識を戻した。
すると、圭介の箸がすっと動き、自分の小鉢をこちらの膳の端へ寄せた。
「食べないんですか」
「甘いものは後回しでいい」
「あとで食べるでしょう」
「藤代が好きだと思った」
あまりにも平然と言うので、ゆかりは手を止めた。
「なんで」
「前に茶屋で、寒天だけ先に食べていた」
「見てたんですか」
「目に入った」
それだけで会話を終えるつもりらしい。柚子蜜の匂いが、急に落ち着かないものになる。
ゆかりは小鉢を戻そうとしたが、圭介はすでに焼き魚へ箸を移していた。断るのも大げさで、結局そのまま受け取る。口に入れた寒天は、ひんやりして、少しだけ甘すぎた。
食事の途中、給仕の若い娘が鉄瓶を抱えてよろけた。
熱い湯が少し手の甲へかかり、娘は声を呑む。だが広間の視線を気にしたのか、すぐに「大丈夫です」と笑って下がろうとした。
「大丈夫じゃないです」
ゆかりは立ち上がっていた。
「水、どこですか」
「こちらに」
戸惑う娘を勝手口まで連れていき、水桶に手を浸させる。細い指が小刻みに震えていた。
「今夜、忙しいんでしょうけど、無理に持たなくていいです。誰か呼んで」
「でも、お客様が」
「火傷のほうが困ります」
娘はようやく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
その礼には、作った笑顔の匂いが混ざっていなかった。
広間へ戻ると、圭介が黙って席を空けて待っていた。
「食事、冷めますよ」
ゆかりが座り直しながら言う。
「知っている」
「なら先に食べていれば」
「藤代の分の汁物が下げられそうだった」
「……そうですか」
その一言がなぜか胸の内に残った。
夕餉のあと、二人は帳場の裏手を見に行くふりをして、荷出し口の記録を確かめた。
婚礼前の家へ渡される包みの中に、同じ印の封筒がいくつもある。中を改めるわけにはいかないが、廊下の角で匂いが強くなる理由はわかった。その封筒だ。
「見立て書、か」
圭介が小さく言う。
「相性、暮らし向き、家格、揉めにくさ。そういうものを並べた紙だろう」
「紙から、すごく同じ匂いがします」
「昨夜の橋と同じか」
「はい。甘く見せようとして、底がねばつく感じ」
そのとき、裏口の外で小さな物音がした。
圭介がすぐ身をずらし、柱の陰から外を見る。荷を積んだ小舟が一艘、もう暗くなりかけた入り江へ着いていた。舟から降りた男が、帳場の者へ細長い箱を渡す。顔までは見えない。だが、男が袖からのぞかせた札の紐は、礼縁局で使う色に似ていた。
「今夜また動く」
圭介が言った。
「藤代、部屋へ戻れ。入浴も今のうちに済ませておけ」
「圭介さんは」
「見張る」
「一人で?」
「そのために来た」
言い方はいつも通りだ。だが、無茶をする気配も、隠す気もない。
ゆかりは少しだけ迷ってから言った。
「じゃあ、戻ったらお茶いれておきます」
圭介がこちらを見た。
「……頼む」
湯殿は混んでいた。
縁談前の娘たちが、髪を濡らしすぎないよう気をつけながら、ひそひそ声で明日の相手の話をしている。笑っているのに、匂いはみんな強張っていた。気にしないふりをしていても、肩や指先がこわばるのは同じらしい。
部屋へ戻ると、先ほどの給仕の娘が寝間着を届けに来た。ゆかりが礼を言うと、娘は少しだけ表情をゆるめた。
「さっきは助かりました」
「手、冷やしました?」
「はい。女将には内緒にしましたけど」
「内緒にするところまで含めて、あとで叱られますよ」
娘はくすりと笑って去っていく。その背を見送ってから、ゆかりは急須に湯を落とした。
しばらくして圭介が戻ったのは、夜半に近い時刻だった。
障子が開く音に振り向くと、夜気を連れて入ってきた彼の肩先が少しだけ湿っている。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
返事があると思っていなかったのか、自分で言ってから少しだけ黙る。ゆかりも同じくらい黙ってしまった。
「お茶、冷める前でぎりぎりです」
湯呑を差し出すと、圭介は座って受け取った。
「外、どうでした」
「帳場から二つの封筒が運ばれた。片方は呉服商の親族部屋、もう片方は材木問屋の控え間。中身までは見ていない」
「やっぱり、相手の見立て書ですかね」
「その可能性が高い」
圭介は湯呑を口元へ寄せ、それから一度だけ手を止めた。
「藤代」
「はい」
「給仕の娘の手当てをしていたな」
「火傷は早いほうがいいので」
「自分の食事より先に」
「見えてたんですか」
「見ていた」
まただ。
この人は、見ていないような顔で、変なところばかり見ている。
「別に、たいしたことじゃないです」
ゆかりは急須の蓋をいじりながら言った。
「忙しそうでしたし。私なんかより、あっちのほうが困ってたから」
「それを先に選べるのは、たいしたことだ」
圭介の声は低く、湯気の向こうで静かだった。
胸のどこかが、急に落ち着かなくなる。
こんなふうに真っ直ぐ言われると困る。嘘かどうか嗅ぎたくなるのに、この人からは肝心なところが薄すぎて、よくわからない。
布団を敷くと、部屋はますます狭くなった。
屏風を真ん中へ立て、片側にゆかり、片側に圭介。笑ってしまうほどの気休めだが、ないよりはましだ。
「先に休め」
圭介が言う。
「俺は少し記録を見る」
「寝不足なのはお互いです」
「慣れている」
「自慢になりませんよ」
灯りを落として横になっても、廊下を歩く足音、遠くの波の音、隣の部屋で誰かが小さくむせる声が、やけにはっきり聞こえた。
眠れないのは狭い部屋のせいだけではない。
夕餉の小鉢、戻りを待っていた汁物、給仕の娘の手を見ていた視線。そんな細かいものばかり、頭の中で順番に光る。
しばらくして、屏風の向こうから紙を閉じる音がした。
「起きていますか」
ゆかりは小声で言った。
「起きている」
「……確認なんですけど」
「何を」
「今回のこれも、あくまで捜査のためですよね」
少し間が空いた。
すぐに「そうだ」と返ると思っていたのに、圭介は一度、呼吸を置いた。
「そうだ」
それから、もう一度。
「契約の範囲だ」
それを聞いて、なぜか安心とがっかりが同時に来る。自分でも勝手だと思う。だから先に、笑ったような声を作った。
「ですよね。本気になんてならないですし」
言い切った瞬間、屏風の向こうがしんとした。
廊下を渡る風の音だけがしている。
やがて圭介が、いつもより少し低い声で言った。
「……そうであってほしい」
ゆかりは目を開けた。
暗い天井が、さっきまでより近い。
「え」
思わず起き上がりかけて、布団が鳴った。
けれど屏風の向こうからは、それ以上何も返ってこなかった。
そうであってほしい。
それは、こちらを拒む言葉なのか。自分に言い聞かせているのか。踏み込まれたら困るということか。踏み込みたいのに困るということか。
わからない。
いちばん知りたいところだけ、この人はいつも薄い。
眠れるはずがなかった。
横を向いても、仰向けになっても、さっきの一言が耳の奥に残る。胸の下で何かがじりじり熱を持ち、柚子蜜の甘さみたいに後を引く。
その夜、ゆかりは夜明け前まで何度も目を閉じ直した。
屏風の向こうは静かだったが、本当に眠っているのかどうかもわからない。
わからないことばかりだ。
けれど一つだけ確かなのは、白藍渡しの宿の暗がりより、見立て書の甘ったるい匂いより、たった今交わした短い会話のほうが、よほど厄介だということだった。
障子の向こうがうっすらと青みはじめる。
朝の鳥が一声だけ鳴いた。
本気になんてならない。
そう言ったのは自分だ。
なのに、その言葉がいちばん信用できなくなったまま、夜が明けてしまった。
【終】


