第14話 不屈の精神で鍵を壊せ
礼縁局へ向かう道は、いつもの夜道ではなかった。
橋を渡るたび、どこかで鍵箱が鳴る。家々の戸口に下げられた縁鍵が、持ち主の手にも触れられていないのに、かち、かち、と歯を鳴らしていた。婚礼宿の軒先では、紅を塗りかけた花嫁見習いが青い顔で立ち尽くし、茶店の前では縁談を控えた若い男が、自分でもわからない名を口走って家族に取り押さえられている。
白い紙を濡らして丸めたみたいな匂いが、都じゅうを薄く覆っていた。
柔らかく見えるのに、手で握れば息が詰まる。
それが今夜の都の匂いだった。
「南路の婚礼宿から使いです! 控えにない名が二つ、同じ婚約札へ浮いたと!」
「西の水門脇でもです! 夫婦鍵が勝手に入れ替わりかけたと!」
走ってきた使いが、礼縁局前の石段で声を張り上げる。
石段の下には、すでに人が割れていた。星志郎が監察の札を掲げ、礼縁局の役人たちを下がらせている。央和は入口の左右へ人を回し、亜寿加と麻里佳は運び込んだ記録箱を開いて、封紐の行き先を一枚ずつ突き合わせていた。正晶は床へ膝をつき、最後の金具を打ち込んでいる。
「間に合った?」
ゆかりが駆け寄ると、正晶は口の端だけ持ち上げた。
「間に合ったと思うしかないな」
差し出されたのは、掌に収まる細長い鍵だった。
黒鉄に銀の筋が流れ、握りの末に小さな鈴玉がついている。見たことのない造りだ。
「断ち鍵だ。祭具に繋がれた縁を外から叩き切るんじゃなく、綻びの芯へ噛ませて内側から継ぎ目をほどく」
「そんなもの、今まで」
「なかった。今作った」
言いながら、正晶は肩で息をした。
「ただし一度きりだ。しかも、噛ませる相手を間違えると全部ひっくり返る。持つのはお前だ、圭介」
圭介は短く礼を言い、その鍵を受け取った。
黒い柄の中で、銀筋だけが夜の灯を返す。
礼縁局の正面扉はすでに開いていた。奥へ続く廊下は灯が点いているのに、人の気配が薄い。必要な者だけを残し、あとの者は退かせたのだろう。綾部らしいやり方だ、とゆかりは思った。大ごとを起こしているのに、見た目だけは整えておきたがる。
「榊の家は」
ゆかりが問うと、央和が答えた。
「娘たちは出した。英美子殿が最後尾だ」
その答えとほぼ同時に、石段の脇から英美子が現れた。衣の裾が裂け、いつもきちんと結われた髪も半ば落ちている。だが背筋は伸びていた。
「裏の通路、二つ潰してきたわ。役人崩れが三人ほど、まだ中にいる」
「怪我は」
ゆかりが思わず近寄ると、英美子は肩で笑った。
「それを気にするのはあと。今は行きなさい」
その目に、以前のような“知っているのに黙っている人”の揺れはもうなかった。
遅くても、自分で泥へ降りた人の目だった。
星志郎が振り返る。
「旧縁庫の鍵は監察名で開かせた。だが内部の祭具起動は止められていない。綾部宗久は最下層にいる」
「上は任せていいか」
圭介が訊く。
「任せろ」
星志郎は即答した。
「私は公平でいたい。だからこそ今夜は、本人の意思を奪う側を止める」
圭介が頷く。
ゆかりも、誰に言われるでもなくその隣へ並んだ。
礼縁局の廊下は、昼よりずっと長く感じられた。
壁一面の記録棚から、紙の匂いが溢れている。そこへ混ざるのは、墨と、糊と、冷えた銀。それだけなら役所の匂いだ。けれど今夜は、その奥に別のものがあった。
泣くのをやめたあとの人の息。
諦めて笑う人の口元。
「これでいい」と言い聞かせた直後の、乾いた胸の匂い。
下へ降りる階段の手前で、ゆかりは足を止めた。
「下です」
言った瞬間、床板の隙間から冷えた風が吹き上がる。
圭介が前へ出て、扉の金具へ手をかけた。
「開ける」
重い音がして、旧縁庫が口を開いた。
地下は、想像していたより広かった。
丸天井の空間いっぱいに、古い婚礼記録の札が吊られている。名、家、出身、媒酌、登録年月。細い銀糸がそれぞれの札を結び、中央の祭具へ流れ込んでいた。
祭具は、床へ寝かせた巨大な鍵のような形をしていた。
本来なら鎮めのために使われるものだと、亜寿加の記録で読んだ。だが今は違う。歯の部分はひらききった鍵穴になり、その向こうへ、夜のない薄白い景色が見えている。
その前に、綾部宗久が立っていた。
いつものとおり、きちんとした袍だ。乱れたところがほとんどない。都をひっくり返す儀の最中にいるようには、とても見えない。
「来ましたか」
綾部は静かに言った。
「思ったより早かったですね」
その声に、怒鳴りも焦りも混じっていない。
だから余計に、ゆかりは背筋が寒くなった。
「止めろ、綾部」
圭介が言う。
「これ以上つなぎ替えれば、都中の縁鍵が綻ぶ」
「綻ぶものもあるでしょう」
綾部は否定しなかった。
「ですが、その先で救われる者もいます。破談で潰れる家も、見合いごとに値踏みされる娘も、想い人に振り回されて自滅する若者も、ずっと減る」
ゆかりは綾部の匂いを嗅いだ。
甘さはない。
勝ち誇りもない。
あるのは、薄く乾いた白菊の匂いだった。供えの花が長く部屋に置かれたときみたいな、静かで、少しだけ冷たい匂い。
「あなた」
ゆかりは思わず口を開く。
「本気で、これが親切だと思ってるんですね」
綾部は初めてこちらを見た。
「そうです。私は見てきましたから」
薄白い異界の光が、その横顔だけを照らす。
「好き合っていたはずの二人が、家ひとつで引き裂かれるところも。縁談を断られた娘が、次の席では笑う練習だけ上手くなるところも。相手選びを誤った夫婦が、一生をかけて互いを磨り減らすところも」
綾部の声は少しも震えなかった。
「なら最初から、揉めにくい相手を結べばいい。家の事情も、気質も、相性も、記録と縁鍵で見えるなら、それを使えばいい。痛みを減らせるのに使わないほうが、よほど残酷でしょう」
「残酷よ」
英美子が言った。
いつのまにか入口まで来ていた彼女は、息を乱しながらも綾部を睨んだ。
「守るつもりで囲って、選ぶつもりで奪って、あんたはずっとそれを優しさって呼んでた」
「あなたも一度は必要だと認めた」
「認めたわ」
英美子は吐き捨てるみたいに言った。
「だから今、止めに来てるの」
綾部は目を伏せた。
悔しそうでも、怒っているふうでもない。ただ、ひどく疲れた人の顔になった。
「もう遅い」
その一言と同時に、祭具の銀糸が一斉に鳴った。
きん、と澄んだ音がして、それから都じゅうのすすり泣きみたいな響きが重なる。
吊られた婚礼札が、風もないのに同じ方向へ揺れた。
床の鍵穴が、ぐっと大きく開く。
薄白い景色の向こうから、いくつもの声が流れ込んできた。
これでいい。
誰でもいいわけじゃない、でもこのほうが楽だ。
泣かなくて済む。
恥をかかなくて済む。
家が困らない。
反対されない。
傷つかない。
優しい声ばかりだった。
だからこそ気味が悪い。
ゆかりは耳を塞ぎかけて、踏みとどまった。
匂いを嗅ぐ。
白紙。糊。濡れていない涙。諦めを飲み下した喉。
「圭介さん、あれ、本音じゃない」
「わかってる」
圭介は正晶の断ち鍵を抜いた。銀筋が異界の光を吸い、細く鳴る。
「外から止めるのは無理だ。芯へ入る」
言って、彼は振り返らないまま続けた。
「ゆかり、おまえはここで」
「嫌です」
自分でも驚くほどすぐ、言葉が出た。
圭介の肩がほんのわずか止まる。
「危険だ」
「知ってます」
「戻れないかもしれない」
「知ってます」
「なら」
「だから置いていかれるのが嫌なんです」
地下の空気が、一瞬だけ凍った気がした。
ゆかりは喉の奥を押し広げるようにして続けた。
「私は最初から、救われるだけの役なんて嫌でした。圭介さんの後ろで守られて、帰ってくるのを待つだけなんて、そんなの今さらやれません」
息が荒くなる。
「十年前も、今も、私は自分の足で来たんです。今日だけ急に“危ないからだめ”は聞きません」
綾部の儀の音が上がる。
吊り札がさらに激しく鳴る。
都のどこかで、また鍵が呼ばれた。
圭介は数拍だけ黙った。
それからようやくこちらを見た。
その目の奥にあるものは、ゆかりには匂いでしかわからないはずなのに、今夜は匂いより先に見えた。
困っている。
怖がっている。
それでも、拒みきれない。
「……勝手に離れるな」
「はい」
「無茶だと思ったら引きずってでも戻す」
「それはその場で抗議します」
「聞き流す」
そんなやり取りをしている場合じゃないのに、なぜか少しだけ息がつけた。
圭介が手を伸ばす。
ゆかりは迷わず取った。
二人はそのまま、床に開いた巨大な鍵穴へ飛び込んだ。
落ちた先は、空ではなかった。
白い廊下だった。
ただし礼縁局のものではない。左右に何百という襖が並び、それぞれに別の婚礼紋が描かれている。足元には水が薄く張り、歩くたび波紋の代わりに言葉が浮かんだ。
お似合いです。
家柄も申し分ない。
穏やかに暮らせます。
反対されません。
きっと幸せになります。
どれもきれいな言葉だ。
だが全部、誰かが“そうなってほしい”と押しつけた言葉だった。
襖が勝手に開く。
中には、これまで二人が見てきた景色が次々と現れた。
花嫁行列が同じ道を回り続ける蔵の町。
灯籠が流れきらず、夜の川に詰まっていく祭りの水面。
婚礼宿の狭い廊下で、知らない相手へ微笑み続ける花嫁たち。
真幌が白紙を選んだあの座敷まで、少し歪んだ形で置かれている。
「過去の綻びを混ぜてる……」
ゆかりが呟くと、圭介が頷いた。
「都じゅうの“こうしておけばよかった”を集めてる」
前方の廊下がねじれ、無数の銀糸が天井から垂れ下がる。
その一本一本に、名前が書かれていた。まだ婚約していない者の名まで混じっている。
圭介は断ち鍵を振るった。
銀糸が数本まとめて切れ、切れ目から黒い靄が噴く。靄はすぐ人の形を取った。笑っている花嫁。頷く花婿。だが顔はのっぺりとして、目も鼻もない。
「この人でいい」
「このほうが楽」
「揉めない」
「愛なんて後から育つ」
「選ばなければ間違えない」
口だけが動く。
ゆかりは胸が悪くなった。
あれは誰かの言葉を真似ているだけだ。本当の人間が持つ揺れも、迷いも、引っかかりもない。
「右です!」
匂いの濃い方へ叫ぶ。
右手の廊下から、強い白紙の匂いが吹いた。二人が走る。背後でのっぺりした花嫁たちが足音もなく追ってくる。水を蹴るたび、足元に浮かぶ文句が靴へ貼りついて離れない。
お似合い。
安全。
損をしない。
家のため。
間違えない。
「うるさいっ」
ゆかりは思わず叫んだ。
「間違えないだけで、好きになれるとは限らないでしょう!」
その声で、一枚の襖がびり、と裂けた。
向こうに見えたのは、夕暮れの橋だった。
十年前の色をしている。
赤い空、水の匂い、欄干の冷たさ。幼い自分が立っていて、幼い圭介が綻びへ引きずられていく。
胸が止まりそうになる。
「見るな」
圭介が低く言った。
「これは記憶じゃない。引き止めるための景色だ」
わかっている。
わかっているのに、足がすくむ。
あの日、自分が触れなければよかったのか。
あの日、助けなければ、今の欠け方はなかったのか。
そんな問いが、景色の中から勝手に湧いてくる。
すると、橋の上の幼い圭介がこちらを見た。
こちらを責める顔ではない。
泣いてもいない。
ただ、静かに手を伸ばしている。
たすけて、とも違う。
行くな、とも違う。
選べ、と言われた気がした。
同時に、どこか近くで綾部の声が響く。
「見たでしょう、雨宮」
異界の四方から、柔らかい声が落ちてくる。
「人は迷う。迷うから傷つく。選ぶから奪い合う。なら迷わなければいい」
「だから代わりに決めるのか」
圭介が返す。
「本人の代わりに、泣かない相手を」
「泣く回数は減る」
「泣く理由が見えなくなるだけだ」
圭介の声が硬くなる。
「嘘の契りを何件も閉じてきた。揉めなかった夫婦が、何年もあとで空っぽになるところも見た。殴り合わずに終わる不幸もある」
断ち鍵がまた鳴る。
橋の景色が半分ほど裂けた。
だが次の瞬間、銀糸が一斉に圭介の腕へ巻きついた。
数が多すぎる。断ち鍵で二本三本は切れても、次々と絡む。足も、肩も、喉元すれすれまで白い糸が迫る。
「圭介さん!」
ゆかりが駆け寄る。
触れた糸から、匂いが一気に流れ込んだ。
誰かに選んでもらいたかった。
間違えたくなかった。
家を困らせたくなかった。
好きな相手に選ばれなかった。
自分で決めるのが怖かった。
どれも本物だ。
本物の弱さだ。
だから切り捨てるだけでは足りない。
ゆかりは目を閉じた。
白紙の匂いの、その奥を探る。
糊の下。諦めの下。諦めきれなかった本音の匂い。
ある。
ごく細く、熱い匂いが一本だけ混じっていた。
泣きながらでも、自分で選びたいと思った人の匂い。
誰かに決められるくらいなら失敗してもいい、と歯を食いしばった人の匂い。
「芯は、これです!」
ゆかりは白い糸の束へ手を突っ込んだ。
熱ではないのに、皮膚が焼けるみたいに痛い。十年前の橋で鍵へ触れたときの熱さが、腕の中で蘇る。
「やめろ!」
圭介の声が飛ぶ。
「やめません!」
握った先に、何か硬いものがあった。
小さな欠片。
鍵でも石でもない。けれど、触れた瞬間にわかった。これが二人のあいだでずっと欠けたままだった器の継ぎ目だ。
その欠片を通して、初めて、圭介の匂いがはっきり立った。
雨上がりの檜。
その奥に、まだ言葉になっていない熱。
胸の真ん中がふるえる。
「圭介さん」
ゆかりは息を詰めたまま言った。
「私、もう“わからないから怖い”だけではいません」
指先に力を込める。
「人の本音を嗅げるからって、誰かの人生を代わりに決めるために生きてるんじゃない。間違えるかもしれなくても、自分で選びたい人のために、この力を使う」
その言葉に呼ばれるように、断ち鍵の鈴玉が高く澄んで鳴った。
圭介が糸を引きちぎる。
ゆかりは握った欠片を断ち鍵へ押し当てた。
白い景色が、そこで初めてひび割れた。
「綾部!」
圭介が叫ぶ。
「都合のいい運命で閉じた都に、人は住めない!」
返事はすぐには来なかった。
代わりに、異界全体が大きく軋む。
遅れて綾部の声が落ちる。
今度は少しだけ、疲れではないものが混じっていた。
「……それでも、泣く者は出る」
「出るわ」
ゆかりが答えた。
「でも、それを減らすために人生ごと囲うのは違う。泣いたあとに立つかどうかまで、誰かに決められたくない」
その一言が最後の継ぎ目だった。
断ち鍵が真ん中から光り、白い異界の天井まで裂け目を走らせる。
襖が倒れる。
橋が崩れる。
灯籠が砕ける。
のっぺりした花嫁たちの口だけが、ようやく閉じる。
代わりに流れ込んできたのは、人の声だった。
泣き声も、怒鳴り声も、笑い声もある。
綺麗ではない。
けれど生きている。
圭介がゆかりの肩を抱き寄せる。
「伏せろ!」
次の瞬間、異界が内側から潰れた。
眩しさも音も一緒くたになり、身体が引き剥がされる。
落ちる、と感じたとき、ゆかりの手首を強く掴む力があった。
離さない。
そう言われた気がした。
気づくと、旧縁庫の床へ叩き戻されていた。
吊られていた婚礼札は、半分以上が床に散っている。祭具の巨大な鍵穴は閉じ、歯の部分には深いひびが走っていた。正晶の断ち鍵も、柄の途中から砕けて転がっている。
ゆかりは咳き込みながら起き上がった。
「圭介さん」
すぐ横に、圭介が倒れていた。
目を閉じている。
呼吸はある。けれど浅い。頬には血の気がなく、触れた手がひどく冷たい。
「圭介さん!」
名を呼んでも返事がない。
近くで誰かが走る音がした。星志郎と央和だ。少し遅れて麻里佳、亜寿加、英美子もなだれ込む。
「終わったのか」
星志郎が周囲を見て言う。
「縁の呼応は止まっています」
麻里佳が泣きそうな声で答える。
「上の記録棚も、もう逆走していません……」
綾部は祭具の向こう側へ膝をついていた。
逃げてはいない。肩を落としたまま、床のひびを見ている。
英美子が一歩進み、綾部の前で立ち止まる。
「終わりよ」
静かな声だった。
「もう、誰の代わりにも選べない」
綾部は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ一度だけ、目を閉じた。
「……そうですか」
それだけだった。
星志郎が役人へ引き渡しを命じる声が遠く聞こえる。
けれどゆかりの耳は、もう別のものしか拾えなかった。
浅い呼吸。
冷えた手。
そして、ごく弱く、かすかな匂い。
雨上がりの檜。
さっきよりも確かにあるのに、今にも消えそうなほど薄い。
「まだ」
ゆかりは圭介の手を握りしめた。
「まだです。お礼も、説明も、ちゃんとやり直すって約束したでしょう」
返事はない。
それでも、その手だけは放せなかった。
旧縁庫の上では、どこかの戸口で鳴っていた鍵の音が、ひとつ、またひとつと止んでいく。
都は戻る。
押しつけられた静けさではなく、迷いも言い争いも残ったままの、いつもの面倒な都へ。
その最初の朝を、どうしてもこの人に見せたかった。
ゆかりは床へ膝をついたまま、冷えた手を両手で包んだ。
夜明けはまだ先だ。
なのに胸の奥では、朝焼けの匂いだけが、もうかすかにほどけはじめていた。
【終】
礼縁局へ向かう道は、いつもの夜道ではなかった。
橋を渡るたび、どこかで鍵箱が鳴る。家々の戸口に下げられた縁鍵が、持ち主の手にも触れられていないのに、かち、かち、と歯を鳴らしていた。婚礼宿の軒先では、紅を塗りかけた花嫁見習いが青い顔で立ち尽くし、茶店の前では縁談を控えた若い男が、自分でもわからない名を口走って家族に取り押さえられている。
白い紙を濡らして丸めたみたいな匂いが、都じゅうを薄く覆っていた。
柔らかく見えるのに、手で握れば息が詰まる。
それが今夜の都の匂いだった。
「南路の婚礼宿から使いです! 控えにない名が二つ、同じ婚約札へ浮いたと!」
「西の水門脇でもです! 夫婦鍵が勝手に入れ替わりかけたと!」
走ってきた使いが、礼縁局前の石段で声を張り上げる。
石段の下には、すでに人が割れていた。星志郎が監察の札を掲げ、礼縁局の役人たちを下がらせている。央和は入口の左右へ人を回し、亜寿加と麻里佳は運び込んだ記録箱を開いて、封紐の行き先を一枚ずつ突き合わせていた。正晶は床へ膝をつき、最後の金具を打ち込んでいる。
「間に合った?」
ゆかりが駆け寄ると、正晶は口の端だけ持ち上げた。
「間に合ったと思うしかないな」
差し出されたのは、掌に収まる細長い鍵だった。
黒鉄に銀の筋が流れ、握りの末に小さな鈴玉がついている。見たことのない造りだ。
「断ち鍵だ。祭具に繋がれた縁を外から叩き切るんじゃなく、綻びの芯へ噛ませて内側から継ぎ目をほどく」
「そんなもの、今まで」
「なかった。今作った」
言いながら、正晶は肩で息をした。
「ただし一度きりだ。しかも、噛ませる相手を間違えると全部ひっくり返る。持つのはお前だ、圭介」
圭介は短く礼を言い、その鍵を受け取った。
黒い柄の中で、銀筋だけが夜の灯を返す。
礼縁局の正面扉はすでに開いていた。奥へ続く廊下は灯が点いているのに、人の気配が薄い。必要な者だけを残し、あとの者は退かせたのだろう。綾部らしいやり方だ、とゆかりは思った。大ごとを起こしているのに、見た目だけは整えておきたがる。
「榊の家は」
ゆかりが問うと、央和が答えた。
「娘たちは出した。英美子殿が最後尾だ」
その答えとほぼ同時に、石段の脇から英美子が現れた。衣の裾が裂け、いつもきちんと結われた髪も半ば落ちている。だが背筋は伸びていた。
「裏の通路、二つ潰してきたわ。役人崩れが三人ほど、まだ中にいる」
「怪我は」
ゆかりが思わず近寄ると、英美子は肩で笑った。
「それを気にするのはあと。今は行きなさい」
その目に、以前のような“知っているのに黙っている人”の揺れはもうなかった。
遅くても、自分で泥へ降りた人の目だった。
星志郎が振り返る。
「旧縁庫の鍵は監察名で開かせた。だが内部の祭具起動は止められていない。綾部宗久は最下層にいる」
「上は任せていいか」
圭介が訊く。
「任せろ」
星志郎は即答した。
「私は公平でいたい。だからこそ今夜は、本人の意思を奪う側を止める」
圭介が頷く。
ゆかりも、誰に言われるでもなくその隣へ並んだ。
礼縁局の廊下は、昼よりずっと長く感じられた。
壁一面の記録棚から、紙の匂いが溢れている。そこへ混ざるのは、墨と、糊と、冷えた銀。それだけなら役所の匂いだ。けれど今夜は、その奥に別のものがあった。
泣くのをやめたあとの人の息。
諦めて笑う人の口元。
「これでいい」と言い聞かせた直後の、乾いた胸の匂い。
下へ降りる階段の手前で、ゆかりは足を止めた。
「下です」
言った瞬間、床板の隙間から冷えた風が吹き上がる。
圭介が前へ出て、扉の金具へ手をかけた。
「開ける」
重い音がして、旧縁庫が口を開いた。
地下は、想像していたより広かった。
丸天井の空間いっぱいに、古い婚礼記録の札が吊られている。名、家、出身、媒酌、登録年月。細い銀糸がそれぞれの札を結び、中央の祭具へ流れ込んでいた。
祭具は、床へ寝かせた巨大な鍵のような形をしていた。
本来なら鎮めのために使われるものだと、亜寿加の記録で読んだ。だが今は違う。歯の部分はひらききった鍵穴になり、その向こうへ、夜のない薄白い景色が見えている。
その前に、綾部宗久が立っていた。
いつものとおり、きちんとした袍だ。乱れたところがほとんどない。都をひっくり返す儀の最中にいるようには、とても見えない。
「来ましたか」
綾部は静かに言った。
「思ったより早かったですね」
その声に、怒鳴りも焦りも混じっていない。
だから余計に、ゆかりは背筋が寒くなった。
「止めろ、綾部」
圭介が言う。
「これ以上つなぎ替えれば、都中の縁鍵が綻ぶ」
「綻ぶものもあるでしょう」
綾部は否定しなかった。
「ですが、その先で救われる者もいます。破談で潰れる家も、見合いごとに値踏みされる娘も、想い人に振り回されて自滅する若者も、ずっと減る」
ゆかりは綾部の匂いを嗅いだ。
甘さはない。
勝ち誇りもない。
あるのは、薄く乾いた白菊の匂いだった。供えの花が長く部屋に置かれたときみたいな、静かで、少しだけ冷たい匂い。
「あなた」
ゆかりは思わず口を開く。
「本気で、これが親切だと思ってるんですね」
綾部は初めてこちらを見た。
「そうです。私は見てきましたから」
薄白い異界の光が、その横顔だけを照らす。
「好き合っていたはずの二人が、家ひとつで引き裂かれるところも。縁談を断られた娘が、次の席では笑う練習だけ上手くなるところも。相手選びを誤った夫婦が、一生をかけて互いを磨り減らすところも」
綾部の声は少しも震えなかった。
「なら最初から、揉めにくい相手を結べばいい。家の事情も、気質も、相性も、記録と縁鍵で見えるなら、それを使えばいい。痛みを減らせるのに使わないほうが、よほど残酷でしょう」
「残酷よ」
英美子が言った。
いつのまにか入口まで来ていた彼女は、息を乱しながらも綾部を睨んだ。
「守るつもりで囲って、選ぶつもりで奪って、あんたはずっとそれを優しさって呼んでた」
「あなたも一度は必要だと認めた」
「認めたわ」
英美子は吐き捨てるみたいに言った。
「だから今、止めに来てるの」
綾部は目を伏せた。
悔しそうでも、怒っているふうでもない。ただ、ひどく疲れた人の顔になった。
「もう遅い」
その一言と同時に、祭具の銀糸が一斉に鳴った。
きん、と澄んだ音がして、それから都じゅうのすすり泣きみたいな響きが重なる。
吊られた婚礼札が、風もないのに同じ方向へ揺れた。
床の鍵穴が、ぐっと大きく開く。
薄白い景色の向こうから、いくつもの声が流れ込んできた。
これでいい。
誰でもいいわけじゃない、でもこのほうが楽だ。
泣かなくて済む。
恥をかかなくて済む。
家が困らない。
反対されない。
傷つかない。
優しい声ばかりだった。
だからこそ気味が悪い。
ゆかりは耳を塞ぎかけて、踏みとどまった。
匂いを嗅ぐ。
白紙。糊。濡れていない涙。諦めを飲み下した喉。
「圭介さん、あれ、本音じゃない」
「わかってる」
圭介は正晶の断ち鍵を抜いた。銀筋が異界の光を吸い、細く鳴る。
「外から止めるのは無理だ。芯へ入る」
言って、彼は振り返らないまま続けた。
「ゆかり、おまえはここで」
「嫌です」
自分でも驚くほどすぐ、言葉が出た。
圭介の肩がほんのわずか止まる。
「危険だ」
「知ってます」
「戻れないかもしれない」
「知ってます」
「なら」
「だから置いていかれるのが嫌なんです」
地下の空気が、一瞬だけ凍った気がした。
ゆかりは喉の奥を押し広げるようにして続けた。
「私は最初から、救われるだけの役なんて嫌でした。圭介さんの後ろで守られて、帰ってくるのを待つだけなんて、そんなの今さらやれません」
息が荒くなる。
「十年前も、今も、私は自分の足で来たんです。今日だけ急に“危ないからだめ”は聞きません」
綾部の儀の音が上がる。
吊り札がさらに激しく鳴る。
都のどこかで、また鍵が呼ばれた。
圭介は数拍だけ黙った。
それからようやくこちらを見た。
その目の奥にあるものは、ゆかりには匂いでしかわからないはずなのに、今夜は匂いより先に見えた。
困っている。
怖がっている。
それでも、拒みきれない。
「……勝手に離れるな」
「はい」
「無茶だと思ったら引きずってでも戻す」
「それはその場で抗議します」
「聞き流す」
そんなやり取りをしている場合じゃないのに、なぜか少しだけ息がつけた。
圭介が手を伸ばす。
ゆかりは迷わず取った。
二人はそのまま、床に開いた巨大な鍵穴へ飛び込んだ。
落ちた先は、空ではなかった。
白い廊下だった。
ただし礼縁局のものではない。左右に何百という襖が並び、それぞれに別の婚礼紋が描かれている。足元には水が薄く張り、歩くたび波紋の代わりに言葉が浮かんだ。
お似合いです。
家柄も申し分ない。
穏やかに暮らせます。
反対されません。
きっと幸せになります。
どれもきれいな言葉だ。
だが全部、誰かが“そうなってほしい”と押しつけた言葉だった。
襖が勝手に開く。
中には、これまで二人が見てきた景色が次々と現れた。
花嫁行列が同じ道を回り続ける蔵の町。
灯籠が流れきらず、夜の川に詰まっていく祭りの水面。
婚礼宿の狭い廊下で、知らない相手へ微笑み続ける花嫁たち。
真幌が白紙を選んだあの座敷まで、少し歪んだ形で置かれている。
「過去の綻びを混ぜてる……」
ゆかりが呟くと、圭介が頷いた。
「都じゅうの“こうしておけばよかった”を集めてる」
前方の廊下がねじれ、無数の銀糸が天井から垂れ下がる。
その一本一本に、名前が書かれていた。まだ婚約していない者の名まで混じっている。
圭介は断ち鍵を振るった。
銀糸が数本まとめて切れ、切れ目から黒い靄が噴く。靄はすぐ人の形を取った。笑っている花嫁。頷く花婿。だが顔はのっぺりとして、目も鼻もない。
「この人でいい」
「このほうが楽」
「揉めない」
「愛なんて後から育つ」
「選ばなければ間違えない」
口だけが動く。
ゆかりは胸が悪くなった。
あれは誰かの言葉を真似ているだけだ。本当の人間が持つ揺れも、迷いも、引っかかりもない。
「右です!」
匂いの濃い方へ叫ぶ。
右手の廊下から、強い白紙の匂いが吹いた。二人が走る。背後でのっぺりした花嫁たちが足音もなく追ってくる。水を蹴るたび、足元に浮かぶ文句が靴へ貼りついて離れない。
お似合い。
安全。
損をしない。
家のため。
間違えない。
「うるさいっ」
ゆかりは思わず叫んだ。
「間違えないだけで、好きになれるとは限らないでしょう!」
その声で、一枚の襖がびり、と裂けた。
向こうに見えたのは、夕暮れの橋だった。
十年前の色をしている。
赤い空、水の匂い、欄干の冷たさ。幼い自分が立っていて、幼い圭介が綻びへ引きずられていく。
胸が止まりそうになる。
「見るな」
圭介が低く言った。
「これは記憶じゃない。引き止めるための景色だ」
わかっている。
わかっているのに、足がすくむ。
あの日、自分が触れなければよかったのか。
あの日、助けなければ、今の欠け方はなかったのか。
そんな問いが、景色の中から勝手に湧いてくる。
すると、橋の上の幼い圭介がこちらを見た。
こちらを責める顔ではない。
泣いてもいない。
ただ、静かに手を伸ばしている。
たすけて、とも違う。
行くな、とも違う。
選べ、と言われた気がした。
同時に、どこか近くで綾部の声が響く。
「見たでしょう、雨宮」
異界の四方から、柔らかい声が落ちてくる。
「人は迷う。迷うから傷つく。選ぶから奪い合う。なら迷わなければいい」
「だから代わりに決めるのか」
圭介が返す。
「本人の代わりに、泣かない相手を」
「泣く回数は減る」
「泣く理由が見えなくなるだけだ」
圭介の声が硬くなる。
「嘘の契りを何件も閉じてきた。揉めなかった夫婦が、何年もあとで空っぽになるところも見た。殴り合わずに終わる不幸もある」
断ち鍵がまた鳴る。
橋の景色が半分ほど裂けた。
だが次の瞬間、銀糸が一斉に圭介の腕へ巻きついた。
数が多すぎる。断ち鍵で二本三本は切れても、次々と絡む。足も、肩も、喉元すれすれまで白い糸が迫る。
「圭介さん!」
ゆかりが駆け寄る。
触れた糸から、匂いが一気に流れ込んだ。
誰かに選んでもらいたかった。
間違えたくなかった。
家を困らせたくなかった。
好きな相手に選ばれなかった。
自分で決めるのが怖かった。
どれも本物だ。
本物の弱さだ。
だから切り捨てるだけでは足りない。
ゆかりは目を閉じた。
白紙の匂いの、その奥を探る。
糊の下。諦めの下。諦めきれなかった本音の匂い。
ある。
ごく細く、熱い匂いが一本だけ混じっていた。
泣きながらでも、自分で選びたいと思った人の匂い。
誰かに決められるくらいなら失敗してもいい、と歯を食いしばった人の匂い。
「芯は、これです!」
ゆかりは白い糸の束へ手を突っ込んだ。
熱ではないのに、皮膚が焼けるみたいに痛い。十年前の橋で鍵へ触れたときの熱さが、腕の中で蘇る。
「やめろ!」
圭介の声が飛ぶ。
「やめません!」
握った先に、何か硬いものがあった。
小さな欠片。
鍵でも石でもない。けれど、触れた瞬間にわかった。これが二人のあいだでずっと欠けたままだった器の継ぎ目だ。
その欠片を通して、初めて、圭介の匂いがはっきり立った。
雨上がりの檜。
その奥に、まだ言葉になっていない熱。
胸の真ん中がふるえる。
「圭介さん」
ゆかりは息を詰めたまま言った。
「私、もう“わからないから怖い”だけではいません」
指先に力を込める。
「人の本音を嗅げるからって、誰かの人生を代わりに決めるために生きてるんじゃない。間違えるかもしれなくても、自分で選びたい人のために、この力を使う」
その言葉に呼ばれるように、断ち鍵の鈴玉が高く澄んで鳴った。
圭介が糸を引きちぎる。
ゆかりは握った欠片を断ち鍵へ押し当てた。
白い景色が、そこで初めてひび割れた。
「綾部!」
圭介が叫ぶ。
「都合のいい運命で閉じた都に、人は住めない!」
返事はすぐには来なかった。
代わりに、異界全体が大きく軋む。
遅れて綾部の声が落ちる。
今度は少しだけ、疲れではないものが混じっていた。
「……それでも、泣く者は出る」
「出るわ」
ゆかりが答えた。
「でも、それを減らすために人生ごと囲うのは違う。泣いたあとに立つかどうかまで、誰かに決められたくない」
その一言が最後の継ぎ目だった。
断ち鍵が真ん中から光り、白い異界の天井まで裂け目を走らせる。
襖が倒れる。
橋が崩れる。
灯籠が砕ける。
のっぺりした花嫁たちの口だけが、ようやく閉じる。
代わりに流れ込んできたのは、人の声だった。
泣き声も、怒鳴り声も、笑い声もある。
綺麗ではない。
けれど生きている。
圭介がゆかりの肩を抱き寄せる。
「伏せろ!」
次の瞬間、異界が内側から潰れた。
眩しさも音も一緒くたになり、身体が引き剥がされる。
落ちる、と感じたとき、ゆかりの手首を強く掴む力があった。
離さない。
そう言われた気がした。
気づくと、旧縁庫の床へ叩き戻されていた。
吊られていた婚礼札は、半分以上が床に散っている。祭具の巨大な鍵穴は閉じ、歯の部分には深いひびが走っていた。正晶の断ち鍵も、柄の途中から砕けて転がっている。
ゆかりは咳き込みながら起き上がった。
「圭介さん」
すぐ横に、圭介が倒れていた。
目を閉じている。
呼吸はある。けれど浅い。頬には血の気がなく、触れた手がひどく冷たい。
「圭介さん!」
名を呼んでも返事がない。
近くで誰かが走る音がした。星志郎と央和だ。少し遅れて麻里佳、亜寿加、英美子もなだれ込む。
「終わったのか」
星志郎が周囲を見て言う。
「縁の呼応は止まっています」
麻里佳が泣きそうな声で答える。
「上の記録棚も、もう逆走していません……」
綾部は祭具の向こう側へ膝をついていた。
逃げてはいない。肩を落としたまま、床のひびを見ている。
英美子が一歩進み、綾部の前で立ち止まる。
「終わりよ」
静かな声だった。
「もう、誰の代わりにも選べない」
綾部は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ一度だけ、目を閉じた。
「……そうですか」
それだけだった。
星志郎が役人へ引き渡しを命じる声が遠く聞こえる。
けれどゆかりの耳は、もう別のものしか拾えなかった。
浅い呼吸。
冷えた手。
そして、ごく弱く、かすかな匂い。
雨上がりの檜。
さっきよりも確かにあるのに、今にも消えそうなほど薄い。
「まだ」
ゆかりは圭介の手を握りしめた。
「まだです。お礼も、説明も、ちゃんとやり直すって約束したでしょう」
返事はない。
それでも、その手だけは放せなかった。
旧縁庫の上では、どこかの戸口で鳴っていた鍵の音が、ひとつ、またひとつと止んでいく。
都は戻る。
押しつけられた静けさではなく、迷いも言い争いも残ったままの、いつもの面倒な都へ。
その最初の朝を、どうしてもこの人に見せたかった。
ゆかりは床へ膝をついたまま、冷えた手を両手で包んだ。
夜明けはまだ先だ。
なのに胸の奥では、朝焼けの匂いだけが、もうかすかにほどけはじめていた。
【終】


