言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第14話 不屈の精神で鍵を壊せ

 礼縁局へ向かう道は、いつもの夜道ではなかった。

 橋を渡るたび、どこかで鍵箱が鳴る。家々の戸口に下げられた縁鍵が、持ち主の手にも触れられていないのに、かち、かち、と歯を鳴らしていた。婚礼宿の軒先では、紅を塗りかけた花嫁見習いが青い顔で立ち尽くし、茶店の前では縁談を控えた若い男が、自分でもわからない名を口走って家族に取り押さえられている。

 白い紙を濡らして丸めたみたいな匂いが、都じゅうを薄く覆っていた。
 柔らかく見えるのに、手で握れば息が詰まる。
 それが今夜の都の匂いだった。

「南路の婚礼宿から使いです! 控えにない名が二つ、同じ婚約札へ浮いたと!」
「西の水門脇でもです! 夫婦鍵が勝手に入れ替わりかけたと!」

 走ってきた使いが、礼縁局前の石段で声を張り上げる。

 石段の下には、すでに人が割れていた。星志郎が監察の札を掲げ、礼縁局の役人たちを下がらせている。央和は入口の左右へ人を回し、亜寿加と麻里佳は運び込んだ記録箱を開いて、封紐の行き先を一枚ずつ突き合わせていた。正晶は床へ膝をつき、最後の金具を打ち込んでいる。

「間に合った?」
 ゆかりが駆け寄ると、正晶は口の端だけ持ち上げた。

「間に合ったと思うしかないな」

 差し出されたのは、掌に収まる細長い鍵だった。
 黒鉄に銀の筋が流れ、握りの末に小さな鈴玉がついている。見たことのない造りだ。

「断ち鍵だ。祭具に繋がれた縁を外から叩き切るんじゃなく、綻びの芯へ噛ませて内側から継ぎ目をほどく」
「そんなもの、今まで」
「なかった。今作った」

 言いながら、正晶は肩で息をした。

「ただし一度きりだ。しかも、噛ませる相手を間違えると全部ひっくり返る。持つのはお前だ、圭介」

 圭介は短く礼を言い、その鍵を受け取った。
 黒い柄の中で、銀筋だけが夜の灯を返す。

 礼縁局の正面扉はすでに開いていた。奥へ続く廊下は灯が点いているのに、人の気配が薄い。必要な者だけを残し、あとの者は退かせたのだろう。綾部らしいやり方だ、とゆかりは思った。大ごとを起こしているのに、見た目だけは整えておきたがる。

「榊の家は」
 ゆかりが問うと、央和が答えた。
「娘たちは出した。英美子殿が最後尾だ」

 その答えとほぼ同時に、石段の脇から英美子が現れた。衣の裾が裂け、いつもきちんと結われた髪も半ば落ちている。だが背筋は伸びていた。

「裏の通路、二つ潰してきたわ。役人崩れが三人ほど、まだ中にいる」
「怪我は」
 ゆかりが思わず近寄ると、英美子は肩で笑った。
「それを気にするのはあと。今は行きなさい」

 その目に、以前のような“知っているのに黙っている人”の揺れはもうなかった。
 遅くても、自分で泥へ降りた人の目だった。

 星志郎が振り返る。
「旧縁庫の鍵は監察名で開かせた。だが内部の祭具起動は止められていない。綾部宗久は最下層にいる」
「上は任せていいか」
 圭介が訊く。
「任せろ」
 星志郎は即答した。
「私は公平でいたい。だからこそ今夜は、本人の意思を奪う側を止める」

 圭介が頷く。
 ゆかりも、誰に言われるでもなくその隣へ並んだ。

 礼縁局の廊下は、昼よりずっと長く感じられた。
 壁一面の記録棚から、紙の匂いが溢れている。そこへ混ざるのは、墨と、糊と、冷えた銀。それだけなら役所の匂いだ。けれど今夜は、その奥に別のものがあった。

 泣くのをやめたあとの人の息。
 諦めて笑う人の口元。
 「これでいい」と言い聞かせた直後の、乾いた胸の匂い。

 下へ降りる階段の手前で、ゆかりは足を止めた。

「下です」

 言った瞬間、床板の隙間から冷えた風が吹き上がる。

 圭介が前へ出て、扉の金具へ手をかけた。
「開ける」

 重い音がして、旧縁庫が口を開いた。

 地下は、想像していたより広かった。
 丸天井の空間いっぱいに、古い婚礼記録の札が吊られている。名、家、出身、媒酌、登録年月。細い銀糸がそれぞれの札を結び、中央の祭具へ流れ込んでいた。

 祭具は、床へ寝かせた巨大な鍵のような形をしていた。
 本来なら鎮めのために使われるものだと、亜寿加の記録で読んだ。だが今は違う。歯の部分はひらききった鍵穴になり、その向こうへ、夜のない薄白い景色が見えている。

 その前に、綾部宗久が立っていた。

 いつものとおり、きちんとした袍だ。乱れたところがほとんどない。都をひっくり返す儀の最中にいるようには、とても見えない。

「来ましたか」
 綾部は静かに言った。
「思ったより早かったですね」

 その声に、怒鳴りも焦りも混じっていない。
 だから余計に、ゆかりは背筋が寒くなった。

「止めろ、綾部」
 圭介が言う。
「これ以上つなぎ替えれば、都中の縁鍵が綻ぶ」

「綻ぶものもあるでしょう」
 綾部は否定しなかった。
「ですが、その先で救われる者もいます。破談で潰れる家も、見合いごとに値踏みされる娘も、想い人に振り回されて自滅する若者も、ずっと減る」

 ゆかりは綾部の匂いを嗅いだ。
 甘さはない。
 勝ち誇りもない。
 あるのは、薄く乾いた白菊の匂いだった。供えの花が長く部屋に置かれたときみたいな、静かで、少しだけ冷たい匂い。

「あなた」
 ゆかりは思わず口を開く。
「本気で、これが親切だと思ってるんですね」

 綾部は初めてこちらを見た。
「そうです。私は見てきましたから」

 薄白い異界の光が、その横顔だけを照らす。

「好き合っていたはずの二人が、家ひとつで引き裂かれるところも。縁談を断られた娘が、次の席では笑う練習だけ上手くなるところも。相手選びを誤った夫婦が、一生をかけて互いを磨り減らすところも」
 綾部の声は少しも震えなかった。
「なら最初から、揉めにくい相手を結べばいい。家の事情も、気質も、相性も、記録と縁鍵で見えるなら、それを使えばいい。痛みを減らせるのに使わないほうが、よほど残酷でしょう」

「残酷よ」
 英美子が言った。
 いつのまにか入口まで来ていた彼女は、息を乱しながらも綾部を睨んだ。
「守るつもりで囲って、選ぶつもりで奪って、あんたはずっとそれを優しさって呼んでた」

「あなたも一度は必要だと認めた」
「認めたわ」
 英美子は吐き捨てるみたいに言った。
「だから今、止めに来てるの」

 綾部は目を伏せた。
 悔しそうでも、怒っているふうでもない。ただ、ひどく疲れた人の顔になった。

「もう遅い」
 その一言と同時に、祭具の銀糸が一斉に鳴った。

 きん、と澄んだ音がして、それから都じゅうのすすり泣きみたいな響きが重なる。
 吊られた婚礼札が、風もないのに同じ方向へ揺れた。

 床の鍵穴が、ぐっと大きく開く。

 薄白い景色の向こうから、いくつもの声が流れ込んできた。
 これでいい。
 誰でもいいわけじゃない、でもこのほうが楽だ。
 泣かなくて済む。
 恥をかかなくて済む。
 家が困らない。
 反対されない。
 傷つかない。

 優しい声ばかりだった。
 だからこそ気味が悪い。

 ゆかりは耳を塞ぎかけて、踏みとどまった。
 匂いを嗅ぐ。
 白紙。糊。濡れていない涙。諦めを飲み下した喉。

「圭介さん、あれ、本音じゃない」
「わかってる」

 圭介は正晶の断ち鍵を抜いた。銀筋が異界の光を吸い、細く鳴る。

「外から止めるのは無理だ。芯へ入る」
 言って、彼は振り返らないまま続けた。
「ゆかり、おまえはここで」
「嫌です」

 自分でも驚くほどすぐ、言葉が出た。

 圭介の肩がほんのわずか止まる。

「危険だ」
「知ってます」
「戻れないかもしれない」
「知ってます」
「なら」
「だから置いていかれるのが嫌なんです」

 地下の空気が、一瞬だけ凍った気がした。

 ゆかりは喉の奥を押し広げるようにして続けた。

「私は最初から、救われるだけの役なんて嫌でした。圭介さんの後ろで守られて、帰ってくるのを待つだけなんて、そんなの今さらやれません」
 息が荒くなる。
「十年前も、今も、私は自分の足で来たんです。今日だけ急に“危ないからだめ”は聞きません」

 綾部の儀の音が上がる。
 吊り札がさらに激しく鳴る。
 都のどこかで、また鍵が呼ばれた。

 圭介は数拍だけ黙った。
 それからようやくこちらを見た。

 その目の奥にあるものは、ゆかりには匂いでしかわからないはずなのに、今夜は匂いより先に見えた。
 困っている。
 怖がっている。
 それでも、拒みきれない。

「……勝手に離れるな」
「はい」
「無茶だと思ったら引きずってでも戻す」
「それはその場で抗議します」
「聞き流す」

 そんなやり取りをしている場合じゃないのに、なぜか少しだけ息がつけた。

 圭介が手を伸ばす。
 ゆかりは迷わず取った。

 二人はそのまま、床に開いた巨大な鍵穴へ飛び込んだ。

 落ちた先は、空ではなかった。
 白い廊下だった。

 ただし礼縁局のものではない。左右に何百という襖が並び、それぞれに別の婚礼紋が描かれている。足元には水が薄く張り、歩くたび波紋の代わりに言葉が浮かんだ。

 お似合いです。
 家柄も申し分ない。
 穏やかに暮らせます。
 反対されません。
 きっと幸せになります。

 どれもきれいな言葉だ。
 だが全部、誰かが“そうなってほしい”と押しつけた言葉だった。

 襖が勝手に開く。

 中には、これまで二人が見てきた景色が次々と現れた。
 花嫁行列が同じ道を回り続ける蔵の町。
 灯籠が流れきらず、夜の川に詰まっていく祭りの水面。
 婚礼宿の狭い廊下で、知らない相手へ微笑み続ける花嫁たち。
 真幌が白紙を選んだあの座敷まで、少し歪んだ形で置かれている。

「過去の綻びを混ぜてる……」
 ゆかりが呟くと、圭介が頷いた。
「都じゅうの“こうしておけばよかった”を集めてる」

 前方の廊下がねじれ、無数の銀糸が天井から垂れ下がる。
 その一本一本に、名前が書かれていた。まだ婚約していない者の名まで混じっている。

 圭介は断ち鍵を振るった。
 銀糸が数本まとめて切れ、切れ目から黒い靄が噴く。靄はすぐ人の形を取った。笑っている花嫁。頷く花婿。だが顔はのっぺりとして、目も鼻もない。

「この人でいい」
「このほうが楽」
「揉めない」
「愛なんて後から育つ」
「選ばなければ間違えない」

 口だけが動く。

 ゆかりは胸が悪くなった。
 あれは誰かの言葉を真似ているだけだ。本当の人間が持つ揺れも、迷いも、引っかかりもない。

「右です!」
 匂いの濃い方へ叫ぶ。

 右手の廊下から、強い白紙の匂いが吹いた。二人が走る。背後でのっぺりした花嫁たちが足音もなく追ってくる。水を蹴るたび、足元に浮かぶ文句が靴へ貼りついて離れない。

 お似合い。
 安全。
 損をしない。
 家のため。
 間違えない。

「うるさいっ」

 ゆかりは思わず叫んだ。
「間違えないだけで、好きになれるとは限らないでしょう!」

 その声で、一枚の襖がびり、と裂けた。

 向こうに見えたのは、夕暮れの橋だった。

 十年前の色をしている。
 赤い空、水の匂い、欄干の冷たさ。幼い自分が立っていて、幼い圭介が綻びへ引きずられていく。

 胸が止まりそうになる。

「見るな」
 圭介が低く言った。
「これは記憶じゃない。引き止めるための景色だ」

 わかっている。
 わかっているのに、足がすくむ。

 あの日、自分が触れなければよかったのか。
 あの日、助けなければ、今の欠け方はなかったのか。
 そんな問いが、景色の中から勝手に湧いてくる。

 すると、橋の上の幼い圭介がこちらを見た。
 こちらを責める顔ではない。
 泣いてもいない。
 ただ、静かに手を伸ばしている。

 たすけて、とも違う。
 行くな、とも違う。
 選べ、と言われた気がした。

 同時に、どこか近くで綾部の声が響く。

「見たでしょう、雨宮」
 異界の四方から、柔らかい声が落ちてくる。
「人は迷う。迷うから傷つく。選ぶから奪い合う。なら迷わなければいい」
「だから代わりに決めるのか」
 圭介が返す。
「本人の代わりに、泣かない相手を」
「泣く回数は減る」

「泣く理由が見えなくなるだけだ」
 圭介の声が硬くなる。
「嘘の契りを何件も閉じてきた。揉めなかった夫婦が、何年もあとで空っぽになるところも見た。殴り合わずに終わる不幸もある」

 断ち鍵がまた鳴る。
 橋の景色が半分ほど裂けた。

 だが次の瞬間、銀糸が一斉に圭介の腕へ巻きついた。
 数が多すぎる。断ち鍵で二本三本は切れても、次々と絡む。足も、肩も、喉元すれすれまで白い糸が迫る。

「圭介さん!」

 ゆかりが駆け寄る。
 触れた糸から、匂いが一気に流れ込んだ。

 誰かに選んでもらいたかった。
 間違えたくなかった。
 家を困らせたくなかった。
 好きな相手に選ばれなかった。
 自分で決めるのが怖かった。

 どれも本物だ。
 本物の弱さだ。
 だから切り捨てるだけでは足りない。

 ゆかりは目を閉じた。
 白紙の匂いの、その奥を探る。
 糊の下。諦めの下。諦めきれなかった本音の匂い。

 ある。

 ごく細く、熱い匂いが一本だけ混じっていた。
 泣きながらでも、自分で選びたいと思った人の匂い。
 誰かに決められるくらいなら失敗してもいい、と歯を食いしばった人の匂い。

「芯は、これです!」

 ゆかりは白い糸の束へ手を突っ込んだ。
 熱ではないのに、皮膚が焼けるみたいに痛い。十年前の橋で鍵へ触れたときの熱さが、腕の中で蘇る。

「やめろ!」
 圭介の声が飛ぶ。

「やめません!」

 握った先に、何か硬いものがあった。
 小さな欠片。
 鍵でも石でもない。けれど、触れた瞬間にわかった。これが二人のあいだでずっと欠けたままだった器の継ぎ目だ。

 その欠片を通して、初めて、圭介の匂いがはっきり立った。

 雨上がりの檜。
 その奥に、まだ言葉になっていない熱。

 胸の真ん中がふるえる。

「圭介さん」
 ゆかりは息を詰めたまま言った。
「私、もう“わからないから怖い”だけではいません」
 指先に力を込める。
「人の本音を嗅げるからって、誰かの人生を代わりに決めるために生きてるんじゃない。間違えるかもしれなくても、自分で選びたい人のために、この力を使う」

 その言葉に呼ばれるように、断ち鍵の鈴玉が高く澄んで鳴った。

 圭介が糸を引きちぎる。
 ゆかりは握った欠片を断ち鍵へ押し当てた。

 白い景色が、そこで初めてひび割れた。

「綾部!」
 圭介が叫ぶ。
「都合のいい運命で閉じた都に、人は住めない!」

 返事はすぐには来なかった。
 代わりに、異界全体が大きく軋む。

 遅れて綾部の声が落ちる。
 今度は少しだけ、疲れではないものが混じっていた。

「……それでも、泣く者は出る」

「出るわ」
 ゆかりが答えた。
「でも、それを減らすために人生ごと囲うのは違う。泣いたあとに立つかどうかまで、誰かに決められたくない」

 その一言が最後の継ぎ目だった。

 断ち鍵が真ん中から光り、白い異界の天井まで裂け目を走らせる。
 襖が倒れる。
 橋が崩れる。
 灯籠が砕ける。
 のっぺりした花嫁たちの口だけが、ようやく閉じる。

 代わりに流れ込んできたのは、人の声だった。
 泣き声も、怒鳴り声も、笑い声もある。
 綺麗ではない。
 けれど生きている。

 圭介がゆかりの肩を抱き寄せる。

「伏せろ!」

 次の瞬間、異界が内側から潰れた。

 眩しさも音も一緒くたになり、身体が引き剥がされる。
 落ちる、と感じたとき、ゆかりの手首を強く掴む力があった。

 離さない。
 そう言われた気がした。

 気づくと、旧縁庫の床へ叩き戻されていた。

 吊られていた婚礼札は、半分以上が床に散っている。祭具の巨大な鍵穴は閉じ、歯の部分には深いひびが走っていた。正晶の断ち鍵も、柄の途中から砕けて転がっている。

 ゆかりは咳き込みながら起き上がった。

「圭介さん」

 すぐ横に、圭介が倒れていた。

 目を閉じている。
 呼吸はある。けれど浅い。頬には血の気がなく、触れた手がひどく冷たい。

「圭介さん!」

 名を呼んでも返事がない。

 近くで誰かが走る音がした。星志郎と央和だ。少し遅れて麻里佳、亜寿加、英美子もなだれ込む。

「終わったのか」
 星志郎が周囲を見て言う。
「縁の呼応は止まっています」
 麻里佳が泣きそうな声で答える。
「上の記録棚も、もう逆走していません……」

 綾部は祭具の向こう側へ膝をついていた。
 逃げてはいない。肩を落としたまま、床のひびを見ている。

 英美子が一歩進み、綾部の前で立ち止まる。
「終わりよ」
 静かな声だった。
「もう、誰の代わりにも選べない」

 綾部は笑わなかった。
 泣きもしなかった。
 ただ一度だけ、目を閉じた。

「……そうですか」

 それだけだった。

 星志郎が役人へ引き渡しを命じる声が遠く聞こえる。
 けれどゆかりの耳は、もう別のものしか拾えなかった。

 浅い呼吸。
 冷えた手。
 そして、ごく弱く、かすかな匂い。

 雨上がりの檜。
 さっきよりも確かにあるのに、今にも消えそうなほど薄い。

「まだ」
 ゆかりは圭介の手を握りしめた。
「まだです。お礼も、説明も、ちゃんとやり直すって約束したでしょう」

 返事はない。

 それでも、その手だけは放せなかった。

 旧縁庫の上では、どこかの戸口で鳴っていた鍵の音が、ひとつ、またひとつと止んでいく。
 都は戻る。
 押しつけられた静けさではなく、迷いも言い争いも残ったままの、いつもの面倒な都へ。

 その最初の朝を、どうしてもこの人に見せたかった。

 ゆかりは床へ膝をついたまま、冷えた手を両手で包んだ。
 夜明けはまだ先だ。
 なのに胸の奥では、朝焼けの匂いだけが、もうかすかにほどけはじめていた。

【終】