第13話 夕暮れの橋、もう一度
翌日の空は、朝から妙に静かだった。
雨は降っていないのに、都じゅうが雨上がりの手前で息を止めているみたいな色をしている。水路の表面は鈍く光り、橋の欄干へ止まる鳥まで声を潜めていた。
鍵守寮の記録庫でも、紙をめくる音ばかりが目立った。
亜寿加が古い箱を三つ開き、麻里佳が年ごとの橋守記録を並べ、世凪は埃でくしゃみを噛み殺しながら帳面を抱えて走っている。星志郎も今朝は早くから詰めていて、監察用の薄い札を机へ置いたまま、一枚一枚、橋の事故記録を追っていた。
「見つかった」
昼前、最初に声を上げたのは亜寿加だった。
皆の視線が集まる。
「十年前、朱鷺見橋。夕刻。綻び発生。橋守交代直前の混乱で記録が二重になってる」
「二重?」と世凪が首を伸ばす。
「表向きの事故報と、別棚へ避けられた秘記録」
亜寿加が二枚の紙を並べた。一枚は普通の橋守報。夕刻に小規模綻びが発生し、通行止めをかけ、負傷者一名、幼子一名保護、とだけある。もう一枚は、薄い灰青の封紙で綴じられた内部記録だった。
圭介が先に手を伸ばした。
紙を開く指先が、ほんの少しだけ止まる。
ゆかりはその動きを見逃さなかった。
内部記録には、こうあった。
『綻び核、来歴不明の濁り鍵。幼少の鍵守見習い一名、吸引域へ転落。通行人の幼女一名が接触し、核へ干渉。封印補助成功。ただし器片の離散を確認。関係者名は伏す』
息が浅くなる。
器片。
離散。
胸の内へ、ずっと遠くに沈んでいたものが、ゆっくり浮き上がってくる気がした。
「関係者名が伏せられてるのは、誰が隠したんですか」
ゆかりが問うと、星志郎が答えた。
「当時の上席橋守と、礼縁局立会い一名。さらに、保護責任者の署が後から入っている」
「保護責任者?」
星志郎は紙の端を示した。
そこにあった名を見て、ゆかりは喉がひりついた。
英美子。
紙を持つ圭介の横顔は静かだった。静かすぎて、逆に怖い。
「橋へ行く」
短い一言だった。
それ以上の説明は要らなかった。
◇
朱鷺見橋は、十年前と同じく夕暮れどきがいちばん赤く染まる橋だ。
まだ日が落ち切る前だというのに、欄干にはすでに長い影が貼りつき、水面には飴色の光が砕けていた。橋のたもとで干菓子を売る小さな屋台があり、風に乗って焼き米の匂いが流れてくる。その匂いの奥に、ゆかりにはもう一つ、古い鉄が湿気を吸ったときの重たい気配が感じられた。
待っていたのは英美子だった。
浅葱に黒を重ねた地味な装いなのに、立ち姿だけで誰より目を引く。いつものように隙がない。ただ今日は、その隙のなさの内側に、夜通し起きていた人の乾きが混じっていた。
「来ると思っていました」
英美子は橋の中央へ目をやったまま言った。
「呼んだんですか」
ゆかりが問う。
「ええ。どうせ、もう隠しきれない」
星志郎は少し離れた位置へ立ち、橋の両端を央和へ任せた。世凪と麻里佳は橋のたもとで待機し、亜寿加だけが記録束を抱えてこちらへ近づく。
誰も軽口を叩かなかった。
橋の真ん中に立つと、夕陽が低く差し込み、石の継ぎ目が妙に鮮明に見えた。
「話してください」
ゆかりは先に言った。
「十年前のことも、今までのことも。もう『守るため』だけでは済まないところまで来ています」
英美子はしばらく黙っていた。
やがて、橋の欄干へそっと指を置く。
「十年前、この橋で綻びが開いた」
その声は、いつもの授業の口調ではなかった。自分に言い聞かせる人の声だった。
「小さな鍵でした。婚礼の場から捨てられたか、売られたか、そこまではわからない。でも、濁りが強く、ちょうど夕暮れの気の緩む時刻と重なった。通りの者は気づく前に足を取られ、橋守の交代も重なって、封じが遅れた」
圭介が口を開く。
「俺が呑まれた」
英美子はゆっくり頷いた。
「あなたは当時、鍵守見習いとして橋の巡検へ出ていた。年のわりに封じが上手く、上が油断したのよ。小さい綻びなら自分で閉じるだろう、と」
風が橋を抜ける。
その一瞬、ゆかりの耳の奥で、昔の泣き声みたいなものがかすめた。
「私は……」
言葉が途切れる。
英美子の視線が、初めてゆかりへ向いた。
「あなたは橋のこちら側にいた。店の使いの帰り。誰かが落ちるのを見たのでしょうね」
その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
夕焼け。白く光る石。裂けたみたいに黒い穴。穴の縁で、必死に何かへ手を伸ばしている子どもの指。
思い出そうとしたわけではない。
匂いが先に来た。
濡れた木。焼けた金具。喉の奥まで熱くなる怖さ。どうしても手を離したくないという、あのときの自分の必死さ。
「だめ」
自分の口から、幼い声が落ちたみたいに出た。
ゆかりは思わず欄干を掴んだ。視界が揺れる。
目の前の夕暮れと、十年前の夕暮れが重なった。
黒い穴の向こうで、男の子が消えかけている。知らない顔のはずなのに、見捨てたらいけないと全身が叫んでいた。小さな自分は橋の上を走り、濁った鍵へ素手で触れた。熱い。痛い。けれど、その痛みより、向こう側へ行ってしまう誰かを掴みたかった。
指先が、別の小さな手へ届く。
その途端、何かが割れた。
硬い器が床へ落ちて欠けるみたいな、乾いた音。
光とも匂いともつかないものが散って、その一欠片が、こちらへ飛んできた。
息が詰まった。
「ゆかり」
圭介の声が、今の時間へ引き戻す。
気づけば、彼の手がゆかりの肘を支えていた。強くはないのに、逃がさない持ち方だった。
「見えたか」
「……少し」
自分の声が震えている。
「私、触りました。鍵に。熱かった。あの中に……あなたが」
「俺も思い出した」
圭介は橋の向こうを見たまま言った。
「ずっと、手だけ覚えていた。小さい手だった。泣いていたのか、怒っていたのか、それもわからなかったが、あのとき引かれた感覚だけは残っていた」
ゆかりは顔を上げた。
夕陽の中で見る横顔は静かで、けれど遠くには行っていない。
「責めないんですか」
思わず訊いていた。
「私が触ったから、あなたは」
そこで言葉が続かない。
匂いを受け取れなくなった。自分は過敏になった。そのきっかけが、あの日なのだとしたら。
圭介は即座に首を振った。
「逆だ」
短く、きっぱりした声だった。
「あのとき助けてくれたから、今ここにいる」
その一言が、胸の奥のいちばん硬いところへまっすぐ入った。
「だが器片が移ったのは事実よ」
英美子が言う。
「綻びの核には、人の契りへ触れる器が絡んでいた。本来なら鍵守側で処理すべきものだったのに、事故の混乱で砕け、欠片が離れた。圭介さんは受け取る側を失い、あなたは受け取りすぎる側になった」
「だから、私だけ……」
祝言の裏の嫉妬も、求婚の裏の打算も、励ましに混じる諦めも、全部、鼻先へ届いていた。
英美子は頷いた。
「私はその場であなたを見た。まだ幼いのに、他人の気持ちを拾いすぎる目をしていた」
ゆかりは笑えもしないまま、英美子を見た。
「それで、黙って遠ざけたんですね」
「ええ」
「勝手に」
「ええ」
認め方が潔すぎて、余計につらい。
「どうして、ちゃんと話してくれなかったんですか」
「話したら、あなたは自分で選ぶでしょう」
「当たり前です」
「だからよ」
英美子の声が、初めて揺れた。
「自分で選ぶ子ほど、利用されるの」
橋の上へ、沈黙が落ちる。
「私は榊の家で、何人も見た。泣いて助けを求める子より、『自分で決めます』と言える子のほうが、立派な言葉で縛られる。家のため。相手のため。将来のため。都合のいい理屈はいくらでもある」
英美子は欄干から手を離した。
「だからせめて、最初から危ない縁へ近づかないようにしたかった。礼縁局の名簿へ触れられる者と手を組めば、無茶な縁談を避けられると思った」
「綾部と」
星志郎が淡々と問う。
「いつから接触していた」
英美子は監察役へ向き直った。
「三年前。最初は、名家へ売られるような縁談、借財の穴埋めにされる縁談、明らかに娘側だけが不利な縁談を避けるためでした。あの人は『揉めない組を先に回すだけ』と言った。拒んだ子を無理に押し込めるつもりはない、と」
「だが実際には違った」
星志郎が言う。
「候補を絞ること自体が、選べる未来を削る」
英美子は目を伏せた。
「わかっていたわ。途中から」
その声は、小さかった。
「最初は救いに見えたの。泣きながら送り出すしかない婚礼より、まだましだと思った。危ない家へ行くくらいなら、好かれなくても、揉めにくい相手へ預けたほうが生き延びられることもある」
ゆかりは反射的に言い返しかけて、喉で止まった。
わかってしまうからだ。
榊の家に来る娘の中には、本当に逃げ場のない者もいたはずだ。綺麗ごとだけでは守れない夜がある。英美子はそこを見てきた。その人が「安全なほうへ寄せたい」と思うこと自体は、責めきれない。
けれど。
「でも、それは檻です」
ゆかりは、やっと言った。
「危ないからって、先に道を減らしたら、最後に残るのは生き残る道だけになります。好きかどうかも、嫌かどうかも、自分で決める前に」
英美子は唇を結んだ。
「ええ。だから失敗したのよ」
その一言に、言い返す言葉が消える。
「私は娘たちを売りたくなかった。でも、泣かせたくない気持ちが先へ立ちすぎた。傷つかない縁を配ればましになる、そう思ってしまった。綾部はそこへ、もっと綺麗な理屈を重ねた」
橋の向こうで、風鈴みたいな細い音が鳴った。近くの店の軒先かと思ったが、違う。都の中心のほうから、金具同士が触れ合うような高い響きが、幾重にも重なってくる。
圭介の顔つきが変わった。
「始めたか」
星志郎もすぐに空を見上げる。
西の空はまだ赤い。なのに、その赤の奥へ、見えない糸でも渡されたみたいに、細い光が何本も走っていた。人にはただの夕景に見えるだろう。だがゆかりにはわかる。あれは縁鍵が一斉に呼ばれるときの匂いだ。
白い紙。冷えた銀。押しつけられた安心。何千という「これでいい」が混ざり合って、都の真ん中から立ちのぼっている。
「綾部はどこで儀を」
圭介が問う。
英美子は一度だけ目を閉じ、それから答えた。
「礼縁局の奥、旧縁庫の下です。祭具を移した。今夜、都中の登録鍵へ触れるつもりでしょう」
「なぜ知っていて止めなかった」
星志郎の声は冷たい。
「止めようとしたわ」
英美子が言い返す。
「だから昨日、内使いを呼び出したの。娘たちを榊の家から外へ出す時間を稼ぐために」
そのとき、橋のたもとから世凪が転がるように駆け上がってきた。
「出ました! 都の南北、婚礼登録簿の印が一斉に反応してます! まだ成ってない婚約まで引っ張られてる! あ、すみません、走るなって言われてたのに!」
息を切らしながら差し出した紙には、赤い墨で印が打たれていた。
麻里佳も続いて上がってくる。
「各婚礼宿から問い合わせが殺到しています。鍵箱が勝手に鳴る、封紐が締まり直る、婚約控えに別の名が浮くと」
亜寿加の顔色が変わった。
「記録側から全部つなぎ替える気だわ……」
風の匂いが、一段と冷える。
ゆかりは橋の中央で立ち尽くした。
十年前、自分はこの場所で誰かを助けた。
そのせいで二人とも欠けた。
そして今、その欠け目を利用するみたいに、都じゅうの縁が一つの理屈へ押し込められようとしている。
怖い。
怖いのに、それだけでは終わらなかった。
あの日と違うのは、今は一人ではないことだ。
「行きましょう」
自分の声が、驚くほどはっきり出た。
圭介がこちらを見る。
「今度は黙って外しませんよね」
「外せる状況か」
「いいえ」
「なら連れていく」
その返しが、妙にいつもどおりで、ゆかりは少しだけ笑いそうになった。
英美子が低く言う。
「榊の家の裏門は開けてあるわ。今夜、娘たちは外へ逃がします」
星志郎が鋭く振り返る。
「贖罪のつもりか」
「つもりではなく、そうするの」
英美子は監察役の目を真正面から受けた。
「私はあとでいくらでも裁かれればいい。でも今は、まだ檻の中にいる子を先に出す」
その言葉に、もう甘い保護の匂いは混じっていなかった。
苦い。遅すぎる。けれど、自分で泥を被ると決めた人の匂いだ。
星志郎は短く息を吐いた。
「央和。榊の家へ人を回せ。監察名で保護動線を確保。英美子殿、あなたも同行対象だ」
「構わないわ」
央和が無言で頷き、橋を駆け下りる。
圭介はゆかりの袖口を一度だけ見た。昔みたいに赤くはなっていない。けれど、あの日の熱はまだ記憶の底にある。
「立てるか」
「立てます」
「怖いか」
「怖いです」
「それでいい」
そう言って、圭介はごく自然に手を差し出した。
命じるためでも、庇うためでもない。
隣へ来いと言うだけの手だった。
ゆかりは一瞬だけ迷って、それからその手を取った。
触れたところから、かすかに匂いが立つ。
雨上がりの檜。
まだ薄い。まだ途切れ途切れ。
けれどたしかに、ここにいる人の匂いだった。
胸の奥が熱くなる。
「圭介さん」
「なんだ」
「十年前のこと、助けたとか助けられたとか、あとでちゃんとやり直してください」
「何を」
「お礼とか、説明とか、いろいろです」
圭介の目元がほんの少し緩んだ。
「了解した」
橋の下で水が鳴る。
夕暮れの都のあちこちで、見えない鍵が呼応していた。
与えられた最適解へ、人の人生を押し込める儀が始まっている。
ならば壊しに行くしかない。
十年前、この橋で掴んだ手を、今度は離さないために。
【終】
翌日の空は、朝から妙に静かだった。
雨は降っていないのに、都じゅうが雨上がりの手前で息を止めているみたいな色をしている。水路の表面は鈍く光り、橋の欄干へ止まる鳥まで声を潜めていた。
鍵守寮の記録庫でも、紙をめくる音ばかりが目立った。
亜寿加が古い箱を三つ開き、麻里佳が年ごとの橋守記録を並べ、世凪は埃でくしゃみを噛み殺しながら帳面を抱えて走っている。星志郎も今朝は早くから詰めていて、監察用の薄い札を机へ置いたまま、一枚一枚、橋の事故記録を追っていた。
「見つかった」
昼前、最初に声を上げたのは亜寿加だった。
皆の視線が集まる。
「十年前、朱鷺見橋。夕刻。綻び発生。橋守交代直前の混乱で記録が二重になってる」
「二重?」と世凪が首を伸ばす。
「表向きの事故報と、別棚へ避けられた秘記録」
亜寿加が二枚の紙を並べた。一枚は普通の橋守報。夕刻に小規模綻びが発生し、通行止めをかけ、負傷者一名、幼子一名保護、とだけある。もう一枚は、薄い灰青の封紙で綴じられた内部記録だった。
圭介が先に手を伸ばした。
紙を開く指先が、ほんの少しだけ止まる。
ゆかりはその動きを見逃さなかった。
内部記録には、こうあった。
『綻び核、来歴不明の濁り鍵。幼少の鍵守見習い一名、吸引域へ転落。通行人の幼女一名が接触し、核へ干渉。封印補助成功。ただし器片の離散を確認。関係者名は伏す』
息が浅くなる。
器片。
離散。
胸の内へ、ずっと遠くに沈んでいたものが、ゆっくり浮き上がってくる気がした。
「関係者名が伏せられてるのは、誰が隠したんですか」
ゆかりが問うと、星志郎が答えた。
「当時の上席橋守と、礼縁局立会い一名。さらに、保護責任者の署が後から入っている」
「保護責任者?」
星志郎は紙の端を示した。
そこにあった名を見て、ゆかりは喉がひりついた。
英美子。
紙を持つ圭介の横顔は静かだった。静かすぎて、逆に怖い。
「橋へ行く」
短い一言だった。
それ以上の説明は要らなかった。
◇
朱鷺見橋は、十年前と同じく夕暮れどきがいちばん赤く染まる橋だ。
まだ日が落ち切る前だというのに、欄干にはすでに長い影が貼りつき、水面には飴色の光が砕けていた。橋のたもとで干菓子を売る小さな屋台があり、風に乗って焼き米の匂いが流れてくる。その匂いの奥に、ゆかりにはもう一つ、古い鉄が湿気を吸ったときの重たい気配が感じられた。
待っていたのは英美子だった。
浅葱に黒を重ねた地味な装いなのに、立ち姿だけで誰より目を引く。いつものように隙がない。ただ今日は、その隙のなさの内側に、夜通し起きていた人の乾きが混じっていた。
「来ると思っていました」
英美子は橋の中央へ目をやったまま言った。
「呼んだんですか」
ゆかりが問う。
「ええ。どうせ、もう隠しきれない」
星志郎は少し離れた位置へ立ち、橋の両端を央和へ任せた。世凪と麻里佳は橋のたもとで待機し、亜寿加だけが記録束を抱えてこちらへ近づく。
誰も軽口を叩かなかった。
橋の真ん中に立つと、夕陽が低く差し込み、石の継ぎ目が妙に鮮明に見えた。
「話してください」
ゆかりは先に言った。
「十年前のことも、今までのことも。もう『守るため』だけでは済まないところまで来ています」
英美子はしばらく黙っていた。
やがて、橋の欄干へそっと指を置く。
「十年前、この橋で綻びが開いた」
その声は、いつもの授業の口調ではなかった。自分に言い聞かせる人の声だった。
「小さな鍵でした。婚礼の場から捨てられたか、売られたか、そこまではわからない。でも、濁りが強く、ちょうど夕暮れの気の緩む時刻と重なった。通りの者は気づく前に足を取られ、橋守の交代も重なって、封じが遅れた」
圭介が口を開く。
「俺が呑まれた」
英美子はゆっくり頷いた。
「あなたは当時、鍵守見習いとして橋の巡検へ出ていた。年のわりに封じが上手く、上が油断したのよ。小さい綻びなら自分で閉じるだろう、と」
風が橋を抜ける。
その一瞬、ゆかりの耳の奥で、昔の泣き声みたいなものがかすめた。
「私は……」
言葉が途切れる。
英美子の視線が、初めてゆかりへ向いた。
「あなたは橋のこちら側にいた。店の使いの帰り。誰かが落ちるのを見たのでしょうね」
その瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
夕焼け。白く光る石。裂けたみたいに黒い穴。穴の縁で、必死に何かへ手を伸ばしている子どもの指。
思い出そうとしたわけではない。
匂いが先に来た。
濡れた木。焼けた金具。喉の奥まで熱くなる怖さ。どうしても手を離したくないという、あのときの自分の必死さ。
「だめ」
自分の口から、幼い声が落ちたみたいに出た。
ゆかりは思わず欄干を掴んだ。視界が揺れる。
目の前の夕暮れと、十年前の夕暮れが重なった。
黒い穴の向こうで、男の子が消えかけている。知らない顔のはずなのに、見捨てたらいけないと全身が叫んでいた。小さな自分は橋の上を走り、濁った鍵へ素手で触れた。熱い。痛い。けれど、その痛みより、向こう側へ行ってしまう誰かを掴みたかった。
指先が、別の小さな手へ届く。
その途端、何かが割れた。
硬い器が床へ落ちて欠けるみたいな、乾いた音。
光とも匂いともつかないものが散って、その一欠片が、こちらへ飛んできた。
息が詰まった。
「ゆかり」
圭介の声が、今の時間へ引き戻す。
気づけば、彼の手がゆかりの肘を支えていた。強くはないのに、逃がさない持ち方だった。
「見えたか」
「……少し」
自分の声が震えている。
「私、触りました。鍵に。熱かった。あの中に……あなたが」
「俺も思い出した」
圭介は橋の向こうを見たまま言った。
「ずっと、手だけ覚えていた。小さい手だった。泣いていたのか、怒っていたのか、それもわからなかったが、あのとき引かれた感覚だけは残っていた」
ゆかりは顔を上げた。
夕陽の中で見る横顔は静かで、けれど遠くには行っていない。
「責めないんですか」
思わず訊いていた。
「私が触ったから、あなたは」
そこで言葉が続かない。
匂いを受け取れなくなった。自分は過敏になった。そのきっかけが、あの日なのだとしたら。
圭介は即座に首を振った。
「逆だ」
短く、きっぱりした声だった。
「あのとき助けてくれたから、今ここにいる」
その一言が、胸の奥のいちばん硬いところへまっすぐ入った。
「だが器片が移ったのは事実よ」
英美子が言う。
「綻びの核には、人の契りへ触れる器が絡んでいた。本来なら鍵守側で処理すべきものだったのに、事故の混乱で砕け、欠片が離れた。圭介さんは受け取る側を失い、あなたは受け取りすぎる側になった」
「だから、私だけ……」
祝言の裏の嫉妬も、求婚の裏の打算も、励ましに混じる諦めも、全部、鼻先へ届いていた。
英美子は頷いた。
「私はその場であなたを見た。まだ幼いのに、他人の気持ちを拾いすぎる目をしていた」
ゆかりは笑えもしないまま、英美子を見た。
「それで、黙って遠ざけたんですね」
「ええ」
「勝手に」
「ええ」
認め方が潔すぎて、余計につらい。
「どうして、ちゃんと話してくれなかったんですか」
「話したら、あなたは自分で選ぶでしょう」
「当たり前です」
「だからよ」
英美子の声が、初めて揺れた。
「自分で選ぶ子ほど、利用されるの」
橋の上へ、沈黙が落ちる。
「私は榊の家で、何人も見た。泣いて助けを求める子より、『自分で決めます』と言える子のほうが、立派な言葉で縛られる。家のため。相手のため。将来のため。都合のいい理屈はいくらでもある」
英美子は欄干から手を離した。
「だからせめて、最初から危ない縁へ近づかないようにしたかった。礼縁局の名簿へ触れられる者と手を組めば、無茶な縁談を避けられると思った」
「綾部と」
星志郎が淡々と問う。
「いつから接触していた」
英美子は監察役へ向き直った。
「三年前。最初は、名家へ売られるような縁談、借財の穴埋めにされる縁談、明らかに娘側だけが不利な縁談を避けるためでした。あの人は『揉めない組を先に回すだけ』と言った。拒んだ子を無理に押し込めるつもりはない、と」
「だが実際には違った」
星志郎が言う。
「候補を絞ること自体が、選べる未来を削る」
英美子は目を伏せた。
「わかっていたわ。途中から」
その声は、小さかった。
「最初は救いに見えたの。泣きながら送り出すしかない婚礼より、まだましだと思った。危ない家へ行くくらいなら、好かれなくても、揉めにくい相手へ預けたほうが生き延びられることもある」
ゆかりは反射的に言い返しかけて、喉で止まった。
わかってしまうからだ。
榊の家に来る娘の中には、本当に逃げ場のない者もいたはずだ。綺麗ごとだけでは守れない夜がある。英美子はそこを見てきた。その人が「安全なほうへ寄せたい」と思うこと自体は、責めきれない。
けれど。
「でも、それは檻です」
ゆかりは、やっと言った。
「危ないからって、先に道を減らしたら、最後に残るのは生き残る道だけになります。好きかどうかも、嫌かどうかも、自分で決める前に」
英美子は唇を結んだ。
「ええ。だから失敗したのよ」
その一言に、言い返す言葉が消える。
「私は娘たちを売りたくなかった。でも、泣かせたくない気持ちが先へ立ちすぎた。傷つかない縁を配ればましになる、そう思ってしまった。綾部はそこへ、もっと綺麗な理屈を重ねた」
橋の向こうで、風鈴みたいな細い音が鳴った。近くの店の軒先かと思ったが、違う。都の中心のほうから、金具同士が触れ合うような高い響きが、幾重にも重なってくる。
圭介の顔つきが変わった。
「始めたか」
星志郎もすぐに空を見上げる。
西の空はまだ赤い。なのに、その赤の奥へ、見えない糸でも渡されたみたいに、細い光が何本も走っていた。人にはただの夕景に見えるだろう。だがゆかりにはわかる。あれは縁鍵が一斉に呼ばれるときの匂いだ。
白い紙。冷えた銀。押しつけられた安心。何千という「これでいい」が混ざり合って、都の真ん中から立ちのぼっている。
「綾部はどこで儀を」
圭介が問う。
英美子は一度だけ目を閉じ、それから答えた。
「礼縁局の奥、旧縁庫の下です。祭具を移した。今夜、都中の登録鍵へ触れるつもりでしょう」
「なぜ知っていて止めなかった」
星志郎の声は冷たい。
「止めようとしたわ」
英美子が言い返す。
「だから昨日、内使いを呼び出したの。娘たちを榊の家から外へ出す時間を稼ぐために」
そのとき、橋のたもとから世凪が転がるように駆け上がってきた。
「出ました! 都の南北、婚礼登録簿の印が一斉に反応してます! まだ成ってない婚約まで引っ張られてる! あ、すみません、走るなって言われてたのに!」
息を切らしながら差し出した紙には、赤い墨で印が打たれていた。
麻里佳も続いて上がってくる。
「各婚礼宿から問い合わせが殺到しています。鍵箱が勝手に鳴る、封紐が締まり直る、婚約控えに別の名が浮くと」
亜寿加の顔色が変わった。
「記録側から全部つなぎ替える気だわ……」
風の匂いが、一段と冷える。
ゆかりは橋の中央で立ち尽くした。
十年前、自分はこの場所で誰かを助けた。
そのせいで二人とも欠けた。
そして今、その欠け目を利用するみたいに、都じゅうの縁が一つの理屈へ押し込められようとしている。
怖い。
怖いのに、それだけでは終わらなかった。
あの日と違うのは、今は一人ではないことだ。
「行きましょう」
自分の声が、驚くほどはっきり出た。
圭介がこちらを見る。
「今度は黙って外しませんよね」
「外せる状況か」
「いいえ」
「なら連れていく」
その返しが、妙にいつもどおりで、ゆかりは少しだけ笑いそうになった。
英美子が低く言う。
「榊の家の裏門は開けてあるわ。今夜、娘たちは外へ逃がします」
星志郎が鋭く振り返る。
「贖罪のつもりか」
「つもりではなく、そうするの」
英美子は監察役の目を真正面から受けた。
「私はあとでいくらでも裁かれればいい。でも今は、まだ檻の中にいる子を先に出す」
その言葉に、もう甘い保護の匂いは混じっていなかった。
苦い。遅すぎる。けれど、自分で泥を被ると決めた人の匂いだ。
星志郎は短く息を吐いた。
「央和。榊の家へ人を回せ。監察名で保護動線を確保。英美子殿、あなたも同行対象だ」
「構わないわ」
央和が無言で頷き、橋を駆け下りる。
圭介はゆかりの袖口を一度だけ見た。昔みたいに赤くはなっていない。けれど、あの日の熱はまだ記憶の底にある。
「立てるか」
「立てます」
「怖いか」
「怖いです」
「それでいい」
そう言って、圭介はごく自然に手を差し出した。
命じるためでも、庇うためでもない。
隣へ来いと言うだけの手だった。
ゆかりは一瞬だけ迷って、それからその手を取った。
触れたところから、かすかに匂いが立つ。
雨上がりの檜。
まだ薄い。まだ途切れ途切れ。
けれどたしかに、ここにいる人の匂いだった。
胸の奥が熱くなる。
「圭介さん」
「なんだ」
「十年前のこと、助けたとか助けられたとか、あとでちゃんとやり直してください」
「何を」
「お礼とか、説明とか、いろいろです」
圭介の目元がほんの少し緩んだ。
「了解した」
橋の下で水が鳴る。
夕暮れの都のあちこちで、見えない鍵が呼応していた。
与えられた最適解へ、人の人生を押し込める儀が始まっている。
ならば壊しに行くしかない。
十年前、この橋で掴んだ手を、今度は離さないために。
【終】


