第12話 公平な男と、偏っていた女
翌朝の鍵守寮には、いつもの紙と木の匂いのほかに、刃を水で洗った直後みたいな硬い気配があった。
まだ朝の光が廊下の奥まで届ききらないうちから、表座敷の障子が開け放たれている。麻里佳は文机へ記録を積み直し、亜寿加は封印紐の数を確かめ、央和は無言で控えの写しを整えていた。世凪だけが珍しく口を閉ざし、茶碗を持つ手つきまで小さくなっている。
「何かあったんですか」
ゆかりが小声で聞くと、世凪は茶をこぼしそうになりながら囁いた。
「来てるんです」
「誰が」
「監察役が」
その言葉と同時に、奥の間から足音がした。
現れた男は、濃い青鼠の狩衣に黒の指貫を合わせていた。年は圭介より少し上か、同じくらいか。派手さのない顔立ちだが、線がひどく整っている。細い眉も、目尻の上がり方も、口元の結び方も、どこか物差しで引いたみたいに正確だった。
胸元には、鍵を半分だけ意匠化した銀の留め具がある。礼縁局の札ではない。鍵守寮本庁の監察役を示すものだと、ゆかりにもすぐわかった。
「藤代ゆかり殿」
男は先にこちらの名を呼んだ。
「はい」
「私は星志郎。橋守管轄付き監察役です。本日より、綾部宗久に関わる一連の調査について、鍵守寮の独断を監察します」
声音は低いが冷たくはない。けれど、一音ごとに余白が少なく、耳へまっすぐ入ってくる。
その後ろで、圭介が座っていた。もう事情は伝わっているらしい。白い単衣の膝がきちんと揃い、表情もいつもどおりだが、室内の空気だけが少し張っている。
「独断、と言われるほど勝手なことはしていない」
圭介が言う。
「必要な範囲で動いた」
「必要だったかどうかを判断するのが監察だ」
星志郎は即座に返した。
「婚礼宿への潜入、民間人の継続的同行、未承認の記録照合、礼縁局関連者への先行接触。結果が出ていることと、手続きが正しいことは別だ」
亜寿加が腕を組む。
「いちいち許可を待っていたら、綻びは先に育つわ」
「だから止めに来たわけではありません」
星志郎は亜寿加にも同じ調子で言った。
「止めるべき部分と、通すべき部分を分けに来ました」
誰に対しても声の重さが変わらない。そのことが、かえって座敷を静かにした。
麻里佳が記録束を抱えて前へ出る。
「では、昨夜までの押収物と照合結果を」
「後で見ます。先に確認したいことがある」
星志郎の視線が、圭介からゆかりへ移った。
「藤代殿。あなたは民間人であり、なおかつ現在、雨宮筆頭と婚約関係を装って綾部側の網へ接近している」
「装って、です」
ゆかりは言い直した。
「本当の婚約ではありません」
「形式の話ではありません。外からそう見える状態にあり、その相手の捜査へあなた自身も深く関わっている。それは判断を誤らせる要因になります」
「それは――」
言い返しかけて、圭介が口を開くより先に、ゆかりのほうが声を出していた。
「この人は、そういうので判断を曲げる人じゃありません」
座敷の空気が、ぴたりと止まった。
星志郎はまばたき一つせず、ゆかりを見た。
「今のは証言ではない」
「でも」
「あなたの願望か、信頼だ。どちらであれ、監察に持ち込む言葉ではない」
頬が熱くなる。
言いすぎた、と思うより先に、胸の内へちくりと刺さるものがあった。自分は何をしたのだろう。圭介のためだと反射的に口を挟んだ。そのくせ、英美子のことは疑って、綾部側の匂いを嗅げばすぐに身構える。
星志郎は続けた。
「雨宮筆頭が曲がるかどうかを、私は人柄で量りません。記録、判断、動線、接触相手、報告の欠落、それらで見ます。公平とは、好ましい人を信じることではない。好ましくない結果も含めて、同じ物差しを当てることです」
きっぱりした言葉だった。
厳しいのに、どこにも熱が混ざっていない。ゆかりを恥じさせるためではなく、本当にそこを分けている人の声だ。
「……失礼しました」
唇の裏が乾いたまま、ゆかりは頭を下げた。
圭介は何も言わなかった。
庇わない。それが余計につらいような、ありがたいような気がして、ゆかりは自分の袖口を握った。
「で、監察役殿」
世凪が恐る恐る手を挙げる。
「私も平等に怒られる流れですか」
「おまえは後で記録の誤写一覧を出せ」
「平等でした」
少しだけ空気が緩んだが、星志郎の目はもう次へ移っていた。
「昨夜までの資料はすべて見る。その上で本日中に、綾部側へ繋がる家筋の台帳と寄進記録を押さえる」
彼は机へ置かれた古図を一瞥する。
「名家の婚礼網に綻びが偏っているなら、礼縁局と家側の双方に窓口があるはずだ」
「あります」
思わず口を挟んだのは、座敷の入り口に立った楓葉だった。
淡い薄藤の小袖に、今日は寄進先へ出るときの簡素な帯を締めている。けれど顔色は昨日より明らかに悪かった。いつものように背筋は伸びているのに、指先だけが扇の骨をきつく握っている。
「うちの家です」
楓葉は中へ入り、まっすぐ星志郎を見た。
「正確には、うちだけではありません。叔母の婚家、いとこの嫁ぎ先、寄進の多い家がいくつも、礼縁局から紹介状を受け取っている」
「証拠は」
星志郎が問う。
「今朝、蔵の古い婚礼控えを見ました。寄進帳の余白に、礼縁局式の番号が書いてあったんです。今までは、寄進の整理番号だと教えられていました」
楓葉はそこで一度、唇を結んだ。
「違ったんでしょう」
自分へ言い聞かせるみたいな調子で、彼女は続ける。
「家にふさわしい相手を、家にふさわしい順で繋ぐための印だった。揉めごとが少なくて、体面が保てて、財が流れやすい相手。そういうのを、見えないところで先に回していた」
昨日までなら、楓葉はこんな場所で家の不利になることを言わなかっただろう。ゆかりはそう思って、彼女の横顔を見た。
白粉の奥の匂いが違う。
いつもの澄ました白梅の奥に、今日は薄い鉄の苦さが混じっている。誇りが傷ついた匂いだ。けれど、それを押して立っている。
「寄進帳と婚礼控え、見せていただけますか」
麻里佳が言う。
「ええ」
楓葉は頷いた。
「ただし、家の者は嫌がると思います。だから、監察役殿の印で来てもらえないでしょうか」
「もちろん行く」
星志郎はためらわなかった。
「相手が誰であれ、必要な帳面は押さえる」
楓葉のまつげがわずかに揺れた。
名家の娘として育った彼女にとって、その言葉は驚きだったのかもしれない。遠慮も、取り繕いも、恩義も乗せずに、必要だから行くとだけ言う。その公平さは冷たく見えるが、家格の高いほうにも低いほうにも同じ顔で向けられる。
出立はすぐに決まった。
星志郎、圭介、ゆかり、麻里佳、それに楓葉。亜寿加と央和は寮に残って資料整理、世凪は礼縁局の旧式番号と寄進帳の印の対応を洗う役目になった。見送りに出た世凪が、ゆかりへ小声で言う。
「さっきの、へこみますよね」
「へこみます」
「でも監察役、誰に対しても同じなので……」
「わかってる」
「だから余計に痛いんですよね」
「わかってるってば」
雨は上がっていたが、空はまだ薄曇りだった。
楓葉の家へ向かう道すがら、春先の湿った風が水路を撫でていく。柳の枝先はやわらかく揺れ、橋桁の下では小魚売りの桶がきらきら光っていた。都はいつもどおり息をしているのに、今日だけは見えるものの裏に別の帳面が伏せられている気がする。
楓葉の家の蔵は、本宅から渡り廊下を二つ曲がった先にあった。
重い板戸が開くと、樟脳と絹と古紙の匂いが流れ出る。嫁入り支度の道具箱、婚礼衣装の見本裂、寄進控え、仲人への贈答品控え。きちんと整いすぎていて、かえって息が詰まる場所だった。
「そこです」
楓葉が指した先には、桐箱へ収められた寄進帳が三冊並んでいた。
家の年配の番頭が露骨に顔をしかめたが、星志郎が監察印を示すと、それ以上は口を挟めなかった。
「立ち会います」
番頭が言う。
「どうぞ」
星志郎は紙を傷めないよう袖を払ってから座り込む。
「こちらも立会人を置きます」
麻里佳が写しの準備に入り、圭介は蔵の見取りを確かめた。ゆかりは鼻の奥で空気を探る。
蔵の匂いの中には、古紙の乾きのほかに、よく磨いた真鍮金具、湿気を吸った木箱、かすかな白粉、それから――細く冷たい、役所の墨の匂いがあった。家の中だけの帳面の匂いではない。
「ここ、礼縁局の人が来たことある」
ゆかりが言うと、番頭の顔がぴくりと動いた。
「何を根拠に」
「墨の匂いが違います。家付きの筆ではない」
「匂いで役所を当てるのか」
「当たります」
星志郎が番頭の反応を横目で見た。
「続けて」
楓葉が寄進帳を開いた。
頁は几帳面で、筆致も美しい。誰がいくらを寄せたか、何の折にどの家へ祝いを返したか、無駄なく並んでいる。だが余白へ小さく添えられた記号を見た瞬間、麻里佳が息を呑んだ。
「これ……」
彼女が指さす。
「礼縁局の旧式婚礼整理番号と、桁が一致しています」
番頭が顔を上げる。
「そんなはずは」
「あります」
麻里佳は頁を繰り、別の帳と照らす。
「こちらの《春ノ五一》は、先月白紙になった縁談の控え番号です。こっちの《秋ノ七二》は、白藍渡しで見つかった旧印と同じ並び」
楓葉の指先が白くなった。
「……家が、礼縁局に選んでもらっていた」
それは問いではなく、もう答えだった。
「体面が整う相手を、です」
星志郎が言う。
「家同士の利、婚礼後の安定、揉めごとの少なさ。そうした項目で」
「そんなこと、私は」
楓葉は言いかけて、扇を閉じた。
「私は、勝手に駆け出す人たちのことを、浅はかだと思っていました」
蔵の空気が静かになる。
「親の顔に泥を塗るとか、家の釣り合いを知らないとか、そういう言葉を、たぶん何度も心の中で言っていた。でも」
楓葉は開かれた寄進帳を見た。
「籠に入っていたのは、私たちのほうだったんですね。自分で選んでいるつもりで、最初から綺麗に並べ直された中を歩かされていた」
番頭がたまらず口を挟んだ。
「お嬢様、それは家を守るための――」
「家を守るためなら、私の迷いは最初から要らなかったことになります」
楓葉はきっぱり言った。
「そういうのを、私は整っていると思っていた」
ゆかりは、楓葉の匂いが変わっていくのを感じた。
苦い鉄の匂いの底から、まだ細いけれど、乾いた火の匂いが立つ。悔しさが、ただの傷ではなく、立ち上がるための熱へ変わっていく匂いだ。
「証言します」
楓葉は星志郎へ向き直った。
「家の恥になります。でも、ここで黙ったら、私はまた“整っているほう”へ戻るだけだもの」
「わかりました」
星志郎は短く答えた。
「あなたの証言は、家格による補正をかけずに記録します」
「補正なんて最初から要りません」
「そう言えるなら結構だ」
少しだけ、楓葉の口元が引き締まる。
そのやり取りは優しくない。けれど妙にすっきりしていた。慰めも持ち上げもない代わりに、対等に扱っている。
寄進帳と婚礼控えの写しを取り終えたころ、圭介が蔵の裏手を見に出た。
ゆかりも外気を吸いたくなって後を追う。蔵の裏は榊垣に囲まれ、細い通用口から裏路地へ抜けられるようになっていた。人目を避けて物を渡すには、都合のいい造りだ。
風が吹く。
土の湿り、榊の葉、白粉、古い木戸の金具――その中へ、ぴり、と細い甘さが混じった。
知っている匂いだった。
榊の家の指南所で、何度も嗅いだ葉擦れのような清い香り。その底へ、今日は焦げた紙みたいな苦さが混じっている。
「英美子さん……?」
通用口の隙間から、ちょうど人影が見えた。
英美子が、裏路地で誰かと向き合っていた。深緑の帯、すっきりまとめた髪、背筋の伸びた立ち姿。間違えようがない。相手は鼠色の羽織を着た男で、顔は半分ほど笠で隠れていたが、袖口から覗く紐の色は、礼縁局の内使いが好む暗い紫に近い。
男が何か細い包みを差し出し、英美子が受け取る。
その動きは慣れていた。怯えて奪うのではなく、確かめるように掌へ重さを取る手だった。
胸の奥が、ひどく冷えた。
やっぱり。
あの人はまだ。
飛び出そうとした瞬間、袖を引かれた。
圭介だった。
「待て」
小さな声なのに、鋭く止まる。
「でも」
「今は駄目だ」
「見たでしょう」
「見た」
圭介の手は離れない。
隣で同じ景色を見ているはずなのに、その横顔は驚くほど動かなかった。
「まだ決めつけるな」
「包みを受け取ってた」
「受け取っていた」
「礼縁局側の人と」
「そう見える」
「じゃあ」
言い募ろうとしたゆかりへ、圭介が視線だけ向けた。
「足の向き」
「え」
「英美子は、逃げる向きに立っていない。相手を通せる位置にも立っていない。通用口と屋敷のあいだを塞いでいた」
「そんなの」
「それに、包みを受ける前に右手を一度開いて見せた。合図だ。『先に見せろ』のほうだろう」
あまりにも淡々とした分析に、ゆかりは一瞬言葉を失った。
裏路地の向こうで、英美子は包みの中を改めるように視線を落とし、何か短く告げた。男が半歩踏み込む。次の瞬間、英美子の扇の先が男の手首をぴしゃりと打った。男は舌打ちして身を引き、細い路地を去っていく。
英美子はその背を追わず、しばらく立ち尽くしてから、包みを袖へ納めた。
その横顔は見えない。
見えないのに、ゆかりにはわかった。あの人の匂いは、裏切りの甘さではなかった。焦げた紙みたいに苦く、切迫していた。
胸の中に、恥ずかしさがまた刺さる。
さっき星志郎に言われたことが、ここへ戻ってくる。圭介のことは反射的に庇い、英美子のことは反射的に疑った。自分は匂いを読めるはずなのに、見たいものへ先に意味をつけた。
「……私、最低です」
ゆかりが呟くと、圭介は通用口の隙間から目を離さずに言った。
「最低とまでは思わない」
「でも、決めつけた」
「そうだな」
「否定してくれないんですね」
「事実だからな」
ひどい。ひどいのに、変に救われる。
慰めるための嘘を、この人はあまり言わない。
「さっきも」
ゆかりは袖口を握りしめた。
「星志郎さんに、あんなふうに言われて、むかついたんです。なのに、英美子さんには同じことをした」
圭介はようやくこちらを見た。
曇り空の下で、その目は静かだった。
「おまえは俺に偏ってる」
その一言で、胸が止まる。
「……はい」
「悪いことばかりじゃない」
「え」
「偏るから拾えるものもある」
「でも、危ないでしょう」
「危ない。だから、星志郎が必要だ」
裏路地に残る風が、榊の葉を鳴らした。
公平な男。偏っている自分。どちらかが正しくて、どちらかが間違いという話ではないのかもしれない。それでも、混ぜてはいけない場面がある。さっき自分は、そこを踏み越えた。
蔵へ戻ると、星志郎はもう楓葉の証言を書き留めていた。
質問は簡潔で、無駄がない。いつ、誰が、どの帳面を、どう説明したか。寄進と婚礼の取次ぎを誰が繋いだか。家の者が礼縁局の名をどの場面で口にしたか。甘い言い換えを一つも許さず、それでいて責め立てる調子にもならない。
楓葉も、途中で一度も目を逸らさなかった。
「叔母は『角の立たない相手を先に回してくださる』と言いました」
「誰が」
「礼縁局の判官付きから、です。名は聞いていません」
「聞かなかったのか、聞けなかったのか」
「……聞いても、娘に要る話ではないと笑われました」
星志郎の筆が止まることはない。
やがて調書が一枚終わると、彼は楓葉へ向き直った。
「本件はあなたの家に不利です。取り下げますか」
「取り下げません」
「親族から圧力がかかる可能性があります」
「かかるでしょうね」
楓葉は扇を膝へ置いた。
「でも、もう知ってしまったので。知った上で黙っていたら、次に誰かへ『家のためです』って言う側になります」
その声には、昨日までの刺々しさと違う硬さがあった。
人へ向ける棘ではなく、自分の足場を固めるための硬さだ。
星志郎はわずかに頷き、調書へ封じ紐を掛けた。
「記録します」
それだけだった。
褒めもしない。慰めもしない。
けれど楓葉は、その一言でようやく肩の力を少し抜いた。
帰路、ゆかりはほとんど喋れなかった。
水路沿いの道には、春の小さな市が立っていた。干し菓子の白、浅葱の布、早咲きの枝花。いつもなら匂いが先に飛び込んでくるのに、今日は自分の胸の内が騒がしくて、外の色が遠い。
鍵守寮へ戻ると、世凪が帳面の山を抱えて走ってきた。
「出ました! 旧式番号、名家側の寄進印と噛み合う組が二十七! しかも、そのうち七つは、綾部判官付きの雑役名簿と同日に動いてます!」
「写しをこっちへ」
星志郎が受け取る。
そして一枚めくったところで、ふと顔を上げた。
「雨宮筆頭、藤代殿。さっき裏で何を見た」
見ていたことまで読まれていたらしい。
圭介が先に答える。
「榊家の裏通用口で、英美子が礼縁局系統と思しき内使いと接触した」
「包みの授受があった」
ゆかりも続けた。
「ただし、その場で敵対と断定できる動きではありません。相手を遮る立ち位置でした」
星志郎の目が、ゆかりへ一度だけ向く。
朝ほど刺さる視線ではなかった。確認するだけの目だ。
「見たままを言えているなら結構」
その一言に、胸の奥の張りが少しだけ緩む。
けれど次の瞬間、星志郎は冷静に言った。
「英美子については、接触先を追う。善意も保護も、監察の免罪符にはならない。必要なら押さえる」
「はい」
ゆかりは頷いた。
今度は、反射で庇わなかった。
夕方近く、寮の中庭へ薄い日が落ちてきたころ、調書と写しはひとまず形になった。
綾部側の網は、礼縁局だけでは閉じていない。名家の寄進網、婚礼指南、仲人筋、宿の差配、そして“揉めない組み合わせ”を望む家々の沈黙。そのどれもが、少しずつ手を貸していた。
楓葉は帰り際、廊下で立ち止まった。
「今日のこと、ありがとうございました」
それはゆかりへ向けた言葉だった。
「私、あなたのことを、ずっと雑だと思っていました」
「遠回しですねえ」
「遠回しではなく事実です」
楓葉は相変わらずだった。
「でも、雑なのと、間違っているのは別でした」
「褒めてます?」
「少しだけ」
その少しだけが、妙に可笑しい。
ゆかりが笑うと、楓葉は気まずそうに目を逸らした。それでも前みたいな棘の匂いではなく、慣れないことをしたあとの白さが漂っている。
「あなたも」
ゆかりは言った。
「綺麗に整ってるだけの人じゃなかったんですね」
「それは失礼です」
「お返しです」
楓葉は扇で口元を隠した。
けれど、その奥でちゃんと笑ったのがわかった。
人が帰り、紙の音が遠くなると、寮の廊下は急に静かになった。
夕暮れ前の薄い光が柱の角へ溜まり、遠くで誰かが茶を沸かしている。ほうじた葉の匂いが漂ってきて、ようやく朝から詰めていた胸が少し緩んだ。
縁側の端に、圭介がいた。
古図を巻き終えたところらしい。ゆかりが近づくと、彼は顔だけ上げる。
「星志郎、嫌いになったか」
いきなりそう聞かれて、ゆかりは目を丸くした。
「なんですか、それ」
「顔に出ている」
「そこまで子どもじゃありません」
「そうか」
たぶん少しは出ていたのだろう。否定しきれなくて、ゆかりは欄干へ肘を置いた。
「嫌いというより、痛かったです」
「だろうな」
「でも、必要なのもわかりました」
「そうだな」
答えが短い。
けれど今日は、その短さが逃げではないとわかる。
「私」
ゆかりは庭の石を見ながら言った。
「この人のことになると、先に庇うんだなって、自分でわかりました」
圭介は何も言わない。
沈黙のまま待つ。その待ち方が、急かされるより話しやすい。
「本当は、匂いを読むなら、誰にでも同じように読まなきゃいけないのに」
「無理だ」
「そう言い切ります?」
「人間だからな」
その返しに、思わず笑ってしまう。
「ずるい」
「どこが」
「そうやって、急に普通のことを言うところです」
圭介は少しだけ視線を外し、それから静かに言った。
「おまえが俺に偏るのは、わかっている」
また心臓が跳ねる。
「わかってるなら、困るでしょう」
「困る場面もある」
「ほら」
「助かる場面もある」
朝と同じ言葉だった。
でも今度は、胸へ落ちたあと、さっきほど痛くない。危うさも含めて言われているからだ。
「だから、混ぜるな」
圭介が続ける。
「偏りは偏りとして持て。判断へそのまま流すな」
「……はい」
「今日は途中で戻した」
「星志郎さんのおかげで」
「それもある」
風が抜けた。
夕方の水路から、ひやりとした湿りが上がってくる。その中に、ほんのわずかに、檜に似た静かな匂いが混じった気がした。
ゆかりは息を止める。
けれど今日は追わなかった。
追うより先に、確かめることがある。自分の胸の中で、何を見たいから嗅いでいるのか。それを誤魔化さないほうが先だ。
「圭介さん」
「なんだ」
「私、たぶん、この人に偏ってる、っていうの」
「さっき聞いた」
「今、自分で認めました」
「そうか」
たったそれだけの返事なのに、不思議と逃げ場がなくて、同時に救いもある。
綺麗な公平さだけでは届かない場所があって、偏りだけでは壊してしまう場所がある。その両方を今日、やっと知った気がした。
中庭の向こうで、星志郎がまだ灯りもつけずに調書を読み返している姿が見えた。楓葉は自分の家へ戻り、きっと今ごろ、扇を閉じて親族と向き合っている。英美子はあの苦い包みを袖へ入れたまま、どこかで次の手を選んでいるだろう。
それぞれが、それぞれの信念で立っている。
都合のいい相手を割り振る綾部の仕組みは、人の迷いを不要なものとして削る。
けれど今日見た人たちは、迷いながら立っていた。公平であろうとする男も、籠の中だったと知った娘も、誰かを守るために泥を被る女も、そして、一人の男へ偏ってしまう自分も。
夕暮れの光が縁側を細く染める。
その色は均一ではない。柱の影は濃く、石の上は薄く、水面の照り返しだけが柔らかい。
公平とは、全部を同じ色で塗ることではないのかもしれない。
違いを違いのまま見て、それでも量り方だけは曲げないこと。
偏りとは、捨てるべき欠点である前に、誰かを選んでしまう人の性なのかもしれない。
その危うさごと引き受けて、次の一歩で間違えないようにするしかない。
中庭へ長い影が落ちる。
その中で圭介は古図を抱え直し、ゆかりは自分の袖口をそっと放した。
綾部宗久へ届く網は、思っていたより広い。
名家も、役所も、善意の顔をした保護も、その中にある。
だからこそ、こちらももう、好ましい人だけを信じるわけにはいかなかった。
それでも。
それでも隣に立つ人を選んでしまうことまでは、きっと消えない。
偏っていると知ったうえで、見誤らないように進む。
今日のゆかりにできるのは、たぶんそれだけだった。
【終】
翌朝の鍵守寮には、いつもの紙と木の匂いのほかに、刃を水で洗った直後みたいな硬い気配があった。
まだ朝の光が廊下の奥まで届ききらないうちから、表座敷の障子が開け放たれている。麻里佳は文机へ記録を積み直し、亜寿加は封印紐の数を確かめ、央和は無言で控えの写しを整えていた。世凪だけが珍しく口を閉ざし、茶碗を持つ手つきまで小さくなっている。
「何かあったんですか」
ゆかりが小声で聞くと、世凪は茶をこぼしそうになりながら囁いた。
「来てるんです」
「誰が」
「監察役が」
その言葉と同時に、奥の間から足音がした。
現れた男は、濃い青鼠の狩衣に黒の指貫を合わせていた。年は圭介より少し上か、同じくらいか。派手さのない顔立ちだが、線がひどく整っている。細い眉も、目尻の上がり方も、口元の結び方も、どこか物差しで引いたみたいに正確だった。
胸元には、鍵を半分だけ意匠化した銀の留め具がある。礼縁局の札ではない。鍵守寮本庁の監察役を示すものだと、ゆかりにもすぐわかった。
「藤代ゆかり殿」
男は先にこちらの名を呼んだ。
「はい」
「私は星志郎。橋守管轄付き監察役です。本日より、綾部宗久に関わる一連の調査について、鍵守寮の独断を監察します」
声音は低いが冷たくはない。けれど、一音ごとに余白が少なく、耳へまっすぐ入ってくる。
その後ろで、圭介が座っていた。もう事情は伝わっているらしい。白い単衣の膝がきちんと揃い、表情もいつもどおりだが、室内の空気だけが少し張っている。
「独断、と言われるほど勝手なことはしていない」
圭介が言う。
「必要な範囲で動いた」
「必要だったかどうかを判断するのが監察だ」
星志郎は即座に返した。
「婚礼宿への潜入、民間人の継続的同行、未承認の記録照合、礼縁局関連者への先行接触。結果が出ていることと、手続きが正しいことは別だ」
亜寿加が腕を組む。
「いちいち許可を待っていたら、綻びは先に育つわ」
「だから止めに来たわけではありません」
星志郎は亜寿加にも同じ調子で言った。
「止めるべき部分と、通すべき部分を分けに来ました」
誰に対しても声の重さが変わらない。そのことが、かえって座敷を静かにした。
麻里佳が記録束を抱えて前へ出る。
「では、昨夜までの押収物と照合結果を」
「後で見ます。先に確認したいことがある」
星志郎の視線が、圭介からゆかりへ移った。
「藤代殿。あなたは民間人であり、なおかつ現在、雨宮筆頭と婚約関係を装って綾部側の網へ接近している」
「装って、です」
ゆかりは言い直した。
「本当の婚約ではありません」
「形式の話ではありません。外からそう見える状態にあり、その相手の捜査へあなた自身も深く関わっている。それは判断を誤らせる要因になります」
「それは――」
言い返しかけて、圭介が口を開くより先に、ゆかりのほうが声を出していた。
「この人は、そういうので判断を曲げる人じゃありません」
座敷の空気が、ぴたりと止まった。
星志郎はまばたき一つせず、ゆかりを見た。
「今のは証言ではない」
「でも」
「あなたの願望か、信頼だ。どちらであれ、監察に持ち込む言葉ではない」
頬が熱くなる。
言いすぎた、と思うより先に、胸の内へちくりと刺さるものがあった。自分は何をしたのだろう。圭介のためだと反射的に口を挟んだ。そのくせ、英美子のことは疑って、綾部側の匂いを嗅げばすぐに身構える。
星志郎は続けた。
「雨宮筆頭が曲がるかどうかを、私は人柄で量りません。記録、判断、動線、接触相手、報告の欠落、それらで見ます。公平とは、好ましい人を信じることではない。好ましくない結果も含めて、同じ物差しを当てることです」
きっぱりした言葉だった。
厳しいのに、どこにも熱が混ざっていない。ゆかりを恥じさせるためではなく、本当にそこを分けている人の声だ。
「……失礼しました」
唇の裏が乾いたまま、ゆかりは頭を下げた。
圭介は何も言わなかった。
庇わない。それが余計につらいような、ありがたいような気がして、ゆかりは自分の袖口を握った。
「で、監察役殿」
世凪が恐る恐る手を挙げる。
「私も平等に怒られる流れですか」
「おまえは後で記録の誤写一覧を出せ」
「平等でした」
少しだけ空気が緩んだが、星志郎の目はもう次へ移っていた。
「昨夜までの資料はすべて見る。その上で本日中に、綾部側へ繋がる家筋の台帳と寄進記録を押さえる」
彼は机へ置かれた古図を一瞥する。
「名家の婚礼網に綻びが偏っているなら、礼縁局と家側の双方に窓口があるはずだ」
「あります」
思わず口を挟んだのは、座敷の入り口に立った楓葉だった。
淡い薄藤の小袖に、今日は寄進先へ出るときの簡素な帯を締めている。けれど顔色は昨日より明らかに悪かった。いつものように背筋は伸びているのに、指先だけが扇の骨をきつく握っている。
「うちの家です」
楓葉は中へ入り、まっすぐ星志郎を見た。
「正確には、うちだけではありません。叔母の婚家、いとこの嫁ぎ先、寄進の多い家がいくつも、礼縁局から紹介状を受け取っている」
「証拠は」
星志郎が問う。
「今朝、蔵の古い婚礼控えを見ました。寄進帳の余白に、礼縁局式の番号が書いてあったんです。今までは、寄進の整理番号だと教えられていました」
楓葉はそこで一度、唇を結んだ。
「違ったんでしょう」
自分へ言い聞かせるみたいな調子で、彼女は続ける。
「家にふさわしい相手を、家にふさわしい順で繋ぐための印だった。揉めごとが少なくて、体面が保てて、財が流れやすい相手。そういうのを、見えないところで先に回していた」
昨日までなら、楓葉はこんな場所で家の不利になることを言わなかっただろう。ゆかりはそう思って、彼女の横顔を見た。
白粉の奥の匂いが違う。
いつもの澄ました白梅の奥に、今日は薄い鉄の苦さが混じっている。誇りが傷ついた匂いだ。けれど、それを押して立っている。
「寄進帳と婚礼控え、見せていただけますか」
麻里佳が言う。
「ええ」
楓葉は頷いた。
「ただし、家の者は嫌がると思います。だから、監察役殿の印で来てもらえないでしょうか」
「もちろん行く」
星志郎はためらわなかった。
「相手が誰であれ、必要な帳面は押さえる」
楓葉のまつげがわずかに揺れた。
名家の娘として育った彼女にとって、その言葉は驚きだったのかもしれない。遠慮も、取り繕いも、恩義も乗せずに、必要だから行くとだけ言う。その公平さは冷たく見えるが、家格の高いほうにも低いほうにも同じ顔で向けられる。
出立はすぐに決まった。
星志郎、圭介、ゆかり、麻里佳、それに楓葉。亜寿加と央和は寮に残って資料整理、世凪は礼縁局の旧式番号と寄進帳の印の対応を洗う役目になった。見送りに出た世凪が、ゆかりへ小声で言う。
「さっきの、へこみますよね」
「へこみます」
「でも監察役、誰に対しても同じなので……」
「わかってる」
「だから余計に痛いんですよね」
「わかってるってば」
雨は上がっていたが、空はまだ薄曇りだった。
楓葉の家へ向かう道すがら、春先の湿った風が水路を撫でていく。柳の枝先はやわらかく揺れ、橋桁の下では小魚売りの桶がきらきら光っていた。都はいつもどおり息をしているのに、今日だけは見えるものの裏に別の帳面が伏せられている気がする。
楓葉の家の蔵は、本宅から渡り廊下を二つ曲がった先にあった。
重い板戸が開くと、樟脳と絹と古紙の匂いが流れ出る。嫁入り支度の道具箱、婚礼衣装の見本裂、寄進控え、仲人への贈答品控え。きちんと整いすぎていて、かえって息が詰まる場所だった。
「そこです」
楓葉が指した先には、桐箱へ収められた寄進帳が三冊並んでいた。
家の年配の番頭が露骨に顔をしかめたが、星志郎が監察印を示すと、それ以上は口を挟めなかった。
「立ち会います」
番頭が言う。
「どうぞ」
星志郎は紙を傷めないよう袖を払ってから座り込む。
「こちらも立会人を置きます」
麻里佳が写しの準備に入り、圭介は蔵の見取りを確かめた。ゆかりは鼻の奥で空気を探る。
蔵の匂いの中には、古紙の乾きのほかに、よく磨いた真鍮金具、湿気を吸った木箱、かすかな白粉、それから――細く冷たい、役所の墨の匂いがあった。家の中だけの帳面の匂いではない。
「ここ、礼縁局の人が来たことある」
ゆかりが言うと、番頭の顔がぴくりと動いた。
「何を根拠に」
「墨の匂いが違います。家付きの筆ではない」
「匂いで役所を当てるのか」
「当たります」
星志郎が番頭の反応を横目で見た。
「続けて」
楓葉が寄進帳を開いた。
頁は几帳面で、筆致も美しい。誰がいくらを寄せたか、何の折にどの家へ祝いを返したか、無駄なく並んでいる。だが余白へ小さく添えられた記号を見た瞬間、麻里佳が息を呑んだ。
「これ……」
彼女が指さす。
「礼縁局の旧式婚礼整理番号と、桁が一致しています」
番頭が顔を上げる。
「そんなはずは」
「あります」
麻里佳は頁を繰り、別の帳と照らす。
「こちらの《春ノ五一》は、先月白紙になった縁談の控え番号です。こっちの《秋ノ七二》は、白藍渡しで見つかった旧印と同じ並び」
楓葉の指先が白くなった。
「……家が、礼縁局に選んでもらっていた」
それは問いではなく、もう答えだった。
「体面が整う相手を、です」
星志郎が言う。
「家同士の利、婚礼後の安定、揉めごとの少なさ。そうした項目で」
「そんなこと、私は」
楓葉は言いかけて、扇を閉じた。
「私は、勝手に駆け出す人たちのことを、浅はかだと思っていました」
蔵の空気が静かになる。
「親の顔に泥を塗るとか、家の釣り合いを知らないとか、そういう言葉を、たぶん何度も心の中で言っていた。でも」
楓葉は開かれた寄進帳を見た。
「籠に入っていたのは、私たちのほうだったんですね。自分で選んでいるつもりで、最初から綺麗に並べ直された中を歩かされていた」
番頭がたまらず口を挟んだ。
「お嬢様、それは家を守るための――」
「家を守るためなら、私の迷いは最初から要らなかったことになります」
楓葉はきっぱり言った。
「そういうのを、私は整っていると思っていた」
ゆかりは、楓葉の匂いが変わっていくのを感じた。
苦い鉄の匂いの底から、まだ細いけれど、乾いた火の匂いが立つ。悔しさが、ただの傷ではなく、立ち上がるための熱へ変わっていく匂いだ。
「証言します」
楓葉は星志郎へ向き直った。
「家の恥になります。でも、ここで黙ったら、私はまた“整っているほう”へ戻るだけだもの」
「わかりました」
星志郎は短く答えた。
「あなたの証言は、家格による補正をかけずに記録します」
「補正なんて最初から要りません」
「そう言えるなら結構だ」
少しだけ、楓葉の口元が引き締まる。
そのやり取りは優しくない。けれど妙にすっきりしていた。慰めも持ち上げもない代わりに、対等に扱っている。
寄進帳と婚礼控えの写しを取り終えたころ、圭介が蔵の裏手を見に出た。
ゆかりも外気を吸いたくなって後を追う。蔵の裏は榊垣に囲まれ、細い通用口から裏路地へ抜けられるようになっていた。人目を避けて物を渡すには、都合のいい造りだ。
風が吹く。
土の湿り、榊の葉、白粉、古い木戸の金具――その中へ、ぴり、と細い甘さが混じった。
知っている匂いだった。
榊の家の指南所で、何度も嗅いだ葉擦れのような清い香り。その底へ、今日は焦げた紙みたいな苦さが混じっている。
「英美子さん……?」
通用口の隙間から、ちょうど人影が見えた。
英美子が、裏路地で誰かと向き合っていた。深緑の帯、すっきりまとめた髪、背筋の伸びた立ち姿。間違えようがない。相手は鼠色の羽織を着た男で、顔は半分ほど笠で隠れていたが、袖口から覗く紐の色は、礼縁局の内使いが好む暗い紫に近い。
男が何か細い包みを差し出し、英美子が受け取る。
その動きは慣れていた。怯えて奪うのではなく、確かめるように掌へ重さを取る手だった。
胸の奥が、ひどく冷えた。
やっぱり。
あの人はまだ。
飛び出そうとした瞬間、袖を引かれた。
圭介だった。
「待て」
小さな声なのに、鋭く止まる。
「でも」
「今は駄目だ」
「見たでしょう」
「見た」
圭介の手は離れない。
隣で同じ景色を見ているはずなのに、その横顔は驚くほど動かなかった。
「まだ決めつけるな」
「包みを受け取ってた」
「受け取っていた」
「礼縁局側の人と」
「そう見える」
「じゃあ」
言い募ろうとしたゆかりへ、圭介が視線だけ向けた。
「足の向き」
「え」
「英美子は、逃げる向きに立っていない。相手を通せる位置にも立っていない。通用口と屋敷のあいだを塞いでいた」
「そんなの」
「それに、包みを受ける前に右手を一度開いて見せた。合図だ。『先に見せろ』のほうだろう」
あまりにも淡々とした分析に、ゆかりは一瞬言葉を失った。
裏路地の向こうで、英美子は包みの中を改めるように視線を落とし、何か短く告げた。男が半歩踏み込む。次の瞬間、英美子の扇の先が男の手首をぴしゃりと打った。男は舌打ちして身を引き、細い路地を去っていく。
英美子はその背を追わず、しばらく立ち尽くしてから、包みを袖へ納めた。
その横顔は見えない。
見えないのに、ゆかりにはわかった。あの人の匂いは、裏切りの甘さではなかった。焦げた紙みたいに苦く、切迫していた。
胸の中に、恥ずかしさがまた刺さる。
さっき星志郎に言われたことが、ここへ戻ってくる。圭介のことは反射的に庇い、英美子のことは反射的に疑った。自分は匂いを読めるはずなのに、見たいものへ先に意味をつけた。
「……私、最低です」
ゆかりが呟くと、圭介は通用口の隙間から目を離さずに言った。
「最低とまでは思わない」
「でも、決めつけた」
「そうだな」
「否定してくれないんですね」
「事実だからな」
ひどい。ひどいのに、変に救われる。
慰めるための嘘を、この人はあまり言わない。
「さっきも」
ゆかりは袖口を握りしめた。
「星志郎さんに、あんなふうに言われて、むかついたんです。なのに、英美子さんには同じことをした」
圭介はようやくこちらを見た。
曇り空の下で、その目は静かだった。
「おまえは俺に偏ってる」
その一言で、胸が止まる。
「……はい」
「悪いことばかりじゃない」
「え」
「偏るから拾えるものもある」
「でも、危ないでしょう」
「危ない。だから、星志郎が必要だ」
裏路地に残る風が、榊の葉を鳴らした。
公平な男。偏っている自分。どちらかが正しくて、どちらかが間違いという話ではないのかもしれない。それでも、混ぜてはいけない場面がある。さっき自分は、そこを踏み越えた。
蔵へ戻ると、星志郎はもう楓葉の証言を書き留めていた。
質問は簡潔で、無駄がない。いつ、誰が、どの帳面を、どう説明したか。寄進と婚礼の取次ぎを誰が繋いだか。家の者が礼縁局の名をどの場面で口にしたか。甘い言い換えを一つも許さず、それでいて責め立てる調子にもならない。
楓葉も、途中で一度も目を逸らさなかった。
「叔母は『角の立たない相手を先に回してくださる』と言いました」
「誰が」
「礼縁局の判官付きから、です。名は聞いていません」
「聞かなかったのか、聞けなかったのか」
「……聞いても、娘に要る話ではないと笑われました」
星志郎の筆が止まることはない。
やがて調書が一枚終わると、彼は楓葉へ向き直った。
「本件はあなたの家に不利です。取り下げますか」
「取り下げません」
「親族から圧力がかかる可能性があります」
「かかるでしょうね」
楓葉は扇を膝へ置いた。
「でも、もう知ってしまったので。知った上で黙っていたら、次に誰かへ『家のためです』って言う側になります」
その声には、昨日までの刺々しさと違う硬さがあった。
人へ向ける棘ではなく、自分の足場を固めるための硬さだ。
星志郎はわずかに頷き、調書へ封じ紐を掛けた。
「記録します」
それだけだった。
褒めもしない。慰めもしない。
けれど楓葉は、その一言でようやく肩の力を少し抜いた。
帰路、ゆかりはほとんど喋れなかった。
水路沿いの道には、春の小さな市が立っていた。干し菓子の白、浅葱の布、早咲きの枝花。いつもなら匂いが先に飛び込んでくるのに、今日は自分の胸の内が騒がしくて、外の色が遠い。
鍵守寮へ戻ると、世凪が帳面の山を抱えて走ってきた。
「出ました! 旧式番号、名家側の寄進印と噛み合う組が二十七! しかも、そのうち七つは、綾部判官付きの雑役名簿と同日に動いてます!」
「写しをこっちへ」
星志郎が受け取る。
そして一枚めくったところで、ふと顔を上げた。
「雨宮筆頭、藤代殿。さっき裏で何を見た」
見ていたことまで読まれていたらしい。
圭介が先に答える。
「榊家の裏通用口で、英美子が礼縁局系統と思しき内使いと接触した」
「包みの授受があった」
ゆかりも続けた。
「ただし、その場で敵対と断定できる動きではありません。相手を遮る立ち位置でした」
星志郎の目が、ゆかりへ一度だけ向く。
朝ほど刺さる視線ではなかった。確認するだけの目だ。
「見たままを言えているなら結構」
その一言に、胸の奥の張りが少しだけ緩む。
けれど次の瞬間、星志郎は冷静に言った。
「英美子については、接触先を追う。善意も保護も、監察の免罪符にはならない。必要なら押さえる」
「はい」
ゆかりは頷いた。
今度は、反射で庇わなかった。
夕方近く、寮の中庭へ薄い日が落ちてきたころ、調書と写しはひとまず形になった。
綾部側の網は、礼縁局だけでは閉じていない。名家の寄進網、婚礼指南、仲人筋、宿の差配、そして“揉めない組み合わせ”を望む家々の沈黙。そのどれもが、少しずつ手を貸していた。
楓葉は帰り際、廊下で立ち止まった。
「今日のこと、ありがとうございました」
それはゆかりへ向けた言葉だった。
「私、あなたのことを、ずっと雑だと思っていました」
「遠回しですねえ」
「遠回しではなく事実です」
楓葉は相変わらずだった。
「でも、雑なのと、間違っているのは別でした」
「褒めてます?」
「少しだけ」
その少しだけが、妙に可笑しい。
ゆかりが笑うと、楓葉は気まずそうに目を逸らした。それでも前みたいな棘の匂いではなく、慣れないことをしたあとの白さが漂っている。
「あなたも」
ゆかりは言った。
「綺麗に整ってるだけの人じゃなかったんですね」
「それは失礼です」
「お返しです」
楓葉は扇で口元を隠した。
けれど、その奥でちゃんと笑ったのがわかった。
人が帰り、紙の音が遠くなると、寮の廊下は急に静かになった。
夕暮れ前の薄い光が柱の角へ溜まり、遠くで誰かが茶を沸かしている。ほうじた葉の匂いが漂ってきて、ようやく朝から詰めていた胸が少し緩んだ。
縁側の端に、圭介がいた。
古図を巻き終えたところらしい。ゆかりが近づくと、彼は顔だけ上げる。
「星志郎、嫌いになったか」
いきなりそう聞かれて、ゆかりは目を丸くした。
「なんですか、それ」
「顔に出ている」
「そこまで子どもじゃありません」
「そうか」
たぶん少しは出ていたのだろう。否定しきれなくて、ゆかりは欄干へ肘を置いた。
「嫌いというより、痛かったです」
「だろうな」
「でも、必要なのもわかりました」
「そうだな」
答えが短い。
けれど今日は、その短さが逃げではないとわかる。
「私」
ゆかりは庭の石を見ながら言った。
「この人のことになると、先に庇うんだなって、自分でわかりました」
圭介は何も言わない。
沈黙のまま待つ。その待ち方が、急かされるより話しやすい。
「本当は、匂いを読むなら、誰にでも同じように読まなきゃいけないのに」
「無理だ」
「そう言い切ります?」
「人間だからな」
その返しに、思わず笑ってしまう。
「ずるい」
「どこが」
「そうやって、急に普通のことを言うところです」
圭介は少しだけ視線を外し、それから静かに言った。
「おまえが俺に偏るのは、わかっている」
また心臓が跳ねる。
「わかってるなら、困るでしょう」
「困る場面もある」
「ほら」
「助かる場面もある」
朝と同じ言葉だった。
でも今度は、胸へ落ちたあと、さっきほど痛くない。危うさも含めて言われているからだ。
「だから、混ぜるな」
圭介が続ける。
「偏りは偏りとして持て。判断へそのまま流すな」
「……はい」
「今日は途中で戻した」
「星志郎さんのおかげで」
「それもある」
風が抜けた。
夕方の水路から、ひやりとした湿りが上がってくる。その中に、ほんのわずかに、檜に似た静かな匂いが混じった気がした。
ゆかりは息を止める。
けれど今日は追わなかった。
追うより先に、確かめることがある。自分の胸の中で、何を見たいから嗅いでいるのか。それを誤魔化さないほうが先だ。
「圭介さん」
「なんだ」
「私、たぶん、この人に偏ってる、っていうの」
「さっき聞いた」
「今、自分で認めました」
「そうか」
たったそれだけの返事なのに、不思議と逃げ場がなくて、同時に救いもある。
綺麗な公平さだけでは届かない場所があって、偏りだけでは壊してしまう場所がある。その両方を今日、やっと知った気がした。
中庭の向こうで、星志郎がまだ灯りもつけずに調書を読み返している姿が見えた。楓葉は自分の家へ戻り、きっと今ごろ、扇を閉じて親族と向き合っている。英美子はあの苦い包みを袖へ入れたまま、どこかで次の手を選んでいるだろう。
それぞれが、それぞれの信念で立っている。
都合のいい相手を割り振る綾部の仕組みは、人の迷いを不要なものとして削る。
けれど今日見た人たちは、迷いながら立っていた。公平であろうとする男も、籠の中だったと知った娘も、誰かを守るために泥を被る女も、そして、一人の男へ偏ってしまう自分も。
夕暮れの光が縁側を細く染める。
その色は均一ではない。柱の影は濃く、石の上は薄く、水面の照り返しだけが柔らかい。
公平とは、全部を同じ色で塗ることではないのかもしれない。
違いを違いのまま見て、それでも量り方だけは曲げないこと。
偏りとは、捨てるべき欠点である前に、誰かを選んでしまう人の性なのかもしれない。
その危うさごと引き受けて、次の一歩で間違えないようにするしかない。
中庭へ長い影が落ちる。
その中で圭介は古図を抱え直し、ゆかりは自分の袖口をそっと放した。
綾部宗久へ届く網は、思っていたより広い。
名家も、役所も、善意の顔をした保護も、その中にある。
だからこそ、こちらももう、好ましい人だけを信じるわけにはいかなかった。
それでも。
それでも隣に立つ人を選んでしまうことまでは、きっと消えない。
偏っていると知ったうえで、見誤らないように進む。
今日のゆかりにできるのは、たぶんそれだけだった。
【終】


