言香の花嫁は、鍵穴の先を覗く

第10話 真幌の婚礼、消えた花婿


 九話の翌々日、朝から藤代香舗の店先は落ち着かなかった。

 香袋を包む薄紅の和紙が机の上へ何枚も広がり、母は棚から祝い用の匂い袋を出したり戻したりしている。店の前の水路を小舟が通るたび、軒の風鈴が細く鳴った。祝言前の家へ納める品が多い日らしく、帳場の上には朱の印を押した包みが三つ積まれている。

「白檀はこっち。沈香は二つに分けて。真幌ちゃんのところへ持っていくのは、祝い用だから少しやわらかくして」
 母が言いながら紐を結び直す。
「柳橋の向こうは、今日は親類も出入りするでしょうしねえ」

 真幌の婚礼が決まった。

 相手は川港の荷問屋の次男、橘宗太朗。都の外れで材木と乾物を扱う家の生まれで、働き者、口数は多くないが誠実、という触れ込みだった。礼縁局を通した話ではなく、茶屋へ通う客筋から繋がった縁らしい。英美子の件が明るみに出たばかりのところへ届いた話なので、ゆかりは正直、最初は警戒した。けれど真幌本人は、相手と三度会って、自分で確かめてから返事をしたと言っていた。

「匂いの話は今日はなしね」
 包みを抱えたまま母が言う。
「祝いの日まで、あんたまで顔をしかめてたら、真幌ちゃんが気にするから」

 言われなくても、そのつもりだった。
 心から祝いたい。祝える相手であってほしい。真幌は、ゆかりが祝言の場で息苦しくなることを知りながら、無理に引きずり出そうとはしなかった。来られるときだけ来ればいい、いやなら厨房に隠れていていい、と笑ってくれる人だ。そんな従姉の晴れに、最初から水を差したくはない。

「わかってる」
 ゆかりは包みを風呂敷へ入れた。
「今日は祝いの香を届けるだけ。嗅ぎ回るのはなし」

 そう口にしてから、自分で少しだけ嫌になる。
 嗅ぎ回る、だなんて。役に立つこともあると知ったのに、気を抜くとまだ自分の力をそう呼んでしまう。

 柳橋南の茶屋《春告げ》は、昼前から賑わっていた。
 河岸へ向かう人足、祝言の相談に来た親類、茶を飲みに寄った近所の女たち。その合間を縫って、真幌は一人で盆を持って立ち働いている。藍の前掛けに、袖を少しだけきちんと留めた姿は、いつもの茶屋娘の真幌なのに、髪へ白い小花の簪が一本挿さっているだけで、見慣れた横顔が急に遠く見えた。

「ゆかり」
 真幌が気づいて笑う。
「来てくれたんだ。助かった。祝いのお客さんが朝から切れなくて」
「婚礼前なんだから当たり前でしょう」
「当たり前でも手は二本しかないの」

 声はいつも通りだ。けれど、近くへ寄ると、緊張した朝の匂いがあった。怖がっているのではない。足袋の鼻先で地面を確かめながら、一歩ずつ前へ出る人の匂いだ。

「相手は?」
 ゆかりが聞くと、真幌は顎で座敷のほうを示した。
「叔父さんたちと話してる。あとで紹介する」

 座敷の簾の向こうに、男の声がいくつか交じっていた。茶碗が触れ合う音。仲人役の老婆が高めの声で笑っている。そこへ運ばれていく煎茶の匂いはあたたかいのに、空気の底が少しだけ薄い。

 その薄さに、ゆかりは目を瞬かせた。
 違和感はまだ輪郭を持たない。ただ、簾の向こうに誰かいるはずなのに、そこだけ音の影が浅いような感じがする。

「どうしたの」
 真幌が気づく。
「いや。ちょっと、人が多いから」
「だったら無理しなくていいよ。裏で包み開けてて」
「そのくらいじゃ逃げません」

 言い返しながらも、胸の内へ冷たい針が一本落ちたままだった。

 昼を過ぎ、客足がひと息ついたころ、真幌はようやくゆかりを奥座敷へ呼んだ。
 床の間に掛けられた祝儀の軸の前で、男が立ち上がる。二十代の終わりくらい。背は高く、肩幅があり、日焼けが残っている。働く手だ。荷問屋の次男と聞いていたから、見た目は話に合う。目元はやわらかく、口元も丁寧に笑う。

「従妹のゆかりさんですね。宗太朗です」
 男はそう言って頭を下げた。
「真幌さんには、もったいないくらいきちんとした方だと伺ってます」

 その瞬間、ゆかりの鼻先を、妙なものが掠めた。

 匂いが、ない。

 正確には、香木も茶も川風も人の体温もある。なのに、言葉の芯に乗るはずのものだけが、きれいに抜け落ちていた。褒め言葉の上澄みだけが滑って、底へ沈む感情がひとつもない。まるで、書き写した祝辞を口にしているみたいに。

「こちらこそ」
 ゆかりは反射的に笑みを返したが、喉の奥が固い。
「真幌は働きすぎるところがあるので、ちゃんと休ませてください」
「もちろんです」
 宗太朗は頷いた。
「無理はさせません。穏やかで、揉めごとのない家にしたいと思っています」

 また、空白だった。

 穏やか。揉めごとのない家。
 言葉としては正しいのに、そこへ誰かの顔が一枚も浮かんでいない。真幌の笑い方も、湯呑の持ち方も、熱い茶を冷ます癖も、何も見ていない人の言い方だった。

 真幌は気づいていないらしい。宗太朗の言葉へ自然に頷いている。
 ゆかりはその場で何か言いかけ、唇を閉じた。祝言前の座敷で、「あなたの花婿の言葉、中身が空っぽです」と言えるはずがない。

 結局その日は、香袋を納め、祝儀の席で使う香炉の調整を手伝って帰った。
 帰り道、柳橋の上まで来たところで、ゆかりはようやく息を吐いた。川面に夕陽が落ちている。舟の櫂の音が遠い。

「どうした」
 背後から声がして、ゆかりは少し肩を揺らした。

 圭介だった。橋のたもとの石段から上がってきたところらしい。今日は鍵守寮の羽織ではなく、灰青の羽織に仕事着の袴。外回りの帰りか、袖口に薄く埃がついていた。

「驚かせないでください」
「声はかけた」
「足音が軽いんです」
「気をつけて歩いている」

 その理屈は違う気がする。
 けれど今はそれに噛みつく気力がなかったらしい。圭介はゆかりの顔を一度見て、すぐに言った。

「祝い事の帰りの顔じゃない」
「そんな顔してました?」
「ああ」

 ごまかそうとしたが、無理だった。
 ゆかりは欄干へ手を置き、宗太朗のことを話した。荷問屋の次男だということ。見た目も受け答えも話に合うこと。なのに、言葉に感情の匂いが乗っていなかったこと。

「匂いがしない、じゃなくて、空白なんです」
 説明しながら、自分でももどかしくなる。
「あなたのときとは違うんです。圭介さんは、匂いを受け取れないから薄い。でも、宗太朗さんのは……なんというか、最初からきれいに削られてるみたいで」
「作られた受け答え」
「そう。それだけならまだいいんです。でも、『揉めごとのない家にしたい』って言ったとき、本人の願いじゃなくて、誰かに渡された答えを読んでるみたいだった」

 圭介はすぐには返事をしなかった。
 水路の向こうに視線を置き、それからゆっくりこちらを見る。

「いつ祝言だ」
「三日後です。明日の夜が親類だけの顔合わせで、その翌朝に式」
「早いな」
「茶屋は客の都合もありますから」

 圭介は少し考え、橋の欄干を軽く叩いた。
「今夜、鍵守寮で記録を当たる」
「礼縁局の?」
「それと水運の名簿、川港の荷役帳、婚礼宿の紹介控え。橘宗太朗がどこで誰に会っていたか、痕を拾えるかもしれない」

 ゆかりは胸の下の固さが少しだけほどけるのを感じた。
「私も」
「顔合わせの準備があるんだろう」
「ありますけど」
「明日、茶屋へ出る前に鍵守寮へ来い」
 圭介は淡々と言う。
「一人で抱えるな」

 一人で抱えるな。
 その言葉が、橋の上の風より先に胸へ届いた。

「はい」
 答えると、圭介は頷いた。
「帰りは送る」
「橋ひとつ向こうですよ」
「橋ひとつ向こうでも送る」

 わざわざ言い直されて、ゆかりは少しだけ笑ってしまった。
 さっきまで胸へ張りついていた薄い不安が、そこだけ形を変える。

 翌朝の鍵守寮は、まだ日の高くならないうちから紙の山に埋まっていた。

「橘宗太朗、二十八。川港町の橘荷問屋次男」
 亜寿加が帳面をめくる。
「表向きの評判は悪くない。荷役にも出る。酒癖も女癖も特記なし」
「表向き、ってついた時点で嫌ですねえ」
 世凪が口を挟む。
「嫌ですが、さらに嫌なこともわかりました」

 麻里佳が別の綴じを差し出した。白藍渡しの宿帳の写しだ。
「先月末から今月初めにかけて、橘宗太朗の名で《水鶏楼》に三泊。同行者の欄が全部空白です」
「三泊も?」
 ゆかりが身を乗り出す。
「婚礼前の顔合わせより前ですよね」
「ええ。そして同じ日に、礼縁局の雑役名簿から消えている男が一人います」
 麻里佳が指差した先に、《沓沢》という名があった。
「綾部判官付きの雑役だった男です。先月、無断欠勤扱いで消されてます」

 圭介は写しを一枚ずつ並べた。
「橘宗太朗が水鶏楼へ滞在した日と、沓沢が名簿から消えた日が重なる」
「つまり」
 ゆかりが言う。
「真幌の相手になる前に、礼縁局側の誰かと会っていた」
「可能性は高い」

 そのとき、央和が部屋へ入ってきた。
「柳橋南の茶屋から使い」
 短く告げ、差し出したのは小さな包みだった。
 中には、茶屋で使う箸袋にくるまれた短い書付が入っている。真幌の字だ。

 《今夜の顔合わせ、宗太朗さんの様子がおかしい。早めに来て》

 読み終える前に、圭介はもう立っていた。

 顔合わせの席は、茶屋の二階座敷で開かれた。
 夕方の柳橋は、提灯の色が水へ揺れている。いつもなら客の笑い声が外までこぼれる《春告げ》も、今夜は簾がしっかり下ろされ、親類の話し声だけが低く響いていた。

 真幌は階段の途中で二人を待っていた。
 頬が少し強張っている。

「来てくれて助かった」
「何があったの」
「宗太朗さん、昼から妙なの」
 真幌は声を潜める。
「さっきまでは普通だったのに、仲人さんが連れてきた男と裏で少し話したあと、急に……うまく言えないけど、目が遠くなった感じで」
「男?」
 圭介が問う。
「紺の小袖。礼縁局の札は見えなかったけど、帳面を持ってた」

 ゆかりの背に冷たいものが走った。

 二階へ上がると、座敷の中央に宗太朗がいた。昼間よりきれいに髪を撫でつけ、口元へ薄い笑みを貼りつけている。
 そして、その匂いは昼よりさらに悪かった。

 空白の周囲に、甘い紙と薄い鉄の匂いが巻いている。
 人が喋っているはずなのに、そこだけ祝言の人形が座っているみたいだった。

「真幌さん」
 宗太朗が言う。
「明日の式が済んだら、茶屋は畳みましょう。働きに出る必要はありません。人付き合いは最小限に、家のことだけ見ていればいい」
「え?」
 真幌が瞬く。
「でも、茶屋は父さんと母さんの」
「揉めごとを減らすには、そのほうがいい。私の母もそう言っている」
「私、まだそういう話は」
「多くを話し合う必要はないでしょう。夫婦は穏やかであればそれで」

 言葉のひとつひとつが、紙を折るみたいに均一だった。
 真幌の顔色が変わる。

「宗太朗さん」
 ゆかりは一歩前へ出た。
「その話、自分で考えて言ってますか」

 座敷がしんとなる。
 親類たちが一斉にこちらを見る。
 宗太朗はまばたきを一度した。遅い。聞かれたことを受け止める前に、答えの置き場を探している人の間だ。

「家のために」
 彼は言った。
「最適な形を」
「その『最適』、誰に渡されたんです」
 ゆかりが言い切るのと同時に、宗太朗の懐から、かすかな金具の鳴る音がした。

 圭介が動いた。
 袖口から封鍵具を滑らせ、宗太朗の手首を押さえる。畳へ小さな鍵が一つ落ちた。普通の縁鍵より薄く、柄のところへ見慣れない印が刻まれている。

「触るな!」
 宗太朗が初めて声を荒げた。
 その瞬間だけ、空白の向こうから、息の詰まるような恐怖が滲んだ。

 だが遅かった。落ちた鍵が畳の目へ触れた瞬間、座敷の隅の文机の引き出しがひとりでに開き、黒い靄が細く伸びる。鍵穴の裂け目だ。

「下がって!」
 ゆかりが叫ぶ。
 親類たちが悲鳴を上げ、仲人が尻もちをつく。真幌は一瞬迷ったが、すぐに近くの祖母を抱えるようにして入口へ寄せた。動きが早い。

 圭介は宗太朗を畳へ伏せさせ、裂けた鍵穴へ封鍵具を差し込んだ。
 だが靄は完全には閉じない。裂け目の向こうから、同じ声が何度も繰り返し聞こえる。

 《穏やかであれ》
 《揉めるな》
 《従え》
 《最適であれ》

 人の声なのに、人の息がついていない。

「藤代!」
 圭介の声が飛ぶ。
「核を読めるか」
「やってみます!」

 ゆかりは裂け目の前へ膝をついた。
 鼻先へ押し寄せるのは、墨、古紙、甘い香、そして空っぽの器に言葉だけ流し込んだような嫌な匂い。
 その底に、かすかに別のものがあった。濡れた縄。土間。冷えた水。逃げ出したいのに足がもつれるときの酸っぱい汗。

「これ、宗太朗さんの恐怖です」
 ゆかりは顔を上げる。
「誰かに言い聞かされてる。『お前は足りない』『理想の婿になれ』って」
「場所は」
「川べり……倉……木の匂いが強い。荷をまとめる札がある」

 圭介の目が変わった。
「橘荷問屋の旧倉か」
「知ってるんですか」
「川港町の外れに、今は使っていない婚礼荷の仮置き倉がある」
 圭介は封鍵具を一度押し込み、裂け目を仮封じに変えた。
「央和、ここを頼む。世凪はこの鍵を保管。麻里佳は親類を落ち着かせろ」
「はい!」
 階下に控えていた面々が一斉に動く。

 真幌が入口で言った。
「私も行く」
「だめ」
 ゆかりが即答した。
「危ない」
「危ないのはわかってる」
 真幌の声は震えていない。
「でも、あの人が何を言わされてたのか、自分の耳で聞かないと、私は明日も明後日も前へ進めない」

 圭介が短く真幌を見る。
「走れるか」
「走れます」
「足元は悪い」
「転んだら起きます」

 その返しに、ゆかりは反対の言葉を飲み込んだ。
 真幌の目は、もう誰かに庇われる側のものではない。

「私の後ろを離れるな」
 圭介が言い、三人は茶屋を飛び出した。

 川港町の夜は、都の中心より風が荒い。
 荷役を終えた舟が何艘も繋がれ、濡れた縄の匂いが石畳へ染みている。遠くで番犬が吠えた。旧倉は、河岸のいちばん外れ、使われなくなった船着き場の脇にあった。板壁は古び、戸には新しい錠前がひとつだけ付いている。古いのに、人の出入りだけが最近だ。

「中に二人」
 ゆかりが囁く。
「一人はさっき茶屋にいた帳面の男。もう一人……宗太朗さん?」
「いや」
 圭介が首を振る。
「宗太朗はさっき確保した。なら別の男だ」

 圭介は戸口へ寄り、鍵穴へ細い封鍵具を差し込んだ。金具がほとんど音もなく回る。中から低い声が漏れた。

「いいか、明日の朝まで同じ文を繰り返せ」
 男の声だ。若くはない。
「茶屋は畳ませる。妻は家へ入れる。外との付き合いは減らす。親の口はお前が抑えろ」
「……はい」
 もう一つの声は、掠れていた。
「もっとはっきり」
「はい」
「お前は選ばれた。理想に近づける好機だ。うまくやれば、この先も面倒はない」

 理想に近づける。
 その言い回しに、ゆかりの背が粟立つ。

 圭介が視線で合図する。
 三つ数える前に戸が開き、彼は中へ滑り込んだ。次の瞬間、短い音が二つ。帳面の男が床へ転がり、もう一人の痩せた男が壁へ手をつく。部屋の中央には木机があり、その上へ薄い札と細長い鍵、それに人名を書き連ねた綴じが広げられていた。

「鍵守寮だ」
 圭介の声が冷える。
「帳面から手を離せ」

 痩せた男は一瞬だけ笑った。
「もう遅い」
 そして机の下へ手を入れようとする。

 真幌が一番早かった。
 近くの荷札束を掴み、男の手首へ叩きつける。派手な音はしない。ただ、男が驚いて手を止めた隙に、圭介の封鍵具がその腕を捻り上げた。

「っ、何するのよ」
 真幌が肩で息をしながら言う。
「人の婚礼を帳面みたいに並べないで」

 その一言が、倉の冷えた空気をまっすぐ割った。

 ゆかりは机の上の綴じを見た。
 表紙に題はない。だが中を開けば、名、年、家筋、気性、適応、懸念、誘導方針――そんな欄が整然と並んでいる。非公式名簿だ。礼縁局の正式な書式に似せてあるが、踏み込み方が異様だった。

 《真幌 茶屋手伝い 自立心強し 経験重視 押さえ込みより利便を示す》
 《橘宗太朗 次男 自己評価低い 理想像を与えれば従順化しやすい》

 ゆかりの指先が冷える。
 人の人生が、ここでもまた調整項目として書かれていた。

「綾部判官の指示ですか」
 ゆかりが問うと、帳面の男は唇を引き結んだまま黙る。

 代わりに、壁際の痩せた男が鼻で笑った。
「判官さまは、揉め事を減らしたいだけだ。娘も婿も、選びきれずに不幸になるくらいなら、最初から合う形へ寄せればいい」
「寄せる?」
 真幌が言う。
「人の口へ勝手な言葉を詰めて?」
「幸せそうに見える形を作るんだよ」
「見えるだけでしょ」

 真幌の声は高くない。だが、返した言葉があまりにまっすぐで、男の口元が一瞬だけ歪んだ。

「私は、働きすぎるし、思ったことはすぐ顔に出るし、茶の葉の仕入れで父さんと喧嘩もする」
 真幌は倉の中央へ一歩出る。
「でも、そういう私を見て、それでも一緒にいたいって言う人じゃないなら、穏やかでも何でもいらない」

 その言葉を聞いて、倉の奥の影が揺れた。
 荷の陰に、もう一人いた。

「宗太朗さん」
 ゆかりが息を呑む。

 彼は縄で縛られていたわけではない。ただ、木箱の脇へ座り込み、膝の上で指を強く握っていた。茶屋にいた宗太朗本人だ。顔色はひどく悪い。昼の座敷で見た均一な笑みはもうない。

「なんで、そこに」
 真幌が言う。

 宗太朗は顔を上げるまでに時間がかかった。
「逃げたんです」
 声は掠れていた。
「茶屋から戻る途中、怖くなって。明日の朝までに、もう少し覚えればうまくやれるって、そう言われて……でも、あんたの顔を見たら、急に全部嘘みたいになって」
「だから消えたの」
「消えるしか、思いつかなかった」

 その言葉には、ようやく人の匂いが乗っていた。格好悪さ、情けなさ、逃げた自分への嫌悪。きれいじゃない。きれいじゃないから、やっと本物だった。

「どうしてそんなことされたんです」
 ゆかりが聞く。
「誰に」
「沓沢に」
 宗太朗は痩せた男を見た。
「最初は、婚礼の前に助言をくれるだけだと思った。俺みたいな次男でも、茶屋の娘さんと釣り合うように言葉や立ち居振る舞いを整えればいいって。何度か宿へ呼ばれて、帳面を見せられて……真幌さんは自分の足で確かめる人だから、まず安心させろって」

 真幌の表情が硬くなる。
 怒っている。だが泣いてはいない。

「安心させるって、私を騙すこと?」
「違う、いや、違わない」
 宗太朗は顔を覆った。
「最初は、まともに向き合うための練習だと思ったんだ。でもだんだん、俺が何を言うかまで向こうが決めるようになった。『穏やかであれ』『茶屋は畳ませろ』『外を減らせ』って……」
「あなたはそれを受け入れた」
 真幌が言う。
「……はい」

 沈黙が落ちた。
 倉の外で水が板を叩く音がする。

 圭介はその間に机の上の細長い鍵を取り上げていた。
 表面へ刻まれた印は、白藍渡しで見たものと同じ系統だ。正式な祭具ではない。祭具を真似て、人の言葉を均してしまうための道具。

「粗悪な模造品だが、厄介だな」
 圭介が低く言う。
「縁鍵へ直接触れず、言葉だけを削る」
「そんなことまで」
 ゆかりが呟く。
「だから空白だったのか」

 真幌は宗太朗をまっすぐ見た。
「一つ聞きます」
「……はい」
「帳面も、助言も、何もなかったら。あなたは私と結婚したかった?」

 宗太朗は答えに詰まった。
 その数息だけで、真幌の口元から力が抜ける。笑ったわけではない。ただ、覚悟の形へ変わった。

「もういい」
 真幌は言った。
「今、迷う人と明日の朝に並んでも、私は笑えない」

「真幌」
 ゆかりが名前を呼ぶ。
 真幌は頷き、ゆかりのほうを見ないまま続けた。

「私は、穏やかさが嫌いじゃないよ。毎日怒鳴り合う家なんて、しんどいに決まってる」
 声は静かだ。
「でも、誰かに手渡された『ちょうどいい』で一生を決めるのは、もっとしんどい。私は、うまくいくかどうかわからなくても、自分で選んだ相手と喧嘩したい」

 倉の空気が止まったみたいだった。
 沓沢が何か言い返そうとしたが、圭介がひと目で黙らせる。

「婚礼は白紙にします」
 真幌ははっきり言った。
「父さんと母さんには私が話す。世間に何を言われても、自分で決めたって言います」

 その言葉の匂いは、熱い茶を注いだ直後みたいだった。
 少し渋くて、でも芯がある。

 ゆかりの胸が詰まり、同時に、妙に誇らしかった。
 守られるばかりじゃない。真幌は自分で立つ人だ。だからこそ、こんな夜にここまで来た。

 圭介は央和へ合図を送り、沓沢と帳面の男を引き渡す段取りをつけた。
「綴じと模造鍵は押収する。名簿の写しも」
「綾部まで繋がりますか」
 ゆかりが聞くと、圭介は綴じの奥へ挟まっていた薄紙を抜き取った。

 そこには簡潔な筆跡でこうあった。
 《楠の帳、第三綴を参照》
 《適合率七割以上より優先》
 《判官印は用いず》

 署名はない。だが最後の一行が、逆に誰の手口かを物語っていた。
 正式印を使わず、記録だけ流し、非公式名簿で人を選別する。いかにも綾部らしい慎重さだ。

「直接ではないが、十分だ」
 圭介が紙を畳む。
「少なくとも『一部の暴走』では済まなくなる」

 旧倉を出たとき、夜風は行きより少し冷たかった。
 河岸の灯が水へ揺れている。真幌は肩を落としてはいないが、さすがに歩幅が小さくなっていた。

「送ります」
 ゆかりが言うと、真幌は笑った。
「自分もへとへとでしょ」
「従姉を置いて帰れるわけないです」
「私も」
 圭介が短く言う。

 三人で柳橋まで戻る道は、思ったより静かだった。
 途中で真幌がぽつりと口を開く。

「ごめんね、祝いの香、無駄になっちゃうかも」
「無駄じゃないです」
 ゆかりはすぐ返した。
「真幌姉さんが、自分で決めるための日に使えます」
「そういう日、また来るかな」
「来ます」
 答えたのは圭介だった。
「自分で白紙を選べる人には、次が来る」

 真幌は少し目を丸くしてから、ふっと笑った。
「雨宮さんって、たまにものすごくまっすぐ言うよね」
「たまに?」
 圭介がほんの少しだけ眉を動かす。
「普段は曲がってるみたいに聞こえるので」

 ゆかりが言うと、真幌が声を立てて笑った。
 その笑いは少し掠れていたが、さっきまでよりずっと軽い。

 茶屋へ着くと、真幌の父母はまだ起きていた。
 事情を話すのはここからだ。つらい夜になるだろう。
 けれど真幌は戸口で振り返り、二人へ手を振った。

「明日、ちゃんと自分の口で話す」
「うん」
「香、持ってきて」
「もちろん」
「あと、ゆかり」
「何」
「相手の言葉が空っぽだったって、最初に気づいてくれてありがとう」

 それを聞いた瞬間、ゆかりの喉の奥が少しだけ熱くなった。
 祝言を壊したのではない。偽りのまま進むのを止めたのだと、ようやく胸の内へ落ちてくる。

 帰り道、柳橋の上で足を止めると、川面に提灯の赤が細く揺れていた。
 夜はまだ深い。だが、橋の向こうにはもう朝へ向かう色がほんのわずかに混ざり始めている。

「今日は」
 ゆかりが言う。
「なんというか、胸が痛いのに、少しすっとしてます」
「そういう夜もある」
「ありますか」
「ああ」
 圭介は水面を見たまま答える。
「偽物を剥がしたあとは、冷える。だが、そのほうがましだ」

 その言い方があまりに静かで、ゆかりは横顔を見た。
 偽物を剥がしたあと。
 彼もきっと、それを知っている顔だった。

「圭介さん」
「何だ」
「私、真幌姉さんみたいに、ちゃんと自分で選べるようになりますかね」
 聞いてから、少しだけ子どもじみていたと思う。
 けれど圭介は笑わなかった。

「もう始めている」
「え」
「見ないふりをせず、嗅いだものから逃げなかった」
 圭介はそう言ってから、わずかに間を置く。
「俺も、おまえがいたから今日の空白を見落とさずに済んだ」

 胸の奥が、きゅ、と鳴る。
 橋を渡る風が少し強くなり、袖が触れそうで触れない。

「それ、励ましてます?」
「事実を言っている」
「そういうところです」
「何がだ」
「たまに、ものすごくまっすぐです」

 言い返すと、圭介は一度だけこちらを見た。
 その表情は大きく変わらない。けれど、橋の灯りの下で、口元がほんのわずかにやわらいだ気がした。

 真幌の婚礼は白紙になった。
 都の噂好きたちは、明日には好き勝手なことを言うだろう。茶屋の客足が少し落ちる日もあるかもしれない。
 それでも、ゆかりは今夜の真幌の背を思い出す。泣き崩れず、怒鳴りもせず、自分の言葉で「いらない」と言った背中を。

 失ったものがないわけではない。それでも、失わずに済んだもののほうを、今夜はまっすぐ数えられる気がした。

 与えられた最適解は、たしかに見栄えがいい。
 けれど、そこへ自分の息が通っていなければ、言葉はあんなふうに空白になる。

 橋の下を、遅い舟が一艘通った。
 水を押す音が夜の底で長く伸びる。

 白紙を選ぶのは、何もないところへ戻ることではない。
 誰かに書かれた筋書きをいったん捨てて、自分の字で書き直すための始まりなのだと、今夜の雨鏡京は静かに教えていた。

【終】