放置されたお飾り妻の矜持

 差し出された帳簿に一通り目を通す。
 そして、何度か同じ項目を確認したあと、美弥子はパタンと帳簿を閉じた。

「やっぱり問題ないようね」
「あの、奥様……問題とは……?」
「食糧品についてちょっとね。単刀直入に言うけど、ここ一か月私に出された食事が全部粗末なものばかり。最初は私が嫁いだことで経済が悪化したのかと思ったけれど、どうも違うみたいだし。これは、貴方の指示かしら?」

 美弥子が今まで出された食事の内容を書き出した紙を侍従長に差し出す。
 すると、侍従長はそれを見るなり血相を変えて「申し訳ありません!」と頭を下げた。

「それで? 貴方がやったのかしら?」
「いえ、滅相もございません! ですが、今回の件はわたしの監督不行き届きでございます。奥様にはなんとお詫びしたらよいか」
「では、これから改善されるということ?」
「はい。直ちに!」
「では、早速改善してちょうだい」
「かしこまりました」

 侍従長は頭を下げると早々に離れを出て行こうとするのを美弥子は「ちょっと待って」とすかさず引き留めた。

「何でしょうか?」
「旦那様のお戻り予定は? いつになったら私はお会いできるのかしら?」
「……それが、まだ具体的には予定がわかりかねまして。昨今の反体制活動が活発化しており、旦那様は制圧にお忙しいようで」
「ふぅん。なるほど。たまにはご自宅にお戻りになられているの?」
「はい。かなり日数は限られてますが」
「……そう。わかったわ。旦那様にはくれぐれもご自愛してくださるよう伝えてちょうだい」
「かしこまりました」

 侍従長は頭を下げると今度こそ離れを出ていく。
 久々にこんなにも喋ったせいで何となく口が痛いような気がするが、言いたいことは言えて美弥子は満足だった。
 だが、満足したところで心にぽっかりと空いた穴は簡単に埋まることはなかった。


 ◇


「本日よりお世話させていただきます。小夜と申します。よろしくお願いします」
「えぇ、よろしくお願いします」

 約一ヶ月に渡る粗末な食事を侍従長に告発した結果、先日まで担当していたお側付きの子が外れ、代わりに侍従長の娘である小夜が美弥子のお側付きになることになった。
 侍従長曰く自分の不手際ということで身内を出し、今後は同じことが起きぬようにするとのことらしい。
 確かに、小夜が美弥子のお側付きになってからというもの粗末な食事問題は解消され、直義が会いに来ないこと以外は特に不満のない生活を送れている。

「奥様。おはようございます」
「おはよう、小夜」

 小夜はとても可愛らしい子だった。
 美弥子より二つほど若い十七才。たった二才の差なはずなのになんだか眩しく見えた。

「ねぇ、小夜。旦那様はどうして私とお会いにならないのだと思う? 侍従長から何か聞いてない?」

 美弥子が質問を投げかけると、困惑した表情を浮かべる小夜。その姿はまるで怯える小動物のようで、ただ質問してるだけだというのに少しだけ居た堪れなくなる。

「申し訳ありません。わかりかねます」
「そう」
「旦那様はお仕事がお忙しいそうで」
「妻に会えないほど忙しいのね。……小夜は旦那様に会ったことある?」
「え? えー……っと……」

 小夜の様子がさらにしどろもどろになる。
 視線は泳ぎ、ビクビクと身体を震わせる姿に、察しのいい美弥子が気づかないはずがなかった。

「そう、会ってるのね」

 美弥子が目を伏せると、小夜の「申し訳ありません」という震えた声が聞こえて、なんだか惨めな気持ちになってくる。
 まるで、自分だけには会いたくないのだと突きつけられているような気分。
 自分の存在意義とは何なのか、自分自身に問わずにはいられなかった。

(ダメよ、美弥子。直義様の妻がそんな気弱でどうするの)

 美弥子は自分自身に言い聞かせるように自分自身を叱咤する。
 そして心を奮い立たせ、これ以上考えないように心に蓋をするのだった。


 ◇


 それからさらに一ヶ月が経った。
 未だに直義が美弥子がいる離れにくる気配は一向にない。
 使用人達それぞれに聞いても「お忙しいようで」の一点張り。
 けれど、たまに廊下を歩いていると使用人達が直義の話をしているときがあるので、直義が帰ってきて彼らには顔を見せていることは明白だった。

 そんなある日、いつものように美弥子に「旦那様は本日もお忙しいのかしら?」と尋ねると、あからさまにビクリと身体を震わせる小夜。
 これは何かまた隠しているのではと「どうかした?」と追及するも、「いえ、何でもありません」と口篭ってしまった。

「何でもないようには見えないけれど。……言いづらいのなら、貴女のお父上にお聞きしましょうか?」
「え、っと……それは…………」
「なら、ちゃんと答えてちょうだい」

 美弥子が強い調子で言うと、おずおずとした様子の小夜が口を開いた。

「実は、旦那様が帰って来られないのは、夜……お遊びに……という噂が……」
「お遊び……そう、なるほど。そういうこと」

(私に会う時間はないけど、女遊びはする時間はあるということね)

 そう心の中で反芻して、胸が痛む。
 祝言と初夜のときくらいしかまともに会って会話していないというのに、それで飽きられてしまったのかと思うと情けないやら悔しいやら。何と言葉で表現したらよいか、美弥子にはわからなかった。

「あくまで噂でございます。きっと誰かのでまかせでしょうから、奥様がお気になさるようなことでは……」

 必死に弁明するような言葉を言う小夜に、美弥子はすぐに何も返せなかった。
 口を開いてしまえば、みっともない言葉が出てきてしまうかもしれない。
 そんな取り乱した姿を誰にも見られたくはなかった。

「……わかったわ。教えてくれてありがとう」
「いえ。……あの、奥様?」
「なに?」
「えっと、お気を落とさないでくださいね」

 小夜の言葉に、思いきり鈍器で頭を殴られたような気分になる。
 小夜に恐らく他意はないだろう。
 だが、小夜から発せられたその言葉は美弥子にとって屈辱以外の何者でもなかった。

「お気遣いありがとう。でも、心配しないで。気にしてないから」

 必死に自分の気持ちが溢れないよう、自分に言い聞かせるように務める。多少声が震えてしまって自己嫌悪するも、美弥子は努めて平静を装った。

(ダメダメ。動揺してはダメよ、美弥子。使用人にそんな顔を見せてはダメ)

 これは、華族令嬢としての矜持だった。
 本当は傷つき、悲しくて今にも泣きそうであったが、美弥子は華族令嬢として。また、直義の妻として気丈に振る舞うのだった。