更地の月

 駅前の灯りが、夜の顔を作り始めていた。
 更地の前で崩れたあと、喫茶店で少し休み、水を飲み、紅茶を口にして、九条雅紀の呼吸は表面だけは戻っていた。顔色も、さっきよりは幾分ましに見える。だが、それが「帰れる」という意味ではないことは、三人とも分かっていた。
 喫茶店を出たあとも、九条は一人で進行方向を決めようとしなかった。
 改札へ向かう人の流れがある。バス停へ急ぐ人もいる。車寄せにはタクシーが二台いて、ひとつはすぐに客を乗せて発進した。そういう当たり前の動きの中で、九条だけが少し遅れていた。遅れているというより、自分の足で「帰る先」を選ぶことができないまま、他人の動きに合わせて立っている。
「今日はホテルにしろ」
 真壁彰が言った。
 低く、短い声だった。命令というより、判断の提示に近い。
 九条はすぐに首を振った。
「そこまでじゃない」
「そこまでだよ」
「少し休めば大丈夫」
「その大丈夫、今日は信用してない」
 真壁の言い方は強かったが、責める響きではなかった。
 むしろ、その強さにだけ幼馴染の時間が滲んでいた。仕事の同僚に向ける声ではない。九条もそれが分かっているから、反発の角度を決めきれずにいるようだった。
「ホテルでも、結局一人ですよね」
 堀島が言った。
 九条がちらりとそちらを見る。
「今は、あんまりよくない気がします」
「堀島」
「一人にしたくないです」
 堀島の声は、珍しく迷っていなかった。
 更地の前で、いちばん先に身体を動かしたのも堀島だった。たぶん今の彼の中では、心配とか同情とか、そういう整理された言葉になる前のものが前に出ている。放っておけない。それだけが、妙にまっすぐだ。
 九条はそこでまた、あの困った顔をした。
 ありがたがる前に、申し訳なさが来る顔だ。
「気持ちは嬉しいんだけど」
「けど、じゃないだろ」
 真壁が遮る。
「今日のお前、一人で部屋戻ってどうする」
「どうするって」
「また大丈夫って言いながら何もしない」
 九条は口をつぐんだ。
 図星を言われた時の沈黙だった。
 それを見て、堀島がもう一歩だけ踏み込む。
「うち、来ますか」
 真壁と二階堂の視線が同時にそちらへ向いた。
 堀島は続ける。
「泊めるっていうか、ただいてくれればいいです」
 九条は目を瞬いた。
 その言い方はずるい、と真壁は思った。
 世話をする、守る、看る、そういう言葉なら九条はもっと早く拒否しただろう。迷惑になる、負担になる、何か返さなければならない。そういう計算が一気に働くからだ。だが「ただいてくれればいい」は、その計算の外側に落ちる。少なくとも、今の九条には。
「……いや」
 九条は小さく息を吐いた。
「他人の家だ」
「ホテルもそうだろ」
 真壁が言う。
「でもホテルは、まだ」
「まだ?」
「仕事として処理しやすい」
 その返事に、二階堂が小さく鼻で笑った。
「お前、そういうところだよ」
「何」
「生活に入るほうが怖い」
 九条の目が、そこでわずかに鋭くなった。
 否定しようとしたのだろう。だが否定の言葉は出てこない。
 真壁はそれを見て、短く息を吐いた。
「九条」
「はい」
「今日は俺のとこ来い」
 堀島が目を見開く。
 二階堂だけは何も驚かなかった。
 九条は数秒、真壁の顔を見ていた。
 堀島の申し出に向けた困り方とは、少し違う。
 真壁の部屋なら生活に入ることには変わりない。だが、まったくの他人の家ではない。真壁は幼馴染で、昔から九条の生活の手前にいた人間だ。そのぶん、入り込まれる怖さもある。けれど同時に、説明しなくて済む部分もある。
「真壁」
「ホテルよりもいい」
「え」
「お前にはそのくらいでちょうどいい」
 九条は視線を落とした。
 考えている。
 堀島の家ではなく、真壁の部屋。
 それは甘さの少ない選択に見えて、実はずっと厄介だった。真壁は過去を知っている。更地の意味も知っている。九条がどこで壊れやすいかも、たぶん少しは分かっている。誤魔化しが利きにくい。
「……悪いから」
 ようやく出たのは、それだった。
「悪いのは知ってる」
 真壁が返す。
「でも今日はそれでいい」
「俺が泊める案は一瞬で消えましたね」
 堀島が苦笑まじりに言うと、真壁は肩をすくめた。
「お前のとこだと、こいつ余計に神経使うだろ」
「それは」
「否定しねえんだな」
「……否定はしにくいです」
 九条は二人のやりとりを聞きながら、ほんの少しだけ顔をしかめた。
 自分が話題の中心にされるのは好きではない。まして、どこへ泊まるかを周囲が相談して決める状況など、本来なら耐え難いはずだ。だが今は、そこから抜けるだけの力がない。
 二階堂がスマートフォンを見ながら言った。
「真壁のとこなら一応、今日の更地とは距離がある」
「一応って何だ」
「安全な場所に置いたから安心、とはならないって意味」
 真壁は舌打ちしかけてやめた。
 二階堂は続ける。
「まあでも、ホテルよりいいだろ。お前の家なら、こいつがいちいち説明しなくて済む」
 九条が小さく眉を寄せる。
「説明しない前提で進めるのか」
「できるのか」
 問われて、九条はまた黙る。
 できない。
 そのことが、答えより早く顔に出た。
 結局、九条は小さく頷いた。
「……一晩だけ」
「最初からそう言え」
「そういう言い方しかできないのか」
「できるけどしない」
 そのやりとりが成り立つ程度には、九条の声が戻っていた。
 それでも、駅までの道で真壁は一度も九条を一人で歩かせなかった。少し前を行くふりをしながら、九条が足を止めればすぐ気づける位置を保つ。堀島は最後までついてくるつもりらしかったが、改札の手前で真壁が止めた。
「お前はここでいい」
「でも」
「今日は俺が見る」
 堀島は九条を見た。
 九条も少しだけ視線を返す。
「……また明日、顔見せてください」
 堀島のその言い方が、九条には少しだけ眩しかった。
 重くもない。軽くもない。約束の形をしているのに、負担には聞こえない。
「たぶん」
 九条が言うと、堀島は苦笑した。
「先生の“たぶん”は信用薄いんですよ」
「知ってる」
 その「知ってる」は、昨夜までの九条よりいくらか柔らかかった。
 真壁の部屋は、警視庁からそう遠くない場所にある。
 築年数の浅いマンションではない。かといって古すぎるわけでもない。外階段の手すりに少しだけ塗装の剥げがあり、共用廊下の照明は人感式で、歩くと一拍遅れて点く。新しさも、整理された生活感もない。ただ、長く一人で暮らしてきた男の部屋だと玄関に立つ前から分かる空気があった。
「入れ」
 鍵を開けながら真壁が言う。
 九条はそこで、ほんの僅かにためらった。
 幼い頃、何度も入った家ではない。
 真壁の実家なら知っている。斜向かいで、子供の頃は勝手に上がることもあった。だが今のこれは、真壁彰が一人で作った生活の内側だ。そこへ自分が入る。しかも今夜は、まともに帰れないから。
「何だ」
 真壁が振り向く。
「……いや」
「言え」
「他人の家だなと、思っただけ」
 真壁は一瞬だけ表情を失い、それから小さく鼻で笑った。
「今さらか」
「今さらだ」
 玄関を入ると、部屋は想像よりずっと真壁らしかった。
 広くはない。だが狭苦しくもない。リビングは機能本位で、余計な物がほとんどない。ソファは硬そうな革張りで、ローテーブルの上にはリモコンと未読の書類が重なっている。本棚には警察関係の資料と小説が半々くらい、規則性のない並びで収まっていた。キッチンはきれいだが、几帳面に整えられているというより、使ったあと最低限を戻しているだけの清潔さだ。冷蔵庫の側面にコンビニのレシートがマグネットで留まっている。洗濯物はきちんと畳まれているが、畳み方が少し雑だ。
 人が住んでいる。
 しかも、誰かのためではなく自分一人のために維持している生活だ。
 乾いていて、実務的で、そのぶん九条には入りやすいかもしれない、と真壁は思った。
「座れ」
 真壁が言う。
 九条はソファの端に腰を下ろした。
「水でいいか」
「ああ」
 冷蔵庫からペットボトルを出し、コップへ注ぐ。
 真壁のこういう動きには、余計な優しさがない。だから九条は少し楽だった。気を遣われていることは分かる。だが、それを全面に出されない。助けられている側として取り乱す余地を与えないやり方だ。
「何か食うか」
「大丈夫」
「その大丈夫は却下だ」
「……少しだけ」
「最初からそう言え」
 真壁は冷蔵庫を開けて、中を確認した。
 大したものはない。卵、豆腐、パックの味噌汁用野菜、ハム、ヨーグルト、作り置きのきんぴら。外で買ってくるか一瞬迷ったが、この時間に一人で行かせる気はないし、自分が出れば九条を置いていくことになる。
「雑炊でいいか」
 九条が少し目を上げる。
「作るのか」
「お前のその顔、失礼だな」
「いや……真壁が台所に立つ図に実感がない」
「立つだろ。一人暮らし何年目だと思ってる」
 米を鍋に入れ、冷やご飯をほぐし、だしを取るでもなく白だしを使う。卵を溶き、味噌汁も別で温める。真壁が台所に立つのは、九条にとって初めてではないはずなのに、今この場面では妙に新鮮だった。仕事の顔とも、少年の頃の顔とも違う、生活の手つきだ。
「見てるとやりにくい」
 真壁が鍋を見たまま言う。
「ごめん」
「それも今日は回数制限つきだ」
 九条は少しだけ口元を緩めた。
「なんだそのルール」
「今作った」
 雑炊と味噌汁をテーブルへ運ぶと、九条は最初、器に触れる手を少し迷わせた。
 人の家で出される温かいもの、というだけで、今夜の九条には重いのだと真壁には分かる。更地の前で崩れたあと、自分の家へ帰れず、他人の部屋にいる。その事実にまだ身体が追いついていない。
「食えそうなら食え」
「いただきます」
 堀島の部屋にいた時より、九条の言葉は短かった。
 真壁相手だと、余計な説明を省けるぶんだけ、むしろ丁寧さが減るのだろう。だが、その減り方のほうが九条らしいと真壁は思う。
 雑炊を二口食べたところで、九条の肩の力が少し抜けた。
 完全に食欲があるわけではない。けれど、入らないものではないらしい。真壁はそれを見て、自分も適当に箸をつけた。相手だけに食べさせると、九条は余計に居心地を悪くする。
「……おいしい」
 九条が言う。
「知ってる」
「その返し方」
「褒められ慣れてないからな」
「だったらもう少し素直に受け取れよ」
「無理だ」
 九条は少しだけ笑った。
 その笑い方が、ようやくいつもの九条に近づいていて、真壁は内心でほっとした。
 食後、真壁は洗面所の棚から未使用のタオルを出し、Tシャツとスウェットを適当に掴んで九条へ渡した。
 九条はそれを受け取って、案の定困った顔をする。
「……借りる」
「返さなくていい」
「買って返す」
「じゃあそのまま返せ」
「雑だな」
「雑で悪いか」
 風呂の支度をしながら、真壁は一度だけためらった。
 九条を一人で浴室へ入れていいのか。
 だが、ついていくわけにもいかない。そこまでの踏み込みは、たとえ幼馴染でも違う。
「長く入るなよ」
 結局そう言うしかない。
「うん」
「のぼせるからじゃない」
「大丈夫」
 九条の返しは短い。
 だが、その短さに少しだけ救われる。
 壊れかけている時ほど、九条は相手との距離が中途半端に丁寧になる。今のこれは、まだそこまでいっていない。
 浴室のドアが閉まり、水音が響き始める。
 真壁はソファに座り、天井を見上げた。
 今日はさすがに長い一日だった。更地、喫茶店、駅前、説得、移動。全部がまだ身体の中でざらついている。
 スマートフォンが震えた。
 二階堂からだった。
 《終わりとは思うな》
 文面を見て、真壁は短く息を吐く。
 言われなくても分かっている。
 だが、二階堂がこういう時に余計な慰めを一切挟まないのも、ある意味では助かる。
 《分かってる》
 それだけ返す。
 すぐに次が来た。
 《あいつは他人の部屋でも安心しない》
 真壁は画面を見つめたまま数秒止まった。
 言い方が嫌になるほど正確だ。
 堀島の部屋でも、自分の部屋でも、それは変わらないのだろう。安全な場所にいることと、安心できることは別だ。むしろ、安全な場所ほど自分がそこに属していない感覚が浮き上がる。九条はそういう壊れ方をする。
 《知ってる》
 返して、スマートフォンを伏せる。
 知っている。
 けれど、知っているだけでは何もできないのも、昔から同じだった。
 浴室から出てきた九条は、少しだけ血色が戻っていた。
 真壁のTシャツは肩幅がぎりぎり合っている。スウェットの裾はほんの少し短い。濡れた髪を雑にタオルで拭きながら、九条は洗面所の前で少し立ち止まった。
「何だ」
「いや」
「言え」
「真壁の服、思ったより着心地がいい」
 その返しに、真壁はようやく少し笑った。
 寝る場所は自然と決まった。
 九条がベッド、真壁がソファ、では逆だと九条が言い張る。
 真壁がベッド、九条がソファ、では真壁が却下する。
 結局、真壁がベッドを譲り、九条が抵抗し、最後には真壁が「じゃあ俺も寝ないで座ってる」と言い出したことで、九条が折れた。
「今日は従え」
 真壁が言う。
「横暴」
「知ってる」
「自覚あるのか」
「ある。だから従え」
 寝室へ通す時、九条の足取りは昼間ほど危うくはなかった。
 それでも、扉の手前で一度だけ止まる。
 真壁の部屋の、いちばん私的な場所へ入る。
 昔から知っている相手でも、その行為の重さは消えないらしい。
「何だ」
「……いや」
「今日はそれ多いな」
「思ってるより、気力が削れてるんだと思う」
 九条はそう言って、小さく笑った。
 その自己分析の淡々とした言い方が、かえって真壁には痛かった。自分の壊れかけた状態まで、他人事みたいに説明する癖がある。
「寝ろ」
「努力する」
「そういう時の“努力する”も信用薄い」
「最初からだ」
 布団に入った九条は、見た目にはすぐに静かになった。
 真壁は寝室のドアを少しだけ開け、リビングのソファに腰を下ろす。完全に閉めてしまうと、九条がまた一人で壊れる気がしたからだ。気配が消えすぎると駄目なのだろうと、今夜の真壁には何となく分かっていた。
 部屋の灯りを落とす。
 冷蔵庫の低い駆動音がする。
 外を走る車の音は遠い。
 マンションの上階で何かを落とす鈍い音がして、すぐ静かになる。
 生活音が消えたあとが、長かった。
 九条は目を閉じていた。
 だが眠れていないのは、自分でも分かっている。
 真壁の部屋の匂いがする。洗剤、煙草は吸わない男の乾いた服の匂い、本と紙の匂い、風呂上がりの湯気の残り。どれも強くはない。強くないのに、自分が異物としてそこに置かれている感覚だけが妙に鮮明だった。
 真壁の部屋だから、楽なはずだと思っていた。
 少なくとも、完全な他人の家ではない。
 過去を知っている相手で、誤魔化す手間も少ない。
 なのに身体は、やはりうまく緩まない。
 更地の光景が戻る。
 玄関の位置。
 庭木の影。
 冬の冷えた空気。
 家が終わったあとの静けさ。
 もうないものの輪郭だけが、何もない場所に立ち上がる。
 目を開ける。
 知らない天井ではない。だが自分の天井でもない。
 安全な場所にいるはずなのに、身体だけが「ここは自分の帰る場所ではない」と繰り返す。
 呼吸が浅い。
 ゆっくり吸おうとして、喉が詰まる。
 胃のあたりが冷えて、嫌な吐き気が遅れて上がってくる。
 九条は音を立てないように布団を抜けた。
 床に足を下ろし、数秒だけ目を閉じる。立てる。
 そのままそっと寝室を出て、洗面所へ向かった。
 真壁はすぐには気づかなかった。
 だが、水音の前に、ほんの短い息の詰まるような音がして目が開く。ソファから起き上がると、寝室の中が空だった。
「九条」
 返事はない。
 洗面所の明かりが細く漏れている。
 真壁は勢いよく駆け寄りかけて、寸前で止めた。
 ドアを乱暴に開けるのは違う。
 九条は、そういう壊れ方を見られるのを何より嫌がる。
「入るぞ」
 短く声をかけてドアを開ける。
 九条は洗面台に手をつき、深く前かがみになっていた。
 肩が小さく揺れている。昼間吐いたあとなのに、また胃がひきつっているのだろう。床は汚れていない。音を立てないように、全部を抑え込もうとして失敗している感じだった。
「ごめん」
 第一声が、それだった。
「掃除するから」
 そこまで聞いて、真壁は一瞬だけ何も言えなくなった。
 苦しい。立っていられない。夜中に人の家の洗面所で吐きそうになっている。なのにまず「ごめん」が出る。昔から、こいつはそうだった。困った時ほど、自分の状態より相手への迷惑を先に処理しようとする。
「今それ言うな」
 真壁は水を出し、コップに注いだ。
「口だけゆすげるか」
 九条は頷きかけて、うまく動けない。
 真壁が黙ってコップを持たせると、九条の指先は少し震えていた。
「……ごめん」
「だから今はやめろ」
 真壁の声が少し強くなる。
 九条が顔を上げた。
 驚いたような目だった。
「お前、そういう時まで謝るのか」
 問い詰めるつもりはなかった。
 だが、口に出た。
 昔から腹の底に溜まっていたものが、今夜の場面でようやく形になった気がした。
 九条はしばらく何も言わなかった。
 やがて、かすれた声で答える。
「……癖だ」
「良くない癖だな」
「そうだな」
「知ってて放ってるのか」
「簡単に直るなら、困ってない」
 泣き言ではない。
 自己分析のつもりでもない。
 ただ、事実として置いているだけだ。
 真壁は背中に手を伸ばしかけて、やめた。
 触れば少しは楽になるかもしれない。だが、今の九条にとって、その一線は別の意味を持つ気もした。
 代わりに、すぐ隣へ立つ。
 逃げられない距離ではなく、倒れても支えられる距離だ。
「リビング行けるか」
「……たぶん」
「その“たぶん”は信用薄いが、歩けるなら十分だ」
 九条は小さく息を吐き、洗面台から手を離した。
 まだ少し足元が危うい。
 真壁は腕を取るのではなく、少し前へ出て行く先だけを作る。九条はそれに従うようにリビングへ戻った。
 ソファに座らせると、九条は背にもたれたまま目を閉じた。
 夜の部屋は静かだった。
 静かすぎるからこそ、今ここが安全な場所だと分かってしまう。
 分かるのに、身体は安心しきれない。
 そういう矛盾が、真壁には少しずつ読めるようになっていた。
「白湯でいいか」
 真壁が聞くと、九条は頷いた。
「……ありがとう」
「礼も今はいらん」
「全部要らないって言われると、逆に困る」
「じゃあ後でまとめて言え」
 真壁はキッチンで湯を沸かしながら、ふと昔のことを思い出した。
 高校の冬、九条の家の前で何時間も立ち尽くした夜。声をかけるべきか、放っておくべきか、それすら分からなかった。今も大して変わっていない。ただ、昔よりは多少、台所に立てるようになっただけだ。
 白湯を持って戻ると、九条はソファの肘掛けを軽く握っていた。
 昼間の更地の前で握り込んでいた手と同じだった。
 人は、壊れる時に同じ動きをするのかもしれない。
「飲めるか」
「少しだけ」
 一口飲んで、九条は視線をカップへ落とした。
「真壁の部屋、静かだな」
「そうか」
「音が少ない」
「一人だからな」
「そうだな」
 その返しが、妙に九条らしかった。
 言葉数は少ないのに、温度の調整だけはきちんとしている。
「……人の家って」
 九条がぽつりと言った。
「生活の形ができてるだろ」
 真壁は黙って聞く。
「帰って、食べて、寝て、起きて。そういうのがもう出来上がってる場所に、急に自分だけ入ると、少し」
「少し何だ」
 九条はそこで言葉を切った。
 数秒迷ってから、ほんの少しだけ困った顔で笑う。
「余る感じがする」
 真壁はその言い方に、胸の奥をざらりと撫でられるような気がした。
 場違い、ではなく、余る。
 はみ出すでもなく、邪魔でもなく、ただその生活の形に自分だけ収まりきらない。そういう感覚なのだろう。
「余っても別に困らん」
 真壁は言った。
「こっちが困ってないなら、それでいい」
 九条は何も返さなかった。
 返さないまま、白湯をもう一口飲む。
 やがて呼吸は少しずつ戻った。
 完全に落ち着いたわけではない。だが今夜これ以上、寝室へ戻すのは危ないと真壁には分かった。自分も寝るつもりはなくなっている。ソファの端に九条を座らせ、自分は少し離れた床に背を預けた。
「……そこ」
 九条が低く言う。
「何が」
「床」
「別に平気だ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ何の問題だ」
「見張られてるみたいだ」
 真壁は思わず笑った。
「見張ってるんだよ」
「開き直るのか」
「開き直ってない。事実だ」
 その会話が成り立つ程度には、九条の声が戻っていた。
 朝方、九条はソファでうとうとした。
 完全に眠ったのは二十分あるかないかだろう。それでも、夜中じゅう一度も緩まなかった身体が、ようやく少しだけ重力に預かった。
 真壁はその寝顔を見ないようにしていた。
 見れば、昔と重なる気がした。
 九条が弱っている姿を幼馴染として見慣れているわけではない。ただ、平気な顔の下に何かを押し込みすぎて、あとから身体だけが先に悲鳴を上げる癖は、昔から知っている。
 朝の光がカーテンの隙間から入り始めると、真壁は静かに立ち上がった。
 コーヒーではなく、薄い味噌汁を作る。冷蔵庫の中の卵を焼き、冷凍ご飯を温める。料理というほどのものではない。だが生活の匂いは出る。
 九条が目を開けたのは、味噌汁の湯気が部屋へ広がった頃だった。
 眠れなかった人の朝の顔だ。目の下に薄く影があり、それでも表情だけはもう整えようとしている。
「おはよう」
 九条が言う。
「おはよう」
「……寝てないだろう」
「お前よりは寝た」
「嘘が下手だな」
「知ってる」
 テーブルへ味噌汁と卵焼き、それに少量のご飯を置く。
 九条は少し驚いたようにそれを見ていた。
 責められない。気まずくされない。夜中のことを蒸し返されもしない。ただ朝食が置かれる。その普通さが、かえって九条には落ち着かないのだろう。
「食えそうなら食え」
「……いただきます」
「召し上がれ」
 食事中、真壁は昨夜のことに一切触れなかった。
 九条も触れない。
 それでいて、二人とも触れないこと自体を了解している。
 長く知っている相手にしか成立しない沈黙だった。
「食べたら帰る」
 九条が言ったのは、味噌汁を半分ほど飲み終えたところだった。
 真壁は箸を置く。
「帰る、じゃなくて」
 少し考え、言い換える。
「出る、だな」
 九条が顔を上げる。
 その一瞬の表情で、真壁は自分の言葉が正しかったと分かった。
 帰る、という動詞が、今の九条にはまだ重い。昨夜からずっと、その言葉だけ地面を持たない。
「……そうならないように善処する」
「気が済むまで泊まってけ」
「ずいぶん優しいな」
「褒めてるなら受け取らない」
「面倒だ」
「最初からだ」
 そのやりとりのあと、九条は洗面所を借りて身支度をした。
 戻ってきた時、輪郭が少し変わっている。髪を整え、顔を洗い、借りた服の上から昨日のジャケットを羽織る。その手順を踏むごとに、夜の間にほどけていたものが少しずつ戻っていく。
 真壁はそれを見て、ふと妙な感覚を掴む。
 この男は、仕事の準備をした瞬間だけ、輪郭を取り戻す。
 家でも夜でもなく、仕事の中にしか自分を置けないのではないか。
「何」
 九条が気づいて聞く。
「いや」
「何かあるだろう」
「お前、そういうとこだけ鋭いな」
「まあな」
 真壁は小さく息を吐いた。
 昨夜、洗面所で吐きかけた男と、今ここでネクタイを結ぼうとしている男が同じ人間だと、頭では分かっている。だが、その差はやはり嫌になるほど大きい。
 玄関で靴を履く時、九条が一度だけ言った。
「……迷惑かけて申し訳ない」
 真壁は眉を寄せる。
「夜中の分なら、まだ言うのか」
「それもある」
「じゃあ何だ」
 九条は少しだけ視線を落とした。
「泊めてもらったこと」
「泊めたんだよ。勝手に泊まったわけじゃない」
「言い方がずるい」
「お前に言われたくない」
 九条はそこで、ほんの少しだけ笑った。
 昨夜より自然な笑いだった。
「……ありがとう」
 今度の礼は謝罪ではない。
 真壁はそれにだけ、短く頷いた。
「また同じことがあったら」
 言いかけて、少し迷う。
 けれど言う。
「ホテル行く前に連絡しろ」
 九条は一瞬目を見開き、それから静かに目を伏せた。
「善処する」
「その言い方も信用薄い」
「そうだな」
 ドアが閉まったあと、部屋には夜の痕跡が少しだけ残っていた。
 ソファの皺、使ったコップ、水滴の乾きかけた洗面所。
 どれも小さい。
 だが真壁には、九条がいた一晩の気配だけが妙に濃く残っているように思えた。
 泊まれない男が、泊まった。
 自分の部屋にも帰れず、ホテルにも逃げず、幼馴染の生活の中へ一晩だけ身を置いた。
 それで何かが解決したわけではない。むしろ、真壁には昨夜ではっきりしたことがある。九条は安全な場所に置けば安心する人間ではない。安全な場所ほど、自分がそこに属していない感覚が浮かぶ。だから夜は壊れる。
 それでも朝になれば、仕事の顔を作る。
 その準備をした瞬間だけ、輪郭が戻る。
 真壁はリビングのテーブルを片づけながら、あいつは本当に仕事の中にしかいないのかもしれない、と思った。
 家でも夜でもなく、白衣と書類と手順の中にだけ、自分を置ける。
 そういう人間をどうやって引き戻せばいいのか、真壁にはまだ分からない。
 ただ昨夜、自分の部屋に泊めた。
 それだけは、もう後戻りしない事実だった。