更地の月

第三話 帰れない家
 空は朝から薄く曇っていた。
 雨が降るほどではないが、陽が出る気配もない。明るいとも暗いとも言いきれない灰色が一日じゅう空の低いところに張りついていて、地上の色をひとつずつ鈍らせている。こういう天気は、季節感だけが曖昧になる。春先とも、冬の名残とも取れる。駅前の舗道は乾いているのに、風だけが少し冷たかった。
 真壁彰は改札を出たところで立ち止まり、時計を見た。
 待ち合わせにはまだ二分ある。だが九条雅紀は、たいてい約束の少し前には来ている。子供の頃からそうだった。遅刻しないというより、人を待たせることに敏感なのだ。待つこと自体は平気なくせに、待たせる側にはまわりたがらない。
「ごめん、待たせた」
 声がして顔を上げると、九条が歩いてきた。
 黒のコートに細いマフラーを巻き、手には資料の入った封筒を持っている。隣には堀島がいた。いつものように少しだけ歩幅が大きく、九条と並ぶ時だけ自然に速度を落としている。
「別に待ってない」
 真壁が言うと、堀島が笑った。
「真壁さん、その返し毎回それですよね」
「事実だろ」
「でも先に来てるじゃないですか」
「それは俺が早いだけだ」
 そこへ、少し遅れて二階堂が現れた。
 駅の階段を下りてくる足取りに無駄がない。私服だが、妙に仕事のできる男の空気が消えない。グレーのジャケットのポケットに片手を入れたまま、三人の前で止まる。
「全員揃ってるの、珍しいな」
「お前がいちばん最後だ」
「広報は忙しいんだよ」
「日曜なのにか」
「日曜だからだろ」
 今日の用件は、県警との合同の検討会だった。
 医務院が扱った事案のうち、いくつかの運用面について現地で確認する必要があるらしい。細部は真壁にもよくわからない。そもそも真壁がここにいるのは、警察側との橋渡し役として名前を入れられたからで、九条の補佐に近い仕事だ。堀島は事務処理まわり、二階堂は報告書や今後の対外調整の関係で同行している。
 地方の駅前は、日曜の朝らしい鈍い賑わいだった。
 チェーンの喫茶店の前に人が並び、学生らしい集団がコンビニの袋を提げて歩いていく。古いパン屋のシャッターだけが半分下りたままで、そこだけ時間に取り残されたように見えた。
「会場、駅から歩けるんですよね」
 堀島が封筒を確認しながら言った。
「十分ちょいかな」
 真壁が答える。
「この通りまっすぐで、途中で一回だけ左」
「真壁さん、このへん詳しいんですか」
「地元だからな」
 堀島が目を丸くする。
「そうなんですか」
「ああ」
 それだけ答えて歩き出す。
 すると九条も無言でついてきた。二階堂はその背中を少しだけ見ていた。地元、という真壁の言い方に対して、九条の反応がほとんどなさすぎたからだ。驚きもしない。興味を示しもしない。ただ、知っていたことをいま再確認した程度の静けさだった。
 歩き始めてすぐ、真壁は一度だけ九条を横目で見た。
 九条は普通だった。少なくとも表面上は。仕事で地方へ出る時の顔をしている。余計なことは言わず、必要なことだけ見ている顔だ。
 この街に来ること自体は、初めてではない。
 だが今日の検討会場は、駅からの道順の都合で、少し遠回りをすると真壁の実家と、九条の旧実家の近くを通る。真壁はそのことを、駅名を見た瞬間に思い出していた。最初に集合場所が決まった時から気づいていたのに、九条には何も言わなかった。九条も言わなかった。気づいていないはずがない、と真壁は思っている。むしろ気づいていて、言わないのだ。
「ここ、けっこう落ち着いてますね」
 堀島が辺りを見回しながら言う。
「東京と違って、ごちゃついてないというか」
「地方都市ってこんなもんだろ」
 二階堂が答える。
「ほどほどに便利で、ほどほどに古い」
「いいですね。住みやすそう」
「そうでもないぞ」
 真壁が言うと、堀島が笑う。
「地元の人ってだいたいそう言いますよね」
 九条もそこで小さく笑った。
「たしかに」
 その声の薄さに、真壁は気づく。
 まだほんの僅かだが、言葉の終わりに息が足りていない。体調が悪いというほどではない。けれど、仕事中の九条にしては輪郭が甘い。
 真壁と九条の家は、駅から徒歩十五分ほどの住宅地にあった。
 表通りから一本入った静かな道の先に、低い塀と小さな庭があった。父親の姿は最初から記憶にない。真壁にとって九条の家は、九条とその母親の家だった。夏になると風鈴が鳴り、玄関の脇に植えられた木の葉が、夕方の風で少しだけ鳴った。遊びに行くと、九条の母親はよく冷たい麦茶を出してくれた。細いグラスに氷が二つだけ入っていて、九条はいつもそれを飲むのが遅かった。
 その家は、もうない。
 真壁はそれを知っている。
 高校二年の冬に九条の母親が倒れた時も、その後、家の中が急速に静かになっていった時も、真壁は全部近くで見ていた。なのに、何も止められなかった。見ていただけだ。幼馴染だの何だの言っても、その程度なのだという事実だけが、何年経っても鈍らない。
「真壁さん、こっちで合ってます?」
 堀島の声で、真壁は現在へ引き戻された。
 いつのまにか大通りを外れ、道幅の狭い通りへ入っている。昔と変わらない電器店、名前だけ変わったクリーニング店、建て替えられたコンビニ。景色の半分は残っていて、半分は知らない顔をしていた。
「ああ、こっちだ」
 真壁が答えると、九条がすぐに続けた。
「次の信号、左」
 その言い方が、あまりに自然だった。
 道に詳しい人間の口ぶりだった。
 堀島が先に反応した。
「先生、このへん来たことあるんですか」
 九条は一拍置いてから笑った。
「地図を見ただけ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶんって何ですか」
 堀島が笑い、九条も少し笑う。
 だが真壁は、その笑いの間に九条の指先が無意識に握り込まれるのを見た。コートのポケットの中で、片方の手がきつく閉じている。寒さのせいではない。
 信号待ちで立ち止まった時、二階堂がさりげなく九条の横に並んだ。
 信号機の赤が、薄曇りの下でやけに鮮やかに見える。歩行者用の押しボタンの横に貼られた注意書きの文字まで、今日は妙にくっきりしていた。
「疲れた?」
 二階堂が低く聞く。
「別に」
「声、薄い」
「二階堂は人の体調に詳しいのか」
「お前にだけは」
 九条は返事をしなかった。
 青信号になる。歩き出しても、九条の歩幅だけが少し狭い。真壁はそれに気づき、あえて速度を落とした。堀島はまだわかっていないのか、単純に九条の隣を歩きながら、会場の資料の話を続けている。
「今日、長引きますかね」
「内容次第かな」
 九条の返事は短い。
 遅くはない。だが、少しだけ間がある。
 真壁は胸の奥がざわつくのを感じた。この反応を見たことがある。高校の頃、九条が無理に平静を保とうとする時の息の浅さだ。本人だけが大丈夫だと思い込んで、身体のほうが先に駄目になる時の。
「先生、ほんとに大丈夫ですか」
 堀島がそこで初めて言った。
「顔色、あんまりよくない気が」
「大丈夫」
 九条は即答した。
 考えるより先に出たような早さだった。
 大丈夫。
 真壁はその言葉にだけ、昔から信用がない。九条が大丈夫と言う時ほど、大丈夫ではないことを知っているからだ。
 住宅地に入ると、空気が少し変わった。
 表通りの車の音が遠のき、代わりに家々の気配が近づく。洗濯物、植木鉢、閉まった雨戸、表札、庭先の自転車。人の暮らしはどれも似ていて、だからこそ、どれか一つが消えた時の空白が大きく見える。
 九条の返事がさらに少なくなった。
 堀島が何気なく振る話題にも、頷くか、短く返すだけになる。
 信号待ちのあいだ、視線が一点に定まらない。
 歩きながら、何度か息を飲み込むような仕草をする。
 真壁はもう、会場へ真っ直ぐ行くべきか迷い始めていた。だがここで突然引き返すほうが、かえって九条を追い詰める気もする。
「真壁」
 小さく呼ばれ、見ると二階堂が視線だけで前方を示した。
 その先の角を曲がれば、もう近い。
 真壁はそこで足を止めた。
「少し回るか」
 できるだけ平坦に言った。
 堀島がきょとんとする。
「え、なんでですか」
「時間あるし、道一本向こうのほうが歩きやすい」
「そうですか?」
「そうだ」
 だが、九条が先に口を開いた。
「大丈夫」
 また、その言葉だった。
「会場にはこっちのほうが近い」
 九条は一見、いつも通りだった。
 声も穏やかだ。
 けれど真壁には、眼球の焦点が少し外れているのが見えた。見えているようで、何か別のものを見ている目だ。
「別に、急いでない」
「大丈夫だから」
 今度は繰り返した。
 その繰り返し方に、堀島も何かを感じたらしい。口をつぐむ。
 二階堂は何も言わなかった。
 ただ、九条の呼吸の数だけを数えているみたいな顔をしていた。
 結局、四人はそのまま角を曲がった。
 そこに家はなかった。
 低い塀も、門も、庭木も、表札もない。
 あるのは、整地された平たい土地だけだった。仮囲いすらない。簡素に区切られた四角い空白が、何事もなかったような顔で道路に接している。土は均され、雑草がところどころ短く生え、片隅に白いビニール片が風に押されていた。駐車場にするにはまだ中途半端で、住宅地としては妙にだらしない空白だった。
 何もない。
 何もないのに、なくなったことを示すものばかりが目につく。
 塀があった高さだけ色の違う隣家の壁。
 抜かれた植木の跡らしい土の色。
 不自然に切れた水道の配管。
 そこに何かがあったはずだと、空白自身が証明している。
 九条が止まった。
 ほんの半歩、前に出たところで足が止まる。
 止まって、それ以上一ミリも進めない。
 真壁は反射的に名前を呼んだ。
「九条」
 九条は返事をしなかった。
 視線だけが空白の中央に吸いついている。
 そこに玄関があった。
 そこに庭木があった。
 そこに母親の靴が揃っていた。
 そんな記憶の配置だけが、真壁の頭にも、そしてたぶん九条の身体にも残っている。なのに目の前の視界はそれを一つも認めない。
「先生?」
 堀島が一歩近づく。
 九条の肩がわずかに震えた。
 呼ばれたことに反応したのではない。呼吸を吸おうとしてうまく入らなかったのだと、真壁にはわかった。
 息が浅い。
 いや、浅いというより、吸えていない。
 九条の喉が一度大きく動く。
 何かを飲み込もうとして失敗する。
 視界の端が狭まっているのか、瞬きの回数だけが急に増えた。
「九条」
 真壁がもう一度呼ぶ。
 今度は幼馴染の声になっていた。自分でもわかるくらい、短く強い響きだった。
 九条の唇が動く。
 だが言葉にならない。
 代わりに、胸のあたりでひゅ、と小さな音がした。
「大丈夫じゃないですよね」
 堀島がすぐそばまで寄った。
「座れますか。先生、こっち」
 九条はそれにも答えられない。
 足が前へ出ない。
 視線はまだ更地の中央に貼りついたままで、そこから剥がそうとすると別のものが崩れそうな顔をしている。
 真壁の記憶の底から、冬の玄関先の光景が急に浮かび上がった。
 高校二年の終わり。救急車の赤色灯。閉まらない玄関。近所の人間の低い声。真壁が何を言えばいいのかわからないまま立ち尽くし、その横で九条だけが異様に静かだった夜。泣きもしない。騒ぎもしない。ただ、あまりに静かすぎて、逆に誰も触れられなかった。
 いま目の前にいる九条も、同じ顔をしていた。
 泣く前でも怒る前でもない。もっと手前で、身体だけが先に壊れていく時の顔だ。
 九条の膝が少し折れた。
「先生!」
 堀島が腕を掴む。
 その瞬間、九条はようやく現実へ引き戻されたみたいに大きく息を吸おうとした。だがうまくいかない。肩だけが上がって、空気が入ってこない。二度、三度と浅く繰り返し、喉が詰まる。
 胃が引きつったのだろう。
 九条は急に口元を押さえ、身を折った。
「九条!」
 真壁が駆け寄る。
 だが、ほんの一瞬だけ遅れた。
 近すぎるからだ、と真壁はあとで思う。堀島みたいにとっさに身体が動かない。目の前の男が、今の同僚ではなく、昔のままの九条に見えてしまう。その一瞬の遅れが、自分でも腹立たしかった。
 九条は道路脇へ半歩よろめき、そのまましゃがみ込んだ。
「大丈夫、大丈夫ですから」
 堀島が支える。
 大丈夫ではないとわかっていても、咄嗟にそう言うしかない声だった。手つきは現実的で、九条の肩を支え、転ばない位置に自分の体を入れている。
 二階堂は少し後ろで立ったまま、更地と九条を交互に見ていた。
 冷たいわけではない。
 ただ、今九条が反応しているのは目の前の空白そのものではなく、その空白に引きずり出された過去の位置だと理解している顔だった。ここで不用意に声をかけても、相手は「今」に戻れない。その見極めをしている。
「場所、変えるぞ」
 真壁が言った。
「ここにいさせるな」
 それで堀島がはっとしたように頷く。
「タクシー呼びます」
「先にあっちのベンチ」
 道路の向こう、公園の端に古いベンチが見える。
 ほんの数十メートル先なのに、今の九条にはそれが遠い。
「立てるか」
 真壁が低く聞く。
 九条は返事をしなかった。
 代わりに、目を閉じたまま微かに首を振る。
 その様子を見て、堀島がすぐに決めた。
「先生、少し支えます」
 有無を言わせない手つきだった。
 肩を抱えるというほどではなく、しかし確実に体重を預けられる位置へ自分を入れる。九条は最初、反射的に逃れようとした。人に重さを預けることそのものに慣れていない動きだった。だが脚のほうが限界に近いのだろう。すぐに抵抗は弱くなる。
「ゆっくりでいいです」
 堀島の声だけが、ひどく落ち着いていた。
 真壁はその隣で九条の顔色を見た。
 青い。
 呼吸はまだ浅いままだが、吐いたことで少しだけ戻っている。
 それでも目はどこか別の景色を見たままだ。
 ベンチに座らせると、九条は前かがみになった。
 指先が震えている。
 膝の上で握り込まれた手が、白くなるほど強く閉じていた。
 風が吹く。
 更地の土の匂いが一瞬だけ流れてきた。
 それだけで九条の肩がまた小さく揺れた。
「見えない位置にする」
 二階堂が言った。
 ベンチの向きを確かめ、立ち位置を変える。九条の視界から更地が外れるよう、自分が一歩前へ出た。無駄に触れない。だが、必要なところだけ塞ぐ。その手際のよさに、真壁は短く息を吐いた。
 タクシーが来るまでの数分は、やけに長く感じられた。
 九条の知覚は断片的だった。
 目の前にあるはずのベンチの木目が、時々、昔の玄関の段差に見える。
 土の匂いが、冬の冷えた家の中の匂いと重なる。
 母親の足音。
 閉じられない引き戸。
 部屋の中に溜まった沈黙。
 高校二年の終わり。制服のポケットに入れっぱなしだったバイト先のシフト表。
 家の中で、何かがもう元には戻らないとわかった日の空気。
 目の前には何もない。
 それなのに身体だけが、そこをまだ家のあった場所だと知っている。
 戻る場所としてではなく、終わってしまった場所として。
「先生、ゆっくり吸って」
 堀島の声が近い。
「大丈夫です。今はこっち見てください」
 大丈夫、という言葉に、九条は少しだけ眉を寄せた。
 自分がそれを言う側でいるほうがずっと楽だったのだと、その時ぼんやり思う。
 タクシーが来て、四人は近くの喫茶店へ退避した。
 チェーン店ではない、昔からありそうな店だった。窓が大きく、昼を外した時間だから客も少ない。奥の席に通されると、コーヒーの匂いと暖房の熱がようやく現実の輪郭を戻してくる。
 九条はソファ席の奥に座り、しばらく俯いたままだった。
 水の入ったグラスに手を伸ばすが、うまく持てない。堀島が何も言わずに少し手前へ寄せる。九条はようやく一口だけ飲み、目を閉じた。
「会場には連絡入れた」
 二階堂が言った。
「少し遅れるか、こちらは欠席で回してもらう」
「悪い」
 真壁が短く返す。
 二階堂は何も言わない。責める理由がないとわかっているからだ。
 堀島はしばらく九条のそばにいたが、やがて真壁の視線に気づき、席を外した。
「飲み物、何か追加で頼みます」
「俺、いらない」
「じゃあ俺、温かいの取ってきます」
 真壁も立ち上がる。
 二人は会計の近くまで離れた。
 自販機の横に立つと、堀島がようやく息を吐いた。
「……あれ、何だったんですか」
 声が小さい。
 驚きと混乱を押さえ込んだ声だった。
 真壁はすぐには答えなかった。店のガラス越しに、奥の席に座る九条を一度だけ見る。二階堂が向かい側に座り、何も言わずに水だけ見ている。その距離感が妙に正しいと、真壁は思った。
「あそこ、九条の家があった場所だ」
 堀島が息を止めた。
「家、って……実家ですか」
「ああ」
「でも、何もなかったですよね」
「だからだよ」
 真壁は壁にもたれた。
「もう家がない」
 堀島は何か言おうとして、言葉を失う。
 真壁は続けた。
「九条の父親は、生まれてすぐ亡くなってる」
 堀島がゆっくり顔を上げる。
「俺の記憶にある九条の家は、母親と二人の家だ。母親は若くておっとりした人だった。少し抜けていて、そこが魅力的って感じの。九条が今ああいう気の利き方するの、たぶんあの人の影響もある」
 喫茶店の照明はやけに落ち着いていて、そのぶん真壁の声がよく通る気がした。
 感傷に浸るような口調ではない。ただ、昔の景色を見ている人間の平坦さがあった。
「高校二年の冬に、母親も急に亡くなった」
 堀島の喉が小さく動く。
「急に、って」
「ほんとに急だった。朝までは普通だったのに、って類いのやつだ」
 真壁は自分の言葉が乾いているのをわかっていた。
 乾いていないと話せないのだ。あの頃のことを、湿った言葉で口にしたら、自分のほうが先にどこかへ引きずられる。
「そこから、ほぼ一人だ」
「親戚は」
「いないわけじゃない。ただ、九条にとって家として機能するほど近くはなかった」
 真壁は視線を落とす。
「高校の頃からバイトしてた。もともと真面目にやってたけど、あの冬以降は露骨に増やした。大学も、学費免除とか減免のあるとこ中心に絞ってた」
「……一人で」
「そうだ」
 堀島は何も言えなくなる。
 九条の優しさや、気の利き方や、自分の痕跡を薄くしようとする癖が、急に別の意味を持ち始める。あれは単なる性格の偏りじゃない。家の終わりを一人で見た人間の癖だ。
「卒業と同時に家を売った」
 真壁は続けた。
「東京に出るためでもあったし、あそこにそのまま住み続けるのが無理だったのもある」
「無理って……」
「家そのものが駄目になったんだろ」
 そう言ってから、真壁は少しだけ眉を寄せた。
 自分の言い方が乱暴だとわかっている。だが、綺麗に言い換えられる話でもない。
「家にいると、あの冬の空気が全部戻る。たぶん、そういうことだ」
 堀島はゆっくり息を吸った。
「じゃあ、さっきのは」
「PTSDに近いんだと思う」
 真壁は店の奥を見る。
 九条はまだ俯いている。水のグラスに触れた指だけが、細く白い。
「忘れたわけじゃない。でも普段は仕事もしてるし、普通に暮らしてる。だから本人も、行けるつもりでいたんだろうな」
「自分で大丈夫だと思ってた」
「九条はそういうとこある」
 堀島は唇を引き結んだ。
 学会の集合写真から消えた時も、贈り物の話で困った時も、この人はいつだって大丈夫な顔をしていた。大丈夫な顔をして、そこから先に人を入れない。その根が、こんなふうに家へ続いているとは思っていなかった。
「俺、何も知らずに」
「知らなくていいこともある」
 真壁は遮るように言った。
「お前が悪いわけじゃない」
「でも、先生、あんなふうになるまで」
「知ってても止められなかった」
 真壁は淡々と言う。
 その一言だけで、堀島は胸の奥が詰まった。
「俺は昔から見てた。あいつの家が静かになっていくのも、卒業の前に家を売るって決めたのも、東京出る時も。見てたけど、何もできなかった」
 それは自己憐憫ではなかった。
 ただの事実として言っている。
 だから余計に重かった。
 そこへ、後ろから二階堂の声がした。
「家がなくなったんじゃない」
 二人が振り返る。
 二階堂は注文したコーヒーを片手に、少し離れたところに立っていた。いつから聞いていたのかはわからない。たぶん最初からだろう。
「家が終わるのを、あいつは一人で見たんだろ」
 低い声だった。
 感情を乗せたわけではない。
 ただ、核心だけを抜き出して机の上に置くみたいな言い方だった。
 堀島が息を呑む。
 真壁は二階堂を見たまま、何も返さなかった。
 それが否定にならないことを、三人とも知っていた。
 席へ戻ると、九条は少しだけ顔を上げた。
 まだ青い。
 だが、さっきより呼吸は整っている。崩れたあと、どうにか元の形へ戻ろうとする人の顔だ。
「申し訳ない」
 第一声は、それだった。
 堀島の胸が痛む。
 誰も責めていない。責められる筋合いもない。なのに九条は、自分が迷惑をかけたことのほうを先に気にする。
「ちょっと……みっともないところを」
「みっともなくないです」
 堀島が即座に言った。
「全然」
 九条はその言葉に少しだけ目を細める。
 感謝とも、困惑ともつかない表情だった。
「大丈夫。もう」
 言い切ろうとして、言い切れない。
 そこで初めて、九条は自分の声に確信がないことを悟ったように黙る。
「今日はもう会場行かない」
 真壁が言った。
「先方にはこっちで話通してある」
「でも」
「でもじゃない」
 真壁の口調は短いが、強すぎはしない。
「今のお前で行っても、仕事にならねえよ」
 九条は反論しかけて、やめた。
 たぶん自分でもわかっている。立ち上がって歩けるとしても、あの更地の近くをもう一度通るだけで、また身体のほうが先に拒絶する。
「……申し訳ない」
 また謝る。
 二階堂がそこで初めて口を開いた。
「謝るの好きだな」
 九条がそちらを見る。
「好きではない」
「じゃあ癖か」
「それも困る」
 かすかに皮肉が戻る。
 それだけでも、少しは現実へ戻ってきた証拠だった。
 堀島が温かい紅茶を九条の前へ置く。
「飲めそうですか」
「たぶん」
 九条はカップに手を伸ばし、両手で包むように持った。
 熱が指先に移る。その単純な感覚だけで、少しずつ自分の輪郭が戻るのがわかる。
 窓の外では、薄曇りの午後がまだ続いていた。
 何も劇的なことは起きていない。車が通り、信号が変わり、誰かが自転車で坂を下っていく。ただその穏やかな景色の中に、さっきの更地の空白だけが異物みたいに残っている。
「送ります」
 堀島が言った。
 九条がすぐに首を振る。
「自分で帰れる」
 その返事の早さに、真壁と二階堂がほぼ同時に顔をしかめた。
 堀島も気づいたらしい。そこで初めて、少しだけ強く言う。
「帰れる、じゃなくて、帰るんですか」
 九条が黙る。
 その沈黙がすべてだった。
 自宅がないわけではない。東京に部屋はある。
 けれど今この状態で、そこへ一人で戻って自分を保てるかと問われたら、九条は即答できない。
「今日はもう帰るな」
 真壁が低く言った。
「真壁」
「お前の言う大丈夫は、今日は信用しない」
 九条は目を伏せた。
 否定できない。
 言い返す力も、今は残っていない。
 二階堂が水を飲み干してから言った。
「部屋戻って、一人で更地の続きやる気?」
 九条の指先が止まる。
 言い方は冷たいのに、突いている場所は正確だった。今夜、自室に戻れば、目の前の空白の続きが始まる。何もないはずの場所を、身体だけがまだ家として覚えている。その矛盾に、一人で向き合える状態ではない。
「……そこまで言わなくても」
 堀島が小さく言う。
「言わないとわからない顔してる」
 二階堂は平然と返した。
 九条は反論しない。
 反論しないことが、二階堂の言葉の正しさを逆に示していた。
 真壁は伝票に手を伸ばしながら、短く言う。
「とりあえず今日は、お前を一人にしない」
「迷惑」
 九条が即座に言う。
 その即答に、真壁は逆に少しだけ安堵した。まだその反射が出るなら、完全には崩れていない。
「知ってる」
 真壁は伝票を取り上げた。
「でも今日はそれでいい」
 九条はそれ以上何も言えなかった。
 店を出る頃には、空はさらに低くなっていた。
 夕方にはまだ早いのに、街の色だけが先に沈み始めている。歩道に出ると冷たい風が首筋に触れ、九条は無意識に肩をすくめた。
 駅へ向かう道で、四人はいつもより少しだけ近い距離で歩いた。
 堀島は九条の半歩斜め前。何かあればすぐ支えられる位置だ。
 真壁は反対側にいて、九条がふと歩みを止めても見逃さない。
 二階堂は一歩後ろから全体を見ている。過不足のない配置だった。
 九条は一度だけ、進行方向とは逆の住宅地のほうを見た。
 そこにもう家はない。
 帰る場所は、物理的にも、感覚としても、ずっと前に失われている。
 なのに身体だけが、その喪失を現在進行形で覚えている。
 駅前の明かりが少しずつ灯り始める。
 人はみな、自分の行き先を持っている顔で歩いている。
 九条には、その流れの中で「帰る」という言葉だけが妙に遠く感じられた。
 今夜、自分はどこへ戻ればいいのか。
 その問いを口にする前に、真壁が言った。
「今日はまず、飯食ってから考える」
 九条が顔を上げる。
 堀島も「はい」とすぐに頷いた。
 二階堂だけが、何も言わずに視線を逸らす。
 誰の家に行くのか。
 どこなら今夜の九条を置けるのか。
 その答えはまだ決まっていない。
 だが少なくとも、九条はもう、自分の部屋にまっすぐ帰れる顔をしていなかった。