更地の月

 医務院の会議室は、午前の終わりになると独特の緩み方をする。
 長机の上には使い終わった資料が半端に重なり、紙コップのコーヒーは飲みきられず、ホワイトボードには消し忘れた文字が薄く残る。数時間前まで誰もが真面目な顔で覗き込んでいた数字や日程も、終わってしまえば急にただの印に見える。
「じゃあ、これで終わりでいいですか」
 司会役だった事務の女性がそう言うと、室内の空気が一段軽くなった。椅子を引く音、資料を綴じる音、スマートフォンを探す音がばらばらに重なる。午後の予定へ向かう者もいれば、昼休みに入ろうとする者もいる。その、少しだけ無防備になる瞬間だった。
「せっかくだし、写真撮りません?」
 若手の堀島が、壁際に置いてあった院のタブレットを持ち上げた。
 明るく、遠慮のない声だった。まだこの場の誰に対しても身構えが薄い年齢の声である。
「今日、外部との合同研修の初回だったじゃないですか。記録用に一枚くらいあってもよくないですか」
「ああ、広報に渡すやつか」
 誰かが言うと、別の誰かが笑った。
「だったら二階堂さんの領分じゃないですか」
「俺は撮られる側じゃなくて撮る側なんで」
 そう返したのは、窓際でネクタイを少し緩めていた二階堂壮也だった。広報の人間らしく声の通りがよく、言い方にも余裕がある。場に自分を溶かすのがうまい男だ、と真壁彰は昔から思っていた。輪の中心に立っていなくても、気づくと空気の流れを握っている。
「真壁さん、こっち来てくださいよ」
 堀島に呼ばれ、真壁は面倒そうな顔だけ作って立ち上がった。
「俺は別にいい」
「そう言う人ほど撮っといたほうがいいんですって。ほら、九条先生も」
 その名を聞いて、真壁は反射的に視線を向けた。
 会議室の出口近くでファイルをまとめていた九条雅紀が、穏やかな笑みを浮かべたまま小さく首を傾げている。
「僕はいいです。どうぞどうぞ」
 自然な譲り方だった。
 声も柔らかい。感じが悪いわけではない。むしろ、人に前を譲るのが板についているというほうが近い。だが真壁は、その一歩が妙に滑らかすぎると思った。頼まれるより先に、枠の外へ退く動きだった。
「一枚くらい、いいじゃないですか」
 堀島が笑いながら九条の腕を軽く引いた。
 九条は困ったように目を細めたが、拒まなかった。引かれたぶんだけ輪に入る。けれど、中央へは来ない。前へ出る隙があっても出ず、誰かの肩の後ろにちょうど半歩だけ身を置く。そうすると、そこにいたはずの存在感が薄くなる。
 真壁はそれを見ていた。
 昔から、九条は目立ちたがる性格ではなかった。だが、引っ込むにしても、こんなふうに輪郭を消すような退き方をする男だっただろうか、と一瞬考える。
「九条先生、もうちょいこっち」
「十分でしょう。僕、背だけはあるので」
 冗談めかして言い、九条は笑った。
 その場の誰もが、普通に笑って流せる言い方だった。ただ、笑っているのに目元だけがほんの少し硬い。真壁はそこが気になった。
「二階堂さんも入ってくださいよ」
「嫌です。広報が記録写真に映ると、あとで面倒なんで」
「なんですか、それ」
「本当だよ。誰が現場の人間で誰が付き添いか、外から見てわかんなくなるだろ」
「理屈っぽいなあ」
 軽口が飛び交う間に、九条はさらに自然に端へ寄った。
 気づけばフレームの外に出ていてもおかしくない位置だった。堀島が「あ、先生そこ切れます」と笑って引き戻す。九条は「ごめん」と素直に戻った。
 撮影の直前、真壁は九条と目が合った。
 ほんの一瞬だけだった。幼い頃から見慣れた、あの静かな目だった。だがそこには、写真を撮られる直前の照れや気恥ずかしさとは別のものがあった。呼吸を浅くして、やり過ごそうとしている時の目だと真壁は思った。
「いきますよー」
 シャッター音が鳴った。
 たったそれだけのことだった。
 会議の終わりに記念写真を一枚撮る。それだけだ。普通なら何も残らない程度の出来事である。だが、真壁の胸には小さな引っかかりが残った。
 散会して廊下へ出ると、堀島がタブレットの画面を見ながら笑った。
「ちゃんと撮れてる。九条先生、今日ちょっと珍しいですね。こういうの、あんまり入ってくれないじゃないですか」
「そう?」
 九条はファイルを脇に抱え、のどかな調子で返した。
「まあ、使えそうならどうぞ」
「写り、めちゃくちゃいいですよ」
「それは堀島の撮り方がいいんでしょう」
 さらりと言う。
 感じがいい。だが、自分自身に話が向いた瞬間だけ、言葉が薄くなる。褒め言葉を受け取らず、撮った側へ返して終わらせる。いつもの九条だった。
「共有フォルダに入れときますね」
 堀島のその一言に、九条の笑みがほとんど見えないほどだけ止まった。
 ほんの一拍だ。堀島は気づいていない。近くで聞いていた真壁と、少し離れたところで携帯を弄っていた二階堂だけが、その止まり方を見た。
「……ああ」
 九条はすぐに頷いた。
「必要なら」
 必要なら。
 その言い方にも、真壁は小さな違和感を覚えた。写真を撮った直後に、必要か不要かという整理の仕方をするだろうか。普通なら、送ってくださいとか、あとで見ますとか、その程度だ。いる、いらないの判定が先に立つのは妙だった。
 だがそれも、気にしなければそれまでの話だった。
 昼をまたいだ軽い打ち上げは、医務院近くの小さな店で行われた。
 正式な宴席というほどではなく、研修の区切りに数人で食事をする程度のものだ。木目の濃いテーブルに人数分のグラスが並び、コートは椅子の背に掛けられ、メニューは油の染みたビニールのカバーに収まっている。肩肘張らない店だった。
 堀島が率先して注文を取りまとめ、真壁は水の入ったピッチャーを自分の近くに寄せた。九条のグラスが半分を切っているのが見えたからだ。昔から、九条は喋っているときほど水分を忘れる。気づけば空のままになっていることがある。真壁はもう癖みたいにそれを見てしまう。
「先生、辛いの平気でしたっけ」
 堀島がメニューを見ながら尋ねた。
「強いのはそこまで。でも嫌いではないよ」
「じゃあこれやめときましょうか。こっち、わりと容赦ないやつなんで」
「助かる」
 九条は素直にそう言った。
 堀島は相手の好みを探るのがうまい。押しつけがましくないのに、自然と相手の負担を減らす方向へ動く。まだ若いが、その優しさが天性のものだと真壁にはわかった。
「ずいぶん気が利くな、お前」
「真壁さんが利かなすぎるんですよ」
「俺は必要なときにだけやる」
「必要なとき、遅いんですよ」
 堀島が笑う。
 真壁も口元だけで笑った。
 向かい側では二階堂がグラスを回しながらそのやりとりを眺めていた。自分からは何も世話を焼かない。だが全員の視線の向きや、会話の詰まり方だけはきっちり見ている。その目つきは、誰かを助けるためというより、空気の構造を把握するためのものに近い。
「九条先生って、休日なにしてるんですか」
 堀島の問いに、九条は少しだけ考えるふりをした。
「寝ていることが多いかな」
「いや、それ絶対ほんとは何も答えてないやつですよね」
「じゃあ、本を読む」
「それも広すぎません?」
「広いほうが便利でしょう」
「ずるいなあ」
 店の中に小さな笑いが起きる。
 九条は誰に対しても感じよく返す。だが、その返しはいつも少しだけ手前で止まる。休日のこと、部屋のこと、私物のこと。個人の生活が透けそうになる話題では、必ずするりと手前で向きを変える。拒絶ではない。けれど入ってこられるための扉も開けない。
「先生の部屋って、綺麗そうですよね」
「そうでもないよ」
「え、意外」
「本棚だけは諦めてる」
「本、多いんですか」
「それなりに」
 そこまで言うと、九条は水を飲んだ。
 話を切るには十分な間だった。堀島も無理には踏み込まない。真壁はそのやり方に見覚えがあった。九条は昔から、人と距離を取るときに壁を立てない。その代わり、相手がこれ以上進めない場所へ、会話ごと静かに置き直す。
「昔からそうだったか……」
 真壁は心の中で呟き、すぐに否定した。
 いや、違う。少なくとも昔は、こんなふうに綺麗にかわす男ではなかった。必要がなければ喋らないが、聞かれたら案外そのまま答えるところがあった。写真だってそうだ。卒業アルバムの撮影や部活の集合写真で、極端に嫌がっていた記憶はない。写るのが好きではなくても、ここまで身の置き場を選ぶような反応ではなかった。
 途中からついた癖だ。
 そう思うと、昼の会議室で見た半歩の退き方が、別の意味を持って真壁の中に戻ってくる。
「真壁さん、なんか怖い顔してません?」
 堀島に言われ、真壁は箸を置いた。
「してない」
「してますって」
「お前は人の顔を見すぎだ」
「真壁さんにだけは言われたくないです」
「それはそうだな」
 会話がまた流れ、料理が運ばれてくる。
 九条は取り皿を配るのを手伝い、堀島がそれを受け取る。二階堂は誰よりも早く全体を見て、足りないものがあれば店員を呼ぶ。四人でいるのに、四人とも別々の仕方で場に関わっている。その差が、不思議なくらい噛み合っていた。
 食事が一段落した頃、堀島がスマホを取り出した。
「あ、そうだ。さっきの写真、送りますね」
 その一言で、空気が変わった。
 何か大きな音がしたわけではない。
 誰かが怒ったわけでもない。
 ただ、真壁にはわかった。テーブルの向こう側で九条の体が、目に見えないほど小さく強張った。
「ほら、これです」
 堀島は無邪気に画面を見せた。
「九条先生、これすごく雰囲気いいですよ。ちゃんと柔らかく写ってる」
 九条は画面に視線を落とした。
 笑っていた。少なくとも口元は笑っていた。だが次の言葉は、考えるより先に出たように早かった。
「あ、僕のは大丈夫。消してください」
 卓上に沈黙が落ちた。
 あまりにも自然な言い方だった。
 だからこそ、異様だった。
 送るかどうかを相談する前に、残す必要があるかないかの処理が済んでいる声だった。
 堀島が目を瞬いた。
「え、あ、すみません。変な写りでした?」
「あ、いや、そうじゃなくて」
 九条はまだ笑っていた。
 笑っているのに、息が少し浅い。
「あんまり……画像、持たないので」
「でも、集合写真ですよ?」
「だからかな」
 軽く受け流すつもりの言い方だった。
 だが、今の場ではうまくいかなかった。堀島は善意で言っている。真壁は幼馴染として聞いている。そして二階堂は、その場に落ちた歪みだけを拾っていた。
「お前、自分が残るの嫌いだよな」
 二階堂が言った。
 抑揚の少ない声だった。
 責める調子でも、慰める調子でもない。ただ見えたものを述べるみたいな言い方だった。
 九条の表情が止まった。
 止まって、それから笑おうとして失敗した。口角だけが形を作り、目が追いつかない。
「何ですか、それ」
「写真が苦手とかじゃないだろ」
 二階堂は九条から目を逸らさない。
「写りの問題じゃない。あとで見返されるとか、どこかに残るとか、そっちが嫌なんだろ」
「……勝手なこと言うなよ」
 声は穏やかだった。
 だが、その穏やかさは明らかに薄い膜だった。
 堀島が戸惑った顔で真壁を見る。
 真壁は二階堂を止めるべきか、一瞬だけ迷った。だがその一瞬のあいだに、九条は席を立っていた。
「すみません。ちょっと」
 椅子が静かに引かれる。
 九条は誰の顔も見ず、店の奥へ続く通路のほうへ歩いていった。トイレか、外へ出る扉か。その背中は乱れていない。けれど、乱れていないこと自体が不自然だった。
「……あの、俺、まずかったですか」
 堀島が小さく言った。
「お前は悪くない」
 真壁が答えるより先に、二階堂が立ち上がった。
「悪いのは俺」
 そう言って、二階堂は九条のあとを追った。
 店の外には、春先の冷えた空気が残っていた。
 細い路地に面した非常口の脇で、九条は壁にもたれず立っていた。逃げるように出てきたわりに、身を預けるほど崩れてはいない。ただ、肩で呼吸するのをやめようとしている人間の立ち方だった。
 足音が近づくと、九条は振り返らずに言った。
「追ってこなくていいのに」
「そう言うと思った」
 二階堂は数歩離れた場所で立ち止まった。
 妙に距離を詰めない。追いつめる気配も見せない。ただ、逃げ場もある位置に自分を置く。その立ち方がかえって厄介だと九条は思った。
「店、戻れ」
「お前が戻るなら」
「子供じゃないんだから」
「それは知ってる」
 短いやりとりのあと、沈黙が落ちる。
 通りの向こうで自転車のブレーキが鳴り、遠くの道路をトラックが通った。店内からは小さな笑い声が漏れてくる。こちらだけが別の空気に切り離されたみたいだった。
「さっきの、言いすぎ」
 九条が先に口を開いた。
「自分でもそう思う」
「思うなら言わないで」
「でも間違ってない」
 九条はようやく振り返った。
 街灯の白い光に照らされた顔は、店内にいたときよりさらに色が薄く見えた。綺麗だとか儚いとか、そんな安い言葉でまとめるのが違うと二階堂は思う。その顔には、綺麗さより先に、痕跡を持ちたくない人間特有の切迫があった。
「写真が嫌いなんじゃない」
 二階堂はゆっくり言った。
「残るのが嫌なんだろ」
 九条の喉がかすかに動いた。
 否定の言葉はすぐには出てこなかった。代わりに、息を吸う音だけが小さく聞こえた。
「……そういう言い方、やめろ」
「じゃあどう言えばいい」
「お前に説明する必要はない」
「ないな」
 二階堂はあっさり頷いた。
「でも、説明できないからって、ないことにはならない」
 九条の目が揺れた。
 怒っているわけではない。怒るより先に、触れられたくない場所へ指先が届いてしまったときの反応だった。自分でも見ないようにしていたものに、輪郭を与えられかけている時の顔だ。
「何が嫌なんだよ」
 二階堂の声は低い。
「あとで見られることか。そこにいると確定されることか。それとも」
「やめろ」
「捨てられることか」
 九条の表情が、そこで初めて崩れた。
 強い拒絶の形にはならなかった。
 むしろ逆だった。息が詰まり、声が遅れ、何かを言おうとして言えなくなる。その狼狽のほうが、九条という男にはよほど痛々しかった。
「……勝手に、決めるな」
「決めてない。読んでるだけだ」
「それが、一番」
 九条は言いかけて止まった。
 何が一番なのか、自分でもわからないみたいだった。嫌なのか、怖いのか、腹立たしいのか。そのどれもが正しくて、そのどれでも足りない。
 数秒の沈黙のあと、九条は俯いた。
 吐き出した声は、言うつもりで用意した声ではなかった。
「……残って、何になる」
 二階堂は何も言わなかった。
 九条自身が、その一言にいちばん驚いているようだった。
 言葉にした瞬間、目の奥に戸惑いが走る。思想でも理屈でもない。奥歯の裏に押し込めていた本音が、何かの拍子に零れただけだ。
「残って、あとで見られて、いいように使われて、いらなくなったら終わりだろう」
 九条はそこまで言って、はっとしたように口を閉ざした。
 言い過ぎたと思ったのかもしれない。あるいは、どこまで口にしたか自分で把握できていないのかもしれない。
 店の中では、まだ食器の触れ合う音がしていた。
 外気は冷たいのに、九条のこめかみにはうっすら汗が滲んでいる。
「……ごめん」
 九条は顔を上げずに言った。
「今の、忘れて」
 二階堂はしばらく黙っていた。
 それから、ごく短く息を吐く。
「無理だな」
 九条が目を上げる。
「忘れられるような顔してない」
「最低だな」
「よく言われる」
 それだけのやりとりなのに、九条は少しだけ力を抜いた。
 安心ではない。緊張が全部ほどけたわけでもない。ただ、今この場では追及がこれ以上先へ来ないとわかったからだ。
 二階堂は壁にもたれず、路地の暗がりを見たまま言った。
「お前、写真だけじゃないだろ」
 九条は返事をしない。
「形に残るもの全般、苦手だ」
「……知らないなら、黙ってろ」
「知らないから言ってる」
 九条はそれに対して何も返せなかった。
 否定できないことを見抜かれたとき、人は怒るより先に疲れる。今の九条がそうだった。
「戻れるか」
 二階堂の問いは、さっきまでとは違っていた。
 読むことをやめたわけではない。だが、これ以上ここで剥がす気もない。九条はその変化を感じ取ったらしく、小さく頷いた。
「戻る」
「なら一緒に戻る」
「別々でいい」
「じゃあ三十秒あとに行く」
「……律儀だな」
「お前が変な顔のまま入ると、堀島が気にする」
「真壁も」
「そっちはもう気づいてる」
 その名を聞いて、九条の睫毛がわずかに震えた。
 幼馴染というものは厄介だ。過去を知っている分だけ、今の違和感に説明のつかない重さを感じ取ってしまう。真壁が何をどこまで見抜いているのか、九条にはわからない。だから余計に、視線が苦しい。
「……あいつは」
 言いかけて、九条はやめた。
 二階堂は先を促さなかった。
「戻る」
 今度ははっきり言って、九条は扉へ向かった。
 店の明かりが開く。暖気と料理の匂いが流れ出す。九条は一度だけ息を整えてから中へ入っていった。
 二階堂はその背中を見送り、三十秒きっちり待った。
 店内へ戻ると、堀島があからさまにほっとした顔をした。
「先生、大丈夫でした?」
「ごめん。少し外の空気を吸いたくて」
「寒くないですか」
「大丈夫」
 九条は席についた。
 乱れはほとんど見えない。医者らしい、というより九条らしい立て直し方だった。表面に皺を作らない。だが真壁には、さっきまでよりわずかに目の焦点が遠いのがわかった。
 そして、二階堂が戻ってきた瞬間、真壁はそちらも見た。
 何かあった顔をしている。だが、二階堂は何も言わずにグラスを手に取った。
「すみません、写真の件」
 堀島が申し訳なさそうに言う。
「いや、こっちこそ。変なこと言って悪かった」
 九条が先に謝った。
「共有は、皆さんだけで大丈夫です。僕の写ってるやつは、できれば抜いてもらえると助かります」
「もちろんです」
 堀島は素直に頷いた。
 不思議そうではあるが、そこで理由を聞かないのが彼の優しさだった。
「先生、昔からそうなんですか」
 悪気なく出た問いに、真壁の指先が止まる。
 九条も一瞬だけ黙った。
「……昔から、というより」
 九条は箸を置き、曖昧に笑った。
「今の癖かな」
 それ以上は言わなかった。
 言わなくても、その一言で十分だった。昔からではない。途中からだ。真壁の胸にあった引っかかりと、ぴたりと噛み合う言い方だった。
「でも、先生って贈り物のセンスよさそうですよね」
 空気を変えようとしたのか、堀島が明るく言った。
「前にいただいた焼き菓子、すごく美味しかったです」
「ああ、あれ」
 九条の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「日持ちしないやつだったよな」
「そうです。でも、それがよかったです」
「食べ物しか寄越さないもんな、お前」
 真壁がぽつりと言った。
 九条がそちらを見る。
 数秒だけ、何かを測るみたいな沈黙が落ちた。
「消えるから」
 九条は軽く言った。
 軽く言ったはずなのに、その場の誰もすぐには笑えなかった。
「残るものって、扱いに困るでしょう」
 グラスの水面が店の照明を揺らしている。
 堀島は意味を考えるように眉を寄せた。
 真壁はその言葉を胸の奥へ落とした。
 二階堂だけが、九条の言い方の端に、さっき外で聞いた本音の続きを見ていた。
 食事の残りは、表面上は穏やかに進んだ。
 仕事の愚痴が出て、堀島が笑い、真壁が短く返し、二階堂が要点だけ拾って刺す。九条もそれに付き合い、傍目にはいつも通りに見えた。けれど、一度見えてしまったものは元には戻らない。
 写真に映ることを嫌がるのではない。
 残ることを怖れている。
 そう読んでしまうと、九条の些細な挙動のひとつひとつが別の意味を持ち始める。人の後ろへ回る癖。自分の話をしない手つき。持ち物の少なさ。人に何かを渡すとき、形のあるものを避ける選び方。
 打ち上げがお開きになり、店を出る頃には夜気が濃くなっていた。
 駅へ向かう道で、堀島が九条の隣を歩きながら、さっきの焼き菓子の店の話を続けている。九条はそれに穏やかに応じていた。二階堂は少し後ろを歩き、真壁はさらにその後ろから三人を見る形になった。
 昔の九条は、あそこまで何かを避ける目をしていただろうか。
 真壁は思う。
 答えは出ない。だが、出ないままで済ませていい違和感でもなかった。
 駅前で流れ解散になる直前、堀島がふと思い出したように言った。
「今度、先生に何かお礼したいな。前のお菓子のお返しもまだですし」
「いいよ、気にしなくて」
「でも、もらいっぱなしって落ち着かないじゃないですか」
「じゃあ、消えるものがいいな」
 九条は笑った。
 冗談みたいな口調だった。
 けれど真壁は、その言葉を冗談の箱へ入れられなかった。
 消えるものしか渡さない。
 残るものを持たない。
 残されることを怖がる。
 駅の照明の下で、九条の横顔は薄く、白く、ひどく遠く見えた。
 昔から知っているはずの顔なのに、真壁にはその輪郭だけが少しずつ別人になっていくように思えた。
 写真に残るのが嫌なのではない。
 何かの形で留まることそのものに、あいつは怯えている。
 その理由を、真壁はまだ知らない。
 知らないままではいられない気がした。
 改札へ向かう九条の背に、堀島が「次はちゃんと撮らせてくださいね」と笑って声をかける。
 九条は振り返り、いつもの感じのいい笑みで手を振った。
「そのときは、写らない位置を探すよ」
 軽口としては、上出来だった。
 堀島も笑った。
 だが真壁だけは、その言葉に胸の底を冷やされた。
 あいつは昔から、誰かに何かを残すことを、あそこまで嫌がる人間だっただろうか。