更地の月

 学会の二日目は、閉会の挨拶が終わると一気に気が緩んだ。
 壇上のスクリーンにはまだ最後のスライドが映ったままで、会場のあちこちでは名刺交換の続きや、帰りの新幹線の時間確認や、荷物の整理が始まっている。さっきまで座長や発表者の言葉を一言も聞き漏らすまいと張っていた空気が、ふっと解けて、雑音に戻っていく。その変わり目の匂いを、真壁彰は昔から嫌いではなかった。事件の現場でも会議室でも、緊張がほどけた瞬間にこそ、その場の人間の素が出る。
「記念写真、こっちにお集まりくださーい」
 運営スタッフの声が飛ぶと、参加者たちが壇上前へとぞろぞろ集まり始めた。
 医務院から来ている面子も、なんとなく一塊になる。若手の堀島がいちばん素直に反応し、鞄を肩に掛け直しながら「あ、撮るんですね」と明るく言った。二階堂壮也は、会場後方でスマートフォンを確認していた手を止め、いかにも面倒そうな顔だけ作る。もっとも、その面倒くさがり方が半分演技であることを真壁は知っていた。二階堂はこういう場で自分がどう立てば全体が自然にまとまるか、無意識みたいな顔で計算している男だ。
「真壁さん、行きます?」
 堀島に聞かれ、真壁は肩をすくめた。
「撮るなら撮ればいいだろ。俺は端でいい」
「そういう人が真ん中寄りにされるんですよ」
「お前、妙にこういうの慣れてるな」
「場数です」
 笑って言う堀島の向こうで、九条雅紀が資料の入った封筒を整えていた。
 白衣ではなくスーツ姿だが、どこにいても目を引く男だった。長身で、無駄のない立ち方をする。顔立ちの整い方だけ見ればいくらでも人目を集めそうなのに、自分から中心へ入ろうとしない。必要な時はきちんと前に出るが、不要になれば音もなく半歩引く。そういう身の置き方が妙にうまい。
「九条先生も行きましょうよ」
 堀島が声をかけると、九条は穏やかに笑った。
「どうぞ。俺は荷物を見てるから」
「いやいや、全員でって感じですよ」
「別にいい」
「一枚くらい、いいじゃないですか」
 堀島の言い方に押しつけはなかった。
 九条もそれをわかっているらしく、困ったように目を細めるだけで、露骨には嫌がらない。だが、真壁はその時点で、九条の声が少し薄いことに気づいていた。
「じゃあ、先に行ってて」
 九条は封筒を軽く持ち上げて見せる。
「これ、事務局に返してから行く」
「絶対ですよ」
「努力する」
 そんなふうに笑って、九条は会場の脇へ消えた。
 それきりだった。
 壇上前はすぐに人で埋まった。
 前列に偉い先生方が並び、その後ろに関連部署の人間が詰めていく。堀島は誰かに肩を押されて二列目へ入り、真壁は端へ寄った。二階堂はどういう理屈なのか、結局いちばん写真映りのいい位置に落ち着いている。
「九条先生、まだ来ませんね」
 堀島が首を伸ばした。
 真壁も視線だけで辺りを探す。会場後方、出入口の近く、壁際。いない。さっきまでいたはずの場所にも、もう姿はなかった。
「始めまーす」
 スタッフが声を張り上げる。
「皆さん、前向いてください」
「ちょ、九条先生」
 堀島が小さく呟いた時には、もうシャッター音が鳴っていた。
 そのまま二枚、三枚と撮られ、列が崩れる。
 真壁はその流れの中で、ようやく会場のいちばん後ろに九条を見つけた。壁際に立ち、別のスタッフと何か短く言葉を交わしている。撮影が終わるのを見計らっていたような間の取り方だった。
「先生」
 堀島が近寄っていく。
「来ないから、ちょっと探しましたよ」
「ごめん。返却物で捕まって」
 九条はそれだけ言って、柔らかく笑った。
 言い訳としては通る。実際、手元にはさっきの封筒がない。だが堀島は、なぜかそこで素直に納得できなかった。九条はたしかに忙しそうな顔をしていたが、息の乱れもなければ急いで戻ってきた様子もない。むしろ、最初から撮影に入らない位置を選んでいた人間の落ち着き方に見えた。
「じゃあ、別で一枚撮ります?」
 堀島が言うと、九条は少しだけ笑みを深くした。
「そんな大袈裟な」
「でも、せっかく全員いたのに」
「一人くらいいなくても成立するって」
 冗談みたいな口調だった。
 だが、堀島の中に小さな棘が残った。なくても成立する。そういう言い方を、普通この場面でするだろうか。
「九条、戻るぞ」
 真壁が声をかけると、九条はすぐにそちらを向いた。
「ああ」
 会場を出るまでの間も、九条はいつも通りだった。参加者に丁寧に会釈し、質問を受ければ的確に答え、堀島が持とうとした資料を「大丈夫」と受け流す。感じがよく、隙がなく、ほんの少しだけ薄い。堀島は歩きながら、さっき写真の時だけふっと姿が消えたことを気にしていた。
 翌日、医務院へ戻ると、学会の疲れを引きずった空気が院内に漂っていた。
 出張帰りの翌日は、誰もが自席の周りを片づけることから始まる。書類を戻し、土産を配り、メールを返し、現場との時差を埋めていく。堀島は午前の雑務を片づけながら、昨日のことが妙に頭に残っていた。
 昼前、コピー機の前で九条を見つけた時、思いきって声をかける。
「先生」
「はい」
「昨日、写真の時いなかったじゃないですか」
 九条はコピー用紙の束を揃える手を止めなかった。
「そうだったっけ」
「そうでしたよ。みんな並んでる時に、気づいたらいなくて」
「ああ」
 九条はそこで、ようやく少しだけ首を傾げた。
「返却物があったから」
「でも、終わったタイミング見計らって戻ってきてませんでした?」
「堀島、よく見てるな」
 笑って言われる。
 その返しのうまさに、堀島は逆に言葉を失った。否定しない。肯定もしない。答えたようでいて、肝心な部分を外している。
「いや、別に責めてるわけじゃないんです」
「うん」
 九条は刷り上がった紙を取り出し、丁寧に揃えた。
「集合写真って、苦手な人もいるから」
「先生もそうなんですか」
「どうだろうな」
「どうだろうなって」
「ほら、こういう曖昧な返事をした時は、それ以上聞かないのが大人です」
 声音はやわらかい。冗談めかしている。
 けれど堀島には、そのやわらかさがはぐらかしそのものだとわかった。
「先生、そういうとこずるいですよね」
「よく言われる」
 九条はそう言って、コピー用紙を抱えたまま行ってしまった。
 残された堀島は、なんとなく肩透かしを食らった気分になる。怒られたわけではない。むしろ感じよく受け流された。だが、それが余計にひっかかった。
 午後、資料室から出てきた真壁を見つけると、堀島は昨日からの違和感をそのままぶつけてみた。
「真壁さん」
「何だ」
「九条先生って、写真苦手なんですか」
 真壁は足を止めた。
 質問の内容そのものより、堀島がそこを気にしていることのほうに反応したような顔だった。
「昨日の集合写真のことか」
「はい。学会の最後のやつ」
「ああ」
 真壁は短く息を吐く。
「まあ、あいつは写真苦手だな」
「やっぱりそうなんですか」
「昔からってほどでもない気もするが」
 そこで真壁は言葉を切った。
 昔からではない、という含みがわずかに残る。堀島がそこを拾おうとした時、真壁は先に話を閉じた。
「気にするな。機嫌が悪いとかじゃない」
「いや、そういうふうには見えないですけど」
「だろ」
 真壁はそれだけ言って、手に持ったファイルで軽く堀島の腕を叩いた。
「お前、あいつのこと見すぎ」
「真壁さんにだけは言われたくないです」
「それはそうだな」
 いつものような軽口で終わったが、堀島の胸にはむしろ新しい疑問が残った。
 写真が苦手。
 真壁はあっさりそう言った。だが、その言い方は単純な照れ屋やシャイの類いではなかった。何かの事情を丸めて、その言葉に押し込んだような言い方だった。
 その日の夕方、二階堂は医務院の廊下を一人で歩いていた。
 広報の部署へ戻る途中、窓際のベンチに九条が座っているのを見つける。珍しい光景だった。九条は基本的に、座るなら自分のデスクか、業務に必要な場所でしか座らない。廊下のベンチでぼんやり休むような男ではない。
「疲れた?」
 声をかけると、九条が顔を上げた。
「少し」
「学会帰りだしな」
「二階堂は元気そうだな」
「顔だけな」
 二階堂はベンチの端に腰を下ろさず、窓枠にもたれて立った。
 九条の横顔を見る。疲れているのは本当だろう。だが、疲労だけではない薄さがそこにある。昨日の集合写真の時、姿を消したのも見ていた。誰にも気づかれないように輪の外へ抜け、終わったあとで何食わぬ顔で戻る。その動きが妙に手慣れていた。
「昨日、綺麗に消えてたな」
 九条がわずかに目を細める。
「何の話」
「集合写真」
「見てたのか」
「見てた」
「趣味が悪いな」
「お前ほどじゃない」
 九条は少しだけ笑った。
 しかしその笑みは長くもたなかった。二階堂が次に何を言うか、ある程度わかってしまった顔だった。
「お前、形に残るの苦手だろう」
 九条の表情が、そこで止まった。
 呼吸一つ分の沈黙だった。
 だが、その短い間に、顔色がはっきり変わった。笑みの名残が消え、視線が定まらなくなる。写真が嫌い、という軽い言い方を超えて、もっと中心に近いところへ触れられた反応だった。
「……急に何」
「昨日の動き、露骨だった」
「一枚写らなかっただけで大袈裟だな」
「写真だけじゃないだろ」
 二階堂は声を低くした。
「残るの全般、苦手だ」
「勝手な決めつけはやめろ」
 言葉はいつも通り丁寧だった。
 だが、その丁寧さがかえって動揺を露わにしている。九条は本当に揺れた時ほど、語尾が整いすぎる。
「決めつけじゃない」
「そういうの、いいから」
「よくないから言ってる」
 九条は立ち上がろうとして、すぐには動けなかった。
 自分でもそれに気づいたのか、少しだけ眉間に皺が寄る。二階堂はそこを見逃さなかった。
「写真に残るのも嫌だし、物として残るのも嫌なんだろ」
「二階堂」
「捨てられる時のこと、先に考える」
 九条が息を呑んだ。
 その小さな音だけで十分だった。
 否定が遅れる。
 表情だけではなく、指先までわかりやすく揺れている。ベンチの端に置いていた手が、ほんのわずかに強く木部を掴む。図星を刺された時の反応だった。
「……そういう言い方、やめてくれないか」
 九条はようやくそれだけ言った。
 怒っているというより、息が浅くなっている。逃げたいのに、きれいな言葉しか出てこない顔だった。
「当たってるんだな」
「お前に説明する必要はない」
「でも違うとは言わない」
 九条は立ち上がった。
 今度はちゃんと動けたが、足取りは普段よりわずかに硬い。
「仕事があるから」
「九条」
「失礼します」
 振り返らずに去っていく。
 その背中は乱れていない。だが、乱れていないように整えているぶんだけ、不自然だった。
 二階堂はそのまま少しだけ廊下に残った。
 自分が今、かなり深いところに触れたのはわかる。責めたいわけではなかった。ただ、見えてしまうのだ。九条雅紀という男は、好かれることそのものより、痕跡になることを怖がっている。写真、記録、贈り物。残るものに自分が絡むと、急に呼吸が怪しくなる。
 その夜、真壁は院の裏手にある喫煙所脇で二階堂に呼び止められた。
 真壁自身は煙草を吸わないが、二階堂がこういう場所で話したがる時はたいてい、他人に聞かれたくない話だと知っている。
「何だ」
「九条のこと」
 その一言で、真壁の顔つきが少しだけ変わる。
「何かあったか」
「昨日の写真の件、あれだけじゃなさそうだな」
 二階堂は壁に背を預け、真壁を見る。
「俺、さっき本人に言った。形に残るの苦手だろって」
「お前、ほんとに遠慮ないな」
「図星だった」
 真壁はすぐには返事をしなかった。
 街灯の白い光がコンクリートを照らしている。医務院の裏手は人通りが少なく、どこか冷たい。真壁は腕を組み、しばらく何もない空間を見るみたいに黙った。
「……あいつ、昔から人に何か贈るときも消えものしか選ばないからな」
 二階堂は黙って続きを待つ。
 真壁は小さく息を吐いた。
「菓子とか、茶とか、花とか、消耗品とか。相手が喜ぶもんはちゃんと選ぶ。センスもいい。だけど、残るものはほとんど渡さない」
「理由は」
「本人がはっきりそう言ったのを聞いたわけじゃない」
 真壁はそう前置きしてから、低い声で続けた。
「でも、写真も、贈りものも、捨てられるときのことを先に考えてしまうらしい」
「らしい、か」
「昔、ぽろっと似たようなこと言ったことがある」
 真壁の視線は、もう二階堂ではなく、ずっと前のどこかに向いていた。
「何かを渡して、それが相手の手元に残って、いつかいらなくなって捨てられる。その先まで想像しちまうんだろうな。だから最初から、なくなるものしか選ばない」
 二階堂はその言葉を頭の中でなぞった。
 捨てられる時のことを先に考える。
 物の話でありながら、物だけの話には聞こえない。
「写真も同じか」
「たぶんな」
「残った自分が、あとでどう扱われるか考える」
「そういうことだろうよ」
 真壁の声は平坦だった。
 だが、その平坦さの下に、幼馴染にしか持てない種類の苦さが沈んでいる。長く見てきたからこそ、あまり驚かない。驚かない代わりに、どうにもできなかった時間の長さがある。そんな声だった。
「昔からそうだったのか」
 二階堂が問うと、真壁は少し考えた。
「全部が全部、最初からじゃない気もする」
「途中で強くなった」
「かもしれない」
 二階堂はそれ以上聞かなかった。
 真壁が今話せるところと、まだ話さないところの境目は、見ればわかる。無理に越えても九条のことを知れはしない。けれど、今ので十分でもあった。
 あの男は、ただ儚いわけではない。
 痕跡になることを本気で恐れている。
 そしてその恐れは、気まぐれでも癖でもなく、かなり生活の深いところまで入り込んでいる。
「堀島、気にしてたぞ」
 二階堂が言うと、真壁は苦い顔をした。
「だろうな」
「写真で消えたの、見てたらしい」
「見てる奴は見る」
「お前もな」
「俺は昔から見てる」
 真壁はそう言って、喫煙所の屋根の向こうを見上げた。
「だから余計に、最近のあいつは薄すぎる」
 二階堂は返事をしなかった。
 薄い。
 それはたぶん、九条自身がそうしようとしているからだ。人の記憶にも、物の形にも、なるべく強く残らないように。だが、その削り方は時々あまりに極端で、見ている側にだけ痛々しさを残す。
 翌週、学会の集合写真が院内の共有フォルダに上がった。
 総勢何十人もの人間が段差に並び、前列で偉い先生方が笑い、その後ろで関係者がそれぞれの顔をしている。医務院の面々もちゃんと写っていた。真壁が端にいて、堀島がやや緊張した顔で、二階堂が妙に落ち着き払っている。
 そこに、九条はいなかった。
 堀島はモニターを見つめたまま、何とも言えない気分になった。
 たった一枚の集合写真だ。いなくても業務上は何も困らない。なのに、その不在だけがやけにくっきり見える。写っていないはずなのに、写っていないこと自体が痕跡みたいだった。
「堀島」
 後ろから声がして、振り向くと九条がいた。
 いつものように穏やかな顔をしている。
「何見てる」
「学会の写真、上がってたんで」
「ああ」
 九条は画面を一瞥しただけで、それ以上近づかなかった。
「よく撮れてるな」
「先生いないですけど」
 つい口をついて出る。
 九条は少しだけ笑った。
「そうだな」
「先生って、ほんとに気にならないんですか。写ってなくて」
「気になるくらいなら、最初から入ってます」
 冗談めかして言いながら、その目は笑っていなかった。
 堀島は何も返せなくなる。
 そこへ真壁が通りかかり、画面を見て、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
「九条」
「はい」
「次は逃げるなよ」
 真壁の言い方は軽かった。
 軽いのに、その軽さの中に気遣いがあった。責めるためではなく、あまり自分を薄くするなと牽制するみたいな声だった。
「努力します」
 九条はまた同じ答えを返した。
 それから、堀島と真壁の顔を順に見て、少しだけ首を傾げる。
「そんなに残してどうするんだ」
 何気ない調子だった。
 けれど、その一言には妙な冷えがあった。
 真壁はすぐには答えなかった。
 堀島も黙る。
 九条は自分で言ってしまってから、ほんの一瞬だけ表情を失った。言いすぎたと気づいた顔だった。だが、もう遅い。
「……ごめん」
 九条は低く言った。
「今のは忘れてください」
 忘れられるわけがない、と二人とも思った。
 だが誰もそうは言わなかった。
 九条が去ったあと、堀島は画面の写真をもう一度見た。
 いない。
 たしかにいない。
 なのに、気配だけがそこにある。
「真壁さん」
「何だ」
「先生って、残るのが怖いんですか」
 真壁はしばらく何も言わなかった。
 共有フォルダの写真に映る、不自然なくらい整った集合の中で、九条の不在だけが妙に浮いている。
「……たぶんな」
 ようやく出た声は、短かった。
「でも、消えたいわけでもないんだろう」
「え」
「そこが面倒なんだよ、あいつは」
 真壁はそう言って、モニターから目を逸らした。
 堀島にはその意味をまだうまく飲み込めなかった。ただ、九条が単に写真嫌いなのではなく、もっと深いところで何かを恐れていることだけは、はっきりわかった。
 そしてその恐れは、たぶん写真だけでは終わらない。
 人に渡すもの。
 人から受け取るもの。
 形に残るもの。
 そういうすべてに、あの人は少しずつ怯えている。
 学会の集合写真のデータは、その後も共有フォルダに残り続けた。
 誰かが必要に応じて開き、閉じ、やがて別の更新に埋もれていく。
 そのどこにも九条雅紀はいない。
 いないのに、堀島には、あの人が誰よりも強くそこに残っているように見えた。