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月雲家を出ると決めた椿が荷物を纏めていると、引き戸が開く音がした。
もしかして雪白が来てくれたのかと思ったが、そこにいたのは百合音だった。
不敵に笑う百合音の姿に、怒りが湧いてくる。
「百合音さん、どうして瀆神の鬼が前邸跡に出ると教えてくださらなかったのですか?」
「あら、私は教えたわよ。それなのにあなたが御者に我儘を言って、前邸跡へ向かわせたのでしょう」
「そんな!」
椿の悲鳴にも似た声に、百合音がくすくすと笑う。そうして室内に入ると、腰を屈めるようにして椿を見下ろした。
「御者に聞いてみるといいわ。彼もきっとそう言うから」
御者はすでに百合音に抱え込まれたようだ。椿がぎゅっと唇を噛み怒りを堪えていると、百合音が面白そうに言葉を続けた。
「雪白のお父様に取り入ろうとしていたけれど、無駄よ。だってあの人はなにも覚えていないんだから」
「雪白様のお父様?」
「いまさらとぼけないで。あなたが時折、向かいに住むおじ様に会いに行っていたのは知っているんだから」
そう聞いた椿の頭に老人の姿が浮かぶ。祖父だと思っていたが、あの老人がまさか雪白の父親だなんて。
驚く椿に百合音が「あら」と首を傾げた。
「もしかして、父親だと知らなかった? ま、無理もないわね。数年前からご容態が悪く、今ではすっかり自分のことも忘れているようだから」
百合音が雪白の父親の看病をしていることは知っていた。でも、父親は母屋のどこかにいるのだろうと考えていたのだ。
「あなたは月雲家についても雪白についてもなにも聞かされていない。そうでしょう?」
「それは……。また嫁いできたばかりだから」
「もう四ヶ月も経っているのよ。雪白がなにも話さないことが、あなたが妻に相応しくないという意志の表れなのが分からないの?」
自信満々の笑みに、椿はなにも言い返せない。百合音はそんな椿をさらに追い詰める。
「雪白から伝言を預かっているわ。秋人を危ない目に遭わせたあなたの顔は、もう見たくないそうよ」
その話が真実か分からない。また百合音が自分を騙そうとしているのかもしれない。
ただ雪白が椿にはなにも話さず、信頼していないのは確かだ。
ここが潮時なのかもしれない。椿がそう思ったとき、勢いよく引き戸が開かれた。
「俺はそんなことを言った覚えはない」
つかつかと入ってきた雪白は、眉間に皺を寄せ室内を見回す。
「百合音、これはどういうことだ。離れの部屋は掃除されていると聞いた」
春だというのに、敷地の北側にあるその部屋は寒く、隙間風が足下をすり抜けていく。畳はもう何年も変えられていない古いもので、毛羽だちところどころ沈んでいた。壁際にある畳まれた布団は粗末なもので、あちこちに継ぎはぎがされている。
「そ、それは……」
百合音が視線を巡らせる。それから「ちょっとした手違いがあったの」と言ったが、苦し紛れなのは隠しきれない。
「こんな部屋に四ヶ月も住んでいたのか」
雪白は文机の前にしゃがむと、引き出しを開けた。中に入っているのは、秋人と遊ぶために買った折り紙と、数枚の便箋。それから結婚式前に雪白から渡された紙幣の入った封筒だ。
「椿、俺からの手紙は全部捨てたのか?」
「手紙、なんのことでしょうか?」
「三日に一度ほど、椿宛に手紙を書いていた。内容はこの家に慣れたか、体調は問題ないかといった他愛もないものだが、読んでいないのか?」
戸惑いながら、椿が頷く。月雲家に嫁いで四ヶ月が経つが、雪白から手紙を受け取ったことは一度もなかった。
「百合音、俺はお前に預けたはずだ」
「椿さんが嘘を吐いているのよ! 捨てたって言いづらいから、私が渡してないかのように話しているのよ」
椿の言葉を無視して、雪白は封筒の中身を確認する。折り紙やひざ掛けは買ったが、それは椿が嫁ぐ前に母親がくれたお金から出した。雪白がくれたお金はそのまま残っている。
「女中達が、椿は無駄遣いが多いと言っていたが、まったく金は減っていない。どうしてそんな噂が立ったか、心当たりはあるか?」
「し、知らないわ。彼女達が勝手に言いだしたことよ!」
「俺は、百合音を信じて、椿を頼むと言った。それなのに、部屋は荒れて隙間風が吹き込んでくる。布団は薄く、こんな状況で椿は冬を越したというのか?」
雪白は立ちあがると、百合音に詰め寄った。
その目は、未だかつてないほど冷たい。百合音の額に脂汗が浮かび、喉がごくりとなった。
「私は掃除をするように女中達に命じたわ。悪いのは彼女達よ」
「嘘だ! 百合音お姉ちゃんは嘘を吐いている!」
青い顔で駆け込んできた秋人は、百合音を指差した。
「僕、見たんだ。雪白様からもらった手紙を、百合音お姉ちゃんは竈に投げ入れていた」
「あ、あれは……手紙じゃなくて、ただのゴミよ」
焦る百合音を押しのけるようにして、秋人が雪白の足にしがみつく。雪白は腰を屈めて、秋人と目を合わせた。
「今日、あの場所に瀆神の鬼が出ると知っていたか?」
「ううん、そんなこと聞いていないよ」
「百合音には伝えたはずだが、会わなかったか?」
「会ったよ。前のおうちに行くって雪白様に伝えてって頼んだもの」
はっきりと答える秋人の頭を撫でると、雪白は「まだ寝ているように」と言って秋人を部屋から出した。
足音が遠ざかるのを確認すると、雪白は百合音に視線を向ける。
「俺をずっと騙していたのか?」
「そ、そんな……。だって、お父様は雪白と私が結婚すると言っていたわ。それなのにこんな女と結婚させられて、雪白が困っていると思って。だから私が追い出してあげようと思ったの」
「俺はそんなこと頼んだ覚えはないし、百合音を妻にしようと思ったことは一度もない」
「どうして? 私ほどあなたの妻にふさわしい女性はいないわ。彼女ではあなたを支えられない。あなただってそう思ったから、なにも話していないのでしょう? それに私達、ずっと一緒にいるって約束したじゃない」
雪白が頭を横に振る。幼いころの記憶は殆ど残っていないが、あの約束をしたのは百合音ではない。そう、はっきりと思った。
「俺はその約束を、本当に百合音としたのか?」
さぁ、と百合音の顔が青くなり、唇が震え出した。「まさか思い出したの?」と呟くと、へなへなとその場に座り込む。そうして縋るような目で雪白を仰ぎ見た。
「雪白は私を好きでしょう?」
「幼馴染としての情はあるが、百合音を女性として慕ったことは一度もない。俺の妻はここにいる椿だ」
その言葉に、椿が息を飲む。まさか雪白の口から「妻」と言ってもらえるとは思っていなかった。
「交わした言葉は少ないが、初めて会ったときに懐かしいものを感じた。椿の横にいると心が穏やかになれる。時間がかかっても、俺は椿と夫婦としてやっていくつもりだ」
百合音が、まるで子供が駄々をこねるように首を振る。そして雪白の胸に飛び込むと、ぎゅっと抱き着いた。
「無理よ! あなたは私なしではいられない。だって私はあなたの記憶そのものだもの。雪白が忘れてしまっても、私がずっと覚えていてあげる。私が教えてあげるから」
「俺はもう、百合音の言葉を信じられない。たとえ過去を教えられたとしても、それを真実だと思えない」
雪白が身体を捩り、百合音から離れる。
それまで座り込んでいた椿は、よろめきながら立ち上がった。
「百合音さんが、雪白様の記憶そのものとは、どういうことなのですか?」
その問いに答えたのは百合音だった。
「あなたは雪白のことをなにも分かっていない。月雲家は敬神の能を使うと過去の記憶を失うの。だから雪白には、ずっと一緒に生きてきた私が必要なのよ。たとえおじ様みたいに自分のことが分からなくなっても、私がそばにいれば大丈夫だもの」
ゆくゆくは雪白も、彼のようにすべてを忘れてしまう運命にある。それはどれだけ恐ろしいことか。想像しただけで胸が苦しくなる。
雪白が、幼馴染である百合音を傍に置いていた理由が分かった気がした。彼は、百合音を通して失くした記憶を見ていたのだ。
「たとえそうだとしても、俺が百合音を頼ることはもうない。二度とこの家に来るな」
雪白が入り口を指差す。百合音は忌々しそうに椿を睨むと、足音を荒げながら部屋を出て行った。
残されたふたりは、どちらからともなく息を吐いた。
「すまない」
深々と頭を下げる雪白に、椿はゆっくりと首を振る。
「いいえ、私も百合音さんの言葉を鵜呑みにしていました。ずっと、雪白様から疎まれていると思っていました。女中達がふたりは恋人だったと話していたのですが、それは嘘なのですよね」
「もちろんだ。百合音は幼馴染で、そのような感情を持ったことはない」
顔を上げた雪白はきっぱりと言い切ったあと、辛そうに眉根を寄せる。
「百合音の言葉を鵜呑みにしていた俺が悪い。ずっとこんな場所にいたなんて、思わなかった。もっと椿と話す機会を作れば、この事態は避けられた。すべて、俺の不甲斐なさのせいだ」
雪白の謝罪の言葉が、椿の心に染みわたっていく。
それほど後悔しているのなら、責める言葉は必要ない。
「お互い謝ってばかりですね。これでは埒が明きませんから、謝罪はここまでにしましょう」
それよりも椿には聞きたいことがあった。さっき百合音が言っていた記憶を失うというのはどういうことなのか。
「雪白様は、昔のことを覚えていないのですか?」
「……そうだな。最近のことは覚えているが、幼少期の記憶はほとんどない。だから、母の顔も思い出せないのだ。ゆくゆくは、父のように自分に関することを全て忘れるだろう」
淡々とした口調だからこそ、その言葉が胸に刺さった。
いつか父親のように記憶を失くす。それが怖くないはずがない。
見ず知らずの人を守るために敬神の能を使い、その代償として自分は記憶を失う。
その記憶には、大事なものがたくさん詰まっているだろう。母親との思い出、父親と交わした言葉。夕焼けの美しさ、うだる暑さの中聞いた蝉の声、その一瞬一瞬に、自分がなにを感じたか、誰が傍にいたかを忘れてしまう。
(だけれど、雪白様はその運命を受け入れ、戦っている)
どれだけ重たい業を背負っているのだろうか。雪白の背負う宿命の重さに、胸がつぶされそうになった。
「私になにかできることはありませんか?」
その問いが意外だったようで、雪白は驚いたように目を丸くした。
「てっきり、こんな夫は嫌だと言われると思っていた」
「まさか。だって、雪白様はその運命を背負って戦っていらっしゃる。無能と言われた私がどこまでお役に立てるか分かりませんが、妻としてできることはしたいです」
「椿は俺の事情をしっても、妻としていてくれるのか」
ほっとした声音に、椿ははっきりと頷いた。それに安堵したかのように、雪白はさっき父親から聞いたことを話す。
「椿は、壊れたものを修復できるようだな」
「はい。物に残された想いを繋ぎ合わせることで、元の形に戻せます」
「それは物だけでない。その想いを持っている人間の記憶も修復できるんだ。だから、父は一時ではあるが、昔を想いだした」
信じられない話に椿は目を瞬かせた。壊れたものをなおすだけだと思っていた自分の力に、そんな効果があるなんて初耳だ。
驚いていた椿だったが、すぐにはっとなり袂に手を入れる。そうして布包みを取り出した。
「それは?」
「捨てられた雛人形の破片を集めました」
椿は包みを広げそれを手のひらに乗せると、意識を集中させる。
淡く手のひらが光りだし、風も吹いていないのに破片が動き出きはじめる。
ひとつひとつの破片がまるで意志を持っているかのように繋がり、小さな破片が徐々に大きくなり、最後にそれは壊れる前の形に戻ったのだった。
「この雛人形には、すごく優しい思い出がたくさん詰まっていました。雪白様、手を出してくださいますか?」
「これでいいか?」
椿がそっと雛人形を雪白の手に置いた。途端、雪白の脳裏にぶわっと記憶が蘇ってきた。
もう忘れてしまった母親の顔。雛人形を前にして一緒に笑ったこと。そのときに食べた団子が美味くてあっという間に食べてしまうと、母親は自分の分をくれた。
雛人形の前で起こった些細な日常の風景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
――それはやがて、母親との内緒話の光景となった。
『お母さん、僕、あの女の子と結婚する!』
『あらあら、さっき会ったばかりなのに?』
「うん、ずっと一緒にいると約束したんだ」
庭に現れた小さな瀆神の鬼を退治した雪白は、母親がいる部屋に駆け込む。
早咲きの桜が咲いたその日、父親は一組の親子を家に招いていた。
雪白より五歳年下の女の子は西洋の本で見た妖精のように愛らしく、それでいて雪白の運命を知ると守ると言うほど強かった。
「……思い出した。俺が椿を妻にしたいと言ったんだ」
「雪白様が?」
「ああ。いつかすべてを忘れると知り絶望していた俺に、椿は『私があなたの記憶を守ってあげる』と言ってくれた」
幼い日の思い出が、椿の脳裏にまざまざと蘇る。
雪白の手が椿の頬に触れた。それは記憶の手より随分と大きく、逞しい。
「では、私は請われて嫁いできたんですね」
自分は必要とされていた。その事実が椿の胸の中で大きくなる。
ずっと雪白の妻に相応しくないと悩んでいたけれど、ここにいていいのだと許された気がした。
居場所がなくふわふわと頼りなかった自分という存在が、地面に根付いた気がする。
「あぁ。そんな大事なことも忘れていた」
雪白が一歩を踏み出す。そのまま椿は、雪白の腕に捕らわれた。
「俺は、いつか椿のことも忘れるかもしれない。それでもお前を手放したくない」
「ずっと、癒しの力がないのが悲しかった。私には誰も救えないのだと思っていました。でも、あなたを救えたら、私は自分自身の価値を見つけられるかもしれません」
逞しい胸に抱かれ、椿の顔がどんどん熱くなる。鼓動は早鐘のように打ち、耳の奥で煩いほど鳴り響いている。
重なる心音が同じように早く、伝わる体温の高さに椿は息の仕方を忘れそうだ。
「あなたの記憶は、私が守ります」
その肩に乗る運命を、少しだけ持たせて欲しいと思う。自分の力でどこまで雪白を救えるか分からないが、たとえすべてを忘れてしまっても傍にいたい。
「雪白様?」
腕の力が強まった。その腕が、小刻みに揺れているような気がした。
「誰かに守ると言われるのは、二度目だ」
雪白の表情が見たくて顔を上げようとしたが、できなかった。代わりに旋毛に、柔らかな唇の感触を覚える。
「椿が妻でよかった。俺はこれから、椿に相応しい夫となろう」
椿は頷き、雪白の胸に顔を埋めた。愛おしさが心の奥から湧き出してくる。
これからゆっくりと夫婦となる、そんな未来を夢見て椿は雪白に身を任せたのだった。



