*
月雲家は代々、強い「敬神の能」を持つ。しかしその弊害として、敬神の能を使えば使うほど過去の記憶から順に薄れていき、やがては自分が誰だったのかさえ分からなくなる。
雪白が十歳のとき、母親が病で亡くなった。それから十年後、月雲の跡取りだった兄が他界するとほぼ同時に、父親の記憶がまだらなものとなり、雪白が月雲家の当主になった。
兄が亡くなったのは家族旅行に行く最中の事故で、甥である秋人だけが生き残ることができた。雪白は兄の形見である秋人を次期当主にと決めたが、ある日、葛野葉家から使いがやってきた。
その使いから渡された手紙には、両家の父親によって決められた雪白と椿の結婚について書かれていた。両家の印も押された正式なもので、雪白の一存で断れるものではない。父親にどういうことかと聞いてみたが、自分が誰かも分かっていない父が覚えているはずがない。
葛野葉家の当主も亡くなっていて、兄が跡を継いでいた。いつ、どんな理由で結婚が決まったのかも分からないまま、雪白は椿と対面したのだった。
白無垢姿の椿の表情は硬く、彼女にとってもこの結婚が突然で不本意なものなのが伝わってきた。しかし、会ったことのない女性を妻に迎えるのは珍しい話ではない。いずれは誰かと結婚すると思っていた雪白は、こういうものだろうと受け止めることにした。
だが、初夜の場で椿が嘔吐したことで、その考えを改める必要があると知った。
(そんなに嫌だったのか)
男の雪白では想像がつかないほどの嫌悪感があったのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、翌朝一人で朝食を摂っていると、百合音が姿を現した。
「椿さんの様子を見てきたわ」
「そうか。ありがとう。それでどうだった」
「多分、この結婚をまだ受け入れられていないんだと思う。あっ、でも自分を責めないでね。女性にはいろいろと気持ちの準備をする時間が必要なの」
百合音とは小さいときから兄妹のように一緒に過ごした。そんな妹のような百合音が初夜について語るのは、なんとも気恥ずかしく落ち着かないものがある。
「俺はどうしたらいいんだろうか」
「暫く椿さんには離れで暮らしてもらったらどうかしら。急ぐ必要はないのだから、ゆっくりとお互いを知っていけばいいのよ」
「だが、あの離れは手つかずで、人が住める状態ではないだろう」
前邸が焼けて、祖父の弟が住んでいたこの邸に移ってきたのが一年前。母屋はすぐに住めるように整えたが、離れは掃除がされず酷い状態だったのを覚えている。
「あら、言わなかったかしら。雪白の結婚が決まったときに、念のためにとお父様が離れを掃除させたのよ」
百合音の実家は、代々月雲家に仕えている。父親は軍の参謀で、公私ともに雪白の良き相談相手だ。月雲の血を引く人間が記憶を失うと知る数少ない人物でもある。
「そうか。では椿には気持ちの整理ができるまで離れに住んでもらおう」
「ええ、椿さんには私から話すわ。雪白は暫く椿さんに会わないほうがいいと思う。先に私が仲良くなってあなたの人柄を伝えれば、彼女も心を開いてくれるわ」
「そういうものなのか。俺は女心に疎いからな。では百合音に任せる」
雪白はすでに幼い頃の記憶を失いつつあった。幼少期を一緒に過ごした百合音は、そんな貴重な思い出を知る友人だ。
百合音がふとしたときに語る思い出話は、いつも雪白の心を温かくさせた。そのせいか百合音はいつの間にか雪白の心の拠り所となっていたのだ。
忙しい雪白に代わって、老人のようになった父親の世話をしてくれていることも、信頼のひとつとなっている。
「雪白が記憶を失くしてしまうことについて話すには、まず信頼関係が大事だと思うの。だから、今は焦らないほうがいいわ」
「そうだな。最近では幼い頃の記憶がほとんど思い出せなくなってしまった」
「大丈夫! 私が覚えているわ。ずっと傍にいて雪白を支えるって約束したでしょう」
微かに残る記憶の残滓に、幼い女の子とそんな約束をした覚えがあった。
それはとても大切な約束なはずなのに、女の子の顔を思い出すことができない。
『それなら、私が全部覚えていてあげる』そう言ってくれた女の子は、幼馴染の百合音と考えるのが当然なのだが、なぜか違和感を覚える。
落ち着かない胸のざわめきに気づかない振りをして、雪白は椿のことを百合音に任せたのだった。
一ヶ月経っても、椿は母屋へ戻ってこなかった。百合音の話では、ほとんど離れから出ないらしい。
どんな様子かと女中に聞いたところ、月雲の財産で豪遊している、使用人の男に色目を使ったなど、信じられない内容を耳にした。
不自由をさせてはいけないと、結婚する前にいくらかの金は与えていた。気晴らしに使う程度なら問題ないが、女中の話ではその範疇を越えているようだ。さらに他の男に懸想するなど、妻としてはあってはならない行為。
ただ、初夜で顔色を悪くしていた椿を思い出すと、噂がすべて本当だとも思えなかった。
だから本人と話をしたいのだが、なかなかその機会は訪れない。何度か百合音に椿の様子を聞いてみたが、まだ時間がかかると言われると、無理強いはできなかった。
やがて春が来て、いい加減どうにかしなくてはと思っていると、偶然にも椿とふたりっきりになる機会を得た。
仕事が早く終わり父親に会いに行こうとしたところ、裏木戸を開けて椿が入ってきたのだ。どこへ行っていたのか聞くべきか逡巡していると、椿が釦のほつれに気づいた。そうして自分がなおすと言ったのだ。
それは穏やかな時間だった。
椿は噂とは違い、控えめで慎ましい。丁寧に釦をつける手つきは慣れていて、聞けば自分で着物のほつれもなおすと言う。
月雲の金で豪遊しているという話とはかけ離れた様子を訝しく思っていると、椿は「刺繍も始めた」と言葉を続けた。さらには刺繍をしたハンカチを渡してもいいかと尋ねてくる。
(百合音の助言どおり、距離を空けたことが功を奏したのだろうか)
椿からは自分と夫婦になろうという前向きな気持ちを感じる。
それに、なんだか懐かしい思いが胸の奥から湧いてきた。桜の下で椿と話すのはこれが初めてなのに、そうは思えない。穏やかに微笑む椿との会話は、雪白の心を和ませた。こうやって話す機会を増やすうちに、夫婦になれるだろうと思えた。
そんなふたりを、百合音が遠くで見ていることに気づかず、ふたりは暫く会話を楽しんだのだった。
気を失っていた秋人だったが、母屋に入ると意識を取り戻した。
雪白がなぜあんな場所に行ったのかと聞くと、椿が探したい物があると言ったからだと答えた。その探し物がなにかは知らないが、雪白の父親の大事なものらしい。
そう聞いた雪白は、父親の住む邸へと向かった。
「お父さん、話があります」
無駄だと思いつつ、縁側に座る父親に話しかける。
膝の上にある銀色の箱に視線を落としていた父親は、すっと顔をあげると雪白を見返した。その眼差しに意志がこもっているのに気づいた雪白が目を見開く。
「雪白か」
「俺が分かるのですか?」
「あぁ、椿さんが記憶を戻してくれた。だが、長くは続かないだろう」
父親が自分の隣を指差す。座れということだろう。雪白は驚きを隠さないまま、そこに腰を降ろした。
「椿さんがこれを届けに来てくれた」
「それは?」
「この中に、お前と椿さんが婚姻を結んだ理由が書かれた書面が入っている。少し開けるのにコツがいるから、彼女は箱を開けられなかったようだ」
父親は側面の凹凸を幾つか押し箱を開けると、中身を雪白に手渡した。
そこには、椿には記憶を繋ぐ力があり、十八歳になったら椿にそれを伝えて雪白との結婚を整えると書かれていた。
「儂がこのように記憶を取り戻したのは、彼女のおかげだ」
父親は一枚の紙を取り出し、広げる。
そこには見知った母親の字が連ねられていた。紙を渡された雪白が目を走らせる。
「椿さんは記憶を繋げるだけではなく、その副産物として想い入れのあるものを修復できる。燃えて煤になったこの手紙を元に戻してくれたおかげで。一時的だが儂の記憶も戻った」
「今も彼女は自分の能力を知らないのですか?」
「そのようだな。月雲家が敬神の能を使うたびに記憶を失うと知る者は少ない。椿さんの能力を公にすると、なぜその力を月雲が欲しがるのかと詮索する輩が出てくる可能性がある。だから、幼い彼女自身にも詳しく話さなかったのだ」
椿に真の能力を伝える前に、父親は死んでしまった。少しずつ狂った歯車が、雪白と椿の距離を遠ざけていたのだ。
「では、この結婚は俺のためだったのですか」
父親は頷くと、悲しそうに眉を下げた。
「お前も、忘れていたか。椿さんはいい子だ。手紙を修復するだけでなく、膝が痛むといえば手を当て温めてくれる。ほつれた着物も直してくれたし、そこにあるひざ掛けもくれた」
縁側の端にあるひざ掛けを父親が指差す。椿が時折出かけているのは知っていたが、てっきり自分のものを買っていると思っていた。
「椿は、お父さんが誰かを知っていたのですか?」
「いいや、ただの老人だと思っていたようだ。それでも百合音より良くしてくれる。あいつは時折顔を出しては、すぐに帰ってしまうからな」
「……俺には頻繁に看病をしている口ぶりだったが」
雪白の反応に、父親は冷やかな目を向ける。そして「ふん」と鼻を鳴らした。
「お前の人を見る目は節穴のようだな。それとも自分の目で見ていないのか?」
ガン、と頭を殴られた気がした。
最近、瀆神の鬼があちこちに出没して、碌に家に帰れない日が続いた。帰ってきてもぐったりで、眠るだけだ。
(いや、それは言い訳だ)
百合音の言葉を信じ、椿との時間を取らなかったのは自分の判断だ。己の妻だというのに、その不甲斐なさに自分を殴りたくなる。
「お父さん……」
椿の様子をさらに聞きたくて父親の名前を呼んだ雪白だったが、その瞳にさっきのような覇気はない。
「儂は長い間記憶を失くしすぎた。椿さんの力を以てしても、記憶が戻るのは僅かの間だ。……でも、お前はまだ間に合う。だから……」
そこまで言って父親は立ちあがった。虚ろな目でひざ掛けを手にすると、のそのそと室内へと戻っていく。もう、雪白を見もしなかった。
ピシャンと閉まった障子を見ていた雪白だったが、やがて弾けたように走りだした。
月雲家は代々、強い「敬神の能」を持つ。しかしその弊害として、敬神の能を使えば使うほど過去の記憶から順に薄れていき、やがては自分が誰だったのかさえ分からなくなる。
雪白が十歳のとき、母親が病で亡くなった。それから十年後、月雲の跡取りだった兄が他界するとほぼ同時に、父親の記憶がまだらなものとなり、雪白が月雲家の当主になった。
兄が亡くなったのは家族旅行に行く最中の事故で、甥である秋人だけが生き残ることができた。雪白は兄の形見である秋人を次期当主にと決めたが、ある日、葛野葉家から使いがやってきた。
その使いから渡された手紙には、両家の父親によって決められた雪白と椿の結婚について書かれていた。両家の印も押された正式なもので、雪白の一存で断れるものではない。父親にどういうことかと聞いてみたが、自分が誰かも分かっていない父が覚えているはずがない。
葛野葉家の当主も亡くなっていて、兄が跡を継いでいた。いつ、どんな理由で結婚が決まったのかも分からないまま、雪白は椿と対面したのだった。
白無垢姿の椿の表情は硬く、彼女にとってもこの結婚が突然で不本意なものなのが伝わってきた。しかし、会ったことのない女性を妻に迎えるのは珍しい話ではない。いずれは誰かと結婚すると思っていた雪白は、こういうものだろうと受け止めることにした。
だが、初夜の場で椿が嘔吐したことで、その考えを改める必要があると知った。
(そんなに嫌だったのか)
男の雪白では想像がつかないほどの嫌悪感があったのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、翌朝一人で朝食を摂っていると、百合音が姿を現した。
「椿さんの様子を見てきたわ」
「そうか。ありがとう。それでどうだった」
「多分、この結婚をまだ受け入れられていないんだと思う。あっ、でも自分を責めないでね。女性にはいろいろと気持ちの準備をする時間が必要なの」
百合音とは小さいときから兄妹のように一緒に過ごした。そんな妹のような百合音が初夜について語るのは、なんとも気恥ずかしく落ち着かないものがある。
「俺はどうしたらいいんだろうか」
「暫く椿さんには離れで暮らしてもらったらどうかしら。急ぐ必要はないのだから、ゆっくりとお互いを知っていけばいいのよ」
「だが、あの離れは手つかずで、人が住める状態ではないだろう」
前邸が焼けて、祖父の弟が住んでいたこの邸に移ってきたのが一年前。母屋はすぐに住めるように整えたが、離れは掃除がされず酷い状態だったのを覚えている。
「あら、言わなかったかしら。雪白の結婚が決まったときに、念のためにとお父様が離れを掃除させたのよ」
百合音の実家は、代々月雲家に仕えている。父親は軍の参謀で、公私ともに雪白の良き相談相手だ。月雲の血を引く人間が記憶を失うと知る数少ない人物でもある。
「そうか。では椿には気持ちの整理ができるまで離れに住んでもらおう」
「ええ、椿さんには私から話すわ。雪白は暫く椿さんに会わないほうがいいと思う。先に私が仲良くなってあなたの人柄を伝えれば、彼女も心を開いてくれるわ」
「そういうものなのか。俺は女心に疎いからな。では百合音に任せる」
雪白はすでに幼い頃の記憶を失いつつあった。幼少期を一緒に過ごした百合音は、そんな貴重な思い出を知る友人だ。
百合音がふとしたときに語る思い出話は、いつも雪白の心を温かくさせた。そのせいか百合音はいつの間にか雪白の心の拠り所となっていたのだ。
忙しい雪白に代わって、老人のようになった父親の世話をしてくれていることも、信頼のひとつとなっている。
「雪白が記憶を失くしてしまうことについて話すには、まず信頼関係が大事だと思うの。だから、今は焦らないほうがいいわ」
「そうだな。最近では幼い頃の記憶がほとんど思い出せなくなってしまった」
「大丈夫! 私が覚えているわ。ずっと傍にいて雪白を支えるって約束したでしょう」
微かに残る記憶の残滓に、幼い女の子とそんな約束をした覚えがあった。
それはとても大切な約束なはずなのに、女の子の顔を思い出すことができない。
『それなら、私が全部覚えていてあげる』そう言ってくれた女の子は、幼馴染の百合音と考えるのが当然なのだが、なぜか違和感を覚える。
落ち着かない胸のざわめきに気づかない振りをして、雪白は椿のことを百合音に任せたのだった。
一ヶ月経っても、椿は母屋へ戻ってこなかった。百合音の話では、ほとんど離れから出ないらしい。
どんな様子かと女中に聞いたところ、月雲の財産で豪遊している、使用人の男に色目を使ったなど、信じられない内容を耳にした。
不自由をさせてはいけないと、結婚する前にいくらかの金は与えていた。気晴らしに使う程度なら問題ないが、女中の話ではその範疇を越えているようだ。さらに他の男に懸想するなど、妻としてはあってはならない行為。
ただ、初夜で顔色を悪くしていた椿を思い出すと、噂がすべて本当だとも思えなかった。
だから本人と話をしたいのだが、なかなかその機会は訪れない。何度か百合音に椿の様子を聞いてみたが、まだ時間がかかると言われると、無理強いはできなかった。
やがて春が来て、いい加減どうにかしなくてはと思っていると、偶然にも椿とふたりっきりになる機会を得た。
仕事が早く終わり父親に会いに行こうとしたところ、裏木戸を開けて椿が入ってきたのだ。どこへ行っていたのか聞くべきか逡巡していると、椿が釦のほつれに気づいた。そうして自分がなおすと言ったのだ。
それは穏やかな時間だった。
椿は噂とは違い、控えめで慎ましい。丁寧に釦をつける手つきは慣れていて、聞けば自分で着物のほつれもなおすと言う。
月雲の金で豪遊しているという話とはかけ離れた様子を訝しく思っていると、椿は「刺繍も始めた」と言葉を続けた。さらには刺繍をしたハンカチを渡してもいいかと尋ねてくる。
(百合音の助言どおり、距離を空けたことが功を奏したのだろうか)
椿からは自分と夫婦になろうという前向きな気持ちを感じる。
それに、なんだか懐かしい思いが胸の奥から湧いてきた。桜の下で椿と話すのはこれが初めてなのに、そうは思えない。穏やかに微笑む椿との会話は、雪白の心を和ませた。こうやって話す機会を増やすうちに、夫婦になれるだろうと思えた。
そんなふたりを、百合音が遠くで見ていることに気づかず、ふたりは暫く会話を楽しんだのだった。
気を失っていた秋人だったが、母屋に入ると意識を取り戻した。
雪白がなぜあんな場所に行ったのかと聞くと、椿が探したい物があると言ったからだと答えた。その探し物がなにかは知らないが、雪白の父親の大事なものらしい。
そう聞いた雪白は、父親の住む邸へと向かった。
「お父さん、話があります」
無駄だと思いつつ、縁側に座る父親に話しかける。
膝の上にある銀色の箱に視線を落としていた父親は、すっと顔をあげると雪白を見返した。その眼差しに意志がこもっているのに気づいた雪白が目を見開く。
「雪白か」
「俺が分かるのですか?」
「あぁ、椿さんが記憶を戻してくれた。だが、長くは続かないだろう」
父親が自分の隣を指差す。座れということだろう。雪白は驚きを隠さないまま、そこに腰を降ろした。
「椿さんがこれを届けに来てくれた」
「それは?」
「この中に、お前と椿さんが婚姻を結んだ理由が書かれた書面が入っている。少し開けるのにコツがいるから、彼女は箱を開けられなかったようだ」
父親は側面の凹凸を幾つか押し箱を開けると、中身を雪白に手渡した。
そこには、椿には記憶を繋ぐ力があり、十八歳になったら椿にそれを伝えて雪白との結婚を整えると書かれていた。
「儂がこのように記憶を取り戻したのは、彼女のおかげだ」
父親は一枚の紙を取り出し、広げる。
そこには見知った母親の字が連ねられていた。紙を渡された雪白が目を走らせる。
「椿さんは記憶を繋げるだけではなく、その副産物として想い入れのあるものを修復できる。燃えて煤になったこの手紙を元に戻してくれたおかげで。一時的だが儂の記憶も戻った」
「今も彼女は自分の能力を知らないのですか?」
「そのようだな。月雲家が敬神の能を使うたびに記憶を失うと知る者は少ない。椿さんの能力を公にすると、なぜその力を月雲が欲しがるのかと詮索する輩が出てくる可能性がある。だから、幼い彼女自身にも詳しく話さなかったのだ」
椿に真の能力を伝える前に、父親は死んでしまった。少しずつ狂った歯車が、雪白と椿の距離を遠ざけていたのだ。
「では、この結婚は俺のためだったのですか」
父親は頷くと、悲しそうに眉を下げた。
「お前も、忘れていたか。椿さんはいい子だ。手紙を修復するだけでなく、膝が痛むといえば手を当て温めてくれる。ほつれた着物も直してくれたし、そこにあるひざ掛けもくれた」
縁側の端にあるひざ掛けを父親が指差す。椿が時折出かけているのは知っていたが、てっきり自分のものを買っていると思っていた。
「椿は、お父さんが誰かを知っていたのですか?」
「いいや、ただの老人だと思っていたようだ。それでも百合音より良くしてくれる。あいつは時折顔を出しては、すぐに帰ってしまうからな」
「……俺には頻繁に看病をしている口ぶりだったが」
雪白の反応に、父親は冷やかな目を向ける。そして「ふん」と鼻を鳴らした。
「お前の人を見る目は節穴のようだな。それとも自分の目で見ていないのか?」
ガン、と頭を殴られた気がした。
最近、瀆神の鬼があちこちに出没して、碌に家に帰れない日が続いた。帰ってきてもぐったりで、眠るだけだ。
(いや、それは言い訳だ)
百合音の言葉を信じ、椿との時間を取らなかったのは自分の判断だ。己の妻だというのに、その不甲斐なさに自分を殴りたくなる。
「お父さん……」
椿の様子をさらに聞きたくて父親の名前を呼んだ雪白だったが、その瞳にさっきのような覇気はない。
「儂は長い間記憶を失くしすぎた。椿さんの力を以てしても、記憶が戻るのは僅かの間だ。……でも、お前はまだ間に合う。だから……」
そこまで言って父親は立ちあがった。虚ろな目でひざ掛けを手にすると、のそのそと室内へと戻っていく。もう、雪白を見もしなかった。
ピシャンと閉まった障子を見ていた雪白だったが、やがて弾けたように走りだした。



