そして三十分後、馬車は長い階段の下で停まった。前月雲邸は、この上にあるそうだ。
階段を上った先にあったのは、剥き出しの地面だった。ほぼ円形状に草が生えていなく、中心部分の土の色が黒い。火災の激しさが想像できた。
「ここにお邸があったのね」
「うん。僕の部屋はあのあたりで、おじいさんはあっちに住んでいた」
秋人が指を差しながら教えてくれる。
(おじいさんは、母屋で暮らしていたんだ)
月雲の苗字だから親戚だとは思っていたが、母屋となると話が違ってくる。老人の姿からして年齢は八十歳ほどだろう。となると、雪白の祖父なのかもしれない。
「椿、蔵はこっちだよ!」
少し離れた木々の近くに、崩れかかった建物が残っていた。秋人は残骸のような建物の脇を擦り抜け、そこへ向かっていく。
「待って、危ないわ」
椿は慌てて駆けだし、秋人を追った。小さな肩に手を置き走るのをやめさせると、秋人は弾む息で「ここだよ!」と目の前の建物を指差す。
かろうじて焼け残った建物の外観から察するに、蔵のようだ。ただ、土壁は煤けているし、柱が傾いている。
「この中に、月雲家と葛野葉家で取り交わした書面が残っている……」
椿は慎重に入り口の柱に手を当て、体重を乗せる。建物は傾いているが、意外としっかりとしていた。これなら中に入っても問題ないだろう。
入口の扉は壊れていて、そこから中に入れた。室内は窓から入る日差しで思ったより明るい。
床は板張りで、左右には作り付けの棚があった。
「秋人くんは入り口で待っていて」
「やだ! 一緒に行く!」
「そう……では、早く探して出ましょう。大事なものをどこに仕舞っていたか、知っている?」
そう聞いてはみたが、蔵にはなにも残っていない。とっくに運び出されたようだ。
老人が知らないだけで、探している書面もすでに違う場所にあるのかもしれない。
「あそこだよ」
秋人が一番奥を指差した。日が差し込まないそこは暗くて、入口付近からはよく見えない。
そこで奥へ向かうと、大きな影が見えてきた。目を凝らしさらに歩を進めたところ、壁際に七尺ほどの仏像がある。
「こんなところにどうして?」
「月雲家の守り神様だって。でも、大きすぎて動かせなかったんだ」
秋人はしゃがむと、その台座を叩き始める。
「なにをしているの?」
「おじいちゃんがこうやっていたんだ。隠し引き出しがあるんだよ」
椿も同じように台座を叩くと、一カ所だけ音が違う場所があった。目を凝らせば、下のほうに指を引っ掻けるへこみがある。
そこに指を入れて手前に引くと、引き出しが出てきた。
中には銀でできた箱があり、椿は慎重にそれを取り出す。そして蓋を開けようとしたのだが。
「あれ、開かないわ」
熱で蓋が変形したのか、椿の力ではピクリともしない。せっかく見つけられたのだから、どうにかならないかと何度も力を込めて開けようとしたが、やはり無理だ。
角度を変えて蓋を開けようとしていると、入口付近でみしりと板が軋む音がした。
なんだろうと顔を上げた椿の手から、箱が滑り落ちる。
「きゃぁあ!」
「うわぁぁっ‼」
ふたりの視線の先で、黒い影がゆらゆらと揺れる。禍々しいほどの妖気を感じ、椿の身体が硬直した。ブルブルと震える手をかろうじて伸ばし、秋人を胸にしっかりと抱きかかえる。
「瀆神の鬼……」
どうしてこの場所にいるのか。瀆神の鬼が出没する前には、その付近で黒い靄が出たり、奇妙な音がしたりする。その前兆をとらえ、軍が先回りをして鬼が暴れるのを防ぐのだ。
瀆神の鬼はのそりのそりと二人へと近づいてきた。錆びた鉄の匂いが濃くなり、それが血の匂いだと気づいたときには、瀆神の鬼はすぐそこにいた。
はっきりとした顔は持たないが、口らしき場所から鋭い牙が見え、だらだらと涎を垂らしている。
人間のような両手両足は、それが太くなったり細くなったりと形を留めることはない。背中では羽とも触手とも見えるものが蠢いていた。
葛野葉家は癒しの力を持ってはいても、瀆神の鬼を攻撃することはできない。そのため椿は今まで瀆神の鬼を絵でしか見た覚えがない。
瀆神の鬼が頭をゆっくりと動かす。まるで獲物を探すような仕草だ。その頭はやがて椿たちの方角で止まり、口がにたりと上がった。
「‼」
声にならない悲鳴が喉にはりつく。立ちあがって逃げなくてはいけないのに、床に足が貼り付いてしまったようで動かない。
ぶるぶると震えが止まらない身体で、椿は必死で秋人を庇う。だけれどそんな僅かな抵抗が瀆神の鬼に通じるはずがない。瀆神の鬼は背を伸ばすと「ぐぉぉ」と咆哮を上げた。
(殺される!)
自分の我儘で彼をここに連れてきてしまった。せめて秋人だけでも助けなくては。
伸びてきた瀆神の鬼の手が、椿の首を掴む。そうして軽々と、椿を持ち上げた。
足が宙に浮かび、自重が首にかかる。
苦しい、息ができない。目の前が真っ暗になってきて意識が遠のく――昔、同じことがあったような気がした。
幼かったときの記憶が蘇ってくる。あのときは、誰かが助けてくれて……。
朦朧としだした意識の端で死を覚悟したそのとき、椿の視界の端で白い光が弾けた。
光が瀆神の鬼の腕を切り落とし、椿の身体が宙に放りだされる。落ちる、そう思ったときには、逞しい腕に抱きとめられていた。
「大丈夫か⁉」
「……雪、白様」
「どうしてここへ来た! このあたりで瀆神の鬼が出ると百合音に伝えたはずだ」
えっ? と椿が目を見開く。そんな話、聞いていない。
御者に話しかけようとしていた百合音の姿を思い出した。あのとき、百合音は瀆神の鬼が出ると御者に伝えるつもりだったのだ。
「とにかく、ここにいろ」
雪白は、恐怖で気を失っている秋人の傍に椿を降ろすと、刀を構え瀆神の鬼と向き合う。
瀆神の鬼の強さは、その大きさに比例する。大人の背丈ほどの瀆神の鬼の場合、敬神の能を持つものが三人で退治に当たる。
目の前の瀆神の鬼の大きさは、優に大人の男を越えている。到底、一人で倒せるはずがなかった。
瀆神の鬼が標的を定めたかのように、雪白を見た。背中で蠢いていた触手が、一斉に雪白に向かって伸びてくる。
「危ない!」
叫ぶ椿の前で雪白は床を蹴った。
そこから先は、雪白の動きを目で追うことさえ難しい。絶え間なく襲ってくる触手を次々と斬りながら、雪白が本体との距離を縮める。
すると今度は、瀆神の鬼が高く跳躍した。瀆神の鬼は形を変え、黒い靄が天井一杯に広がる。まるで雪白だけでなく、椿や秋人も全部、その体内に取り込もうとしているようだ。
椿は秋人を抱き寄せ、身を小さくする。恐怖で涙が溢れ、視界が揺れた。
「雪白様!」
「問題ない」
その言葉と一緒に雪白が高く飛び上がった。手にしていた刀が、激しく光る。
閃光が蔵の中に飛び散り、次の瞬間には瀆神の鬼は黒い靄へと姿を変えていた。それが次第に霧散し、最後には塵となって消えていく。
雪白は刀をしまうと、気を失っている秋人を抱きかかえた。
「怪我はないか?」
「は、はい」
「よかった。では帰るぞ」
手が差しだされた。その大きな手が、昔会った少年の小さな手と重なる。とたん、忘れていた記憶が蘇ってきた。
初めて訪れた家で、瀆神の鬼に遭遇したことがある。そのとき、年上の少年が助けてくれた。瀆神の鬼に遭った衝撃でその夜熱を出した椿は、今に至るまでそのことを忘れていたのだ。
「私、以前にも雪白様に助けていただきました」
雪白には少年の面影が残っている。きっと雪白も思い出したはずだ。そう期待した椿だったが、雪白は表情を険しくさせた。
「……覚えていない」
ガン、と頭を殴られたような気がした。でも、自分もさっき思いだしたばかりなのだ。あの時のことを話せば、雪白の記憶も戻るかもしれない。
「大きな蔵が近くにありました。季節は春で……」
「説明は不要だ。俺の記憶にはない。それよりさっきの戦いで蔵の傾きが大きくなった。早くここから出たほうがいい」
会話を拒絶するかのような口調に、椿はそれ以上言葉を続けることができない。
床に落ちたままだった銀の箱を袂に入れると、慌てて立ち上がる。雪白が「歩けるか?」と聞いてきた。
「大丈夫です」
雪白に続いて、椿も蔵を出た。
少し前を歩く雪白の背中を見ながら、椿の心に重いものが圧し掛かる。
(もしかしてこの結婚は、私が頼んだのかもしれない)
薄っすらとだが、助けてくれた少年とずっと一緒にいようと約束した覚えがある。
娘をことさら可愛がっていた父親だ。その願いを叶えるべく、月雲家との縁談を纏めた可能性は充分に考えられた。
とすれば、百合音と恋仲だった雪白にとっては迷惑な話だ。
覚えてもいない少女に好かれ、強引に結婚を決められたのであれば、椿を妻として受け入れられないのも、もっともだと思えた。
(私は、月雲家にいていいのだろうか)
手元にある箱の中には、雪白と椿が結婚するに至った理由を書いた書面が入っている。だけれどもう、それを見たいとは思えなかった。
月雲家に着くと、雪白は秋人を抱えて先に母屋へ向かう。
椿は重い足取りで、老人の家へと向かった。老人は、いつものように縁側に腰をかけ、桜を眺めている。
(この人は雪白様の祖父なのだろうか)
肉親についてさえ教えられていない。それは椿を妻として認めていない証だと思えた。
椿は老人の横に銀の箱を置くと、なにも言わずにその場をあとにした。
そうして裏のごみ捨て場に行くと、壊れた雛人形を探し始める。
月雲の家を出ようと思った。ここは自分がいていい場所ではない。
だけれどその前に雛人形だけは修復しようと、心に決めた。



