孤影の軍神の最愛


 
 淡い希望が胸に芽生えて数日後、静かな和室にパリンと冷たい音が響き渡った。「あっ」と漏らした椿の声を打ち消すように、百合音の悲痛な叫びが響く。
「大変! これは雪白のお母様が大切にしていた雛人形なのよ!」
 その声を聞いた女中達が駆けてきた。がらりと障子を開けて入ってきた女中達は一様に、椿の足元にある破片を見て顔を青くさせる。
「あ、あの……」
 陶器でできた雛人形を飾ろうと言い出したのは百合音だった。この家に、女の子はいない。だけれど小さな雛人形を季節の花と一緒に床の間に飾るのはよくあることで、椿もそれを手伝っていたのだ。
 はい、と百合音から渡されたお雛様を、ちゃんと両手で受け取ろうとしたはずなのに、お雛様は椿の指先をかすめるようにして畳の上に落ちてしまった。
「わ、私、ちゃんと受け取ろうと……」
 震える声で訴えると、皆が一斉に椿を見た。
「酷い」
「自分の失敗を百合音さんのせいにするなんて」
「もしかして、百合音さんを貶めようとして、わざと落としたの?」
 女中達は口々に椿を非難し始める。
 影で悪口を言われたことはあるが、面と向かって問い詰められるのは初めてで、椿は怖くて口を開けることすらできない。今までの鬱憤を晴らすかのような罵り声に身を小さくさせていると、そんな椿を庇うように百合音が前へ出た。
「違うわ。私がもっと気をつけていればよかったのよ。だから椿さんを責めないで」
 百合音の言葉に、女中達は「ほぉ」と感嘆の息を吐く。
「さすが百合音様」
「なんてお優しいのかしら」
「やっぱり雪白様の奥様に相応しいのは百合音さんだわ」
 百合音は椿を振り返ると、手を握ってきた。
「さっきも話したけれど、この雛人形は雪白の亡きお母様の形見なの。雪白には私も一緒に謝ってあげるわ」
 椿を庇う百合音の言葉が胸に刺さり、頭が真っ白になる。
(私、雪白様のお母様のものだなんて、聞いていない)
 しかも一緒に謝ると言って椿を庇いながらも、落とした責任は椿にあるとしっかり周りに印象づけている。
「なにかあったのか?」
 騒動を聞きつけ雪白がやってきた。急いで帰ってきたようで、軍服姿のまま和室に入ってくる。
「椿様が雛人形を割ってしまわれたのです」
 女中が事情を説明した。すっかり椿だけが悪者になっている。
 雪白はしゃがみ、砕けた雛人形の破片を拾うと、そのままの姿勢で椿を見上げた。
「怪我はないか?」
「あっ、わ、私……。申し訳、ありません」
 なんとか絞り出した声が、むなしく響く。皆が自分に向けてくる視線が突き刺さる。
 とてもではないが、自分のせいで壊れたわけではないと主張できる雰囲気ではなかった。
 それに、椿がしっかり受け取らなかったのも、雛人形が壊れた一因であることに変わりない。
「形あるものは必ず壊れる。誰か、破片を片付けろ」
 雪白が命じると、女中達は箒を取りに行った。
 雪白はこの状況をどう捉えているのだろう。ふたりの間に流れる空気が、数日前と違って冷たく感じる。
 少しだけ心を通わせることができたと喜んでいただけに、辛い。
 百合音が椿の元へ来て、慰めるように背中に手を回す。
「雪白、椿さんも反省しているわ。だからこれ以上責めないであげて。彼女、顔色が真っ青だわ」
「そんなつもりはなかったのだが」
「お母様の形見が壊れたんだから、気が動転しても仕方ないわ。ここは私に任して。さ、椿さん、離れに戻りましょう」
 このままではいけないと椿が焦る。雪白ときちんと話をしなくては。それに椿なら、壊れた雛人形をなおせるかもしれない。
「あ、あの」
 そう言おうとしたのに、百合音に腕を掴まれた。そうして百合音は、椿の耳元で囁いた。
「なにを言っても無駄よ。誰もあんたの言葉なんて信じないから」
 椿がはっと目を見開く。その視線の先で百合音の口角が意地悪くあがった。
(もしかして、私が月雲邸で疎まれていたのは、百合音さんの差し金だった……?)
 思い返せば、雪白の口から離れに住むようにと言われたわけではない。見送りも出迎えも必要ないと伝えてきたのは、百合音だ。
 唯一優しくしてくれた百合音を今まで疑ったことはないし、自分の味方だとさえ思っていたが、それがすべて間違いだったかもしれない。
 浮かんだ疑惑はどんどん膨れ上がり、椿の身体を駆け巡る。
 だけれど百合音に強引に腕を引っ張られ、部屋から連れ出されてしまった。
 廊下で二人になると、百合音はドンと椿を押し飛ばす。
「あなたが悪いのよ。あれほど雪白から遠ざけていたのに、親しくなろうとしたんだから」
「ずっと、私を騙していたの?」
「そうよ。さっさと出て行けばいいものを、いつまでも離れに縋りついてみっともないったらありゃしない。雪白はあんたのような人間を相手にしないわ」
 百合音は椿を睨みつけると、踵を返し雪白のもとへと戻っていった。
 騙されていた、その事実が椿の心に突き刺さる。悔しいのか悲しいのか分からないが、涙で目の前が滲んで見えた。
 雪白に真実を言ったところで、信じてもらえると思えない。そう考えると月雲邸にいることさえ辛く感じる。
 椿は立ちあがると、庭に下り裏木戸を潜る。
 居場所なんてどこにもない。逃げる場所といっても老人の家しか思い浮かばなかった。
 庭を突っ切り縁側へ向かうと、老人はいつものように縁側に座って桜を眺めていた。
 椿は黙って隣に腰を下ろすと、同じように桜を見上げる。
 はらはらと散る桜が美しく、このままずっとここにいたいと思ってしまう。
信じていた百合音に騙されていたと知った今、月雲家で今までのように過ごせる自信がない。
 それに母親の形見を壊したのだ。せっかく近づけたと思った雪白とも、二度と心を通わせられないように感じた。
「大丈夫かい?」
 柔らかな声と一緒に皺の刻まれた手が伸びてきて、椿の頬に流れる涙をぬぐった。いつの間にか泣いていたようだ。
「……私は雪白様の妻に相応しくありません」
 決して言うまいと思っていた言葉が、とうとう口をついて出てきた。
 時間をかければ夫婦になれる、そう今まで自分に言い聞かせてきた。ほつれた釦を直したときは、一歩を踏み出せたように感じた。でも、そんな希望は打ち砕かれてしまった。
 どうあがいても、幼馴染の百合音に勝てる気がしない。
「儂は、椿さんが雪白の妻になってくれて嬉しく思う」
 老人の口調が、先日よりはっきりとしている。驚く椿に向かって、老人はさらに言葉を続けた。
「椿さんと雪白の結婚について記した書面がある。そこに理由も書かれていたはずだ」
「理由があるのですか?」
「もちろんだ。前に住んでいた家の蔵にしまっていて……」
 とそこで老人は言葉を詰まらせ、なにかを思い出そうとするかのように額に手を当てた。
 だけれど次の言葉は出てこず、だんだんと目が虚ろになっていく。そうしてとうとう、いつものぼんやりした顔になってしまった。
(前の家、とは焼失した月雲邸のことかしら)
 老人は燃えた手紙を持っていた。その手紙は、もともと前月雲邸にあったのかもしれない。
 ただ、椿は前月雲邸があった場所を知らないし、老人に聞いても覚えていないだろう。
 どうしようかと思案していると、タッタと走る足音がして、秋人が姿を見せた。
「あっ、椿がいる」
「秋人くん、お勉強の時間じゃなかったの?」
 いつもはこの時間、ひらがなを覚えているはずだ。そう聞くと、秋人は「へへっ」と鼻の下を擦った。
「よくできたから、早く終わったんだ。今日はおじいさんの家で遊んでいいって言われた」
「そう、偉いわね」
「うん」
 嬉しそうに頷く秋人を見て、ふと彼なら前月雲邸を知っているのではと思った。
「秋人くんは、前のおうちの場所を覚えている?」
「少しだけ。椿さん、そこへ行きたいの?」
「ええ。敷地内に蔵はあるかしら」
 秋人はまだ幼い。覚えていないかもしれないと思いながら聞いたところ、蔵はあったと教えてくれた。
「実は、おじいさんから蔵の中に大切なものがあると聞いたから、それを見つけたいの」
「じゃ、一緒に探してあげる。僕が御者に頼んだら、前のおうちまで連れて行ってくれるよ」
 秋人が椿の手を取って走りだした。
 裏木戸を潜り、まっすぐに御者のいる裏庭へと足を向ける。
「あっ、百合音お姉ちゃんがいる!」
 馬車の近くでは、百合音がちょうど御者を呼び止めていた。
 秋人が手を振ると、百合音が振り返る。どうしてここにいるのかと言わんばかりに椿を睨んできた。
「百合音お姉ちゃん、馬車を使うの?」
「いいえ、雪白からの伝言を伝えようと思ってきただけよ」
 穏やかに答える百合音の声が、頭の中でがんがんと響く。じとりと全身に汗が滲んだ。
「あのね、椿と一緒に前のおうちにいきたいの。雪白様に伝えてくれる?」
 百合音が意外そうな顔で、椿と秋人を交互に見る。ふたりが時折話していたのは知っていただろうが、ここまで仲が良いとは思っていなかったようだ。
 きっと断られるだろうと諦めたが、意外なことに椿は暫く逡巡したのち「いいわよ」と答えた。
「じゃ、私から雪白に伝えてあげる」
 拍子抜けするほどあっさり了承すると、百合音は御者に前月雲邸へふたりを連れていくように命じる。
「分かりました。ところでさっき、雪白様から伝言があると仰っていましたが、なんでしょうか?」
「えーと。なんだったかしら。ごめんなさい、忘れてしまったわ。大したことではないから気にしないで」
 では、と百合音は踵を返すと、母屋へと帰っていく。
 馬車の用意ができると、まっさきに秋人が乗り込んだ。そのうきうきとした様子とは反対に、椿はさっきの百合音の様子に胸がざわついたのだった。