「おじいさん、桜が咲きましたよ」
すっかり慣れた足取りで門を潜り縁側まできた椿は、そこで日向ぼっこをしている老人に桜を指差しながら声をかけた。
斜め向かいにあるこの家には、冬の間、毎日のように通った。
女中達は椿に無関心で、裏木戸を出る姿を見られても、どこに行くのかと尋ねられたことはない。
最近は、椿だけでも老人を訪ねるようになった。
老人はひとり暮らしで、住み込みの女中がいる。その女中も年配で、耳が遠い。挨拶はしたが、老人同様に椿のことを使用人だと思っているようだ。
他に時折、誰かが訪れているようだが、会ったことはなかった。
燃えた紙切れの修復は、少しずつではあるが進んでいる。とりあえず元の形に戻すのを優先した結果、一枚の紙に繋ぎ合わせることはできた。
しかし表面はまだ真っ黒で、なにを書いているかは分からない。
(この手紙に残された想いが強かったおかげで、ここまで修復できた。もしかすると、元の状態へ戻せるかも)
物の修復はあくまで副産物で、椿が繋ぎ合わせるのは想いだ。
数ヶ月かけて残された想いを感じ取るうちに、この手紙の主が老人の妻だというところまで分かった。そして残された想いが、深い愛情であることも感じ取れた。
今日からは、文字の修復に取り掛かる。椿は老人の隣に座ると、手のひらに意識を集中させた。
すると真っ黒だった手紙の一部が白くなり、流麗な文字が浮かび上がってきた。
「あなたの……運命……たとえあなたが忘れたとしても……私はあなたを愛し」
読める文字を拾い上げ声に出すと、老人の眉がぴくりと動いた。そうしてはらはらと涙を零し出す。
「おじいさん、大丈夫ですか」
「ああ、平気だ。手紙を貸してくれ」
その言葉が、いつもと違ってしっかりとしていた。椿が手紙を渡すと、老人は現れた文字を愛おしそうに指で撫でる。
「これは、結婚してすぐに妻がくれた手紙だ」
意志をはっきりと感じられる口調に、椿が驚き息を飲む。
現世が分からなくなった老人でも、ときに意識がはっきりすると聞いた覚えがあった。
「覚えているのですか」
「あぁ。大事な手紙なのに、すっかり忘れていた。月雲家に生まれた定めと分かっていても、悲しいものだな」
(月雲家に生まれた定め?)
どういう意味だろうと思ったが、老人に聞いたところでどこまで正確な答えが返ってくるか怪しい。
椿はその質問を飲み込むと、手紙を持ったままの老人の手を優しく包んだ。
「記憶がなくても、この手紙をずっと大事にされていました。たとえ忘れていても想いは残ると私は思っています」
「そうか。あなた、椿さんだね。雪白に嫁いできてくれたんだ」
椿は頷く。秋人が椿を紹介したときのことを思い出したのかと考えたが、それにしては老人は昔を懐かしむ表情をしていた。
ただ記憶がはっきりとしたのは僅かな時間だけで、老人の瞳はすぐに英気を失っていく。
ぼんやりした表情に戻ったのを確認すると、椿は丁寧に手紙を折り巾着へ戻した。
「今日はこれぐらいにしておきましょう。明日、また来ますからね」
「あぁ。おや、もう桜が咲いている」
老人が、椿がしたように桜を指差す。
「……本当ですね。すごく綺麗です」
椿は老人の手に巾着を握らせると、立ち上がる。
手紙を完全に修復したところで、老人が全ての記憶を取り戻すことはない。でも、手紙をきっかけに一瞬でも忘れた記憶を思い出せるなら、手を貸したいと思う。
傷を治す力がないことが、ずっと後ろめたかった。
だけれど、無能と言われてきた自分にも人の心を癒すことができるかもしれない。
椿は初めて自分の力に対し、肯定的になれた気がした。
そうして来たときより軽やかな気持ちで、月雲邸へ向かったのだった。
裏木戸を開けたところで椿は足を止めた。目の前に、雪白がいる。
「あ、あの」
突然のことに言葉が出てこない。雪白は早朝に出かけ、いつも夜遅く帰ってくる。
だから同じ敷地にいながら、ほとんど顔を合わせたことがなかった。
「最近、外出をしていると聞いた」
「は、はい。勝手なことをして申し訳ありません」
「謝る必要はない。この家に監禁しているわけではないのだから、好きにすればいい」
雪白の口調は穏やかだがよそよそしい。百合音と話しているのを何度かみかけたが、もっと気心が知れた雰囲気だった。
やはり自分は、雪白の妻に相応しくないと思ってしまう。
「あ、あの。実はご親戚の……」
「手紙は読んでくれて……」
ふたりの声が重なった。せっかく話せる機会なのに、どうしてこうも自分は間が悪いのかと嫌になる。
「すみません。なんと仰いましたか?」
「いや、なんでもない」
きっかけを逃したせいか、雪白は口を噤んでしまった。なんとか挽回しなくてはと椿の気が焦る。
「さ、桜が綺麗ですね」
咄嗟に言ってみたが、これ以上会話が広がるとは思えない内容だ。ますます焦ってしまい、手のひらにじとりと汗が滲む。
だけれど雪白は、椿の言葉に答えるように上を見た。
裏木戸の横にある桜の枝が、ちょうど二人に覆いかぶさるように伸びている。枝には小さな薄桃色の花が、満開に咲き誇っていた。
「昔、誰かとこんなふうに、桜を見た気がする」
「桜がお好きなんですか?」
「……そうだな。良い思い出があったように思う」
その言い回しに、椿が首を傾げる。
(思い出がある、と仰らないのはどうしてかしら)
どんな思い出なのか聞いてもいいのかと悩んでいると、風が二人の間を通り抜けた。
青空を背景に、花弁が舞い上がる。ひらひらと風に踊るそれは儚げでいて自由だ。
「まるで雪のよう」
「そうだな」
つい言ってしまった言葉に、雪白が返事をしてくれる。たったそれだけのことで、椿の心が跳ねあがった。
椿が雪白を見上げると、雪白もまた見返してくる。お互いをしっかりと捉えるのはこれが初めてかもしれない。
「き、今日は、お仕事は終わりですか?」
もっと話をしたいと、椿が必死に言葉を捻りだす。こんな世間話のような内容しか思い浮かばないのが歯がゆい。
「あぁ。今日は非番だったが呼び出しがあって出かけただけだから」
非番だったのか。そんなことも自分は知らないのかと気持ちが暗くなる。きっと百合音なら雪白の出勤日も把握しているだろう。
(私は妻なのに)
なにかできないだろうか。なにを言えばいいだろうか。この機会を逃したら、次いつ会えるか分からない。
焦る椿の前で、雪白が風で乱れた前髪を直す。椿の視線がその腕で止まった。
「釦……」
「うん?」
「釦が取れかかっています。私が縫い直してもいいでしょうか?」
軍服の右袖にある金色の釦が取れかかっていた。指差し伝えると、雪白は手首を返して確かめる。
「いつの間に。では、頼めるか?」
「はい!」
思わず声に力が入ってしまった。雪白に目を丸くされ、椿の頬がかぁと赤くなる。
椿は周りを見渡し、縁側を指差した。
「では、あそこで待っていてください。裁縫道具を持ってきます」
そう言って離れへ行き針と糸を持ってくると、雪白はすでに上着を脱いで待っていてくれた。
息を弾ませながら雪白の隣に座り、針に糸を通す。そして慣れた様子で釦をつけ始めた。
「裁縫は得意なのか?」
「は、はい。昔から着物のほつれを直していましたから」
「着物を? それは女中の仕事ではないのか?」
怪訝そうな雪白に、椿はしまったと焦る。傷を治す力のない椿は、実家で冷遇されていた。そのため新しい着物を与えられることはなく、ほつれを直し袖出しをして着ていたのだ。
そんな話をしても暗い雰囲気になるだけだ。せっかく雪白と話すのだから、楽しい会話をしたい。必死に考えを巡らせ、椿は誤魔化すように言葉を繋げた。
「縫い物が好きなんです。数年前から刺繍も始めました」
「刺繍。そういえば昔、百合音が女学校の課題で出たと言っていたな」
最近の女学校では時代の変化についていくために、洋装の縫い方や刺繍の授業もある。
葛野葉家は傷を治せる力を持つおかげで、名家のひとつとされている。その娘が無学というわけにはいかなかったようで、椿は女学校に通わせてもらっていた。
それに刺繍が好きなのは本当で、離れで暮らし時間を持て余すようになってからは、毎日のように刺繍をしていた。
雪白の口から出た百合音の名に落ち込みそうになった椿だったが、こんなことではいけないと自分を奮い立たせる。そうして思い切って、聞いてみた。
「もしよろしければ、雪白様に刺繍をしたハンカチをお渡ししてもいいでしょうか?」
「俺にか?」
「はい。お嫌でしたら無理にとは言いません」
「いや。是非、頼む」
雪白が笑顔で答える。その笑みが心底嬉しそうに見えて、椿の手が止まった。
「どうした?」
「い、いえ。そう言っていただけるとは思っていなかったので。頑張って素敵な刺繍をいたします」
「そんなに張り切らなくてもいい。それより不便なことはないか?」
自分を見る雪白の目が優しく、椿はぼうっとしてしまう。てっきり疎まれていたと思っていたが、存外雪白は椿に好意的だ。
「いいえ、皆様、良くしてくださります」
そんな雪白に心配をかけたくなくて、椿は平気なふりをした。それにほっとしたように、雪白が息を吐く。
(まだまだ夫婦と呼ぶには程遠いけれど、少しずつこうやって距離を縮めていけたらいいな)
結婚した以上、椿は雪白の妻だ。雪白と百合音が恋仲だったと考えると、このまま月雲家にいていいのかと疑問が浮かぶ。
だけれど、椿としてはできるだけ妻として雪白に寄り添いたい。
このときの椿は、嫁いできて初めて光明を見つけたような気持ちになっていた。
すっかり慣れた足取りで門を潜り縁側まできた椿は、そこで日向ぼっこをしている老人に桜を指差しながら声をかけた。
斜め向かいにあるこの家には、冬の間、毎日のように通った。
女中達は椿に無関心で、裏木戸を出る姿を見られても、どこに行くのかと尋ねられたことはない。
最近は、椿だけでも老人を訪ねるようになった。
老人はひとり暮らしで、住み込みの女中がいる。その女中も年配で、耳が遠い。挨拶はしたが、老人同様に椿のことを使用人だと思っているようだ。
他に時折、誰かが訪れているようだが、会ったことはなかった。
燃えた紙切れの修復は、少しずつではあるが進んでいる。とりあえず元の形に戻すのを優先した結果、一枚の紙に繋ぎ合わせることはできた。
しかし表面はまだ真っ黒で、なにを書いているかは分からない。
(この手紙に残された想いが強かったおかげで、ここまで修復できた。もしかすると、元の状態へ戻せるかも)
物の修復はあくまで副産物で、椿が繋ぎ合わせるのは想いだ。
数ヶ月かけて残された想いを感じ取るうちに、この手紙の主が老人の妻だというところまで分かった。そして残された想いが、深い愛情であることも感じ取れた。
今日からは、文字の修復に取り掛かる。椿は老人の隣に座ると、手のひらに意識を集中させた。
すると真っ黒だった手紙の一部が白くなり、流麗な文字が浮かび上がってきた。
「あなたの……運命……たとえあなたが忘れたとしても……私はあなたを愛し」
読める文字を拾い上げ声に出すと、老人の眉がぴくりと動いた。そうしてはらはらと涙を零し出す。
「おじいさん、大丈夫ですか」
「ああ、平気だ。手紙を貸してくれ」
その言葉が、いつもと違ってしっかりとしていた。椿が手紙を渡すと、老人は現れた文字を愛おしそうに指で撫でる。
「これは、結婚してすぐに妻がくれた手紙だ」
意志をはっきりと感じられる口調に、椿が驚き息を飲む。
現世が分からなくなった老人でも、ときに意識がはっきりすると聞いた覚えがあった。
「覚えているのですか」
「あぁ。大事な手紙なのに、すっかり忘れていた。月雲家に生まれた定めと分かっていても、悲しいものだな」
(月雲家に生まれた定め?)
どういう意味だろうと思ったが、老人に聞いたところでどこまで正確な答えが返ってくるか怪しい。
椿はその質問を飲み込むと、手紙を持ったままの老人の手を優しく包んだ。
「記憶がなくても、この手紙をずっと大事にされていました。たとえ忘れていても想いは残ると私は思っています」
「そうか。あなた、椿さんだね。雪白に嫁いできてくれたんだ」
椿は頷く。秋人が椿を紹介したときのことを思い出したのかと考えたが、それにしては老人は昔を懐かしむ表情をしていた。
ただ記憶がはっきりとしたのは僅かな時間だけで、老人の瞳はすぐに英気を失っていく。
ぼんやりした表情に戻ったのを確認すると、椿は丁寧に手紙を折り巾着へ戻した。
「今日はこれぐらいにしておきましょう。明日、また来ますからね」
「あぁ。おや、もう桜が咲いている」
老人が、椿がしたように桜を指差す。
「……本当ですね。すごく綺麗です」
椿は老人の手に巾着を握らせると、立ち上がる。
手紙を完全に修復したところで、老人が全ての記憶を取り戻すことはない。でも、手紙をきっかけに一瞬でも忘れた記憶を思い出せるなら、手を貸したいと思う。
傷を治す力がないことが、ずっと後ろめたかった。
だけれど、無能と言われてきた自分にも人の心を癒すことができるかもしれない。
椿は初めて自分の力に対し、肯定的になれた気がした。
そうして来たときより軽やかな気持ちで、月雲邸へ向かったのだった。
裏木戸を開けたところで椿は足を止めた。目の前に、雪白がいる。
「あ、あの」
突然のことに言葉が出てこない。雪白は早朝に出かけ、いつも夜遅く帰ってくる。
だから同じ敷地にいながら、ほとんど顔を合わせたことがなかった。
「最近、外出をしていると聞いた」
「は、はい。勝手なことをして申し訳ありません」
「謝る必要はない。この家に監禁しているわけではないのだから、好きにすればいい」
雪白の口調は穏やかだがよそよそしい。百合音と話しているのを何度かみかけたが、もっと気心が知れた雰囲気だった。
やはり自分は、雪白の妻に相応しくないと思ってしまう。
「あ、あの。実はご親戚の……」
「手紙は読んでくれて……」
ふたりの声が重なった。せっかく話せる機会なのに、どうしてこうも自分は間が悪いのかと嫌になる。
「すみません。なんと仰いましたか?」
「いや、なんでもない」
きっかけを逃したせいか、雪白は口を噤んでしまった。なんとか挽回しなくてはと椿の気が焦る。
「さ、桜が綺麗ですね」
咄嗟に言ってみたが、これ以上会話が広がるとは思えない内容だ。ますます焦ってしまい、手のひらにじとりと汗が滲む。
だけれど雪白は、椿の言葉に答えるように上を見た。
裏木戸の横にある桜の枝が、ちょうど二人に覆いかぶさるように伸びている。枝には小さな薄桃色の花が、満開に咲き誇っていた。
「昔、誰かとこんなふうに、桜を見た気がする」
「桜がお好きなんですか?」
「……そうだな。良い思い出があったように思う」
その言い回しに、椿が首を傾げる。
(思い出がある、と仰らないのはどうしてかしら)
どんな思い出なのか聞いてもいいのかと悩んでいると、風が二人の間を通り抜けた。
青空を背景に、花弁が舞い上がる。ひらひらと風に踊るそれは儚げでいて自由だ。
「まるで雪のよう」
「そうだな」
つい言ってしまった言葉に、雪白が返事をしてくれる。たったそれだけのことで、椿の心が跳ねあがった。
椿が雪白を見上げると、雪白もまた見返してくる。お互いをしっかりと捉えるのはこれが初めてかもしれない。
「き、今日は、お仕事は終わりですか?」
もっと話をしたいと、椿が必死に言葉を捻りだす。こんな世間話のような内容しか思い浮かばないのが歯がゆい。
「あぁ。今日は非番だったが呼び出しがあって出かけただけだから」
非番だったのか。そんなことも自分は知らないのかと気持ちが暗くなる。きっと百合音なら雪白の出勤日も把握しているだろう。
(私は妻なのに)
なにかできないだろうか。なにを言えばいいだろうか。この機会を逃したら、次いつ会えるか分からない。
焦る椿の前で、雪白が風で乱れた前髪を直す。椿の視線がその腕で止まった。
「釦……」
「うん?」
「釦が取れかかっています。私が縫い直してもいいでしょうか?」
軍服の右袖にある金色の釦が取れかかっていた。指差し伝えると、雪白は手首を返して確かめる。
「いつの間に。では、頼めるか?」
「はい!」
思わず声に力が入ってしまった。雪白に目を丸くされ、椿の頬がかぁと赤くなる。
椿は周りを見渡し、縁側を指差した。
「では、あそこで待っていてください。裁縫道具を持ってきます」
そう言って離れへ行き針と糸を持ってくると、雪白はすでに上着を脱いで待っていてくれた。
息を弾ませながら雪白の隣に座り、針に糸を通す。そして慣れた様子で釦をつけ始めた。
「裁縫は得意なのか?」
「は、はい。昔から着物のほつれを直していましたから」
「着物を? それは女中の仕事ではないのか?」
怪訝そうな雪白に、椿はしまったと焦る。傷を治す力のない椿は、実家で冷遇されていた。そのため新しい着物を与えられることはなく、ほつれを直し袖出しをして着ていたのだ。
そんな話をしても暗い雰囲気になるだけだ。せっかく雪白と話すのだから、楽しい会話をしたい。必死に考えを巡らせ、椿は誤魔化すように言葉を繋げた。
「縫い物が好きなんです。数年前から刺繍も始めました」
「刺繍。そういえば昔、百合音が女学校の課題で出たと言っていたな」
最近の女学校では時代の変化についていくために、洋装の縫い方や刺繍の授業もある。
葛野葉家は傷を治せる力を持つおかげで、名家のひとつとされている。その娘が無学というわけにはいかなかったようで、椿は女学校に通わせてもらっていた。
それに刺繍が好きなのは本当で、離れで暮らし時間を持て余すようになってからは、毎日のように刺繍をしていた。
雪白の口から出た百合音の名に落ち込みそうになった椿だったが、こんなことではいけないと自分を奮い立たせる。そうして思い切って、聞いてみた。
「もしよろしければ、雪白様に刺繍をしたハンカチをお渡ししてもいいでしょうか?」
「俺にか?」
「はい。お嫌でしたら無理にとは言いません」
「いや。是非、頼む」
雪白が笑顔で答える。その笑みが心底嬉しそうに見えて、椿の手が止まった。
「どうした?」
「い、いえ。そう言っていただけるとは思っていなかったので。頑張って素敵な刺繍をいたします」
「そんなに張り切らなくてもいい。それより不便なことはないか?」
自分を見る雪白の目が優しく、椿はぼうっとしてしまう。てっきり疎まれていたと思っていたが、存外雪白は椿に好意的だ。
「いいえ、皆様、良くしてくださります」
そんな雪白に心配をかけたくなくて、椿は平気なふりをした。それにほっとしたように、雪白が息を吐く。
(まだまだ夫婦と呼ぶには程遠いけれど、少しずつこうやって距離を縮めていけたらいいな)
結婚した以上、椿は雪白の妻だ。雪白と百合音が恋仲だったと考えると、このまま月雲家にいていいのかと疑問が浮かぶ。
だけれど、椿としてはできるだけ妻として雪白に寄り添いたい。
このときの椿は、嫁いできて初めて光明を見つけたような気持ちになっていた。



