孤影の軍神の最愛



 舞い散る山桜の花びらを、女の子が追いかける。
 どんどんと山の中に入っていき、いつのまにか大きな蔵の前まできてしまった。
 帰らなきゃ。そう思うのに、初めて来た邸は大きすぎて、どこへ行けばよいか分からない。
 戸惑っていると、不意に影が差した。どうしたのかと見上げたその先で、黒い靄の塊が動いている。
「きゃぁぁ」
 悲鳴をあげ、腰を抜かした女の子に、藻やはじりじりと寄ってきた。大きさは、女の子より少し大きいぐらいだが、その禍々しい雰囲気に、目から涙が零れた。
 職種のような手が伸びてくる。それが女の子の首を掴んで持ち上げた。
 苦しい、息ができない。目の前が真っ暗になってきて意識が遠のく――その瞬間、白い閃光が走った。
「大丈夫か?」
 走り寄ってきたのは、女の子より五歳ほど年上の少年だった。
 女の子がぎゅっと少年に抱き着くと、少年はもう大丈夫だと女の子の髪を撫でた。
「すごい、強いのね」
「うん。でも、そのせいで俺はいつかすべてを忘れるんだ」
 少年の顔に影が差す。その言葉の意味が分からない女の子だったが、大丈夫だというように少年の手をぎゅっと握った。
「それなら、私が全部覚えていてあげる」
「君が?」
「うん。あなたが私を守ってくれたように、今度は私があなたの記憶を守ってあげる。だから、大丈夫だよ。だって私は、壊れた物をなおせるんだもの。壊れたあなたの記憶もなおしてあげる」
 にこりと笑う少女に、男の子が眩しそうに目を細める。そんなふたりを囲むように、桜が舞い散る。
「決めた、僕のお嫁さんになって。そうしたら、ずっと一緒にいられる」
「いいよ。約束」
 小さな指を絡ませ、ふたりは約束をした。
 うららかな春の昼過ぎ、それは白い光に包まれた淡い思い出だ。


 月雲家の朝は早い。
 庭の隅に建てられた離れで目を覚ました椿は、重い気持ちで布団から這い出た。キンと冷たい空気が肌を刺す中、手早く身支度を整えると、渡り廊下を通って厨へ向かう。
「おはようございます」
 椿はいつもと同じように声をかける。けれど、女中達は仕事の手を止めることはもちろん、顔をあげようともしない。
(今日も、駄目だったか)
 水に墨汁を垂らしたように、心に黒い靄が広がっていく。
 椿が月雲雪白に嫁いで、もう一ヶ月が経つ。それなのに、未だ当主の妻だと認めてもらっていない。なにか手伝うことはないかと声をかけようとして、だけれどその言葉を飲み込んだ。口にしたところで、答えは返ってこない。諦めて厨を出ようとしたところで、どん、と人にぶつかった。薄紅色の可愛らしい着物が視界に入る。
「ごめんなさい」
 先に謝ったのは、彼女の方だった。その声に、厨で働いていた女中が一斉にこちらを向く。
「あ、あの。申し訳ありません」
「そんな、私が悪いのだから謝らないで」
 くすっと笑う声は、鈴を転がしたかのように軽やかだ。
「百合音さん、今日もこちらへ泊まられたのですか?」
「ええ。昨日からおじ様の体調が優れなくて気になっていたの。椿さん、ここは寒いからお部屋で待っていて。すぐに朝食を持っていかせるわ」
 百合音は椿の夫である雪白の幼馴染だ。嫁いできて一ヶ月経つが、椿はまだ雪白の父親に会ったことがない。百合音の話ではほとんど寝てばかりいて、忙しい雪白に代わって百合音が世話をしているらしい。母屋のどこかにいるのだろうが、椿はそれさえ知らされていなかった。
「で、でも。私もなにかお手伝いを……」
「無理をしなくていいから、ほら、早くお部屋に戻って」
 ぐいぐいと背中を押され、椿は厨から出されてしまう。そして入れ違うようにして百合音は厨へ入っていった。自分の実家のような勝手知ったる振る舞いは、まるでこの家の女主のようである。
 バタンと厨の扉が閉まった。その音に、椿は反射的に振り返ってしまう。目の前で閉じられた扉は、椿とこの家を断絶する大きな隔たりのように感じる。扉の向こうから、軽やかな話し声が聞こえてきた。
「百合音さん、また大旦那様の看病をされていたのですか?」
「ええ。寒さのせいか咳き込んでいらしたから心配で」
「本当に心根がお優しい。本来なら、雪白様に嫁いできた椿様のお仕事だというのに。あの方はずっと離れに閉じこもって、月雲家に無関心なんですよ」
(……違う)
 そう叫びたくて扉に手が向かう。だけれど次の言葉に、椿の手が止まった。
「百合音さんが雪白様の奥様だったら、どんなに良かったことか」
「もう、そんなこと言ったら椿さんに失礼よ」
「だってあの方は雪白様の奥様に相応しくありませんもの。私達は、百合音さんに当主の妻になって欲しいといつも話しているんですよ」
 そう思っているのは一人だけではないようで、異口同音に百合音を賛辞する声が聞こえた。
(いまさらなにを話しても、無駄なのかもしれない)
 初めは、ほんのちょっと歯車がずれただけだった。
それなのにいつの間にか事態はどんどん悪化して、椿は「月雲家に害をなす悪妻」として語られるようになってしまった。ずっと離れに籠っている、月雲の財産で豪遊している、使用人の男性に色目を使ったなどといった噂話を耳にするが、心当たりはまったくない。
 どうしてこうなったのだろう。椿は肩を落としながら踵を返す。そうして重い足取りで自室となった離れに戻りながら、この一ヶ月を思い返した。

 椿は、葛野葉の長女として生まれた。この邦和の国には、「瀆神の鬼」が存在する。人の心の暗部から生まれたそれは、初めは小さな塵のような存在だ。しかしその塵があつまり形を持つと、人の生活を脅かし始める。ときには人の心に憑りついて操り悪事を働かせることもあった。
 そんな瀆神の鬼を退治できるのは「敬神の能」を持つものだけで、その中でも月雲家は代々敬神の能を持つものをまとめてきた立場にある。
 敬神の能を持つものは、軍に所属する。雪白はまだ若く椿より五歳年上の二十三歳にもかかわらず、軍の中隊長を任されていた。
 葛野葉も敬神の能を持つ家系だが、こちらは主に傷の回復を得意としている。それにもかかわらず、椿は回復の力を持たなかった。
 本来なら冷遇されてもよいのだが、両親は椿を兄と分け隔てなく育てた。しかし、椿が十五歳のときに父親が流行り病で亡くなると、家督を継いだ兄は椿を無能だと罵倒するようになる。
 椿は十八歳のとき、母親から縁談話を聞かされた。なんでも父が生前に決めていたようで、椿はその話を聞いたとき「心配症の父らしい」と思ったものだ。
 てっきり敬神の能とは関係のない家との嫁ぎ先だと思っていた椿は、夫となる人物が月雲の当主だと聞いて驚いた。それは兄も同様で、お前なんかに月雲の嫁が務まるものかと罵ってきた。しかし話はどんどん進み、結納すら飛ばしてすぐに結婚となってしまう。
 そのため椿が雪白に会ったのは、結婚式当日だった。
 雪白は、鍛えられた体躯をした長身の男だった。耳に少しかかる黒髪は濡れ羽のようで、白磁の肌に切れ長の瞳、形のいい鼻梁は、端正でいて凛々しさを感じさせる。こんな素敵な人の妻に自分がなっていいのだろうかと、椿が思わず尻込みをしてしまうほどの存在感を放っていた。
 つつがなく式を終えた椿は、その夜、敷かれた布団の横に正座をして雪白を待った。そこに現れたのが、百合音だった。どうしてと驚く椿に、百合音は優しく微笑みながら湯飲みを差しだした。
「温かいお茶を淹れて来たの。雪白はもう少し時間がかかりそうだから、身体を冷やしてはいけないわ」
 雪白、と親し気に呼ぶ百合音を気にしなかったわけではない。だけれど、にこにこと微笑む百合音から悪意は感じられず、椿はお茶を口にした。初めて飲んだ味だったが、丸みのある柔らかな風味のお茶は、確かに張り詰めていた気持ちを和らげる。
「百合音さんは、ご実家に帰られないのですか?」
 百合音の父親は、前当主のときから月雲家を支えていて、今は軍で雪白の右腕として働いている。そのためか、家も近くにあると聞いていた。とはいえもう夜も遅い。一人で帰るのは危ないだろうと心配していると、百合音は首を横に振った。
「大旦那様の体調が優れないので、今日は泊まり込みで看病をするつもりなの」
「大旦那様、ですか」
 雪白の家族についてはなにも聞かされていない。大旦那というのだから、雪白の父親か祖父だろうが、どちらにもまだ挨拶をしていない。
「あまり長居をしてはだめね。では、私はこれで失礼するわ」
 百合音は立ち上がると「もうすぐ雪白が来るわ」と言って部屋を出ていった。
 襖が閉まると、とたんに心臓がばくばくとし始める。緊張からだろうか異様に喉が渇いた。椿は気持ちを静めるかのように、残っていたお茶を一気に飲み干す。
 でも心音は速くなるばかりで、さらに激しい眩暈が襲ってきた。部屋がぐるぐると回り、座っていることさえままならない。耐えられず布団に倒れると、今度は胃が痙攣を起こし、喉がひりつく。さっき食べたものが、食道を逆流してきた。
「うっ」
 押さえた口の隙間から、吐瀉物が零れた。それと同時に、襖が開かれる。
「どうした! 気分が悪いのか⁉」
 湯上りだろう雪白が駆け寄ってきて、椿の身体を支えた。椿はもう、苦しいやら、恥ずかしいやら、気持ち悪いやらで自分がなにを考えているのかも分からない。そうしてそのまま意識を失ったのだった。
 次の日、倒れたのとは違う部屋で目覚めた椿は、慌てて雪白を探したが、もう仕事に出たと言われてしまう。詫びをしなくてはいけないと思い落ち込んでいたところに、百合音が声をかけてきた。
「椿さん、雪白がしばらく離れで暮らしたらどうかと言っているわ」
「離れ、ですか?」
「ええ。こちらへどうぞ」
 百合音のあとについて行くと、渡り廊下の向こうに一軒の小さな家があった。もとは茶室だったのを改造したのだと百合音が教えてくれる。
「ここを好きに使うようにと、雪白から伝言を頼まれたわ。でも……これは酷いわね」
 百合音が言葉を詰まらせる。それもそのはず、案内された部屋はもう何十年も掃除をしていないように見えた。天井には蜘蛛の巣がはびこり、窓は風が少し吹くだけでガタガタと五月蠅い音を立てる。部屋の隅にある布団は湿気でぺしゃげていて、天井からはネズミの走る音が聞こえた。
(どうしてこんな部屋に……)
 部屋の壁際には、椿が嫁入り道具にと持ってきた行李と鏡台がすでに置かれている。昨晩の自分の行いは、ここまで雪白の怒りを買うものだったのかと、背筋に冷たいものが走った。
「椿さん、大丈夫?」
「私、雪白様に嫌われてしまったのでしょうか?」
「そんな、椿さんはなにも悪くないわ」
 百合音は椿の背を押しながら離れの中に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
 椿が溢れる涙を袖で拭っていると、百合音が綺麗なハンカチを渡してくれる。
「ありがとうございます」
「差し上げるわ。それから雪白を嫌わないでね。この結婚は雪白にとっても突然で、彼もまだ心の準備ができていないの。椿さんも心が現状に追いつかず、昨晩気分が悪くなったのだから、雪白の気持ちも分かるでしょう?」
 そう言われ、気分が悪くなったのは極度の緊張と戸惑いからかと納得する。急に結婚しろと言われた日から今日まで心休まる日はなかった。どんな人が夫になるのだろう、自分が妻としてやっていけるのかと、ずっと不安だった。それが最悪の場面で、身体に出たようだ。
「私は敬神の能も碌に使えません。雪白様は、私が妻になることをどう思っていらっしゃるのでしょうか?」
 自信なく肩を落とす椿を、百合音はそっと座らせる。
「少し、少しだけ雪白に時間をあげてもらえないかしら。彼は今、頑張って自分の気持ちを整理して、前を向こうとしているの。きっとすぐに報われない思いを断ち切って、椿さんを妻として迎えるはずよ。あっ、今の言葉は忘れて」
 百合音がしまったと口を押える。それを見て、椿はそういう事情かと察した。
(雪白様には、他に好きな女性がいるんだ)
 雪白の年齢は椿より五歳も年上なのだから、将来を誓った相手がいても不思議ではない。それなのに、突然ふって沸いた結婚に驚いたに違いない。反発する気持ちもあるだろう。
 椿と雪白の結婚について書かれた書面には、椿が十八歳になったら結婚させると明記されていた。その下には両家の父の名前と印も押されていたが、母は椿が十八歳になるまでその話をしなかった。雪白にいたっては、葛野葉家から申し出があって初めて知ったと聞く。
「月雲家にも、私と雪白様の結婚について記された書面は残っているのでしょうか?」
「どうかしら。実は一年前に月雲家は火災にあって、ほとんどが焼失してしまったの」
「そうなのですか。では、今いるこの家は、以前は別の方が住んでいたのですか?」
 火災にあったとは初耳だ。自分は本当になにも知らされていないのだと思う。百合音の話では、今住んでいるのは遠縁の家らしい。暫く誰も住んでいなかったのを手入れして、引っ越してきたそうだ。その際に母屋は掃除がされたが、離れは手つかずだったらしい。
「私は一度家に帰らなくてはいけないから、掃除道具を持ってきてあげるわ。このままじゃ、暮らせないでしょう」
「ありがとうございます」
「それから、暫く食事はここで摂って、母屋にはあまり行かない方がいいわ。行くとしても、雪白のいない時間を選んで欲しい。大丈夫、私が雪白を説得して、すぐに椿さんを母屋に戻してもらうから」
 励ますように背中を叩かれ、椿の胸に感謝がこみ上げる。百合音はすぐにはたきや箒、雑巾を持ってきてくれた。
 知り合いが一人もいない嫁ぎ先で、自分を気遣ってくれる人がいるのは心強い。椿はお礼を言って掃除道具を受け取ると、さっそく掃除を始めた。
 そうして夕暮れ、やっと暮らせる程度には部屋を整えることができた。
「今日はここまでにしましょう」
 ひんやりとした空気に、椿は行李から綿入れを出して羽織る。窓は風でガタガタと揺れ、隙間風がいたるところから入ってきた。
 火鉢をもらいたかったが、母屋にあまり行かないように言われたことを思い出す。寒いが、我慢できないほどではない。布団もあるし、それにくるまっていれば耐えられるだろう。
 しかしそんなにも自分は雪白に疎まれているのだろうかと、心が沈む。お互い望まない結婚だとしても、そんな夫婦はたくさんいる。ゆっくりと夫婦になれたらと考えていただけに、この状況はあまりにも辛かった。
 雪白に想い人がいるという事実が、よりいっそう心を重くする。深いため息を吐くと、それと重なるようにがさっと音がした。
 なんの音だろうと引き戸を開けると、小さな男の子が四つん這いでこちらを窺っていた。どうやら離れの様子を知りたくて、聞き耳を立てていたようだ。
 男の子は驚いたかのように「うわっ」と声をあげ、尻餅をついた。
「初めまして。こんばんは」
「こ、こんばんは」
 男の子がしどろもどろに答える。年齢は五歳ほどだろうか。まさか雪白の子ではないだろうが、使用人の子供にしては着ている着物の質はよい。
「私は椿と言います。雪白様の妻としてきました。お名前を聞いてもいいかしら?」
「秋人」
 短く答えた男の子は、丸い目で椿の肩越しに離れの様子を窺う。物珍しいのだろう。もしかすると、ここはずっと施錠されていたのかもしれない。
「秋人くん。お父さんとお母さんは?」
 椿が秋人を怖がらせないように微笑みながら聞くと、秋人は「死んだ」と短く答えた。
「だから今は、お父さんの弟の雪白様と暮らしているんだ」
「……そうなの」
 また初めて知る月雲家の事情だ。もう少し詳しく聞いてみたところ、両親が死んだのは二年半ほど前で火災とは関係ないらしい。
「椿さんはここで一人で暮らすの?」
「暫くは、そうなるかな」
「じゃ、僕ときどき遊びに来てあげる!」
 可愛らしい笑顔に、沈んでいた気持ちが少しだけ浮上する。自分は雪白の妻として嫁いできたのだから、認めてもらうべく勤めを果たすだけだ。きっとすぐに、雪白は母屋に迎え入れてくれる。
 ――そう自分を納得させてから一ヶ月。いまだに椿は離れで暮らしていた。