三島がこうなった理由
Yuki Shohei
最初に刺したのは、ソファではなかった。
もっと手前で、もう始まっていた。
工場にいた頃の話だ。三島はまだ若かった。木材の匂いと接着剤の甘さが混じる空気の中で、一日中同じ動きを繰り返していた。骨組みにウレタンを詰め、布を張り、釘を打つ。音は途切れず、時間は平らに流れていく。
あの日も同じだった。
流れてきた二人掛けのソファは、少し重かった。水を吸ったような重さだったが、工場は乾いている。
「これ、重くないですか」
隣の若いのが言った。
「気のせいだろ」
三島はそう答えた。
持ち上げたとき、重さが遅れてついてきた。持ち上げたあとで、もう一度、持ち上がる。ウレタンのはずだった。
三島は手を止めた。
そのとき、音がした。中から。かすれた、空気の抜けるような音だった。機械の音に紛れて、しかし確かに内側から聞こえた。
三島は笑った。誰かのいたずらだと思った。工場には、そういうことがある。
「やめろよ」
軽く言って、布を叩いた。
間を置いて、返ってきた。同じ場所を、内側から叩き返すように。ほんの一度だけ。
三島は手を引いた。周りの音は続いている。誰も何も言わない。もう一度叩く。返ってこない。もう一度。返ってこない。
「……気のせいか」
そう言って作業に戻った。
その日の終わり、ソファは弾かれた。縫い目の歪み。布の張りが不自然だと言われた
「中、見ろ」
班長が言った。
三島はナイフを持った。刃の短い、作業用のものだった。ためらいはなかった。布に刃を当てる。やわらかいはずの場所に、硬さがある。押す。止まる。もう少し押す。止まる。
中に、ある。
何かは分からない。ただ、あるという感触だけが、はっきりある。
三島は力を入れた。
ぶち、と裂けた。その瞬間、中で何かが逃げた。押しのけるように、奥へ。同時に、息のような音がした。細く、長い。続いていたものが切れる音だった。
三島は止まった。
裂け目の奥は暗い。だが、奥行きがある。見えないのに、そこにある深さだけが分かる。その奥で、何かと目が合った気がした。見えていないのに、合ったと分かる。
「何やってんだ!」
声が飛んだ。
三島は手を引いた。裂け目が閉じる。暗さが戻る。奥行きが消える。ただのソファに戻る。
「それ廃棄な。触るな」
三島は頷いた。何も言わなかった。
そのソファは運ばれていった。外へ。見えないところへ。中身ごと。
三島は、そのあとを見なかった。
その夜、音が止まらなかった。耳の奥で、ずっと続いている。あのときの音。逃げた音。切れた音。叩き返された、あの一度。
なぜ、あのとき止めたのか。
なぜ、閉じたのか。
なぜ、見なかったのか。
数日後、処分場で事故があったと聞いた。詳しいことは誰も話さなかった。ただ、「中にいたらしい」とだけ言われた。
三島は、そのソファの行き先を調べた。
頼まれたわけではない。ただ、そこに残りがある気がした。
処分場は川沿いにあった。鉄の匂いと湿った土の匂いが混ざっている。積まれた廃棄物の中に、そのソファはすぐに見つかった。
同じ歪み。同じ張り。
三島は近づいた。叩く。何も返ってこない。遅い。もう遅い。
ナイフを出した。最初から、深く入れた。
ぶち、と裂ける。奥に届く。
その瞬間、手応えが消えた。
空洞だった。
軽い。軽すぎる。
三島はさらに裂いた。布を剥がし、ウレタンを引きちぎる。
その奥で、見えた。
折りたたまれた人間の形。乾いている。色が抜けている。目は開いたままだった。だが、もう見てはいない。
三島は動かなかった。叩いても、刺しても、何も返ってこない。
遅かった。
その理解だけが残った。
あのとき、もう少し深く刺していれば。あのとき、止めなければ。
間に合ったかもしれない。
その「かもしれない」が、消えなかった。
騒ぎになった。警察が来た。三島は説明した。音がしたこと。叩き返されたこと。中にいたこと。
誰も頷かなかった。
「気づかなかったんですね」
そう言われた。
それで終わった。
事故として処理された。誰の責任でもないことになった。中にいた男は、最初からいなかったことになった。
三島は、その言い方を覚えている。
気づかなかった。
だから、いなかった。
ならば、気づけばいい。
確かめればいい。
刺せばいい。
深く刺せば、間に合う。
三島は、その日から順番を変えた。
叩かない。最初から刺す。浅くではなく、深く。躊躇なく。遅れないように。逃がさないように。
確認する。
必ず。
何も出てこなければ、それでいい。それは「いなかった」という確認になる。
だが、もし、いたなら。
浅ければ、間に合わない。
だから、深く刺す。
それだけのことだった。
——もう一回、深く刺してみてください。
声がする。
三島は頷く。それが正しいからだ。そうしなければ、また遅れる。
三島は膝をつく。刃を当てる。迷いはない。
入れる。止まる。そこに、ある。
押す。
もっと。
もっと。
もっと。
届くまで。
間に合うところまで。
救えるところまで。
三島は知っている。あのとき、しなかったことを。あのとき、止めたことを。あのとき、見なかったことを。
だから今は、やる。
当たり前のことを。
当たり前にやるだけだ。
Yuki Shohei
最初に刺したのは、ソファではなかった。
もっと手前で、もう始まっていた。
工場にいた頃の話だ。三島はまだ若かった。木材の匂いと接着剤の甘さが混じる空気の中で、一日中同じ動きを繰り返していた。骨組みにウレタンを詰め、布を張り、釘を打つ。音は途切れず、時間は平らに流れていく。
あの日も同じだった。
流れてきた二人掛けのソファは、少し重かった。水を吸ったような重さだったが、工場は乾いている。
「これ、重くないですか」
隣の若いのが言った。
「気のせいだろ」
三島はそう答えた。
持ち上げたとき、重さが遅れてついてきた。持ち上げたあとで、もう一度、持ち上がる。ウレタンのはずだった。
三島は手を止めた。
そのとき、音がした。中から。かすれた、空気の抜けるような音だった。機械の音に紛れて、しかし確かに内側から聞こえた。
三島は笑った。誰かのいたずらだと思った。工場には、そういうことがある。
「やめろよ」
軽く言って、布を叩いた。
間を置いて、返ってきた。同じ場所を、内側から叩き返すように。ほんの一度だけ。
三島は手を引いた。周りの音は続いている。誰も何も言わない。もう一度叩く。返ってこない。もう一度。返ってこない。
「……気のせいか」
そう言って作業に戻った。
その日の終わり、ソファは弾かれた。縫い目の歪み。布の張りが不自然だと言われた
「中、見ろ」
班長が言った。
三島はナイフを持った。刃の短い、作業用のものだった。ためらいはなかった。布に刃を当てる。やわらかいはずの場所に、硬さがある。押す。止まる。もう少し押す。止まる。
中に、ある。
何かは分からない。ただ、あるという感触だけが、はっきりある。
三島は力を入れた。
ぶち、と裂けた。その瞬間、中で何かが逃げた。押しのけるように、奥へ。同時に、息のような音がした。細く、長い。続いていたものが切れる音だった。
三島は止まった。
裂け目の奥は暗い。だが、奥行きがある。見えないのに、そこにある深さだけが分かる。その奥で、何かと目が合った気がした。見えていないのに、合ったと分かる。
「何やってんだ!」
声が飛んだ。
三島は手を引いた。裂け目が閉じる。暗さが戻る。奥行きが消える。ただのソファに戻る。
「それ廃棄な。触るな」
三島は頷いた。何も言わなかった。
そのソファは運ばれていった。外へ。見えないところへ。中身ごと。
三島は、そのあとを見なかった。
その夜、音が止まらなかった。耳の奥で、ずっと続いている。あのときの音。逃げた音。切れた音。叩き返された、あの一度。
なぜ、あのとき止めたのか。
なぜ、閉じたのか。
なぜ、見なかったのか。
数日後、処分場で事故があったと聞いた。詳しいことは誰も話さなかった。ただ、「中にいたらしい」とだけ言われた。
三島は、そのソファの行き先を調べた。
頼まれたわけではない。ただ、そこに残りがある気がした。
処分場は川沿いにあった。鉄の匂いと湿った土の匂いが混ざっている。積まれた廃棄物の中に、そのソファはすぐに見つかった。
同じ歪み。同じ張り。
三島は近づいた。叩く。何も返ってこない。遅い。もう遅い。
ナイフを出した。最初から、深く入れた。
ぶち、と裂ける。奥に届く。
その瞬間、手応えが消えた。
空洞だった。
軽い。軽すぎる。
三島はさらに裂いた。布を剥がし、ウレタンを引きちぎる。
その奥で、見えた。
折りたたまれた人間の形。乾いている。色が抜けている。目は開いたままだった。だが、もう見てはいない。
三島は動かなかった。叩いても、刺しても、何も返ってこない。
遅かった。
その理解だけが残った。
あのとき、もう少し深く刺していれば。あのとき、止めなければ。
間に合ったかもしれない。
その「かもしれない」が、消えなかった。
騒ぎになった。警察が来た。三島は説明した。音がしたこと。叩き返されたこと。中にいたこと。
誰も頷かなかった。
「気づかなかったんですね」
そう言われた。
それで終わった。
事故として処理された。誰の責任でもないことになった。中にいた男は、最初からいなかったことになった。
三島は、その言い方を覚えている。
気づかなかった。
だから、いなかった。
ならば、気づけばいい。
確かめればいい。
刺せばいい。
深く刺せば、間に合う。
三島は、その日から順番を変えた。
叩かない。最初から刺す。浅くではなく、深く。躊躇なく。遅れないように。逃がさないように。
確認する。
必ず。
何も出てこなければ、それでいい。それは「いなかった」という確認になる。
だが、もし、いたなら。
浅ければ、間に合わない。
だから、深く刺す。
それだけのことだった。
——もう一回、深く刺してみてください。
声がする。
三島は頷く。それが正しいからだ。そうしなければ、また遅れる。
三島は膝をつく。刃を当てる。迷いはない。
入れる。止まる。そこに、ある。
押す。
もっと。
もっと。
もっと。
届くまで。
間に合うところまで。
救えるところまで。
三島は知っている。あのとき、しなかったことを。あのとき、止めたことを。あのとき、見なかったことを。
だから今は、やる。
当たり前のことを。
当たり前にやるだけだ。

