ニュースでは今週からようやく梅雨明けだと報じていた。灰色の雲は跡形もなく消えてしまい、じりじりと熱い夏の太陽が現れ始めている。
登校中、学校近くの畑に大きな向日葵が咲き始めていた。太陽の光を一身に浴びようと、上に上にと伸びていく花だ。太陽の化身のような花をちらりと見ながら、俺は校門をくぐっていった。
人気の少ない早朝の校舎はひっそりとしている。教室に向かわずに、俺の足はグラウンドにゆっくりと向かった。威勢のよい掛け声と、ボールを打つ小気味良い音が聞こえる。緑色のフェンス越しに、土埃を立てながら朝練に勤しむ野球部の姿が見えた。ついこないだまで俺がいた風景で、今の今まで逃げてきた世界だ。でも本当にこの世界とお別れをするためには、前を向いて進んでいくためには、自分の言葉で決着をつけなければいけない。
幾つかの視線が俺に気づき始めた。不思議そうな、訝しげな視線に囲まれながら、俺は朝練が終わるのを静かに待った。
チャイムが鳴った。マウンドの中央に部員が集合し、簡単な挨拶と同時に、一斉に解散していく。荷物を抱えて教室に向かおうとする彼らの中から、俺はキャッチャーミットを被った姿を見つけた。
「日向」
俺の声に、ゆっくりと日向が顔をあげた。キャッチャーミットをゆっくりと外し、少し驚いたような顔で俺を見つめている。後ろで、後輩の高坂が「あ!」と声を上げたが、何かを察したチームメイトに連れられて去っていった。
マウンドに日向と俺だけが残った。野球部にいた時はよくこんな風に2人でミーティングをしていた。
違うのは、もう俺がフェンスの外側にいることだけだ。
ずっと日向に言いたかった言葉が俺の口から溢れた。
「逃げてすまなかった、日向」
突然、あの夏の、9回裏の試合に戻った感覚になる。細かく痙攣しはじめた右手の感触や、背中に感じられたチームメイトたちの視線を思いだす。本当は、あの時にこそ、日向に言わなければいけなかった言葉があったのだ。俺は言葉を絞り出すように続けた。
「怪我のせいじゃなくて、野球を続ける気力が折れたんだ。俺は俺の弱さに負けた。――だから」
すまなかった、と再度口にし、俺は頭をさげた。言えば言うほど、自分の弱さと情けなさを露呈していくのを感じた。でもここで、ずっと励まし続けてくれた日向に伝えなければ、ずっと後悔して生きていく気がした。自分で自分の心臓を踏みつけながら、俺は頭を下げ続けた。
静寂のあと、頭上から日向の声が聞こえた。
「逃げたなんて別に思ってない」
独り言のような、怒気をわずかに含んだ、静かな声だった。感情をあらわにしないかつての相棒は、微動だにしないまま、言葉を続けた。
「あの時、葉月は十分戦った。お前が悔しい思いをしてるのも見てた。だから……」
朝の白い光が日向と俺の頬にあたる。しばらくの沈黙があった。鋭く光る眼光が俺を射抜いた。
「もうお前がいなくても大丈夫だって証明してやる」
試合、来いよ。
聞き逃しそうな小さな声でぼそりと言うと、日向は帽子を深くかぶり直した。そして仲間たちのいる向こう側へ駆けていく。
フェンス越しに、俺はその背中をしばらく見続けていた。
グラウンドから校舎の方へ向かうと、生徒の数も少しずつ増えていた。思い思いの会話をしながら昇降口へ入っていく。俺もその集団に紛れて校舎に入っていこうとすると、
「葉月くん、おはよ」
香住の笑顔が駆け寄ってきた。手には銀色のじょうろを持っている。
「今日、当番だったんだな」
「うん。葉月くんも早いね」
「まぁな」
香住はしばらく俺の顔をまじまじと見て、「ふふ」と意味深に笑った。
「……なんだよ」
「いや、憑き物が落ちた顔をしてるなって。
……頑張ったんだね、葉月くん」
さすが「魔法使いの孫」だ。香住の眼鏡は魔法の眼鏡で、俺の心の中は何でもお見通しなのだろうか。悔しいような可笑しいような気持ちになって、俺は香住の肩を小さく小突いた。
「いたた、やめてよ、葉月くん」
じゃれあうような力加減なのに、香住は大袈裟に悲鳴をあげて笑った。香住もお返しと言わんばかりに俺の肩に細い肩をぶつけた。
「そういえば、葉月くん、夏休み、何か予定できた?」
教室へ向かう雑談の中、香住が俺に尋ねた。
繊細なタッチで描かれたスミレを思い出しながら、俺はあの時と違う答えを口にした。
「委員会の水やり当番があるだろ。課題も山程出されるし、あと杉田たちに夏祭りに誘われてたな、確か。香住も行くだろ」
「そうだね。案外忙しいね、夏休み」
忙しいと口にしながら香住の表情は、夏が楽しみで仕方がないって顔をしている。
「秩父の祖父さんの話、また聞かせてくれよ」
そう言うと香住は「もちろん」と笑った。

