葉をたたく雨の音が1日中教室の窓を濡らしている。放課後の教室は俺以外だれもいない。吹奏楽部が何度も同じ一小節を練習しているのが、雨音に紛れて微かに聞こえていた。
ファミレスで勉強しようぜと誘ってくれた杉田を断って、俺はぼんやりと数学のテキストを眺めていた。勉強するフリだ。本当は、雨音の中、野球部の練習が聞こえてこないかと耳を澄ませているのだから。
――嫌になるよな、ったく。
雨で疼く右肘の痛みを感じながら、情けない自分に苦笑した。その時、廊下をパタパタと歩く音が聞こえ、教室のドアが開いた。
人懐こそうな微笑みが眼鏡越しに俺を見つける。
「葉月くん、いたんだ。勉強?」
「お、おぅ……まぁな」
俺は曖昧に答えながら、白紙のノートをさっとめくった。香住の顔を見ると、ホッとしたような、気まずいような、なんとも言えない気持ちになった。
「僕もしてこうかな。雨、まだ止みそうにないし」
香住は肩に掛けていた鞄をおろし、俺の隣の席に座った。
窓ガラスに垂れていく雨だれが、黒い影になって、俺や香住の机に長く伸びていく。
香住がシャープペンを走らす音だけが、静かな雨音の中でくっきりと聞こえる。
人さし指を唇に当て、考え込む香住の横顔をぼんやりと俺は見つめた。
あの日、日向たちと俺がやりとりしていたのを香住は見ていた。不穏な空気も察したはずだ。それなのに何も聞かない。そして変わらずに友達でいてくれる。それが嬉しかった。だからこそこんな自分をどうにかしなきゃ、という気持ちになる。
「試験が終わったらさ、夏休みだね。葉月くん」
香住がシャープペンをくるりとまわしながら口を開いた。
「何か予定、あったりする?」
「……ないな、特には」
炎天下の下で野球をするのは、もう去年で終わった。野球で埋め尽くされていた夏が、今はからっぽなままだ。
白紙のノートを一瞥し、俺は香住に向き直った。
「香住はどこか行くのか」
「秩父にある祖父の家に行くつもり。ほら、例の『魔法使い』のね」
植物学者である祖父の話を、香住は微笑みながら続けた。
「中学に上がるまで僕もそっちに住んでたんだ。今もしょっちゅう帰省しててね。あ、写真あるよ」
スマホを取り出し、香住は俺の方へ椅子を近付けた。肩を寄せ合うように2人でスマホを覗き込む。
古い古民家のような縁側に座って、香住と祖父が仲良くピースしている。2人とも泥だらけの作業着姿で、どことなく笑顔がそっくりだ。香住の指がスクロールすると、庭で作業する2人の写真が次々と現れた。多種多様な草木が生い茂り、花が咲き乱れている。
そこは庭というよりは鬱蒼とした森を思わせた。
「…すごいな」
思わず圧倒された声を出すと、香住も頷いた。
「祖父にとっては仕事場でもあるからね。行ったらまずは庭掃除。でも何回行っても新しい発見があるからすごく楽しいよ」
香住が子供時代を過ごし、今も大切にしている場所。青空の下、この庭で草花を摘んでいる小さな子どもの姿が目に浮かんだ。
「昔から草花を育てたり、花冠や押し花を作ったりするのが好きだったんだ。
……でも、周りの子には嫌われてたよ。オトコのくせに花が好きなのは変わってるって」
香住の表情は穏やかなままだが、悲しい過去をポツリと呟いた。
「草や木は人間と違って、僕をいじめたりしないからね」
香住の穏やかな呟きが、窓を柔らかく叩く雨に溶けていく。
「学校も同級生も嫌で仕方なかったな。祖父の家に一目散に帰って、夜になるまで庭で遊んでた。一人でいるほうがよっぽど気が楽だったからね」
いつも陽の光のような香住に、そんな暗い過去があったとは思わなかった。俺はあの春頃の、花壇での上級生とのトラブルを思い出した。香住が怯えながらも立ち向かっていったのは、幼少期の嫌な体験を乗り越えたからこそなのかもしれない。
俺はただ静かに香住の横顔を見つめた。
「スミレ、ってあるでしょ、葉月くん」
花に詳しくなくてもさすがにそれは分かった。アスファルトの割れ目でもちょこんと覗く薄紫色の花が頭に浮かんだ。
「祖父から聞いた話で一番印象に残ってるんだ。植物って穏やかに見えるけど、日や水を奪い合ってぐんぐん茎を伸ばして葉を広げていく。
でもスミレは違う。別の『生存戦略』を選んだ植物なんだ」
香住はルーズリーフにさらさらと絵を描き始めた。普段から描き慣れているのか、すぐにスミレのスケッチだと分かった。シャープペンは、花を描き、葉を加え、それから根を横に伸ばしていく。
「スミレはけして高く育たない。他の植物が選ばない、『横』に茎や根を伸ばすことで光を得るんだ。光の届きにくい日陰だとかえってそのほうが効率的だからね」
「賢いな」
「でしょ!」
思わず感心するように呟くと、香住は自分が褒められたように微笑んだ。
「その話を聞いて、ますます植物が好きになったんだ。色んな生き方があるんだなって。
上に伸びたり、水中を好んだり、日陰に伸びて生き延びる道を選んだり」
香住の視線がノートに描かれたスミレに向く。
「スミレの話を祖父から聞いてから、自分のことが嫌いじゃなくなった気がする」
今まで知らなかった香住を知ると同時に、スミレの話は俺の話でもあるような気がした。上に上に伸びていく立派な木々。それを見上げることしかできなくて、眩しい世界から逃げ出した。だが、逃げたんじゃない。別の生き方を選んだと考えるなら。
香住の描いたスミレを見つめながら、俺は口を開いた。
「スミレってよく見かける花だけど、すごいな」
「そうだよ。小さくて可愛いけど逞しい花だよ」
香住が嬉しそうに笑って、ノートの落書きにスミレの花をもう一つ描き足した。
生徒の帰宅を促すアナウンスが流れる頃、雨は小雨になっていた。雨雲の切れ目からオレンジ色の夕日が滲み出していて、道のあちこちにできている水たまりがきらきらと光っている。傘を差しながら、夏の花々の話をしたり、試験の予想をしながら、香住と一緒に下校していく。
「じゃあね、葉月くん。また明日」
結局、香住は高坂や日向との諍いについて話を振らなかった。いつも通り手を振って、駅の改札で別れた。
家路に向かおうとすると、ふと民家の塀の割れ目に小さなスミレが目についた。点々と紫色の花をつけながら這うように咲いている。こんな固いコンクリートの割れ目から咲くなんて、小さいながらも健気な生命力を感じさせた。
(色んな生き方があるんだなって。上に伸びたり、水中を好んだり、日陰に伸びて生き延びる道を選んだり)
香住の声が蘇った。
「っし……」
無意識にマウンドに上がる時の口癖が漏れた。俺はその小さな花を見つめながら、力を込めて右手を握りしめた。

