教室全体が気だるい空気に包まれているのは、期末考査の範囲が発表されただけではない。梅雨のジメジメとした空気は、気力を削いでいく。時折小休止のように雨がやんでも空は重たい灰色のままだ。こんな天気が一週間も続いていた。
「でも紫陽花が見頃な季節だし、悪いことばかりじゃないよ」
植物をこよなく愛する香住には、梅雨も天の恵みのようだ。確かに、艶やかな紫陽花の花が雨でしっとりと濡れているのも、梅雨ならではの風物詩だ。
「紫陽花の色はね、土壌の酸性度とアルミニウムの結合で決まるんだ。土が酸性だと青色、中性やアルカリ性だと赤系統って、感じにね」
「へぇ、なんか科学の授業みたいだな」
「そう考えて紫陽花の花を見るのも面白いよね」
しかし、香住が語る紫陽花の魅力も年頃の男子高生にはなかなか伝わらないらしい。
「香住は余裕でいいよなー!数学も英語も古典もバカみてぇに範囲広くてやってらんねぇよ」
「少しずつ勉強すれば大丈夫だよ、杉田くん」
香住と2人、紫陽花トークに花を咲かせていると、杉田が大声で喚き出した。バレー部の自称エースアタッカーは、試験前から赤点を取ることばかりを恐れているのだ。
「まだ2週間もあるから計画的にやればなんとかなるだろ」
紙パックの牛乳を飲みながら、俺も香住に同意する。じろりと杉田が俺と香住を睨みつけた。
「帰宅部は余裕あるよなぁ……勉強時間もあるし」
「お前は勉強時間あってもしないだろ」
「あ!それは禁句だろ、葉月!」
キャンキャン吠える子犬のような杉田の頭を、俺は「はいはい」といなしながら片手で押し返した。香住もそれを見て楽しそうに笑っている。
新学期が始まって2ヶ月。ようやくクラスに馴染み始めていた。杉田もうるさいがいい奴だし、杉田や香住と一緒にいる内に、自然とほかのクラスメイトたちとも打ち解け始めていった。
特に香住とは気が合った。今までの俺とは無縁のタイプだが、穏やかな性格で一緒にいると心が落ち着く。
緑化委員会での活動も、博識で面倒見のよい香住と一緒だからこそ、楽しいのかもしれない。しかし、この雨では花壇の水やり当番も出番がない。杉田ほどピンチではないが、早めに帰宅して試験に備えてもいいかもしれない。
放課後のチャイムが響きわたる。今日は制服姿の生徒が目立った。朝から降る雨のせいでグラウンドも使い物にならないらしい。色とりどりの傘が開かれて帰路に向かうのが窓から見えた。
「葉月くん、中庭寄ってから帰るでもいいかな。花壇の様子が気になって」
スクールカバンを肩に掛け直しながら香住が言った。同じ駅を使うこともあって香住とは帰宅仲間になっていた。
「水やりしなくてもいいけど雨が続くと根が腐ったりするからね」
「色々気を遣うんだな」
そんな会話をしながら昇降口に向かう。階段を降りていると、リノリウムの床をキュッキュッと音を立てながら、白いユニフォームを着た集団が走り込みをしていた。
咄嗟にヤバい、と思った。
足が思わず止まってしまう。かつてのチームメイトたちだ。今まで避けてきたのに、制服を着た今の俺と、かつて俺がいたあの場所が交差してしまった。
「……葉月くん?」
香住が心配そうに俺の顔を下から覗き込んだ。
なに食わぬ顔であの集団の前を通り過ぎなければ、と思った。その時、白いユニフォームの群れから一対の視線が俺に向けられた。喜びと驚き、そして、俺への怒りが滲んだ視線だ。
「葉月先輩!」
ランニングの輪から抜け出してきたのは見慣れない、下級生だった。俺の表情に気づいて「高坂です!お久しぶりですッ!」と礼儀正しく頭を下げる。そうだ、と俺は思い出した。一昨年まで同じ中学で野球をしていた後輩だった。
「先輩と同じ高校行きます!」――そんなことを言っていた、あどけない高坂の顔を思い出す。だが高坂は、おそらく入学してからずっと彼がため込んでいた不満を俺にぶつけた。
「どうして野球やめちゃったんですか?!俺、葉月先輩がここで野球やってるからきたのに……怪我が治ったらまた戻ってきてくれますよね!?」
まっすぐな瞳だった。俺への憧れと尊敬があるからこそ、その瞳は切れ味の鋭いナイフ以上の威力で心の奥まで入っていく。
それは、と答えかけた声は乾いていた。今、自分がどんな表情なのかも分からない。高坂が純粋だからこそ誠実な答えを返さねばならないのに、それさえもできない。
「高坂、戻れ」
その時、またランニングしている集団から一人の選手がこちらに向かってきた。誰だかすぐに分かった。ついこないだまで一緒にグラウンドで切磋琢磨してきた仲間だ。
「……日向」
浅黒い肌に汗を滲ませ、かつてバッテリーを組んでいた日向が澄んだ瞳で俺を見た。凪いだ海のような、感情を読み取れない瞳だ。野球部を、子どもの時から続けてきた野球を辞めたその日から、この再会を俺はずっと避けてきた。だから日向の名前を口にする以外、俺に言葉は見つからなかった。
黙り込む俺を見つめながら、日向の唇が動いた。
「大丈夫だ」
日向は言った。
「葉月、俺たちは大丈夫だから」
大丈夫。高坂が俺を責めた台詞よりも、その一言が心臓を潰すような痛みを与えた。大丈夫。痛みを覚えながらも、破片を噛み砕くようにその言葉を何度も脳が咀嚼してしまう。
日向は、黙ったままの俺を少し見つめたあと、横にいる香住にペコリと頭を下げ、ランニングの輪に戻っていった。少し不満そうな表情を浮かべ、高坂もそのあとを追う。
「……葉月くん?」
香住の声に、校舎の喧騒が耳に戻ってくる。別の練習メニューをするために野球部たちは廊下の向こうへ去っていった。
下校ラッシュが過ぎたのか、昇降口は嘘みたいにしんと静まりかえっている。香住がなにか察したのか、心配そうな表情で俺を見つめたまま、けれど何も口にしない。やっぱりいい奴だな、と思う。香住の気遣いに感謝するからこそ、俺は笑顔をつくって、香住に返事をした。
「悪い、香住。先に帰っててくれないか」
なにか言いたげにしながら、柔らかなハスキートーンで「うん、またね」と付け加えて下駄箱へと向かっていく。
惨めな気持ちと自己嫌悪で、暫く動けそうにない。そんな俺を嘲笑うように、右肘が鈍い痛みを帯び始めた。
雨の音に紛れて、運動部の掛け声が遠く響いていた。
「でも紫陽花が見頃な季節だし、悪いことばかりじゃないよ」
植物をこよなく愛する香住には、梅雨も天の恵みのようだ。確かに、艶やかな紫陽花の花が雨でしっとりと濡れているのも、梅雨ならではの風物詩だ。
「紫陽花の色はね、土壌の酸性度とアルミニウムの結合で決まるんだ。土が酸性だと青色、中性やアルカリ性だと赤系統って、感じにね」
「へぇ、なんか科学の授業みたいだな」
「そう考えて紫陽花の花を見るのも面白いよね」
しかし、香住が語る紫陽花の魅力も年頃の男子高生にはなかなか伝わらないらしい。
「香住は余裕でいいよなー!数学も英語も古典もバカみてぇに範囲広くてやってらんねぇよ」
「少しずつ勉強すれば大丈夫だよ、杉田くん」
香住と2人、紫陽花トークに花を咲かせていると、杉田が大声で喚き出した。バレー部の自称エースアタッカーは、試験前から赤点を取ることばかりを恐れているのだ。
「まだ2週間もあるから計画的にやればなんとかなるだろ」
紙パックの牛乳を飲みながら、俺も香住に同意する。じろりと杉田が俺と香住を睨みつけた。
「帰宅部は余裕あるよなぁ……勉強時間もあるし」
「お前は勉強時間あってもしないだろ」
「あ!それは禁句だろ、葉月!」
キャンキャン吠える子犬のような杉田の頭を、俺は「はいはい」といなしながら片手で押し返した。香住もそれを見て楽しそうに笑っている。
新学期が始まって2ヶ月。ようやくクラスに馴染み始めていた。杉田もうるさいがいい奴だし、杉田や香住と一緒にいる内に、自然とほかのクラスメイトたちとも打ち解け始めていった。
特に香住とは気が合った。今までの俺とは無縁のタイプだが、穏やかな性格で一緒にいると心が落ち着く。
緑化委員会での活動も、博識で面倒見のよい香住と一緒だからこそ、楽しいのかもしれない。しかし、この雨では花壇の水やり当番も出番がない。杉田ほどピンチではないが、早めに帰宅して試験に備えてもいいかもしれない。
放課後のチャイムが響きわたる。今日は制服姿の生徒が目立った。朝から降る雨のせいでグラウンドも使い物にならないらしい。色とりどりの傘が開かれて帰路に向かうのが窓から見えた。
「葉月くん、中庭寄ってから帰るでもいいかな。花壇の様子が気になって」
スクールカバンを肩に掛け直しながら香住が言った。同じ駅を使うこともあって香住とは帰宅仲間になっていた。
「水やりしなくてもいいけど雨が続くと根が腐ったりするからね」
「色々気を遣うんだな」
そんな会話をしながら昇降口に向かう。階段を降りていると、リノリウムの床をキュッキュッと音を立てながら、白いユニフォームを着た集団が走り込みをしていた。
咄嗟にヤバい、と思った。
足が思わず止まってしまう。かつてのチームメイトたちだ。今まで避けてきたのに、制服を着た今の俺と、かつて俺がいたあの場所が交差してしまった。
「……葉月くん?」
香住が心配そうに俺の顔を下から覗き込んだ。
なに食わぬ顔であの集団の前を通り過ぎなければ、と思った。その時、白いユニフォームの群れから一対の視線が俺に向けられた。喜びと驚き、そして、俺への怒りが滲んだ視線だ。
「葉月先輩!」
ランニングの輪から抜け出してきたのは見慣れない、下級生だった。俺の表情に気づいて「高坂です!お久しぶりですッ!」と礼儀正しく頭を下げる。そうだ、と俺は思い出した。一昨年まで同じ中学で野球をしていた後輩だった。
「先輩と同じ高校行きます!」――そんなことを言っていた、あどけない高坂の顔を思い出す。だが高坂は、おそらく入学してからずっと彼がため込んでいた不満を俺にぶつけた。
「どうして野球やめちゃったんですか?!俺、葉月先輩がここで野球やってるからきたのに……怪我が治ったらまた戻ってきてくれますよね!?」
まっすぐな瞳だった。俺への憧れと尊敬があるからこそ、その瞳は切れ味の鋭いナイフ以上の威力で心の奥まで入っていく。
それは、と答えかけた声は乾いていた。今、自分がどんな表情なのかも分からない。高坂が純粋だからこそ誠実な答えを返さねばならないのに、それさえもできない。
「高坂、戻れ」
その時、またランニングしている集団から一人の選手がこちらに向かってきた。誰だかすぐに分かった。ついこないだまで一緒にグラウンドで切磋琢磨してきた仲間だ。
「……日向」
浅黒い肌に汗を滲ませ、かつてバッテリーを組んでいた日向が澄んだ瞳で俺を見た。凪いだ海のような、感情を読み取れない瞳だ。野球部を、子どもの時から続けてきた野球を辞めたその日から、この再会を俺はずっと避けてきた。だから日向の名前を口にする以外、俺に言葉は見つからなかった。
黙り込む俺を見つめながら、日向の唇が動いた。
「大丈夫だ」
日向は言った。
「葉月、俺たちは大丈夫だから」
大丈夫。高坂が俺を責めた台詞よりも、その一言が心臓を潰すような痛みを与えた。大丈夫。痛みを覚えながらも、破片を噛み砕くようにその言葉を何度も脳が咀嚼してしまう。
日向は、黙ったままの俺を少し見つめたあと、横にいる香住にペコリと頭を下げ、ランニングの輪に戻っていった。少し不満そうな表情を浮かべ、高坂もそのあとを追う。
「……葉月くん?」
香住の声に、校舎の喧騒が耳に戻ってくる。別の練習メニューをするために野球部たちは廊下の向こうへ去っていった。
下校ラッシュが過ぎたのか、昇降口は嘘みたいにしんと静まりかえっている。香住がなにか察したのか、心配そうな表情で俺を見つめたまま、けれど何も口にしない。やっぱりいい奴だな、と思う。香住の気遣いに感謝するからこそ、俺は笑顔をつくって、香住に返事をした。
「悪い、香住。先に帰っててくれないか」
なにか言いたげにしながら、柔らかなハスキートーンで「うん、またね」と付け加えて下駄箱へと向かっていく。
惨めな気持ちと自己嫌悪で、暫く動けそうにない。そんな俺を嘲笑うように、右肘が鈍い痛みを帯び始めた。
雨の音に紛れて、運動部の掛け声が遠く響いていた。

