数日後、初めての水やり当番の日がやってきた。
生徒たちが賑わう昼休み、俺と香住は再びジャージ姿で花壇を訪れていた。ビオラやマリーゴールドたちは愛らしい顔で、花壇に並んでいる。まだチューリップは花開いていないが、土の上から生き生きとした緑色の芽が出ていた。
香住がじょうろを手に「根元に優しくね」と教えてくれる横で、俺もおそるおそる土を湿らせる。何かを語ることはないけれど、花々が喜んでいるように見えて、ちょっとした達成感と喜びが芽生えた。
「葉月くん、上手だね。次はあっちの花壇もやっちゃおうか」
「おう」
香住は水やりさえも楽しそうだ。ほっとけば、口笛さえもくちずさみだしそうな表情をしている。
俺も春の陽気が心地よくて、ついぼんやりしてた。突然、ドンッと重い音がするまで、何が起きているのか気が付かなかったのだ。
何かがぶつかり、潰れる嫌な音がした。さっきまで俺たちがいた花壇に、囲いのレンガを乗り越えてサッカーボールが突っ込んできたのだ。
黒い土にボールがめり込み、数株のビオラがぐしゃりと潰れる。
「あっ……!」
香住が小さく悲鳴をあげた。じょうろを落としそうになりながら、花壇に駆け寄る。俺も慌てて立ち上がった。ボールを追って、生徒が2人、ゲラゲラと笑いながら駆けてきた。ジャージの色からして3年生だ。一見して、タチの悪そうな奴らだと分かる。
「悪ぃな。花壇に飛んじまった」
悪びれもせずに、汚い足を花壇に踏み入れてサッカーボールを持ち上げる。怯えた声を張り上げて、香住が奴らに注意した。
「は、早くどいていてください!花が……」
「あぁ?」
上級生が香住を睨んだ。香住は奴の足元で潰れたビオラを守るようにしゃがみ込み、眉を寄せてる。
「んだよ、うるせぇな。――ほらよ」
「っ……!」
花壇から出る最後の仕上げと言わんばかりに、座っている香住の肩を汚い靴が蹴り上げた。尻餅をつくように香住が後ろに倒れ込んだ。
腹から怒りがブワッと沸き起こった。俺は倒れ込む香住の肩を庇うように押さえ、
「おい!いい加減にしろよ!」
と声を荒げた。上級生は一瞬、俺の顔つきと声に怯んだ。しかし、しばらく値踏みするように上から下まで俺を眺めると、ニヤリと唇を歪ませた。
「お前、2年の葉月だろ。野球やめて今は花壇いじりかよ。ダッセェな」
どす黒い波が心をさらっていく。怒りと屈辱に支配されていくのが分かった。しかし、今は自分のことなんてどうでも良かった。
「花は関係ないだろ。謝れ」
低く声を抑えながら、俺は上級生に抗議した。183センチの体が自然と香住を隠す形になる。上級生が「は? なんだよその態度」と凄んだが、俺は相手を睨みつけたまま、答えた。
「謝れよ。香住が大事に育ててんだ」
「葉月くん……」
心配そうに俺を見上げる瞳が、眼鏡の奥で揺れている。俺は香住を庇うように立ちながら、上級生たちを睨み続けた。
勝てない勝負だと判断したのだろう。3年生共は舌打ちして「ハイハイ、悪かったな」とおざなりに謝って去っていった。
香住が潰れたビオラをそっと土に戻そうとしていた。怒りが収まらないまま、俺もしゃがんで、香住を手伝いながら言った。
「大丈夫か? 香住」
「うん……ありがとう、葉月くん。勇気、あるんだね」
「別に、そんなんじゃねぇよ。……花、大丈夫か?」
靴跡で踏みにじられた花壇が痛々しい。ボールで潰された花を、そっと触れるように植え直しながら、香住が唇を開いた。
「僕の祖父はね」
薄茶色の眼がイタズラめいた光を帯びた。
「『魔法使い』なんだ」
「魔法使い?」
頭に三角帽子を被って、杖を振りかざす白髭の老人が浮かんだ。俺の困惑した表情を面白がって、香住はクスクスと笑っている。
「植物学者なんだ。庭に色んな草木が植えられててさ。勿論、ちゃんと研究もしてるんだけど、これは切り傷にきく薬草だとか、なくし物が見つかる不思議な花だとか、そんな話ばかりするんだ。変人だよ」
変人の植物学者か。香住のじいさんらしい。さんざん心の中で香住のことを変だ変だと思っている俺は、妙なところで納得する。
「へぇ。じゃあ香住の植物好きはそのじいさん譲りだな」
「うん。花の育て方も花言葉も、みんな祖父が教えてくれたんだ」
そんな祖父の口癖がね、と香住は微笑んだ。
「草花の生命力は素晴らしいんだ。水と光さえあれば回復するから、人間なんかよりもよっぽど優秀だって。
……だから大丈夫だよ、葉月くん」
祈るような口調で、香住は小さなビオラを見つめている。その口調には、子供の時から草花とともに育ってきたからこその、確かな自信が感じられた。穏やかな性格の一方で、案外芯が強いのかもしれない。そんなことを考えていると、先程の怒りがほどけていくのを感じた。
「そっか」
土に汚れた青紫色の花が、勇気の証のように見える。「魔法使いの孫」と一緒に、俺は傷ついた花壇の修復に勤しんだ。

