花を贈ることも、贈られることも無縁の人生だと思っていた。
答えは単純だ。人間関係の機微に疎く、興味も抱けない男が、一体だれに花束を贈ると言うのだろう。
それでいて、皮肉なことに、誰よりも花に囲まれてきた人生だった。
これもまた、答えは単純だ。小さな頃から、人といるよりもただただ草花が大好きだったからだ。
手をかけてやれば美しい花をつけ、人の生活に彩りを添える果実も実らせてくれる。
何より、妬んだり、いじめたり、そんなことを植物たちはしない。
「おじいちゃん、ぼく、ずっとここにいちゃ、だめ……?」
幼い僕は、祖父によくそんな我儘を口にした。
僕を虐げる人間なんかといるより、もの言わぬ彼らと一緒にいるほうがよっぽど良かった。真っ白なツルバラの茂みで泣きじゃくる僕を、祖父の大きな掌が撫でてくれる。深い皺が刻まれた微笑みを見ると、傷だらけの心がだんだん落ち着いてきた。
「そうか。朔はそんなにこの庭が好きか」
学校や友達は大切だよ、とか祖父は一言も言わなかった。ただ、よい土の作り方、草木の剪定方法を教えてくれた。そして、愛情込めて育てた花が咲いた時、僕の空っぽの心が満たされていった。本当に、魔法使いのような人だった。
亡き祖父を思い出していると、白いカーテンが春風にそよめいた。桜の花びらが風に紛れて、一つ、二つと教室に迷い込んでくる。
このクラスで行われた最後のホームルームは、1時間前に終わっていた。クラスメイトたちがいなくなった教室はがらんとしている。僕は一人、担任の吉沢先生がさっき板書した文字を眺めているのだ。
黒板には老練された美しい筆跡で、こう書かれていた。
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
「『年年歳歳花相似たり。 歳歳年年人同じからず』と読みます」
吉沢先生は穏やかな口調で、教え子たちを見渡しながら説明した。
「毎年変わらず咲く花々に対し、人間は年を取り、亡くなります。明日、同じ人と会えるかも分からない。
私も、たくさんの生徒たちの成長を見届けてきました。皆さんの高校生活も、長いようで一瞬の煌めきかもしれません。後悔しないように常に挑み続けてくださいね」
お説教じみた話も、温和な吉沢先生の口調で語られると、じんわりと心に染みていった。一瞬の煌めき、という言葉を聞きながら、僕は隣に座る葉月くんの横顔を見た。
(本当にあっという間だったな)
葉月くんと初めて会った日を思いだす。オリエンテーションでの自己紹介。葉月くんは忘れているだろうけど、彼がどう自己紹介したかを、今でもはっきりと僕は覚えている。
「葉月奨です。えっと」
背が高いんだな、というのが第一印象だった。180ぐらいあるんだろうか。鍛えられた身体つきに短髪と浅黒い肌。それから、ちょっと怖そうな目つき。僕とは無縁そうなタイプだな、と思っていた。
「ウチが、その、花屋をやってて」
と恥ずかしそうに続けた言葉に、僕は興味を覚えた。「えー意外ー!」というクラスメイトのリアクションを受けながら、彼は後頭部をかいた。
「花のことは全然分かんなくて、でも、えっと」
しどろもどろになりながら、彼は言葉を探すように続けた。
「花はたぶん、好きだと思います。ウチにくるお客さんの笑顔が……その、なんかいいなって思うので」
途端に彼は顔を真っ赤にした。急に恥ずかしくなったのだろうか。1年間よろしくお願いします、と結びの言葉を無理矢理くっつけて、拍手の中、葉月くんは席についた。
花を喜ぶ笑顔が好きだ。そんなこと、一度も考えたことなかった。誰も僕に花束をくれなかったし、僕もずっと孤独に満足していたから。
葉月くんのその言葉が、心に残った。葉月くんのことが気になった。でも話しかける勇気がないまま、僕は初日を終えてしまった。
だから次の日、教室にフリージアの花束を持ってきた葉月くんを見て、運命だと思った。「友情」を意味する黄色い花弁が、僕にささやかな魔法をかけてくれてるみたいだった。あとは勇気をだして、僕が彼に声をかけなきゃって。
葉月くんと友達になりたい一心で、無我夢中で喋ったり、どんぐりなんかも見せたりして、あの時の僕はすごく変だったと思う。
「……ありがとな」
無事にフリージアの花が花瓶に生けられて、葉月くんはホッとした表情で僕にお礼を言った。
「こちらこそこんな綺麗なお花をありがとう。そっか。葉月くんのお家、お花屋さんだもんね」
「俺の名前、知ってるのか」
「えぇ?だって僕、クラスメイトだよ?」
少しショックで悲しげに言うと、彼はあっ、と気まずそうに小さく声をあげた。
「昨日オリエンテーションで自己紹介しただろう?僕の名前は――覚えてないか、それじゃあ」
「わ、悪い……」
「ふふ、じゃあ改めて自己紹介するよ」
僕よりも遥かに大きい身体で見下ろしながら、申し訳なさそうな表情をしている葉月くんは、なんだか叱られてしょげている大型犬みたいで可愛かった。きっと優しい人なんだ。花をもらう人の喜びを知って、花に水を与えなきゃと慌てる葉月くんのことを、もっと知りたくなった。
「僕は香住朔。緑化委員会に入るつもりなんだけれど、葉月くんも、もしよかったらどうかな」
本当に「一瞬の煌めき」だ。
葉月くんと初めて会話した日はつい昨日のことのように思われるのに。そんなことを思いながら、僕は黒板に書かれた漢詩を見つめた。
その時、ガラリと教室のドアが開いた。
「香住、なにやってんの」
僕と向かい合うように前の椅子に座りながら、葉月くんが僕の手元を覗き込んだ。
「緑化委員会の活動報告書だよ、今年度、最後のお仕事。
今日もウチで勉強するでしょ?もうすぐ終わるから待ってて」
「ん」
葉月くんが簡単に頷く。シャープペンを走らせる僕の手元と、浅黒い葉月くんの腕が机に並ぶ。日誌の内容を静かに読む葉月くんに、ちらりと視線を向けたあと、僕も報告書を仕上げていく。
「あのさ、香住」
静寂を破るように、葉月くんが口を開いた。
「香住の下の名前、どういう意味なんだ」
「え?あぁ、僕の名前ね」
葉月くんの視線は「報告者の氏名欄」にある「香住 朔」にあった。花言葉を聞くような言い方が可愛くて、僕は笑顔で説明し始めた。
「『生まれたばかりの新月』って意味なんだ。祖父がつけてくれたんだよ。これからどんどん満ちて幸福になりますように、って願いをこめて」
「いい名前だな」
「ありがとう、僕も気に入ってるんだ」
そう笑うと、葉月くんが顔をあげて、真剣な瞳で僕を見つめた。
「朔、って呼んでいいよな、俺も」
高鳴った心が熱を帯びた。祖父がくれた初めての宝物が、きらきらと輝きはじめる。
「……もう一回、呼んで」
僕は葉月くんに言った。普段恥ずかしがり屋な癖に、怖いぐらいまっすぐな眼差しのまま、葉月くんは僕を見つめている。
「好きだ、朔」
ずっと葉月くんを見ていた。
花を潰されて怒る顔も、雨音の中どこか遠くを見ていた顔も、僕ではない人と笑っている顔も全部。
友達になりたいと望んだ春も、誰にも渡したくないと願った秋も、全部、葉月くんが初めてだった。
そんな風に、僕ばかりが葉月くんを見ていたと思っていた。
でも、本当は、2人が出会って、2人で見つけた初恋が、いま、実ったのかもしれない。
恥ずかしくて、幸せで、泣き出したくなる気持ちが胸いっぱいに広がって、僕は眼鏡をはずして、こぼれそうになる涙をぬぐった。
「どうしよう、や、やだな。僕、いま、すごいドキドキして」
「俺も」
葉月くんがちらりとドアの方へ目を向けた。「?」と小首を傾げると、葉月くんが「誰も来ないか確認したんだよ」と声を潜めて、僕の頬に手をゆっくりと添えた。
あたたかな大きな掌が僕の肌を包む。そっと触れる唇の感触に、僕は目をゆっくりと閉じた。
僕の唇を甘く噛むように、葉月くんの唇が柔らかく開く。ん、と小さく漏れた吐息さえも吸うように、唇が重なって、全身がとろけていく。短いキスを何度も繰り返しながら、葉月くんの硬い指が僕の輪郭をなぞるように触れていった。かき乱される髪も、漏れてしまう吐息も、全部、葉月くんのものに塗り替えられていく。
──葉月くん、キスが上手くなってる気がする。それと比べて僕はどんどん弱くなってる。
名残惜しそうに、葉月くんがゆっくりと唇を離した。熱に浮かされてぼうっとする僕の顔を、葉月くんが切なそうに眉根を寄せて見つめていた。
キスに手慣れてきたくせに、そんな余裕ない顔もするんだ。初めての葉月くんをもっと見てみたい。僕だけのものにしたい。
「……お前さ、そんな顔すんなよ。ずるいだろ」
独占欲を宿らせた低い声に、ぞわっとする。鋭いけれどあたたかみのあるその瞳に、閉じ込められてしまいそうだ。
春風がさぁっと教室に吹き込んで、桜の花弁が迷い込んできた。
彼の骨張った掌が再び、僕の頬に触れるのを待って、目を閉じる。
夏を楽しみ、秋に慕い、冬を耐えて、そして芽吹く春へ。
花園でひとりでいることよりも、花束のように優しい人を選んだ今なら分かる。今だからこそ、君に贈りたい。
永遠なんていらない。巡りゆく季節を、これからもずっと、君とともに生きていきたい。

