クラスメイトのほとんどがチョコの交換で盛り上がっている放課後、俺と香住は誰にも気付かれないように用具倉庫に向かった。
鍵はいつも通り、緑化委員会の委員長から借りてある。耳障りな音を立てて、鉄のドアが開いていく。
土のついたスコップや積み重ねた木箱の山、リヤカーなんかがあったりして、少しだけほこり臭い。けれどここなら人目にもつかないだろう。窓から差し込む陽射しは柔らかく、校庭の花壇に並ぶ、赤やピンクのシクラメンが遠くに見えた。
「ここなら、誰も来ないよね」
香住が倉庫の奥にある段ボールに座りながら、囁くように言った。俺も隣に座り、頷いた。
「そうだな」
「じゃあ、改めて……はい」
香住が、持ってきた包みを俺に改めて差し出す。照れくさそうに笑いながら、香住が眼鏡の縁を持ち上げた。
「こんな所で渡して雰囲気ないよね」
「でも早く見たかったからな」
俺は丁寧な手つきでリボンを解いた。箱をそっと開けると、薔薇を象った小さなチョコレートが4つ並んでいる。見た瞬間、植物オタクの香住らしくて、思わず笑ってしまった。隣に座る香住が小首を傾げた。
「どうしたの、葉月くん?」
「いや、お前らしいなって。これ、もしかして手作りか?」
「まさか!!」
香住が珍しく大きな声をあげた。ひた隠しにしていた弱点を指摘されたように、気まずそうな表情をしている。
「僕、料理はからっきしダメなんだよ。祖父と一緒に庭の花で砂糖漬けを作ったこともあるけど、上手にできた試しないし」
「そっか。なんか意外だな。香住にも苦手なことあんの」
「いっぱいあるよ。……でもまぁ、来年とかは挑戦しようかな」
香住がちらりとチョコレートに視線を落とした。
「良かったら1個食べてよ。葉月くんの顔、見たい」
「ん。じゃあ貰うわ」
なんだか食べるのが勿体ないぐらい精巧なつくりだ。味も違うのか、白やピンク、抹茶色やダークブラウンの薔薇が並んでいる。少し悩んで、俺は香住に尋ねた。
「香住はどれがいい?」
「え?僕はいいよ」
「香住と一緒に食いたい」
俺の答えに香住は笑った。じゃあね、と言いながら、俺の膝の箱を覗き込むように顔を近付けた。
香住はホワイトチョコを、俺はダークブラウンのチョコを選んだ。口元にビターな甘さが広がっていく。
「こうやって2人で食ってると、あの牛丼、思い出すな」
「ふふ、そうだね。すごく美味しかった」
香住の涙で、自分の気持ちを自覚した大切な夜。空腹で腹が鳴って大笑いしたのもいい思い出だ。薄暗い冬の倉庫で身体を寄せ合ってチョコを2人で分け合っているのも、俺たちらしいバレンタインのような気がした。
そんなことを考えていると、口の中からチョコレートの甘さがじんわりと溶けて消えていく。
「美味かった。ありがとな。形も綺麗だし、大切に食うよ」
「あ、あのね、葉月くん」
膝に置かれた俺の掌に、香住が自分の掌を重ねた。
「薔薇は色も品種もたくさんあって、花言葉もたくさんあるんだけど、大事な愛情を伝えるときに贈られる花なんだ。だから」
俯いた香住が語調を早めて言った。
「だから、僕はこのチョコを、その、本命っていう意味で選んだんだ……だから……」
――もう、僕以外、見ないで。
「香住……」
名前を低く呼ぶと、香住の肩が小さく揺れた。
眼鏡の奥の瞳が潤んでいて、でもまっすぐ俺を見ている。
絶対に傷つけないといったのに、仄暗い独占欲が心に広がっていく。逃げられないように、重ねた手に力が入った。
ゆっくりと顔を近づけると、何かを期待するような熱い吐息が俺の頬に当たった。
心臓が今にも破裂しそうに早く脈打ち、そして。
突然、倉庫のドアが勢いよく開いた。
「やっぱりここにいたな!」
杉田だった。チョコレートの赤い箱を抱えて、能天気に笑っている。
「皆でチョコパしようと探してたんだけど、香住がここの鍵持ってったって聞いたからさー!」
バレー部きってのムードメーカーは、冬の寒さを吹き飛ばすような声で騒いでいる。倉庫のドアが錆びていて良かった。ガタガタッと軋む音がしたので、飛び退くように俺たちは離れたのだ。それに、相手が杉田で本当に良かった。
「チョコパな、チョコパ。そっか、チョコパな」
バクバク鳴り響く心臓を抑えながら、俺は謎の単語を意味もなく繰り返した。完全に挙動不審だが、杉田は気づかないようだ。
「香住にも世話になってるからこれやるよ!」
「あ、ありがとね。杉田くん」
「んで、仕事は終わったのか?2人とも」
俺と同じく、胸元に手を当てながら香住は、チョコレート菓子を杉田から受け取った。
「あ、あぁ。ま、まあな」
「じゃあ、教室すぐこいよ!家庭部の女子が皆にチョコケーキくれるってよ」
「おう。少し片付けたら香住と行くよ」
「んじゃまたな!」
杉田の足音が遠ざかっていった。その残響が倉庫に響いた。その音が消えていくのを耳をすませて聞いていた。
やがて再び静けさを取り戻すと、俺は大きなため息をついた。香住の隣にドカッと座り直し、天井を仰ぎ見た。
「チョコパってなんだよ、杉田のやつ」
「杉田くん、パーティー好きだよね」
ついこないだやった鍋パを思い出したのか、香住が笑った。
「でも、本当、びっくりした。心臓、まだばくばくしてる」
すっかり先程までの甘い空気が霧散してしまった。お互いの顔を見合わせてから、俺はコツンと香住の肩に自分の頭を乗せた。
「杉田がまた呼びに来る前に行くか」
「……うん。そうだね」
香住も小さく頷いた。そして、ぽつりと呟くように言った。
「祖父の庭なんだけどね。近くに住む叔母夫婦が管理することになったんだ。叔母夫婦も祖父の庭が大好きだからね」
「そっか。よかったな。それじゃ安心だ」
「うん。3月になったらアネモネが咲くよ。クレマチスも見頃かも知れない。
花でいっぱいになったあの庭を……葉月くんと一緒に見たい」
香住の指が、俺の指をぎゅっと握り返した。
再び、目と目が交わる。
ぎしっと、床が軋む音がした。誰かの笑い声が、グラウンドの方からかすかに聞こえた。
──ファーストキスは、チョコレートの甘い匂いがした。
そっと触れた薄い唇から、ゆっくりと離れていく。目を閉じていた香住が、すこし寂しそうな目で俺を見つめてくる。胸がじわりと痛くなるが、これ以上はなんだか、歯止めがきかなくなりそうだった。目尻にかかる栗毛色の髪をさらりと撫でると、その動きが心地よさそうに目を細めた。
それから、どちらからともなく額に額をコツンと当てた。香住が「……えへへ」と笑う。
初めてのキスが用具倉庫で、しかも杉田に邪魔されて、この日のことをいつかまた思い出して香住と2人で笑い合うのだろう。
「悪くないよな、案外、こういうのも」
「うん。僕たちらしいよ」
段ボールに置いた香住の指に俺は自分の指を絡めた。埃っぽい用具室に差し込む、冬の白い光に、訪れる春の兆しを感じた。

