午後の授業は気怠い空気が漂っていた。ウチのクラス担任で、古典教諭でもある吉沢先生は御年60近い大ベテランだが、そのゆったりとした口調で常日頃から生徒たちを眠気に誘っているのだった。木漏れ日のような吉沢先生の授業を子守唄にして、斜め前の杉田の後頭部が何度か机にがくんと落ちては戻るのが見えた。
「あー、ではぁ、こちらの歌をですねぇ。じゃぁ、香住くん」
「はい」
睡魔に魅入られた教室で、ハスキーボイスが凛として響いた。吉沢先生が板書する音とともに、香住が教科書に載った歌を静かに読み上げていく。
「『冬ながら 空より花の 散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ』……現代語訳は」
ノートに目を落とした香住の前髪がさらりと揺れた。
「『まだ冬であるというのに、その空から雪が花のように降ってくるのは、雲の彼方はもう春であるのだろうか』です」
「ちゃんと予習をしてきて素晴らしいですねぇ」
優等生の香住に吉沢先生はご満悦だ。「ヨッシー」の愛称で親しまれるその柔和な笑顔で、香住が詠んだ歌の解説を始めた。
「以前の授業でもお話しましたが、『古今和歌集』は春、夏、秋、冬と季節の移り変わりに沿って歌が収録されております。『早春』には梅の花、『初夏』には橘の花と、四季を花の歌で描いているんですねぇ。えー、ですが」
授業が終わるチャイムが鳴りひびいた。吉沢先生は意に介さず、のんびりと解説を続けている。
「先ほどの歌のように、全てが枯れてしまう『冬』に花の歌はありません。そこで『雪』を花と見立てて、あぁ、早く命芽吹く春にならないかなぁ、とそういう願いを込めたんですねぇ」
吉沢先生の話を香住は背筋を正して聞いている。俺は窓に視線を移した。
雪の気配もない、殺風景な冬空の下、葉を落とした桜の木々が凍えるように並んでいた。
帰りのホームルームも終え、放課後に賑わう生徒たちの話題は大まかに2パターンあった。まもなく始まる冬休みの予定、それから進路だ。
教室の壁には模試のスケジュールが貼られているが、高校2年生の今しか遊べない、という気持ちもあるのだ。ライブだの推しだのと会話に興ずる生徒もいれば、数学の参考書を読み込んでいる生徒もいる。
「葉月はなんか予定とかあんの?」
バレー部の練習で忙しい杉田が俺に尋ねた。
「まぁこれといって予定はないな」
「俺は部活三昧だけどさァ、鍋パやろうぜ、カラオケとか。寂しいもん同士でさー!」
小柄な杉田が俺の背中に飛びかかりながら喚いた。ずいぶん前からクリスマスまでに彼女を作るとか言っていたが、とうとう予定は埋まらなかったらしい。
「香住もやろうぜ、鍋パ。塾、1日ぐらい休めんだろ?」
鞄に教科書を入れていた香住が、杉田の問いかけに「楽しそうだね」と笑った。
「講習のスケジュールを確認したら連絡するよ。……じゃ、またね、杉田くん、葉月くん」
「ん。まったなー!塾頑張れー!」
紺色のマフラーとダッフルコートを羽織って、香住は笑顔で俺たちに手を振った。
その背中をしばらく見ていると、杉田がジト目で俺を見ていた。
「……なんだよ」
「なんかあったろ、お前ら」
俺は言葉に詰まった。杉田から顔を逸らし、鞄を肩にかけ直す。
「……別に、何も」
あの後夜祭の出来事がよみがえる。
真っ暗な教室。外灯のぼんやりとした光を受けて、香住の白い首筋や肩が浮かび上がっていた。涙をためた薄茶色の瞳に、戸惑う俺が映っている。
「行かないで」
細い指が、すがりつくように、俺の制服の裾をぎゅっと掴んでいた。
気がつくと、俺は反射的に香住を抱きしめていた。心臓が飛び出そうなほど高鳴っていた。
胸元で香る、石鹸のような柔らかい匂い。華奢な体が震えていて、涙が俺の肩に染みて、熱い。
俺と香住は友達なのに。こんなこと、こんな風に思ってはいけないのに。でも香住を離したくない気持ちもずっとあって。
この気持ちが何なのか、もう少しで答えが出そうだった。それなのに。
「……ごめんね、葉月くん」
香住が俺の体を引き離すように、ゆっくりと、しかし力を込めて動いた。俺の腕にしがみついていた白い指がゆっくりと離れていき、胸元でぎゅっと握りしめられた。
「僕、変なこと言っちゃったね。ごめんね。忘れて、いいから」
香住の「忘れていい」が「忘れてほしい」という懇願にも聞こえた。ほっそりした首筋が一層、弱々しく、俺は自分がした乱暴な衝動を悔いた。
「あ、あぁ……なんか、俺も、その、変なことしてごめんな、急に」
「ううん。僕こそごめん」
そんな風に互いに謝り合った。
それから今日までずっと、香住と俺はあの出来事を一度も口にしなかった。――本当は忘れることなんて出来ていないのに。
(嫌われたんだろうな、きっと)
何も知らない杉田が「なんかあったろ」と勘づくほど、香住と俺の間には微妙な距離が生まれていた。正確に言えば香住が俺を避けているのだ。休み時間や緑化委員会の活動など、傍目にはいつもと変わらないように見える。だが笑顔がぎこちない。塾が忙しいからと2人で帰ることもなくなった。
俺のせいだ。俺なんかにあんなことされて、嫌に決まってる。
「鍋パまでには仲直りしろよー!いいなー!」
杉田の言葉を適当にごまかしながら、一人、廊下を歩いていく。
すると、さっき出ていったはずの香住が誰かと談笑している姿が数メートル先に見えた。俺は思わずサッと柱の影に隠れた。
「来年の春はこれを植えたらどうかな、香住」
「いいですね。色を黄色系統でまとめたら、桜とも合いますね」
「そっか。確かにそうだな」
香住の返事に頷く相手は、3年の緑化委員長だった。香住との付き合いも長いのだろう。植物の図鑑らしきものを香住に見せながら、親しげに話している。
香住も先輩にいつもの柔らかい笑顔で応じている。眼鏡の奥の目が優しく細められていて、俺が最近ほとんど見ていない表情だ。
(……ああ、そうか)
俺はデカい身体を壁に押し付けながらおもった。心が鉛のように重く、沈む。
(やっぱり……俺のせいか)
花を通じてせっかく仲良くなれたのに、後夜祭であんなことをしてしまった。あれから香住はずっと俺の前ではぎこちないままだった。
俺は音を立てないようにその場を離れた。香住と先輩のいるとは別の階段を降り、外にでる。灰色の重たい空が、一層気持ちを暗くさせた。
ふと花壇が目についた。灰色の冬空の下、ピンクや白のガーデンシクラメンが色鮮やかに咲いている。シロタエギクの銀色の葉も、そのカラフルな花弁を一層美しく際立たせていた。
(いい組み合わせだな、この2つ)
(実は僕がリクエストしたんだ。配色もいいし、2つとも寒さに強くて長く楽しめるからね)
(へぇ。すごいな、香住は)
ついこないだ、そんな風に2人で笑いあっていたのを思い出す。楽しい思い出だからこそ余計に寂しさが募った。かといってどうしたらいいかも分からない。
冬の空に吐き出したため息が、白くこぼれて消えた。

