窓から見える空はすっかり暗くなっていた。屋台は片付けられ、あんなに賑やかだった校内は人気がなく、がらんとしている。その一方で、向こう側に見える体育館には明かりが灯っていて、ドラムやベースの音が聞こえ始めている。後夜祭が始まったのだ。
俺は執事服のまま、一人、焼却炉にゴミを片付けていた。胸ポケットに突っ込んでいた2枚のチケットに視線を落とす。白川の出番はラストらしい。それまでに行けるといいが、なぜか気分は乗らなかった。
あのあと、自分のシフトを終え、校内をそれとなく探したが、香住にはずっと会えていない。学校にいる間、香住とこんなに長く離れたことなんて一度もなかった。違和感や不安を抱えながら、俺は足元の砂利を軽く蹴った。
閉園後のテーマパークのような雑然とした廊下を歩き、着替えの置いてある教室に向かった。ガラリ、と無造作に開けると、やはり教室の中も真っ暗だった。しかし、教室の中央にぼんやりと輪郭だけが見える。聞き慣れたハスキーボイスが、闇の中から聞こえた。
「葉月くん……?」
香住だった。執事服を脱いで、シャツを今まさに羽織ろうとしている。着替えなんて、同じ男同士だ。体育の時間にしょっちゅう見ているはずなのに、暗闇に浮かび上がる白い肌に胸がざわついた。
「な、なにやってんだよ、香住……!」
咄嗟に熱くなる顔を背けて、俺は思わず語気を荒げて言った。香住が慌ててシャツを着込む、衣擦れの音がした。
「ご、ごめん。もう誰もいないから、更衣室代わりにしちゃおうかなって」
「……そうか。いや、俺こそすまん……」
教室を包む暗闇がありがたかった。熱い頬も、動揺する心臓の音も、きっとバレないで済むだろう。
何食わぬ顔をして俺も香住の横で着替え始めた。ベルトをはずしたり、シャツを羽織る音が妙に大きく聞こえる。
きっと大丈夫だ。脈打つ鼓動を落ち着かせるよう、俺は心の中で唱えた。大丈夫だ。このまま着替えて、香住と一緒に帰ろう。きっといつも通りの2人に戻れるはずだ。
(……葉月くん、ってさ。誰にでも優しいんだね)
(白川さんとならいいの?)
あの時の香住の言葉が気になって仕方ないのも、女子生徒に囲まれて微笑む香住を見て無性にモヤモヤしたのも、全部、気の所為なんだ。
その時、胸ポケットからひらりと、例のチケットが落ちた。白川が「香住くんと一緒に来てね」と笑っていたのを思い出す。そうだ。いい気分転換になるかもしれない。
「香住、あのさ」
俺はチケットを拾いながら香住に声をかけた。
「これ、白川からもらったんだ。後夜祭に出るらしくて。香住も一緒にどうかって」
「……行かない」
穏やかで優しい香住らしからぬ返答だった。
「僕が行ったら邪魔になると思う」
「何言ってんだよ。そんなこと……」
「だって白川さんと楽しそうにしてたから、葉月くん」
昼間の執事喫茶の様子を香住は口にした。俺がなにか言おうとするのを阻むように香住が続けた。
「僕、今日疲れちゃったから先に帰るよ。せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
微笑む香住の顔が、窓からうっすらのぞく外灯の光に照らされている。普段通りの笑顔に、確かに疲れが滲んでるような気がした。
そっか、と俺が呟くと、部屋が妙にしんとなった。壁に立てかけてある飾り付けも、ハンガーにかけた執事服も、楽しかったことはみんな見終わった夢みたいに、教室は青白い沈黙に包まれていた。香住もなにも言わないでシャツのボタンに手をかけている。
本当は色んなことを香住に聞きたかった。今日は楽しかったか、とか、大変だったよな、とか、それから休憩のあとずっとどこに行ってたんだよ、とか。でも何となく聞くのが憚られて、着替え終えた俺はリュックを背負った。
「……じゃあ、またな。ゆっくり休めよ」
俺は俺が出せる限りの優しい声で、香住に声をかけた。そして、背を向けて教室のドアに向かおうとした。
「行かないで」
しんとした静まりかえった、海の底のような薄暗い部屋で、その微かな声だけがはっきりと聞こえた。
俺の制服の裾を、香住の指がすがりつくようにぎゅっと掴んでいる。その白い指先を視線で辿って、俺は香住の顔を見た。
白いシクラメンのように香住は俯いてる。だけど、さらりと覆う前髪から、涙をためた瞳が見えた。
「行かないで、葉月くん……」
顔が怖いと泣かれたことはあっても、俺を引き止めるために泣かれたことなんか一度もない。涙で掠れた香住の声と、夕闇のなかで映える香住の喉元から目が離せない。シャツだけ纏った香住は一層儚げに見えた。そんな香住が緊張と不安で小さく震えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「白川さんのとこに行ったら、やだ……」
唇を噛み締めながら、掠れた声でそれだけ言うと、香住の目から一筋、涙が溢れ落ちた。深緑色のネクタイリボンに染みとなって、じわりと涙が広がっていく。
ガタン、と机と机がぶつかる音がした。
腕の中に柔らかい熱を感じて、俺は自分が香住を抱きしめていることに気がついた。反射的に、衝動的に、俺は香住を力いっぱい抱きしめていた。なぜかは分からない。でも、どちらのものか分からないほど大きく響く心臓の音を聞いていると、香住を抱きしめる腕に力がこもってしまう。
きらりと光った涙。俺の腕に当たる、ゆるやかに湾曲した背骨。柔らかく薫る石鹸の匂い。
だめだ、とか、なにをしてるんだ、とか思うのに、五感で香住の存在を確かめようとしてしまう。
身も心も熱くてぐちゃぐちゃになりそうだ。理由の分からない衝動が、香住を抱きしめることでますます強くなっていく。
それなのに――離したくない。いま、ここで、香住を離してはいけない気がする。
「葉月、くん……」
冷たく光る夕闇の中で、香住の震える吐息と俺の心臓の音だけが響いていた。

