***
「——では、これにて本日の授業を終了とさていただきます。お疲れ様でした、神子様」
「ありがとうございました、先生」
もうすぐ昼時になるだろうと言う時。
今日の授業が終わり、灯は自分の教師に頭を下げる。
思兼恵というその男性は、代々名家の子供達の教育を任されてきた名家【思兼家】の男性だ。
思兼家が受け継ぐのは【思兼神】
知恵の神であり、かつて天照大御神が天岩戸に閉じこもった際に引き摺り出す計画を立てた英雄でもある。
現在ではふらりと現れては教育係などの任をこなし、それなりの影響力を持っている神。
彼は思兼神ではないが直系の息子であるため頭が良い。そのためこうして灯の教師として来てもらっているのである。
「神子様はとても頭が良い。いずれ国を動かす
素晴らしい賢王となるでしょう。
私も鼻が高いです」
「そんな、買い被りすぎですわ」
取ってつけたような賛美ではなく心からの賞賛だからこそ胸が痛い。
神子様神子様とその立場だけを呼んでいて、どうせ灯の名前も知識程度にしか知らないのだろう。
そんな悪態を吐こうとしてしまうのはやはり自分の性格が捻くれているせいなのかと、また罪悪感で心が痛んだ。
(……あ、崩れてない)
ふと懐を触れば、朝隠した稲荷寿司があった。
冷えてはいるが形は保っているし、今は寒いから腐ってもいないだろう。
多少可哀想だが、狐も食べてくれるかもしれない。
「すみません先生、少しやりたいことがありまして……」
「おやそうでしたか。ではまた次回で」
「はい」
先生に頭を下げて、灯は足早に部屋を出る。
部屋に入ってベットの下を覗き込めば、朝保護した狐と目があった。
「起きたのね! 良かったわ。
出て来れるかしら……?」
暗いスペースに手を差し伸べてこいこいと動かしてみれば、狐は存外あっさりと出て来た。
ベットの下に隠れていたのもそうだが、思った以上に頭が良い狐かもしれない。もしや天狐の子供だろうか。
大人は神と同じ姿に変化しているが、本来の姿は神となった狐だ。変化が得意ではない子供なら、このようなところに迷い込むのも不思議ではない気がする。
あとは妖である妖狐の可能性も無きにしも非ずだが……
流石に非現実すぎるため、灯はこの可能性を無意識に頭から除外していた。
「天狐の子かしら? なら良かったわ。
稲荷寿司よ。冷えてしまっているけど……
良かったら食べてちょうだい」
天狐なら稲荷寿司を好むのはほぼ確定。
ああよかったと胸を撫で下ろして寿司を差し出すと——
「阿保か!
俺はいけ好かん稲荷野郎とはちゃう!!」
「だっ、誰っ?!」
狐がボフンと煙を出したと思えば、目の前には狐ではなく——眉を吊り上げた男性が立っていた。
白銀の髪に切れ長の翡翠の瞳。顔を構成するすべてのパーツが、恐ろしいほどに整っている。
あまり異性と出会ったことがなく容姿について疎い灯でも、彼が超のつく美形であることはわかるほどだ。
「あの、貴方は、誰……?」
ただ、そんなものは今は関係ない。
不審者だったらいけないと侍女を呼ぶ呼び鈴に手をかけながら、声を振るわせて伝える。
「俺はアンタが助けた狐さん。
狐は狐でも、強うてべっぴん〜な妖狐やで!」
「よ、妖狐?!」
「せやで? 神に仇なす悪ーい妖で——」
「ゆきのこちゃんが飼えなくなっちゃった……」
「誰や?!?!」
目の前の男は妖、【妖狐】を自称した。
灯は初めて出会った恐ろしい妖という存在に絶望している……と思いきや、不思議なことを口走りはじめる。
「貴方につけていた名前。
動物なら飼おうと思っていたのに……
雪みたいなふわふわした毛並みだもの」
「え、もしかして俺男やのにそんなふわふわした名前付けられかけとったん?」
少し震えた声で灯が話せば、男は自分に付けられかけた名前を考えて震える。
「あのな、俺は恐ろしい妖狐なんやで?!
怖い〜とか恐ろしい〜とか思わへんの?!」
「別に……私が妖に何かされているわけでもないもの。
仲良くしないなんて効率悪いなとしか思ってないわ」
これは灯の本心だ。お互い穢れだの過去のしがらみだので睨み合うのは効率が悪いとしか思えない。
灯の中で二種族のイメージは素直になれない思春期の子供である。
「アンタ思うたより肝座ってんな……」
目の前の男は引き気味で灯に言う。なんとも失礼な奴だ。
「それで、稲荷寿司は食べるの?
食べないのなら私が食べるけれど」
「は? 食べんなんて言ってないわ」
「あっ……」
いい加減放置されている稲荷寿司が可哀想だと灯が声をかければ、あっけらかんとした表情で男は寿司を口に放り込んだ。
言われている身だが、灯として考えればこいつもよっぽど肝が据わっている。
まずこの空間にいて捕まらないのがおかしい。
灯が『助けて』と一言叫んでしまえば、彼は晴れて牢獄行きだ。ちゃんと不法侵入者。
私の寛大な心に感謝してほしいなぁ、なんて灯は思っていたりする。
しかも彼は妖だ。妖は神にとって“穢れたもの”
存在するだけで差別や迫害の対象になり得る存在だ。
そういったものに寛容な灯だからいいのであって、普通の神なら暴力沙汰確定である。
「なんなのよ貴方……乙女の部屋に忍び込んで。
私が一言叫んでしまえば色々な意味で死ぬわよ、貴方」
「それを言うたらアンタもやで。
悪ーい妖狐の男が、それもアンタ以外誰もおらへん部屋におる。
アンタ、叫ぶ前に死ぬで?」
「それはなんとも恐ろしいこと」
くすり、と二人揃って小さく笑う。一発触発とは正にこのことだ。
お互いが相手の出方を見る。
先に動いたのは——男の方だった。
「よっこらせっと……ああそうや、本題忘れるとこやった」
「本題?」
「せや」
男は座っていた床から立ち上がり、灯の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「狐っちゅうんは、人から貰った恩を忘れんものや。
自分を救ってくれた相手には、人生を懸けて恩返しをする。
そういう種族なんや」
「はあ、そう」
「んーで、今俺の目の前には俺の命を救ってくれた女の子がおる。
せやったら、なんか返さなあかんよな?」
「……」
目の前の翡翠が、にんまりと細められる。
まるで、こちら側の全てを見抜いているような。
「アンタの願い、俺が叶えたる。
願望でも悲願でもなんでもええ。
もし妖に恩返しの機会をくれるんやったら、どんな無理難題でもやったるわ」
そう笑う彼の顔は決意に満ちていて、妖とか神とか責務とか、それまでずっと灯の頭を支配していた霧が晴れた気がした。
この人ならもしかしたら、灯の心からの小さな我儘を叶えてくれるのではないか。受け入れてくれるのではないか。
そう、思ってしまったのだ。
「自由が……自由が、ほしい。
気ままに美味しいものを食べたり、ゲームをしたり、話したり。
そんな、普通の生活を送ってみたい……」
心の奥から溢れ出した、その小さな願望。
それを聴くや否や、男は豪快に笑って言う。
「随分と豪快な夢持ってるやん! よし、俺に任せとき」
「あ、」
一本の手が差し伸べられる。きっと、これを取れば彼についていくことになるのだろう。
正直言って恐ろしい。本当に叶えてくれるのかはわからないし、家出となれば天照大御神として失格かもしれない。
でも、それでもいい。失格上等。
灯はただ、自分に向けられた翡翠と白銀を信じてみたかった。
手を取れば、腕を引かれて顔が近づく。
間近でみるその顔はやっぱり恐ろしいほどに美しいのに、不思議と何も感じない。
「俺と逃げようや。ずっとずーっと遠くまで」
この選択が吉と出るか凶と出るか、今はまだわからない。
それでも今は、このワクワクした気持ちのまま生きてみたいのだ。
「——では、これにて本日の授業を終了とさていただきます。お疲れ様でした、神子様」
「ありがとうございました、先生」
もうすぐ昼時になるだろうと言う時。
今日の授業が終わり、灯は自分の教師に頭を下げる。
思兼恵というその男性は、代々名家の子供達の教育を任されてきた名家【思兼家】の男性だ。
思兼家が受け継ぐのは【思兼神】
知恵の神であり、かつて天照大御神が天岩戸に閉じこもった際に引き摺り出す計画を立てた英雄でもある。
現在ではふらりと現れては教育係などの任をこなし、それなりの影響力を持っている神。
彼は思兼神ではないが直系の息子であるため頭が良い。そのためこうして灯の教師として来てもらっているのである。
「神子様はとても頭が良い。いずれ国を動かす
素晴らしい賢王となるでしょう。
私も鼻が高いです」
「そんな、買い被りすぎですわ」
取ってつけたような賛美ではなく心からの賞賛だからこそ胸が痛い。
神子様神子様とその立場だけを呼んでいて、どうせ灯の名前も知識程度にしか知らないのだろう。
そんな悪態を吐こうとしてしまうのはやはり自分の性格が捻くれているせいなのかと、また罪悪感で心が痛んだ。
(……あ、崩れてない)
ふと懐を触れば、朝隠した稲荷寿司があった。
冷えてはいるが形は保っているし、今は寒いから腐ってもいないだろう。
多少可哀想だが、狐も食べてくれるかもしれない。
「すみません先生、少しやりたいことがありまして……」
「おやそうでしたか。ではまた次回で」
「はい」
先生に頭を下げて、灯は足早に部屋を出る。
部屋に入ってベットの下を覗き込めば、朝保護した狐と目があった。
「起きたのね! 良かったわ。
出て来れるかしら……?」
暗いスペースに手を差し伸べてこいこいと動かしてみれば、狐は存外あっさりと出て来た。
ベットの下に隠れていたのもそうだが、思った以上に頭が良い狐かもしれない。もしや天狐の子供だろうか。
大人は神と同じ姿に変化しているが、本来の姿は神となった狐だ。変化が得意ではない子供なら、このようなところに迷い込むのも不思議ではない気がする。
あとは妖である妖狐の可能性も無きにしも非ずだが……
流石に非現実すぎるため、灯はこの可能性を無意識に頭から除外していた。
「天狐の子かしら? なら良かったわ。
稲荷寿司よ。冷えてしまっているけど……
良かったら食べてちょうだい」
天狐なら稲荷寿司を好むのはほぼ確定。
ああよかったと胸を撫で下ろして寿司を差し出すと——
「阿保か!
俺はいけ好かん稲荷野郎とはちゃう!!」
「だっ、誰っ?!」
狐がボフンと煙を出したと思えば、目の前には狐ではなく——眉を吊り上げた男性が立っていた。
白銀の髪に切れ長の翡翠の瞳。顔を構成するすべてのパーツが、恐ろしいほどに整っている。
あまり異性と出会ったことがなく容姿について疎い灯でも、彼が超のつく美形であることはわかるほどだ。
「あの、貴方は、誰……?」
ただ、そんなものは今は関係ない。
不審者だったらいけないと侍女を呼ぶ呼び鈴に手をかけながら、声を振るわせて伝える。
「俺はアンタが助けた狐さん。
狐は狐でも、強うてべっぴん〜な妖狐やで!」
「よ、妖狐?!」
「せやで? 神に仇なす悪ーい妖で——」
「ゆきのこちゃんが飼えなくなっちゃった……」
「誰や?!?!」
目の前の男は妖、【妖狐】を自称した。
灯は初めて出会った恐ろしい妖という存在に絶望している……と思いきや、不思議なことを口走りはじめる。
「貴方につけていた名前。
動物なら飼おうと思っていたのに……
雪みたいなふわふわした毛並みだもの」
「え、もしかして俺男やのにそんなふわふわした名前付けられかけとったん?」
少し震えた声で灯が話せば、男は自分に付けられかけた名前を考えて震える。
「あのな、俺は恐ろしい妖狐なんやで?!
怖い〜とか恐ろしい〜とか思わへんの?!」
「別に……私が妖に何かされているわけでもないもの。
仲良くしないなんて効率悪いなとしか思ってないわ」
これは灯の本心だ。お互い穢れだの過去のしがらみだので睨み合うのは効率が悪いとしか思えない。
灯の中で二種族のイメージは素直になれない思春期の子供である。
「アンタ思うたより肝座ってんな……」
目の前の男は引き気味で灯に言う。なんとも失礼な奴だ。
「それで、稲荷寿司は食べるの?
食べないのなら私が食べるけれど」
「は? 食べんなんて言ってないわ」
「あっ……」
いい加減放置されている稲荷寿司が可哀想だと灯が声をかければ、あっけらかんとした表情で男は寿司を口に放り込んだ。
言われている身だが、灯として考えればこいつもよっぽど肝が据わっている。
まずこの空間にいて捕まらないのがおかしい。
灯が『助けて』と一言叫んでしまえば、彼は晴れて牢獄行きだ。ちゃんと不法侵入者。
私の寛大な心に感謝してほしいなぁ、なんて灯は思っていたりする。
しかも彼は妖だ。妖は神にとって“穢れたもの”
存在するだけで差別や迫害の対象になり得る存在だ。
そういったものに寛容な灯だからいいのであって、普通の神なら暴力沙汰確定である。
「なんなのよ貴方……乙女の部屋に忍び込んで。
私が一言叫んでしまえば色々な意味で死ぬわよ、貴方」
「それを言うたらアンタもやで。
悪ーい妖狐の男が、それもアンタ以外誰もおらへん部屋におる。
アンタ、叫ぶ前に死ぬで?」
「それはなんとも恐ろしいこと」
くすり、と二人揃って小さく笑う。一発触発とは正にこのことだ。
お互いが相手の出方を見る。
先に動いたのは——男の方だった。
「よっこらせっと……ああそうや、本題忘れるとこやった」
「本題?」
「せや」
男は座っていた床から立ち上がり、灯の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「狐っちゅうんは、人から貰った恩を忘れんものや。
自分を救ってくれた相手には、人生を懸けて恩返しをする。
そういう種族なんや」
「はあ、そう」
「んーで、今俺の目の前には俺の命を救ってくれた女の子がおる。
せやったら、なんか返さなあかんよな?」
「……」
目の前の翡翠が、にんまりと細められる。
まるで、こちら側の全てを見抜いているような。
「アンタの願い、俺が叶えたる。
願望でも悲願でもなんでもええ。
もし妖に恩返しの機会をくれるんやったら、どんな無理難題でもやったるわ」
そう笑う彼の顔は決意に満ちていて、妖とか神とか責務とか、それまでずっと灯の頭を支配していた霧が晴れた気がした。
この人ならもしかしたら、灯の心からの小さな我儘を叶えてくれるのではないか。受け入れてくれるのではないか。
そう、思ってしまったのだ。
「自由が……自由が、ほしい。
気ままに美味しいものを食べたり、ゲームをしたり、話したり。
そんな、普通の生活を送ってみたい……」
心の奥から溢れ出した、その小さな願望。
それを聴くや否や、男は豪快に笑って言う。
「随分と豪快な夢持ってるやん! よし、俺に任せとき」
「あ、」
一本の手が差し伸べられる。きっと、これを取れば彼についていくことになるのだろう。
正直言って恐ろしい。本当に叶えてくれるのかはわからないし、家出となれば天照大御神として失格かもしれない。
でも、それでもいい。失格上等。
灯はただ、自分に向けられた翡翠と白銀を信じてみたかった。
手を取れば、腕を引かれて顔が近づく。
間近でみるその顔はやっぱり恐ろしいほどに美しいのに、不思議と何も感じない。
「俺と逃げようや。ずっとずーっと遠くまで」
この選択が吉と出るか凶と出るか、今はまだわからない。
それでも今は、このワクワクした気持ちのまま生きてみたいのだ。
