真夜中、午前二時。
詩歌は穏佳と共に、こっそり部屋を出た。
廊下の電気は消えているので、懐中電灯で足元を照らす。
「寮長自ら、消灯を破って七不思議を調べに行くなんて、バレたら説教じゃすまないな」
穏佳が、ぽそりと呟いた。
時間帯も寮長という立場もマズいが、七不思議関連なのが一番マズい。
七不思議は調べること自体を学校が禁止している。
長期休暇前には必ず教師が注意をするほどだ。
「ごめんね、京久野く……ふにゃ」
穏佳が詩歌の鼻を摘まんだ。
「もう、謝るのはナシだ。嫌なわけじゃない。関わると言ったのは俺だ」
「でも、危険かもしれないのに」
泣きそうな気持で穏佳を見詰める。
「危険な場所に芽吹を一人で行かせるくらいなら、二人で行くほうがいい」
トクン、と詩歌の胸が跳ねた。
(京久野君は、あの時の僕みたいに間違わない)
『お兄ちゃん――』
心の奥で幼かった弟が詩歌に手を振る。
あの日の後悔を、詩歌はそっと握り締めた。
(京久野君が一緒なら、きっと大丈夫だ)
詩歌は手を伸ばして、穏佳の手を握った。
穏佳の手がビクンと跳ねて、強張った。
「なっ……なん……なんで、手を繋ぐんだ」
穏佳が珍しく言い淀んだ。
「暗いから、握ってもいい?」
穏佳が、握った手をじっと見詰めた。
「そう、だよな。懐中電灯一つじゃ、暗いよな」
戸惑いながら、穏佳が詩歌の手を握り返した。
繋いだ手を確かめて、詩歌はまた歩き出した。
男子寮三階には、洗面台が二か所ある。
新しい洗面台は寮室の近くにある。
古い洗面台は非常階段の奥に、ひっそりと続いている。
「この奥か。改めて見ると、隔離されているみたいだな」
穏佳が、ごくりと息を飲んだ。
横に長く伸びる洗面台の、一番手前に着いた。
「言われてみれば、変な場所だよね」
生活空間から切り離され、遠くに追いやられたようだ。
明倫は明治創立の歴史ある高校だ。
校舎や女子寮が平成には建て替えられている中で、男子寮は昭和頃に建て替えたきりだ。
だから学園の中でも、際立って古い。
その中でも、この洗面台は時代に置き去りにされたような異質さが漂う。
詩歌と穏佳は顔を見合わせて頷くと、一番奥の洗面台に向かった。
「七不思議の一つ目って、真実を映す鏡だっけ?」
丑三つ時に鏡を覗き込むと、真実の姿が映し出されるとかいう噂だ。
「最近も、見た生徒がいるって誰かが話していたよ。誰だっけ……染谷君だったかな?」
穏佳が、詩歌の手を強く握った。
「今、そういう話をするな」
「え? ごめん……怖かった?」
「別に、怖くない。そうじゃなくて、他の奴の名前とか、今は……」
顔を逸らした穏佳が、ピタリと言葉を止めた。
「……七不思議は話すだけで怨霊を刺激するとか、言うだろ」
穏佳が早口になった。
「でも、僕らもう、すっかり刺激しちゃってると思う」
穏佳が、ぐっと言葉を詰まらせた。
「それに、ほら。鏡って、あれだよね?」
洗面台の一番端の壁は、ステンドグラスが埋め込まれている。
そのすぐ隣にある鏡は、光が入り込むはずなのに、雰囲気がやけに暗い。
並ぶ他の鏡とは明らかに漂う空気が違っていた。
詩歌は穏佳の手を離すと、壁際の鏡に歩み寄った。
「芽吹! 迂闊に動くな!」
「京久野君は、ここにいて。僕が見てくるから」
鏡に向かう詩歌を追いかけて、穏佳が手を掴まえた。
「一人はダメだって、言っただろ。何かする時は絶対に、二人一緒だ」
詩歌は握られた手を、じっと見詰めた。
穏佳の手は、さっきからずっと冷たい。なのに、握る手の力強さは、変わらない。
(京久野君、やっぱり優しいな)
本当は怖いはずなのに、ずっと詩歌を気遣ってくれる。
巻き込んで申し訳ないと思いながらも、穏佳が一緒で良かったと思った。
「うん、わかった。ごめ……ん?」
穏佳に、また鼻を摘ままれた。
詩歌は目を、ぱちくりと瞬かせた。
「次、ごめんって言ったら、中華まん奢りだ」
穏佳が真面目な顔で言うから、ちょっとおかしくなった。
「わかったよ、何がいい? 肉まん? ピザまん?」
「奢る前提で話すな。意味ないだろ」
そんな話をしていたら、いつの間にか二人して、鏡の前に立っていた。
「……見ちゃった」
詩歌は何げなく呟いた。
穏佳の手が、ぎゅっと詩歌の手を握った。
「何かいたのか? 何が見えたんだ?」
詩歌に抱き付く勢いで、穏佳が後ろに隠れた。
詩歌はもう一度、鏡を覗き込んだ。
「映っているのは、僕と京久野君だけだよ」
「そ……か」
小さく息を吐いて、穏佳が顔を上げた。
「大丈夫? 怖い?」
後ろの穏佳を振り返る。
「別に、怖くなんか……ない。なんで芽吹は平気な……ん」
不自然に言葉を切った穏佳の表情が、見る間に引き攣った。
不思議に思いながら、詩歌は鏡に向き直った。
鏡に映る詩歌の隣に、いないはずの知らない生徒が立っていた。
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
「いない、のに……映ってる」
詩歌は思わず零した。
鏡に映る男子生徒の姿は、詩歌の隣にはない。
なのに、鏡には映り込んでいる。
「真実を映す鏡、だからか」
穏佳が、ごくりと息を飲んだ。
「あ……」
手に持っていた交換日記が宙に浮いた。
パラパラと、ひとりでにページが開いた。
真っ白いページに、黒い文字が浮かび上がった。
(こんなに暗いのに、文字が見える)
懐中電灯で照らしても暗いと感じる場所なのに。
本の文字は、はっきりと読めた。
『来てくれて、ありがとう』
鏡の中の男子生徒が、薄く笑んだ。
詩歌と身長が変わらない、小柄な男の子だ。
着ている学生服は、今の詩歌たちが着ているジャケットとは違う。
明倫の昔の制服だ。
(写真で見た、古い制服……京久野君が言う通り、本当に幽霊なんだ)
読書部の活動で学園史を読んだ時に見た覚えがある。
昭和初期頃の明倫の制服は、学ランだった。
『詩歌、鏡を指でなぞって』
本に文字が浮かび上がる。
鏡の中に視線を向ける。男子生徒が詩歌を見詰めて頷いた。
詩歌は、ごくりと息を飲んだ。
本に書かれた通りに、詩歌は鏡に手を伸ばした。
その手を穏佳が止めた。
「やめろ! 連れて行かれたら、どうするんだ!」
強く腕を引かれて、体が後ろに倒れ込む。
背の高い穏佳の胸に、すっぽり収まった。
「でも、なぞれって」
「何でも言われた通りにすればいい訳じゃないだろ!」
穏佳が、怒鳴った。怒っているみたいだ。
本にまた、文字が浮かび上がった。
『連れて行かない。二人には、僕を見つけてほしいんだ。詩歌……お願い』
これまでと同じ筆跡、同じ文字。なのに、切実さが感じられた。
詩歌は穏佳の手を握った。
「僕の手、京久野君が握っていて。連れて行かれそうになったら、引っ張って」
穏佳を振り返る。
本の文字と詩歌を交互に眺めて、穏佳が小さく頷いた。
「危険だと感じたら、走って逃げるぞ」
「うん、わかった」
詩歌は鏡に向かい、指を伸ばした。
幽霊男子の顔が映る鏡の表面を指先で、すぃとなぞる。
「え……?」
トプン……と、指が鏡の中に滑り込んだ。
「なっ……」
ビクリと震えた穏佳の手が、詩歌の腕を引っ張った。
「待って、京久野君。何か、触れる」
「え? 鏡の中にか?」
穏佳の戸惑った問いかけに、詩歌は頷いた。
詩歌は、指に触れる何かを懸命に手繰り寄せると、強く握った。
そのまま、鏡から手を引き抜いた。
握り込んだ手を見詰める。
穏佳も詩歌の握った拳を見詰めていた。
引き抜いた手を、ゆっくりと開く。
詩歌の手が握っていたのは、ぐしゃぐしゃに丸まった紙だ。
その紙を摘まみ上げて、穏佳が開いた。
ノートの端を無造作に破ったような紙の切れ端に、文字が描かれていた。
『榊悠梧』
その名を見詰めていた詩歌と穏佳の視線が、鏡の中の幽霊に向いた。
幽霊は、鏡の中から詩歌と穏佳を見詰めていた。
「これは、君の名前?」
詩歌は問い掛けた。
幽霊は表情を変えずに、ボンヤリと詩歌を見詰める。
浮かんでいた本のページがパラパラとひとりでに捲れる。
最後のページで、ぴたりと止まった。
「最後のページ、破れてる」
ページの上の端が、無造作に破ったように欠けている。
「あ! 紙が」
名前の書かれた紙の切れ端が、穏佳の手から浮かび上がった。
切れ端が、その場所にぴたりと吸い付く。
ふわりと淡い光を灯して、本のページと切れ端が一枚の項に収まった。
鏡の中の少年の、ボンヤリした目が、何かに気が付いたように上向いた。
『榊、悠梧……僕の、名前。そうだった。僕の名前だ』
本のページが捲れて、文字が浮かび上がる。
幽霊が感触を確かめるように、自分の胸に手をあてた。
『やっと、僕の欠片が一つ、見つかった。詩歌、穏佳、ありがとう』
鏡の中の幽霊が、淡い光に包まれる。
本の文字も、同じ光を纏っている。
『僕の欠片は、まだ、足りない。僕をみつけて。僕を、探して――』
鏡の中の幽霊の輪郭が歪む。
姿が、ジワリと滲んで空気に溶けた。
「消えちゃった」
まるで何事もなかったかのように、周囲を静かな闇が包んだ。
鏡を見詰めていた詩歌と穏佳は、本に目を落とした。
本が開かれたまま宙に浮いている。
浮かび上がった文字が光を帯びて、本と共にわずかに揺れる。
確かな怪異が一つだけ、目の前にしっかりと残っていた。
詩歌は穏佳と共に、こっそり部屋を出た。
廊下の電気は消えているので、懐中電灯で足元を照らす。
「寮長自ら、消灯を破って七不思議を調べに行くなんて、バレたら説教じゃすまないな」
穏佳が、ぽそりと呟いた。
時間帯も寮長という立場もマズいが、七不思議関連なのが一番マズい。
七不思議は調べること自体を学校が禁止している。
長期休暇前には必ず教師が注意をするほどだ。
「ごめんね、京久野く……ふにゃ」
穏佳が詩歌の鼻を摘まんだ。
「もう、謝るのはナシだ。嫌なわけじゃない。関わると言ったのは俺だ」
「でも、危険かもしれないのに」
泣きそうな気持で穏佳を見詰める。
「危険な場所に芽吹を一人で行かせるくらいなら、二人で行くほうがいい」
トクン、と詩歌の胸が跳ねた。
(京久野君は、あの時の僕みたいに間違わない)
『お兄ちゃん――』
心の奥で幼かった弟が詩歌に手を振る。
あの日の後悔を、詩歌はそっと握り締めた。
(京久野君が一緒なら、きっと大丈夫だ)
詩歌は手を伸ばして、穏佳の手を握った。
穏佳の手がビクンと跳ねて、強張った。
「なっ……なん……なんで、手を繋ぐんだ」
穏佳が珍しく言い淀んだ。
「暗いから、握ってもいい?」
穏佳が、握った手をじっと見詰めた。
「そう、だよな。懐中電灯一つじゃ、暗いよな」
戸惑いながら、穏佳が詩歌の手を握り返した。
繋いだ手を確かめて、詩歌はまた歩き出した。
男子寮三階には、洗面台が二か所ある。
新しい洗面台は寮室の近くにある。
古い洗面台は非常階段の奥に、ひっそりと続いている。
「この奥か。改めて見ると、隔離されているみたいだな」
穏佳が、ごくりと息を飲んだ。
横に長く伸びる洗面台の、一番手前に着いた。
「言われてみれば、変な場所だよね」
生活空間から切り離され、遠くに追いやられたようだ。
明倫は明治創立の歴史ある高校だ。
校舎や女子寮が平成には建て替えられている中で、男子寮は昭和頃に建て替えたきりだ。
だから学園の中でも、際立って古い。
その中でも、この洗面台は時代に置き去りにされたような異質さが漂う。
詩歌と穏佳は顔を見合わせて頷くと、一番奥の洗面台に向かった。
「七不思議の一つ目って、真実を映す鏡だっけ?」
丑三つ時に鏡を覗き込むと、真実の姿が映し出されるとかいう噂だ。
「最近も、見た生徒がいるって誰かが話していたよ。誰だっけ……染谷君だったかな?」
穏佳が、詩歌の手を強く握った。
「今、そういう話をするな」
「え? ごめん……怖かった?」
「別に、怖くない。そうじゃなくて、他の奴の名前とか、今は……」
顔を逸らした穏佳が、ピタリと言葉を止めた。
「……七不思議は話すだけで怨霊を刺激するとか、言うだろ」
穏佳が早口になった。
「でも、僕らもう、すっかり刺激しちゃってると思う」
穏佳が、ぐっと言葉を詰まらせた。
「それに、ほら。鏡って、あれだよね?」
洗面台の一番端の壁は、ステンドグラスが埋め込まれている。
そのすぐ隣にある鏡は、光が入り込むはずなのに、雰囲気がやけに暗い。
並ぶ他の鏡とは明らかに漂う空気が違っていた。
詩歌は穏佳の手を離すと、壁際の鏡に歩み寄った。
「芽吹! 迂闊に動くな!」
「京久野君は、ここにいて。僕が見てくるから」
鏡に向かう詩歌を追いかけて、穏佳が手を掴まえた。
「一人はダメだって、言っただろ。何かする時は絶対に、二人一緒だ」
詩歌は握られた手を、じっと見詰めた。
穏佳の手は、さっきからずっと冷たい。なのに、握る手の力強さは、変わらない。
(京久野君、やっぱり優しいな)
本当は怖いはずなのに、ずっと詩歌を気遣ってくれる。
巻き込んで申し訳ないと思いながらも、穏佳が一緒で良かったと思った。
「うん、わかった。ごめ……ん?」
穏佳に、また鼻を摘ままれた。
詩歌は目を、ぱちくりと瞬かせた。
「次、ごめんって言ったら、中華まん奢りだ」
穏佳が真面目な顔で言うから、ちょっとおかしくなった。
「わかったよ、何がいい? 肉まん? ピザまん?」
「奢る前提で話すな。意味ないだろ」
そんな話をしていたら、いつの間にか二人して、鏡の前に立っていた。
「……見ちゃった」
詩歌は何げなく呟いた。
穏佳の手が、ぎゅっと詩歌の手を握った。
「何かいたのか? 何が見えたんだ?」
詩歌に抱き付く勢いで、穏佳が後ろに隠れた。
詩歌はもう一度、鏡を覗き込んだ。
「映っているのは、僕と京久野君だけだよ」
「そ……か」
小さく息を吐いて、穏佳が顔を上げた。
「大丈夫? 怖い?」
後ろの穏佳を振り返る。
「別に、怖くなんか……ない。なんで芽吹は平気な……ん」
不自然に言葉を切った穏佳の表情が、見る間に引き攣った。
不思議に思いながら、詩歌は鏡に向き直った。
鏡に映る詩歌の隣に、いないはずの知らない生徒が立っていた。
ぞくり、と背筋に寒気が走った。
「いない、のに……映ってる」
詩歌は思わず零した。
鏡に映る男子生徒の姿は、詩歌の隣にはない。
なのに、鏡には映り込んでいる。
「真実を映す鏡、だからか」
穏佳が、ごくりと息を飲んだ。
「あ……」
手に持っていた交換日記が宙に浮いた。
パラパラと、ひとりでにページが開いた。
真っ白いページに、黒い文字が浮かび上がった。
(こんなに暗いのに、文字が見える)
懐中電灯で照らしても暗いと感じる場所なのに。
本の文字は、はっきりと読めた。
『来てくれて、ありがとう』
鏡の中の男子生徒が、薄く笑んだ。
詩歌と身長が変わらない、小柄な男の子だ。
着ている学生服は、今の詩歌たちが着ているジャケットとは違う。
明倫の昔の制服だ。
(写真で見た、古い制服……京久野君が言う通り、本当に幽霊なんだ)
読書部の活動で学園史を読んだ時に見た覚えがある。
昭和初期頃の明倫の制服は、学ランだった。
『詩歌、鏡を指でなぞって』
本に文字が浮かび上がる。
鏡の中に視線を向ける。男子生徒が詩歌を見詰めて頷いた。
詩歌は、ごくりと息を飲んだ。
本に書かれた通りに、詩歌は鏡に手を伸ばした。
その手を穏佳が止めた。
「やめろ! 連れて行かれたら、どうするんだ!」
強く腕を引かれて、体が後ろに倒れ込む。
背の高い穏佳の胸に、すっぽり収まった。
「でも、なぞれって」
「何でも言われた通りにすればいい訳じゃないだろ!」
穏佳が、怒鳴った。怒っているみたいだ。
本にまた、文字が浮かび上がった。
『連れて行かない。二人には、僕を見つけてほしいんだ。詩歌……お願い』
これまでと同じ筆跡、同じ文字。なのに、切実さが感じられた。
詩歌は穏佳の手を握った。
「僕の手、京久野君が握っていて。連れて行かれそうになったら、引っ張って」
穏佳を振り返る。
本の文字と詩歌を交互に眺めて、穏佳が小さく頷いた。
「危険だと感じたら、走って逃げるぞ」
「うん、わかった」
詩歌は鏡に向かい、指を伸ばした。
幽霊男子の顔が映る鏡の表面を指先で、すぃとなぞる。
「え……?」
トプン……と、指が鏡の中に滑り込んだ。
「なっ……」
ビクリと震えた穏佳の手が、詩歌の腕を引っ張った。
「待って、京久野君。何か、触れる」
「え? 鏡の中にか?」
穏佳の戸惑った問いかけに、詩歌は頷いた。
詩歌は、指に触れる何かを懸命に手繰り寄せると、強く握った。
そのまま、鏡から手を引き抜いた。
握り込んだ手を見詰める。
穏佳も詩歌の握った拳を見詰めていた。
引き抜いた手を、ゆっくりと開く。
詩歌の手が握っていたのは、ぐしゃぐしゃに丸まった紙だ。
その紙を摘まみ上げて、穏佳が開いた。
ノートの端を無造作に破ったような紙の切れ端に、文字が描かれていた。
『榊悠梧』
その名を見詰めていた詩歌と穏佳の視線が、鏡の中の幽霊に向いた。
幽霊は、鏡の中から詩歌と穏佳を見詰めていた。
「これは、君の名前?」
詩歌は問い掛けた。
幽霊は表情を変えずに、ボンヤリと詩歌を見詰める。
浮かんでいた本のページがパラパラとひとりでに捲れる。
最後のページで、ぴたりと止まった。
「最後のページ、破れてる」
ページの上の端が、無造作に破ったように欠けている。
「あ! 紙が」
名前の書かれた紙の切れ端が、穏佳の手から浮かび上がった。
切れ端が、その場所にぴたりと吸い付く。
ふわりと淡い光を灯して、本のページと切れ端が一枚の項に収まった。
鏡の中の少年の、ボンヤリした目が、何かに気が付いたように上向いた。
『榊、悠梧……僕の、名前。そうだった。僕の名前だ』
本のページが捲れて、文字が浮かび上がる。
幽霊が感触を確かめるように、自分の胸に手をあてた。
『やっと、僕の欠片が一つ、見つかった。詩歌、穏佳、ありがとう』
鏡の中の幽霊が、淡い光に包まれる。
本の文字も、同じ光を纏っている。
『僕の欠片は、まだ、足りない。僕をみつけて。僕を、探して――』
鏡の中の幽霊の輪郭が歪む。
姿が、ジワリと滲んで空気に溶けた。
「消えちゃった」
まるで何事もなかったかのように、周囲を静かな闇が包んだ。
鏡を見詰めていた詩歌と穏佳は、本に目を落とした。
本が開かれたまま宙に浮いている。
浮かび上がった文字が光を帯びて、本と共にわずかに揺れる。
確かな怪異が一つだけ、目の前にしっかりと残っていた。



