――令和〇年、春
桜がほとんど終わった四月。
明倫学園高校男子寮に入寮した詩歌は、窓から外を眺めた。
「思ったより部屋が広いなぁ。この部屋からなら、桜が綺麗に見えそう」
男子寮のすぐ脇に咲く桜は、もうほとんど散りかけて葉桜に変わりつつある。
「来年は、お花見できるかな」
桜の木を眺めて、微笑んだ。
寮の扉が、かちゃりと開いた。
「あ……」
振り返った先には、少年が立っていた。
真面目そうな子だと思った。
詩歌はぴょんぴょん飛び跳ねるように駆け寄ると、少年の手を取った。
「僕は芽吹詩歌。同じ部屋の人だよね? よろしく!」
少年の目が、じっと詩歌を見詰めていた。
詩歌は不思議に思って、首を傾げた。
「可愛い……」
ぽそりと呟いた彼が、慌てて自分の口を手で覆った。
「いや……何でもない。同室の京久野穏佳だ、よろしく」
詩歌の手を握り直して握手する。
話し方も見た目と同じできっちりして、真面目そうだ。
けれど、握る手はとても優しい。
壊れ物にでも触れるように、詩歌の手を包む。
(優しそう。仲良くなれそうかも)
嬉しさと期待が、胸に広がった。
「よろしくね、京久野君!」
期待に胸を膨らませて、穏佳を見上げる。
「あのね! この部屋の窓から桜の木が見えるんだよ」
握った手を引いて、窓際に連れて行く。
「うわ……あまり引っ張るな」
そう言いながらも、詩歌に手を握られたまま窓際に来てくれた。
「ほら、見て!」
詩歌は桜を指さした。
窓から緩い風が吹き込む。
花弁がひらりと、二人の前を横切った。
「本当だ。ベスポジだな。角部屋の特権て感じだ」
薄紅に緑が混じる桜を眺めて、穏佳が感心している。
「来年は、一緒にお花見しようね」
詩歌の誘いに、穏佳がクスリと笑んだ。
(あ、笑った)
笑った顔は年齢よりも幼く見えて、可愛かった。
「部屋で花見なんて、風流だ。楽しそうだな」
そう言って微笑む穏佳は、さっきよりずっと可愛くて、優しい顔をしていた。
(京久野君のこと、知りたいな。仲良くなりたいな)
知り合ったばかりで、お互い何も知らない蕾だけど。
詩歌の胸には、京久野穏佳への興味が確かに芽吹いた。
入寮一日目の顔合わせは、詩歌にとって最高の出会いだった。
――大正十五年、春。
桜が満開に咲き誇る四月上旬。
明倫学園高校男子寮に入寮した榊悠梧は、ひたすらに下を向いて歩いた。
「見て、あの子……」
「あぁ、噂の」
「妾腹が嫡男とは、榊家も気の毒だ」
漏れ聞こえる噂話をすり抜けて、寮の部屋に逃げ込んだ。
「結局、高等学校に入っても変わらないのか」
緑がかった青い目も、赤茶けた髪も母親譲りだ。
どんなに両親の仲が良くても、それは世間の評価に繋がらない。
可哀想と揶揄するほうが面白いからだ。
ふわり、緩い風が吹いた。
小さな花弁が開いた窓から入ってきた。
悠梧は、何気なく窓の外を眺めた。
「うわぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
男子寮の隣に、大きな桜の木がある。
この部屋からは少し遠いが、満開の桜を愛でるには充分だ。
「素敵な景色を見つけた」
心が、少しだけ温かくなった。
窓辺にもたれて、桜を眺める。
――カチャリ
扉が開く音がして、悠梧は振り返った。
扉の前に、男子生徒が立っていた。
詰襟を上まで締めて、学生帽をきっちり被った、真面目そうな男子生徒だ。
男子生徒は口を半開きにして、悠梧を凝視していた。
「あ……」
桜の美しさに気をとられて、自分を隠すのをすっかり忘れていた。
悠梧は俯きがちに近づいて、控えめに頭を下げた。
「僕は、榊悠梧。同室の、生徒だよね。よろしく」
そっと手を差し伸べる。
反応がない。
(僕と握手なんか、したくないかな)
きっと彼も悠梧の良からぬ噂を知っているに違いない。
そう思ったら、身が竦んだ。
引っ込めようとした手を、彼が握った。
「同室の、香原水樹だ。よろしく」
はきはきとして張りのある声だ。
ちらりと顔を窺う。
慈しむような瞳が、悠梧を見下ろしていた。
(こんな視線、向けられたことがない。どういう感情だろう)
水樹が、ニコリと笑んだ。
「君があまりに美しかったから、つい見惚れた。不躾な真似をしたね。許してほしい」
水樹の口から飛び出した言葉が、信じられなかった。
「美しい……?」
父親と母親意外に、そんな風に言われたことなんか、一度もない。
おおよそ、他人が自分を形容する言葉ではない。
「あぁ、とても美しい。特に悠梧の瞳は……」
水樹が悠梧に顔を近付けた。
驚いて、動けなくなった。体が強張って、逃げることもできない。
「まるで深い湖のようだ。見詰めていたら、吸い込まれそうだよ」
真正面から真っ直ぐに悠梧を褒めた他人は、初めてだった。
二人の間を緩い風が流れて、花弁がひらりと飛んだ。
「桜の花弁?」
飛んできた花弁を、水樹が掴まえた。
手の中の花弁を眺める。
「あ、うん……男子寮の裏にある桜の樹、部屋から見られるよ」
「本当かい? どれどれ」
秘密の宝物でも見つけたように肩をワクワクさせながら、水樹が窓辺に寄った。
「ほら、あっち側」
「本当だ。これは見事だね」
水樹が感動している。
秘密を共有できたみたいで、ちょっとだけ嬉しくなった。
「半分くらいしか見えないのが、残念だけどね」
「残念ではないさ。見えないなら、その半分は想像すればいい」
「想像……するの?」
悠梧は首を傾げた。
そんな発想は悠梧にはなかった。
「雅も風流も、想像力が大事だよ。たとえば、桜のもう半分は、さくらんぼをたくさんつけている、とかね」
水樹が得意げに話す。
「何それ、雅でも風流でもないよ」
悠梧は思わず吹き出した。
「うん、いいね」
水樹の言葉に、悠梧は顔を上げた。
「悠梧は笑っていたほうがいい。さっきの顔よりずっと綺麗で、ずっと可愛らしいよ」
トクンと、胸が跳ねた。
(何だろう、この気持ち……くすぐったい)
胸の奥がざわめくのに、嫌な感じがしない。知らない感覚だ。
この時から、悠梧の中で水樹の言葉が特別に響くようになった。
「来年も……一緒に桜を見よう」
そんな言葉が口を吐いて出た。
「勿論さ、僕らはルームメイトなんだからね。この部屋から桜を愛でて、本当にサクランボがなっているか、確認しに行こう。僕らだけで、こっそり収穫しに行くんだ」
「なにそれ。叱られちゃうよ」
水樹がまるで壮大な夢のように語るから、悠梧は声を出して笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりだ。
高校生活が楽しみだと、初めて思えた。
こんな出会いと、こんな始まり。
噛み合っていたはずの歯車は、少しずつズレていく。
それでも運命は止まってくれない。
彼らの数奇な運命は、時を越えて重なり合う。
これが救いか、新たな地獄の始まりかは、彼らにしかわからない。
桜がほとんど終わった四月。
明倫学園高校男子寮に入寮した詩歌は、窓から外を眺めた。
「思ったより部屋が広いなぁ。この部屋からなら、桜が綺麗に見えそう」
男子寮のすぐ脇に咲く桜は、もうほとんど散りかけて葉桜に変わりつつある。
「来年は、お花見できるかな」
桜の木を眺めて、微笑んだ。
寮の扉が、かちゃりと開いた。
「あ……」
振り返った先には、少年が立っていた。
真面目そうな子だと思った。
詩歌はぴょんぴょん飛び跳ねるように駆け寄ると、少年の手を取った。
「僕は芽吹詩歌。同じ部屋の人だよね? よろしく!」
少年の目が、じっと詩歌を見詰めていた。
詩歌は不思議に思って、首を傾げた。
「可愛い……」
ぽそりと呟いた彼が、慌てて自分の口を手で覆った。
「いや……何でもない。同室の京久野穏佳だ、よろしく」
詩歌の手を握り直して握手する。
話し方も見た目と同じできっちりして、真面目そうだ。
けれど、握る手はとても優しい。
壊れ物にでも触れるように、詩歌の手を包む。
(優しそう。仲良くなれそうかも)
嬉しさと期待が、胸に広がった。
「よろしくね、京久野君!」
期待に胸を膨らませて、穏佳を見上げる。
「あのね! この部屋の窓から桜の木が見えるんだよ」
握った手を引いて、窓際に連れて行く。
「うわ……あまり引っ張るな」
そう言いながらも、詩歌に手を握られたまま窓際に来てくれた。
「ほら、見て!」
詩歌は桜を指さした。
窓から緩い風が吹き込む。
花弁がひらりと、二人の前を横切った。
「本当だ。ベスポジだな。角部屋の特権て感じだ」
薄紅に緑が混じる桜を眺めて、穏佳が感心している。
「来年は、一緒にお花見しようね」
詩歌の誘いに、穏佳がクスリと笑んだ。
(あ、笑った)
笑った顔は年齢よりも幼く見えて、可愛かった。
「部屋で花見なんて、風流だ。楽しそうだな」
そう言って微笑む穏佳は、さっきよりずっと可愛くて、優しい顔をしていた。
(京久野君のこと、知りたいな。仲良くなりたいな)
知り合ったばかりで、お互い何も知らない蕾だけど。
詩歌の胸には、京久野穏佳への興味が確かに芽吹いた。
入寮一日目の顔合わせは、詩歌にとって最高の出会いだった。
――大正十五年、春。
桜が満開に咲き誇る四月上旬。
明倫学園高校男子寮に入寮した榊悠梧は、ひたすらに下を向いて歩いた。
「見て、あの子……」
「あぁ、噂の」
「妾腹が嫡男とは、榊家も気の毒だ」
漏れ聞こえる噂話をすり抜けて、寮の部屋に逃げ込んだ。
「結局、高等学校に入っても変わらないのか」
緑がかった青い目も、赤茶けた髪も母親譲りだ。
どんなに両親の仲が良くても、それは世間の評価に繋がらない。
可哀想と揶揄するほうが面白いからだ。
ふわり、緩い風が吹いた。
小さな花弁が開いた窓から入ってきた。
悠梧は、何気なく窓の外を眺めた。
「うわぁ……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
男子寮の隣に、大きな桜の木がある。
この部屋からは少し遠いが、満開の桜を愛でるには充分だ。
「素敵な景色を見つけた」
心が、少しだけ温かくなった。
窓辺にもたれて、桜を眺める。
――カチャリ
扉が開く音がして、悠梧は振り返った。
扉の前に、男子生徒が立っていた。
詰襟を上まで締めて、学生帽をきっちり被った、真面目そうな男子生徒だ。
男子生徒は口を半開きにして、悠梧を凝視していた。
「あ……」
桜の美しさに気をとられて、自分を隠すのをすっかり忘れていた。
悠梧は俯きがちに近づいて、控えめに頭を下げた。
「僕は、榊悠梧。同室の、生徒だよね。よろしく」
そっと手を差し伸べる。
反応がない。
(僕と握手なんか、したくないかな)
きっと彼も悠梧の良からぬ噂を知っているに違いない。
そう思ったら、身が竦んだ。
引っ込めようとした手を、彼が握った。
「同室の、香原水樹だ。よろしく」
はきはきとして張りのある声だ。
ちらりと顔を窺う。
慈しむような瞳が、悠梧を見下ろしていた。
(こんな視線、向けられたことがない。どういう感情だろう)
水樹が、ニコリと笑んだ。
「君があまりに美しかったから、つい見惚れた。不躾な真似をしたね。許してほしい」
水樹の口から飛び出した言葉が、信じられなかった。
「美しい……?」
父親と母親意外に、そんな風に言われたことなんか、一度もない。
おおよそ、他人が自分を形容する言葉ではない。
「あぁ、とても美しい。特に悠梧の瞳は……」
水樹が悠梧に顔を近付けた。
驚いて、動けなくなった。体が強張って、逃げることもできない。
「まるで深い湖のようだ。見詰めていたら、吸い込まれそうだよ」
真正面から真っ直ぐに悠梧を褒めた他人は、初めてだった。
二人の間を緩い風が流れて、花弁がひらりと飛んだ。
「桜の花弁?」
飛んできた花弁を、水樹が掴まえた。
手の中の花弁を眺める。
「あ、うん……男子寮の裏にある桜の樹、部屋から見られるよ」
「本当かい? どれどれ」
秘密の宝物でも見つけたように肩をワクワクさせながら、水樹が窓辺に寄った。
「ほら、あっち側」
「本当だ。これは見事だね」
水樹が感動している。
秘密を共有できたみたいで、ちょっとだけ嬉しくなった。
「半分くらいしか見えないのが、残念だけどね」
「残念ではないさ。見えないなら、その半分は想像すればいい」
「想像……するの?」
悠梧は首を傾げた。
そんな発想は悠梧にはなかった。
「雅も風流も、想像力が大事だよ。たとえば、桜のもう半分は、さくらんぼをたくさんつけている、とかね」
水樹が得意げに話す。
「何それ、雅でも風流でもないよ」
悠梧は思わず吹き出した。
「うん、いいね」
水樹の言葉に、悠梧は顔を上げた。
「悠梧は笑っていたほうがいい。さっきの顔よりずっと綺麗で、ずっと可愛らしいよ」
トクンと、胸が跳ねた。
(何だろう、この気持ち……くすぐったい)
胸の奥がざわめくのに、嫌な感じがしない。知らない感覚だ。
この時から、悠梧の中で水樹の言葉が特別に響くようになった。
「来年も……一緒に桜を見よう」
そんな言葉が口を吐いて出た。
「勿論さ、僕らはルームメイトなんだからね。この部屋から桜を愛でて、本当にサクランボがなっているか、確認しに行こう。僕らだけで、こっそり収穫しに行くんだ」
「なにそれ。叱られちゃうよ」
水樹がまるで壮大な夢のように語るから、悠梧は声を出して笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりだ。
高校生活が楽しみだと、初めて思えた。
こんな出会いと、こんな始まり。
噛み合っていたはずの歯車は、少しずつズレていく。
それでも運命は止まってくれない。
彼らの数奇な運命は、時を越えて重なり合う。
これが救いか、新たな地獄の始まりかは、彼らにしかわからない。



