交換日記から始まる、僕らの恋と七不思議。

 穏佳の姿が、淡い光に包まれる。
 詩歌の知らない顔になった。

(この人が、香原水樹、さん?)

 整った顔立ちと伸びた背筋、安心感のある雰囲気が穏佳に似ている。
 左目にあたった眼帯が印象的だった。

(あの目は、硫酸で怪我した傷だよね)

 胸がズキンと痛んだ。
 握った手を一瞬、離しそうになった。
 詩歌の手を、水樹が引き寄せ握り直した。

「離さない約束だろ。穏佳を繋ぎ止めるのは、詩歌だよ」

 水樹が詩歌に微笑みかけた。
 その顔がとても優しくて、詩歌の胸に安堵が降りた。

(穏佳が、水樹は悪い霊じゃないっていったの、わかった気がする)

 詩歌はしっかりと水樹の手を握った。
 水樹と同じほうを向いた。

 水樹の目は、悠梧に向いていた。
 悠梧は水樹に背を向けて蹲っていた。

「悠梧」

 水樹の声掛けに、悠梧の背中がビクリと震えた。
 大好きな相手の声を聴いた反応とは思えない怯えようだ。

「この部屋に二人でいられるのは、百年振りだ。向き合って、話をしよう」

 悠梧が背を向けたまま、首を横に振った。

「俺と話すのは、嫌?」

 水樹が優しく問いかける。
 悠梧は肩を震わすばかりで返事をしない。

「俺は悠梧と話がしたい。こうして再会できて、嬉しいよ」
「嘘だ!」

 顔を上げた悠梧が、また蹲った。
 思わず叫んでしまったようだ。

「嘘じゃない。ずっと会いたかったんだ。だから百年も、この場所に留まったんだよ」

 一つ一つ、言葉を確かめるように水樹が話す。
 言葉の運びすら、詩歌には優しく聞こえた。

(水樹は本当に悠梧を大切に思っているんだ。僕でも気付くのに)

 どうして悠梧は水樹の優しさを拒むのだろう。

「僕のせいで、水樹は死んだのに。本当は、僕を恨んでいるんだろ」
「恨んでないよ。悠梧のせいでもない。俺の死は、事故だった」
「僕のせいだ!」

 悠梧が勢いよく顔を上げた。

「たとえ転落が事故でも、それまでの虐めは……辛かった想いは全部、僕のせいじゃないか。あの悪ふざけを、事故を引き起こしたのは全部、僕じゃないか」

 言葉が徐々に弱々しくなり、消え入りそうに小さくなる。

「僕が水樹を殺したんだ。一番失いたくなかった水樹を、僕が……」

 ゆっくりと歩み寄った水樹が、悠梧の背中をそっと撫でた。
 悠梧の体が、ビクリと震えた。

「辛かったなんて、俺は一言でも言ったかい?」
「え……」

 悠梧が振り返った。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔が、顕わになる。
 水樹がハンカチを取り出すと、悠梧の頬を拭った。

「嫌な思いは確かにしたよ。平気だったと言えば嘘になる。だけど、俺にとっては、この部屋で悠梧と過ごす時間のほうが大事で、特別で……」

 水樹の手が、止まった。

「悠梧を守れるなら、辛くなんかなかった。恨んだことなど一度もない。まるで傲慢な、自己満足みたいな行為だったんだ」

 水樹が眉を下げる。
 自分を嘲るように、小さく笑んだ。

「きっと、生きているうちに伝えるべきだった。だけど、あの時は、そんなつもりはなくて。話せばかえって、悠梧を傷付けると思った」

 水樹の手が、悠梧の頬に伸びる。
 顔が近付いて、唇が軽く触れた。

 詩歌は思わず、目を手で覆った。

「え……?」

 悠梧が、驚いた顔のまま、固まった。

「好きだったんだ、悠梧のことが。けど、俺たちは互いに長男で、家を継ぐべき立場だったから」

 水樹の目が俯く。
 その手には、薄い大学ノートが握られていた。

「悠梧との交換日記、楽しかったよ。悠梧は、違った?」

 悠梧が、ぶんぶんと首を振った。

「楽しかったよ。水樹との交換日記の中でなら、僕は本当の気持ちが言えた」
「俺は言えなかった。この日記の中でさえ、自分の気持ちを隠した。だから、悠梧を苦しめた」

 悠梧の目が悲しみに歪む。
 また溢れた涙を、水樹の指が直に拭う。

「僕も、好きだ。水樹のこと。けど……死ななきゃ、気付けなかった」
「じゃぁ、お互い様だ」

 水樹の腕が悠梧を抱き寄せた。
 悠梧の涙が水樹のシャツに沁みていく。

「そろそろ逝こう。今なら二人で天に昇れる。七不思議に縛られるのは、終わりにしよう」
「ん……」

 悠梧の体が、水樹に寄り添った。
 二人を、光の粒子が包む。

「あ……!」

 詩歌は、穏佳の手を両手で握った。

「ありがとう、詩歌、穏佳」

 水樹が柔らかく微笑んだ。

「……ごめんね、詩歌。日記に返事を書いてくれて、ありがとう」

 涙で腫れた悠梧の目が、少しだけ笑んで見えた。

「僕は……」

 詩歌は、不思議な日記を見つけてから今日までの出来事を振り返った。

「僕は、悠梧と水樹に会えて、良かったよ。きっと穏佳も、そう思っているよ」

 気付けば笑みが昇っていた。
 二人を包む光が色を増す。
 姿が透け始めた。
 
 穏佳まで連れて行かれないように、詩歌は力の限り穏佳の手を握った。

「さよなら……優しくて強い、詩歌」

 悠梧の声を残して、二人の姿が消えた。
 光が闇に溶けていく。
 目を閉じた穏佳の体が詩歌に倒れ込んだ。

「わわ!」

 詩歌より大きな穏佳の体を支えきれずに、尻もちを付いた。
 穏佳の体を胸に抱いて、頬をペチペチと叩く。

「穏佳、聞こえる? 穏佳!」
「ん……」

 ぎゅっと目を瞑った穏佳が、ゆっくりと目を開いた。
 穏佳の目が、きょろきょろと周囲を窺う。

「水樹と、悠梧は、逝ったのか」
「うん……」

 それきり、二人はしばらく黙って、静寂の闇を見詰めていた。
 悠梧の日記も、水樹の日記も、二人の交換日記も、なくなっていた。
 濃かった闇がサラサラと溶けて、少しずつ明るさを取り戻し始めていた。