開かずの寮室は、奥まった場所にある。
周りは物置や自習室になっているから、時間帯を選べば人とすれ違う率は低い。
穏佳は周囲に人がいないことを確認して、鍵を開けた。
ごくりと息を飲んで、ドアノブを握り締めた。
「詩歌……ここにいてくれ」
そう願って、部屋の扉を開けた。
扉を開いた瞬間、世界が変わった。
真っ暗な闇が一面に広がる。
カーテンを閉めた程度の暗さではない。
視界に映る総てが、真っ黒だ。
入ってきた扉すら、闇に飲まれた。
「なんだ、ここは」
穏佳が知っている部屋の様相ではない。
ごくりと、息を飲んだ。
「思ったより早かったね」
空間の中に声が散らばって聞こえる。
穏佳は周囲を探した。
「見付からなくて、降参? 詩歌と一緒に、僕のモノになりにきたの?」
声に導かれて、後ろを振り返った。
「詩歌!」
ぼんやりと半分目を開けた詩歌が、俯きがちに立っている。
穏佳の声にも、詩歌は表情すら変えない。
まるで声が届いていないみたいだ。
その肩に、淡い光が乗っているのが気になった。
「詩歌、返事しろ。俺を見ろ!」
詩歌に駆け寄ろうとした穏佳を、風が遮った。
穏佳の体がその場に転がった。
「触れていいなんて、許可していないよ」
目の前に少年が立っていた。
鏡の中に見た、悠梧の姿だ。
「穏佳が詩歌と同じになって、僕のモノになるなら、触れさせてあげる」
悠梧の手が穏佳に迫る。
穏佳は後ろに下がりながら、水樹の日記を掲げた。
悠梧の手が、ピタリと止まった。
「見つけてきたぞ、お前の欠片。今までで一番大事な欠片だろ」
水樹の日記と、そこに挟まっていた交換日記を見せ付ける。
悠梧の目が見開かれた。
「どうして……それを、どこで。見つかるはずがないんだ。だって、水樹は、屋上から……」
悠梧が口の中で言葉をかみ砕く。
「水樹は自殺したんじゃない。足を滑らせて、誤って落下したんだ」
「そんなわけない!」
穏佳の言葉に被せるように、悠梧が怒鳴った。
「水樹は僕のために死んだんだ。僕のせいで虐められて、硫酸で目を焼かれて、屋上に追い詰められて……」
悠梧の目が闇を見詰める。
その瞳は、百年前の日々を辿っているようだった。
「全部、僕のせいだ。水樹は、僕を恨んでる。水樹の後を追いかけたのに、水樹が僕を拒否するから。だから僕は、死んでも水樹に会えないんだ……」
「水樹の日記を、読んでみたらどうだ」
穏佳は悠梧に水樹の日記を差し出した。
悠梧の目が怯えるように歪んだ。
「読めるわけない。水樹が僕を拒絶する言葉なんか読んだら、僕は……」
「読んでみなきゃ、わからないだろ」
ずぃ、と日記を差し出す。
「やめ……やめてくれ!」
悠梧の手が、日記を振り払った。
勢いで、日記が足下に転がった。
「あ……ごめん。違う、投げ飛ばしたんじゃ、なくて……」
あからさまに狼狽えた悠梧が、日記の前に座り込んだ。
「ごめんね……水樹、ごめん」
何度も謝るのに、悠梧の手は日記を拾い上げない。
震える指先は日記に伸びることなく、その顔を覆った。
水樹の日記が、ふわりと光った。
穏佳は我に返って、詩歌を探した。
遠くで座り込む詩歌に、穏佳は近付いた。
「詩歌、わかるか? 聞こえてるか?」
ぼんやりした目は虚空を見詰めるばかりだ。
肩を揺らしても、反応がない。
「どうしたら、元の詩歌に戻るんだ」
穏佳の問いに応えるように、詩歌の肩の光が浮き上がった。
フワフワと浮いた光を、詩歌の目が追いかける。
「快心……」
詩歌が光を見詰めながら呟いた。
「快心って、誰だ? もしかして……弟?」
倒れる前に詩歌が話していた、死んだ弟だろうか。
詩歌が心を許しているように見える。
全く反応がなかった詩歌の目が、初めて動いた。
「詩歌、思い出せ。目を醒ませよ。このままじゃ、本当にあっち側に連れて行かれる」
光を追いかける詩歌に、穏佳は身を寄せた。
浮き上がった光が穏佳の後ろに回る。
光が穏佳の後頭部を強打した。
「……いたっ! うわ!」
風のような圧で体が前に傾く。
勢いが強くて、詩歌に覆い被さった。
その場に詩歌を押し倒す姿勢になった。
「う……んっ?」
声が上手く出せない。
唇に柔らかいものが触れる。
詩歌の顔がやけに近い。
自分の唇と詩歌の唇が触れていると気付くのに、時間がかかった。
(唇が……え? これは、キスでは……?)
詩歌と自分の唇が重なっている。
詩歌が身を捩ったせいで、余計に深く重なった。
「んぅ……」
詩歌の唇から、小さな声が漏れる。
詩歌が穏佳に腕を伸ばした。
伸びた手が穏佳の服を、きゅっと握る。
(かっ……可愛い。こんなの、無理だ。我慢なんか、できるわけ……ない)
穏佳は詩歌の体を抱き寄せた。
重なった唇を食んで、更に強く口付けた。
唇に熱が戻る。詩歌の呼吸を感じる。
「ん……ぷはっ!」
唇を離した詩歌が、大きく息を吸い込んだ。
「ぁ……穏佳」
詩歌の目が真っ直ぐ穏佳を見詰める。
さっきまでの、意志の抜けたぼんやりした目ではない。
いつものキラキラした詩歌の瞳だ。
「詩歌……やっと起きた」
穏佳は安堵の息を漏らした。
見上げる詩歌の瞳が、潤んだ。
ドキリと、穏佳の胸が跳ねた。
「穏佳……しずかぁ」
詩歌が穏佳に抱き付いた。
あまりの勢いに、穏佳の体が揺れた。
「うっ! た……」
「怖かったよ。でも、諦めなかったよ。絶対また穏佳に会うんだって、卒業までルームメイトでいるんだって、ずっと思って頑張ったよ」
穏佳の首に縋り付いて泣く詩歌を、抱き返した。
「偉い、詩歌。俺も、絶対に取り戻すって、考えてた」
「信じてた。穏佳だから、大丈夫だって、思ってた」
耳元で聞こえた声が嬉しくて、安心した。
間違いなく、穏佳が好きになった詩歌だ。
視界の端に、水樹の日記が映った。
蹲る悠梧の前で日記が光を帯び始めていた。
(水樹との約束、果たさないと)
穏佳は、腕の力を緩めた。
詩歌の顔が思ったより近くて、狼狽える。
気持ちを切り替えて、詩歌を見詰めた。
「俺たちで、七不思議を終わらせるんだ。そのために、俺は今から水樹に体を貸す」
「嫌だ! 穏佳がどうにかなっちゃったら、耐えられない。だったら、僕が……」
「ダメだ」
穏佳は、詩歌の口元に指を添えた。
「俺と水樹の約束だ。だから、俺が貸す」
「でも……」
詩歌が、しゅんと肩を落とす。
その肩に、穏佳を押し倒した光が乗った。
(あの光、弟ならきっと詩歌を守ってくれる……俺には、悪戯してきたけど)
詩歌に害をなす光でなければ、それでいい。
「水樹は悪い霊ではなさそうだ。だけど、もし俺が戻れなかったら、その時は詩歌が俺を助けに来てくれ」
幽霊から助けろなんて、無茶振りに近い。
けれど、詩歌ならきっと、何とかできる。
そんな気がする。
不安そうな詩歌の顔が、決意の色に変わった。
「うん、わかった」
はっきりと頷いた詩歌が、穏佳の手を握った。
「僕が手を繋いでいるから。絶対に離さないから」
詩歌が握ってくれた手を、穏佳は握り返した。
「うん、ありがとう」
詩歌の頬に口付ける。
指先が、ピクリと跳ねた。
穏佳は、日記に向かって叫んだ。
「水樹、いいぞ!」
淡い光を灯していた日記が、ぐにゃりと輪郭を歪めた。
次の瞬間、凝集した光の塊になり、穏佳の胸に飛び込んだ。
「ぅっ……」
視界がぐらりと傾いて、意識が遠くなる。
「穏佳!」
叫ぶ詩歌の声が、遠い。
(でも、聞こえる。大丈夫だ)
指先から冷たくなって、やがて感覚がなくなった。
この世のモノでない異物が侵入したと、体と頭が感じ取る。
『しばらく借りるよ、穏佳』
お手柔らかに。
穏佳の軽口は意識の内側から、水樹に届いた。
周りは物置や自習室になっているから、時間帯を選べば人とすれ違う率は低い。
穏佳は周囲に人がいないことを確認して、鍵を開けた。
ごくりと息を飲んで、ドアノブを握り締めた。
「詩歌……ここにいてくれ」
そう願って、部屋の扉を開けた。
扉を開いた瞬間、世界が変わった。
真っ暗な闇が一面に広がる。
カーテンを閉めた程度の暗さではない。
視界に映る総てが、真っ黒だ。
入ってきた扉すら、闇に飲まれた。
「なんだ、ここは」
穏佳が知っている部屋の様相ではない。
ごくりと、息を飲んだ。
「思ったより早かったね」
空間の中に声が散らばって聞こえる。
穏佳は周囲を探した。
「見付からなくて、降参? 詩歌と一緒に、僕のモノになりにきたの?」
声に導かれて、後ろを振り返った。
「詩歌!」
ぼんやりと半分目を開けた詩歌が、俯きがちに立っている。
穏佳の声にも、詩歌は表情すら変えない。
まるで声が届いていないみたいだ。
その肩に、淡い光が乗っているのが気になった。
「詩歌、返事しろ。俺を見ろ!」
詩歌に駆け寄ろうとした穏佳を、風が遮った。
穏佳の体がその場に転がった。
「触れていいなんて、許可していないよ」
目の前に少年が立っていた。
鏡の中に見た、悠梧の姿だ。
「穏佳が詩歌と同じになって、僕のモノになるなら、触れさせてあげる」
悠梧の手が穏佳に迫る。
穏佳は後ろに下がりながら、水樹の日記を掲げた。
悠梧の手が、ピタリと止まった。
「見つけてきたぞ、お前の欠片。今までで一番大事な欠片だろ」
水樹の日記と、そこに挟まっていた交換日記を見せ付ける。
悠梧の目が見開かれた。
「どうして……それを、どこで。見つかるはずがないんだ。だって、水樹は、屋上から……」
悠梧が口の中で言葉をかみ砕く。
「水樹は自殺したんじゃない。足を滑らせて、誤って落下したんだ」
「そんなわけない!」
穏佳の言葉に被せるように、悠梧が怒鳴った。
「水樹は僕のために死んだんだ。僕のせいで虐められて、硫酸で目を焼かれて、屋上に追い詰められて……」
悠梧の目が闇を見詰める。
その瞳は、百年前の日々を辿っているようだった。
「全部、僕のせいだ。水樹は、僕を恨んでる。水樹の後を追いかけたのに、水樹が僕を拒否するから。だから僕は、死んでも水樹に会えないんだ……」
「水樹の日記を、読んでみたらどうだ」
穏佳は悠梧に水樹の日記を差し出した。
悠梧の目が怯えるように歪んだ。
「読めるわけない。水樹が僕を拒絶する言葉なんか読んだら、僕は……」
「読んでみなきゃ、わからないだろ」
ずぃ、と日記を差し出す。
「やめ……やめてくれ!」
悠梧の手が、日記を振り払った。
勢いで、日記が足下に転がった。
「あ……ごめん。違う、投げ飛ばしたんじゃ、なくて……」
あからさまに狼狽えた悠梧が、日記の前に座り込んだ。
「ごめんね……水樹、ごめん」
何度も謝るのに、悠梧の手は日記を拾い上げない。
震える指先は日記に伸びることなく、その顔を覆った。
水樹の日記が、ふわりと光った。
穏佳は我に返って、詩歌を探した。
遠くで座り込む詩歌に、穏佳は近付いた。
「詩歌、わかるか? 聞こえてるか?」
ぼんやりした目は虚空を見詰めるばかりだ。
肩を揺らしても、反応がない。
「どうしたら、元の詩歌に戻るんだ」
穏佳の問いに応えるように、詩歌の肩の光が浮き上がった。
フワフワと浮いた光を、詩歌の目が追いかける。
「快心……」
詩歌が光を見詰めながら呟いた。
「快心って、誰だ? もしかして……弟?」
倒れる前に詩歌が話していた、死んだ弟だろうか。
詩歌が心を許しているように見える。
全く反応がなかった詩歌の目が、初めて動いた。
「詩歌、思い出せ。目を醒ませよ。このままじゃ、本当にあっち側に連れて行かれる」
光を追いかける詩歌に、穏佳は身を寄せた。
浮き上がった光が穏佳の後ろに回る。
光が穏佳の後頭部を強打した。
「……いたっ! うわ!」
風のような圧で体が前に傾く。
勢いが強くて、詩歌に覆い被さった。
その場に詩歌を押し倒す姿勢になった。
「う……んっ?」
声が上手く出せない。
唇に柔らかいものが触れる。
詩歌の顔がやけに近い。
自分の唇と詩歌の唇が触れていると気付くのに、時間がかかった。
(唇が……え? これは、キスでは……?)
詩歌と自分の唇が重なっている。
詩歌が身を捩ったせいで、余計に深く重なった。
「んぅ……」
詩歌の唇から、小さな声が漏れる。
詩歌が穏佳に腕を伸ばした。
伸びた手が穏佳の服を、きゅっと握る。
(かっ……可愛い。こんなの、無理だ。我慢なんか、できるわけ……ない)
穏佳は詩歌の体を抱き寄せた。
重なった唇を食んで、更に強く口付けた。
唇に熱が戻る。詩歌の呼吸を感じる。
「ん……ぷはっ!」
唇を離した詩歌が、大きく息を吸い込んだ。
「ぁ……穏佳」
詩歌の目が真っ直ぐ穏佳を見詰める。
さっきまでの、意志の抜けたぼんやりした目ではない。
いつものキラキラした詩歌の瞳だ。
「詩歌……やっと起きた」
穏佳は安堵の息を漏らした。
見上げる詩歌の瞳が、潤んだ。
ドキリと、穏佳の胸が跳ねた。
「穏佳……しずかぁ」
詩歌が穏佳に抱き付いた。
あまりの勢いに、穏佳の体が揺れた。
「うっ! た……」
「怖かったよ。でも、諦めなかったよ。絶対また穏佳に会うんだって、卒業までルームメイトでいるんだって、ずっと思って頑張ったよ」
穏佳の首に縋り付いて泣く詩歌を、抱き返した。
「偉い、詩歌。俺も、絶対に取り戻すって、考えてた」
「信じてた。穏佳だから、大丈夫だって、思ってた」
耳元で聞こえた声が嬉しくて、安心した。
間違いなく、穏佳が好きになった詩歌だ。
視界の端に、水樹の日記が映った。
蹲る悠梧の前で日記が光を帯び始めていた。
(水樹との約束、果たさないと)
穏佳は、腕の力を緩めた。
詩歌の顔が思ったより近くて、狼狽える。
気持ちを切り替えて、詩歌を見詰めた。
「俺たちで、七不思議を終わらせるんだ。そのために、俺は今から水樹に体を貸す」
「嫌だ! 穏佳がどうにかなっちゃったら、耐えられない。だったら、僕が……」
「ダメだ」
穏佳は、詩歌の口元に指を添えた。
「俺と水樹の約束だ。だから、俺が貸す」
「でも……」
詩歌が、しゅんと肩を落とす。
その肩に、穏佳を押し倒した光が乗った。
(あの光、弟ならきっと詩歌を守ってくれる……俺には、悪戯してきたけど)
詩歌に害をなす光でなければ、それでいい。
「水樹は悪い霊ではなさそうだ。だけど、もし俺が戻れなかったら、その時は詩歌が俺を助けに来てくれ」
幽霊から助けろなんて、無茶振りに近い。
けれど、詩歌ならきっと、何とかできる。
そんな気がする。
不安そうな詩歌の顔が、決意の色に変わった。
「うん、わかった」
はっきりと頷いた詩歌が、穏佳の手を握った。
「僕が手を繋いでいるから。絶対に離さないから」
詩歌が握ってくれた手を、穏佳は握り返した。
「うん、ありがとう」
詩歌の頬に口付ける。
指先が、ピクリと跳ねた。
穏佳は、日記に向かって叫んだ。
「水樹、いいぞ!」
淡い光を灯していた日記が、ぐにゃりと輪郭を歪めた。
次の瞬間、凝集した光の塊になり、穏佳の胸に飛び込んだ。
「ぅっ……」
視界がぐらりと傾いて、意識が遠くなる。
「穏佳!」
叫ぶ詩歌の声が、遠い。
(でも、聞こえる。大丈夫だ)
指先から冷たくなって、やがて感覚がなくなった。
この世のモノでない異物が侵入したと、体と頭が感じ取る。
『しばらく借りるよ、穏佳』
お手柔らかに。
穏佳の軽口は意識の内側から、水樹に届いた。



