詩歌の額の冷却シートを張り替えると、穏佳は息を吐いた。
土曜日に屋上で倒れた時から、詩歌は発熱した。
意識が混濁しているようで、ほとんど眠っている。
時々、目を醒まして食事をしたり水分を取ったりするが、またすぐ眠ってしまう。
コミュニケーションも、ほとんど取れない。
(微熱まで下がったけど、何か変だ。ただの風邪ではないのか?)
屋上では雨でびしょ濡れになったから、そのせいで風邪をひいたのだと思っていた。
しかし、日曜の夕方になっても、状態が改善しない。
「明日になったら、高橋さんが病院に連れて行くって言っていたけど……」
寮管理者の高橋も、詩歌の様子を見て微妙な顔をしていた。
(本当にこのまま、病院に行かせていいのか?)
穏佳は、机の上の交換日記を見詰めた。
屋上から戻ってから、日記は沈黙している。いまだに開けない。
それが、やけに不気味だった。
(選ばれたのは、詩歌だ。俺は、おまけだからな)
詩歌が名前を書き込んだから関わることになっただけだ。
悠梧という怪異が望む人間は、詩歌だ。
穏佳が交換日記を開けないのは道理といえる。
(本が開けなくなってすぐ、詩歌が倒れた。いまだに目覚めないのは……悠梧に、何かされているから、なのか? まさか、詩歌を連れ去ろうとしている?)
穏佳は咄嗟に、日記に手を伸ばした。
じわりと、弱い光が本の間から零れ落ちた。
「え……?」
指先が表紙に触れた瞬間、日記がパラパラとひとりでに開いた。
「なん、で……さっきまで、開けなかったのに」
捲れていたページが、ピタリと止まった。
ページを覗き込んだ穏佳は、目を見張った。
『穏佳、逃げて! もう関わっちゃダメ! この本は図書室に戻して!』
穏佳は日記を手に取り、文字を凝視した。
今までの悠梧の言葉とは違う。
「まるで、詩歌の言葉みたいだ」
穏佳は後ろを振り返った。
二段ベッドの下段で、詩歌が寝息を立てている。
穏佳は恐る恐るペンをとると、日記に文字を書き込んだ。
「詩歌、なのか?」
『そうだよ、僕だよ! 悠梧に手枷で縛られて、動けないんだ』
「手枷……」
穏佳はもう一度、詩歌を振り返った。
詩歌の手を確認する。
「何もない、よな……え!」
何もなかった詩歌の腕を鎖の枷が縛り付けた。
ジャリっと鎖が擦れる音が小さく響く。
「なんで……詩歌!」
鎖を外そうと試みるも、外し方すらわからない。
引っ張っても、びくともしない。
継ぎ目すらない枷を、穏佳は茫然を眺めた。
「そんな……どうなってるんだ」
現状が理解できなくて、混乱するばかりだ。
じわり、と空気が動いた気配がして、穏佳は日記に目を落とした。
『このままじゃ、僕と同じように穏佳も捕まっちゃう。だから、逃げ……』
そこで、文字がぴたりと止まった。
「おい、詩歌!」
穏佳は詩歌の肩を揺らした。
日記のページと詩歌を交互に確認する。
ザリっと砂を蹴るような音がした。
万年筆で強い圧をかけたようにインクが滲んで、詩歌の文字を塗り潰していく。
強い悪意を感じで、寒気がした。
「やめろ、詩歌の言葉を消すな!」
日記を掴んで、ぶんぶん振る。
詩歌の言葉を塗り潰した下に、新たな文字が書き記された。
『明倫学園七不思議五つ目、図書室の増える蔵書』
いつもの悠梧の文字だ。
淡々とした文字が、恐ろしい。
「今更、五つ目? 五つ目は、この日記だろ。それより、詩歌を……」
穏佳の声を掻き消すように文字が浮かび上がる。
『図書室には、まだ僕の欠片が眠っている』
『それを穏佳が見つけるんだ。見つからなければ……』
『詩歌は返さない』
書き込まれた文字に、寒気が走った。
「なん、だと……」
穏佳は、詩歌の腕に絡まる鎖と、日記のページを見比べた。
『詩歌は、こちら側に捕えた』
『穏佳も同じ場所に来たいなら、いくらでも呼んであげる』
『僕と一緒に七つ目の七不思議になろう』
穏佳は、ごくりと息を飲んだ。
「こちら側……怪異の側ってことか」
フルリと、身の毛がよだつ。
同時に激しい怒りが、頭の芯を焼いた。
穏佳はペンをとると、衝動的に文字を書き殴った。
「ふざけるな。怪異になんか、なってたまるか。詩歌を返せ!」
すぐに悠梧の文字が浮かび上がった。
『詩歌を取り返したいなら、見つけるしかない』
『五つ目の七不思議で僕の欠片を見つけられたら……』
日記のページが捲れた。
『明倫学園七不思議六つ目、男子寮の開かずの寮室』
『ここに持っておいで』
ぞわりと、肌が粟立った。
開かずの寮室の鍵は、寮長である穏佳が管理している。
『あの部屋はかつて、僕が使っていた部屋だ』
「そんなわけないだろ。この建物は、そこまで古くない」
歴史が長い明倫学園は、建物の増築改築が激しい。
男子寮は他の建物に比べると明らかに古い。
しかし、百年前から同じ建物なわけがない。
『男子寮の間取りは大きく変わらない。この土地の、あの場所に、僕の部屋はあったんだ。だから、僕の部屋だった場所なんだよ』
もっともらしいことを言われて、穏佳は押し黙った。
『開かずの寮室に、この本と僕の足りない欠片を持っておいで』
『詩歌と交換してあげよう』
穏佳はギリっと奥歯を噛んだ。
「……詩歌を、物のように言うな」
湧き上がる怒りで、言葉が揺れる。
「図書室でお前の欠片を見つけて、本と一緒に持っていけば、詩歌を返すんだな」
間を置かずに返事が来た。
『約束するよ』
浮かび上がった文字を、穏佳は見詰めた。
「……わかった。それまで絶対に、詩歌を傷付けるな」
『勿論さ。僕は詩歌が大好きなんだ。本当は穏佳に返したくないほどに』
思わず前のめりに本を睨みつけた。
『だけど、同じくらい穏佳も好きだ。穏佳が欲しい。だから、ヒントは出さない』
「は……?」
言葉の意味が理解できずに、返事が書けなかった。
『詩歌と穏佳と三人で暮らせたら、幸せだ。そういう幸せでも、僕は構わない』
穏佳は、ぐっと唇を噛んだ。
(試されているのか。詩歌を囲うための攪乱か、方便か)
穏佳はペンを持って深呼吸した。
呼吸を整え、怒りを鎮める。
日記に向き合い、文字を書き込んだ。
「俺たちがいれば、水樹はいらないのか。お前の代わりに犠牲になった友人を、見捨てるんだな」
悠梧が沈黙した。
穏佳は続けた。
「俺は詩歌を諦めない。必ず返してもらう。俺が迎えに行くまで、絶対に傷付けるな」
ジワリ、とインクが滲みる。
文字がゆっくり浮かび上がった。
『そういう穏佳が好きだ。まるで水樹みたいだ』
ぞっと、冷たいものが背筋を流れる。
「俺は水樹じゃない。俺も詩歌も代わりには、なれない。お前がそれを言ったら、水樹が可哀想だ」
悠梧は、どういうつもりでこんな言葉を吐いているのだろう。
怪異になると人の情を忘れるのだろうか。
(これじゃ、命まで奪われた香原水樹が浮かばれない。悠梧が最後まで想っていなければ)
穏佳の悲しい気持ちが、ペン先にまで流れ込んだ。
「自分の気持ちを誤魔化すなよ。ちゃんと向き合え。そのために詩歌を巻き込んだんじゃないのか」
忘れていた時ですら、思い出そうと必死にもがいて、詩歌を見付けたのではないのか。
思い出したら向き合うのをやめるなんて、水樹にとっても悠梧にとっても、悲しすぎる。
『誤魔化してなんか、いないよ』
線が細い、力のない文字が浮かんだ。
「だったら……」
怒りを纏う穏佳の声を飲み込むように、次の文字が浮かんだ。
『早く見つけないと、詩歌が消耗するよ。生きた人間は、生きたまま長くこちら側に留まれない』
穏佳は顔をあげて、詩歌を見詰めた。
(発熱も衰弱も、そういうことだったんだ。このままじゃ、詩歌の命が……)
詩歌の体はまだ熱い。
だが、もしこの熱が徐々に失われていく熱だとしたら。
穏佳の背筋に冷たいものが流れた。
『頑張ってね』
その一言を最後に、本が自分から閉じた。
「詩歌……」
熱を落とし始めた詩歌の手を握り、名を呼ぶ。
返事はない。
穏佳は口を引き結んで、本の表紙を見詰めていた。
土曜日に屋上で倒れた時から、詩歌は発熱した。
意識が混濁しているようで、ほとんど眠っている。
時々、目を醒まして食事をしたり水分を取ったりするが、またすぐ眠ってしまう。
コミュニケーションも、ほとんど取れない。
(微熱まで下がったけど、何か変だ。ただの風邪ではないのか?)
屋上では雨でびしょ濡れになったから、そのせいで風邪をひいたのだと思っていた。
しかし、日曜の夕方になっても、状態が改善しない。
「明日になったら、高橋さんが病院に連れて行くって言っていたけど……」
寮管理者の高橋も、詩歌の様子を見て微妙な顔をしていた。
(本当にこのまま、病院に行かせていいのか?)
穏佳は、机の上の交換日記を見詰めた。
屋上から戻ってから、日記は沈黙している。いまだに開けない。
それが、やけに不気味だった。
(選ばれたのは、詩歌だ。俺は、おまけだからな)
詩歌が名前を書き込んだから関わることになっただけだ。
悠梧という怪異が望む人間は、詩歌だ。
穏佳が交換日記を開けないのは道理といえる。
(本が開けなくなってすぐ、詩歌が倒れた。いまだに目覚めないのは……悠梧に、何かされているから、なのか? まさか、詩歌を連れ去ろうとしている?)
穏佳は咄嗟に、日記に手を伸ばした。
じわりと、弱い光が本の間から零れ落ちた。
「え……?」
指先が表紙に触れた瞬間、日記がパラパラとひとりでに開いた。
「なん、で……さっきまで、開けなかったのに」
捲れていたページが、ピタリと止まった。
ページを覗き込んだ穏佳は、目を見張った。
『穏佳、逃げて! もう関わっちゃダメ! この本は図書室に戻して!』
穏佳は日記を手に取り、文字を凝視した。
今までの悠梧の言葉とは違う。
「まるで、詩歌の言葉みたいだ」
穏佳は後ろを振り返った。
二段ベッドの下段で、詩歌が寝息を立てている。
穏佳は恐る恐るペンをとると、日記に文字を書き込んだ。
「詩歌、なのか?」
『そうだよ、僕だよ! 悠梧に手枷で縛られて、動けないんだ』
「手枷……」
穏佳はもう一度、詩歌を振り返った。
詩歌の手を確認する。
「何もない、よな……え!」
何もなかった詩歌の腕を鎖の枷が縛り付けた。
ジャリっと鎖が擦れる音が小さく響く。
「なんで……詩歌!」
鎖を外そうと試みるも、外し方すらわからない。
引っ張っても、びくともしない。
継ぎ目すらない枷を、穏佳は茫然を眺めた。
「そんな……どうなってるんだ」
現状が理解できなくて、混乱するばかりだ。
じわり、と空気が動いた気配がして、穏佳は日記に目を落とした。
『このままじゃ、僕と同じように穏佳も捕まっちゃう。だから、逃げ……』
そこで、文字がぴたりと止まった。
「おい、詩歌!」
穏佳は詩歌の肩を揺らした。
日記のページと詩歌を交互に確認する。
ザリっと砂を蹴るような音がした。
万年筆で強い圧をかけたようにインクが滲んで、詩歌の文字を塗り潰していく。
強い悪意を感じで、寒気がした。
「やめろ、詩歌の言葉を消すな!」
日記を掴んで、ぶんぶん振る。
詩歌の言葉を塗り潰した下に、新たな文字が書き記された。
『明倫学園七不思議五つ目、図書室の増える蔵書』
いつもの悠梧の文字だ。
淡々とした文字が、恐ろしい。
「今更、五つ目? 五つ目は、この日記だろ。それより、詩歌を……」
穏佳の声を掻き消すように文字が浮かび上がる。
『図書室には、まだ僕の欠片が眠っている』
『それを穏佳が見つけるんだ。見つからなければ……』
『詩歌は返さない』
書き込まれた文字に、寒気が走った。
「なん、だと……」
穏佳は、詩歌の腕に絡まる鎖と、日記のページを見比べた。
『詩歌は、こちら側に捕えた』
『穏佳も同じ場所に来たいなら、いくらでも呼んであげる』
『僕と一緒に七つ目の七不思議になろう』
穏佳は、ごくりと息を飲んだ。
「こちら側……怪異の側ってことか」
フルリと、身の毛がよだつ。
同時に激しい怒りが、頭の芯を焼いた。
穏佳はペンをとると、衝動的に文字を書き殴った。
「ふざけるな。怪異になんか、なってたまるか。詩歌を返せ!」
すぐに悠梧の文字が浮かび上がった。
『詩歌を取り返したいなら、見つけるしかない』
『五つ目の七不思議で僕の欠片を見つけられたら……』
日記のページが捲れた。
『明倫学園七不思議六つ目、男子寮の開かずの寮室』
『ここに持っておいで』
ぞわりと、肌が粟立った。
開かずの寮室の鍵は、寮長である穏佳が管理している。
『あの部屋はかつて、僕が使っていた部屋だ』
「そんなわけないだろ。この建物は、そこまで古くない」
歴史が長い明倫学園は、建物の増築改築が激しい。
男子寮は他の建物に比べると明らかに古い。
しかし、百年前から同じ建物なわけがない。
『男子寮の間取りは大きく変わらない。この土地の、あの場所に、僕の部屋はあったんだ。だから、僕の部屋だった場所なんだよ』
もっともらしいことを言われて、穏佳は押し黙った。
『開かずの寮室に、この本と僕の足りない欠片を持っておいで』
『詩歌と交換してあげよう』
穏佳はギリっと奥歯を噛んだ。
「……詩歌を、物のように言うな」
湧き上がる怒りで、言葉が揺れる。
「図書室でお前の欠片を見つけて、本と一緒に持っていけば、詩歌を返すんだな」
間を置かずに返事が来た。
『約束するよ』
浮かび上がった文字を、穏佳は見詰めた。
「……わかった。それまで絶対に、詩歌を傷付けるな」
『勿論さ。僕は詩歌が大好きなんだ。本当は穏佳に返したくないほどに』
思わず前のめりに本を睨みつけた。
『だけど、同じくらい穏佳も好きだ。穏佳が欲しい。だから、ヒントは出さない』
「は……?」
言葉の意味が理解できずに、返事が書けなかった。
『詩歌と穏佳と三人で暮らせたら、幸せだ。そういう幸せでも、僕は構わない』
穏佳は、ぐっと唇を噛んだ。
(試されているのか。詩歌を囲うための攪乱か、方便か)
穏佳はペンを持って深呼吸した。
呼吸を整え、怒りを鎮める。
日記に向き合い、文字を書き込んだ。
「俺たちがいれば、水樹はいらないのか。お前の代わりに犠牲になった友人を、見捨てるんだな」
悠梧が沈黙した。
穏佳は続けた。
「俺は詩歌を諦めない。必ず返してもらう。俺が迎えに行くまで、絶対に傷付けるな」
ジワリ、とインクが滲みる。
文字がゆっくり浮かび上がった。
『そういう穏佳が好きだ。まるで水樹みたいだ』
ぞっと、冷たいものが背筋を流れる。
「俺は水樹じゃない。俺も詩歌も代わりには、なれない。お前がそれを言ったら、水樹が可哀想だ」
悠梧は、どういうつもりでこんな言葉を吐いているのだろう。
怪異になると人の情を忘れるのだろうか。
(これじゃ、命まで奪われた香原水樹が浮かばれない。悠梧が最後まで想っていなければ)
穏佳の悲しい気持ちが、ペン先にまで流れ込んだ。
「自分の気持ちを誤魔化すなよ。ちゃんと向き合え。そのために詩歌を巻き込んだんじゃないのか」
忘れていた時ですら、思い出そうと必死にもがいて、詩歌を見付けたのではないのか。
思い出したら向き合うのをやめるなんて、水樹にとっても悠梧にとっても、悲しすぎる。
『誤魔化してなんか、いないよ』
線が細い、力のない文字が浮かんだ。
「だったら……」
怒りを纏う穏佳の声を飲み込むように、次の文字が浮かんだ。
『早く見つけないと、詩歌が消耗するよ。生きた人間は、生きたまま長くこちら側に留まれない』
穏佳は顔をあげて、詩歌を見詰めた。
(発熱も衰弱も、そういうことだったんだ。このままじゃ、詩歌の命が……)
詩歌の体はまだ熱い。
だが、もしこの熱が徐々に失われていく熱だとしたら。
穏佳の背筋に冷たいものが流れた。
『頑張ってね』
その一言を最後に、本が自分から閉じた。
「詩歌……」
熱を落とし始めた詩歌の手を握り、名を呼ぶ。
返事はない。
穏佳は口を引き結んで、本の表紙を見詰めていた。



