「あと…よかったら、名前教えて。今更だけど」
「名前? えっと、月森 碧空です。あなたは?」
私の問いに、彼も答えようとして──口を閉ざす。
一瞬の戸惑いののち、彼は答えてくれた。
「ハノン──いや。奏音、羽山 奏音」
まるで名を噛み締めるように、ゆっくりと。その名を初めて口にするみたいに。「音を奏でるって書いて、奏音」と。彼はそう名乗った。
「奏音…いい名前ですね」
私の呟きに、彼の顔がフッと綻ぶ。
「君だけだよ、その名前で呼ぶの」
それなのに、縋るようにこちらを見た瞳は、どこか泣きそうで。
どうしてそんな顔をするの、と。言葉を飲み込んだ喉の奥がジワリと熱くなり、息が詰まる。それ以上、何も言えなくなってしまった私は、コインランドリーの窓の外を見遣った。
ガラスの向こうに広がる、静かな夜。
雨が世界から隔離してくれた今夜。天使に擬態したこのヒトが、どこかに置き忘れた私の本音を拾ってくれたのかもしれない。
「スマホ貸してくれてありがとう。オレの連絡先も入れといた」
「え? あ……」
彼に声をかけられ再び目を向けると、ポン、と手の中にスマホを戻された。口では「勝手に登録してごめんね」と言いながらも、向こうは悪びれた様子もなく、掴みどころもないし。不思議なヒトだなと思った。
それから、私たちは揃ってコインランドリーを後にした。大通りで拾ったタクシーに乗り込もうとした彼が、ふとこちらを振り返る。
「碧空──よかったら次のライブ遊びに来て。雨宿りにつき合ってくれたお礼」
街灯の光に揺れる金色の髪は、まるで消えゆく光のよう。
私は洗濯物を抱えたまま、そこに立ち尽くしていた。
胸の奥で灰になったはずの何かが、 かすかに、でも確かに熱を帯びた。
