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あれからしばらく経った頃。
私は人気もまばらな夜のオフィスの片隅で、上司を捕まえると話を切り出した。
「先日の転勤の件ですが……お断りします。身勝手な話ですが、相談室の移転のタイミングで退職を考えています」
上司は一瞬、ポカンと口を開けて固まったけれど「転勤が嫌なら、東京に残れるように部署異動を検討してもいい」と提案してくれた。その言葉に、私はゆっくりと首を横に振る。
「本当にやりたいことがあって、勉強したいんです」と続けると「そうか、わかった」と、頷いてくれた。
今夜は冷えるなと思った。
オフィスを後にすれば、冬の風が、音を立てて私の身体を通り抜けてゆく。
あの日、奏音への想いは灰になり、風に流され散り散りになってしまった。
私をギリギリのところで奮い立たせてくれたのは、剥き出しの心の奥に最後に残った、音楽が好きという想いだけ。
足早に家路を急ぎ、帰宅した私は、着替える時間も惜しいと机の上のタブレット端末を掴んだ。
「よかった、ギリギリ間に合ったぁ」
アクセスしたライブ配信チャンネルに、大きなロゴが浮かぶ。
‘Ash Live Tour -Flame Rises Final in Tokyo-’
映像を通しても伝わってくる、大歓声の中、
ステージの上で鮮やかに生きる彼は、どこか遠くを見つめていた。
その横顔に影が見え隠れする、メランコリックな空気を纏った、美しいヒト。
どうか彼がステージの上から見つめている世界が、光に満ちた美しいものでありますようにと、指を絡めた。
ライブも終盤に差しかかった頃。
どこかで聴いたことのある曲が、私の耳に飛び込んできた。
「……っ!」
私は、この曲を知っている。
もう何度も聴いた、きっと誰よりも。
コインランドリーで、流れ星が降ってきた夜の帰り道で、それから朝の淡い光がこぼれる窓辺で。
「’Afterglow’ ってタイトルにしたんだね…」
映像の中で歌う彼の瞳の中に、一瞬のきらめきが見えた気がした。
きっとこれから、彼は一瞬を積み重ねて、途方もない夢を見せてくれる──胸の奥がふいに熱くなった。
本当は、あの場所にいるはずだった。
熱狂の渦に呑み込まれ、酔いしれているはずだったのに。
もう一度だけでいい。
完成したこの曲を隣で歌ってもらえたら、どんなに幸せだっただろう。
……私はもう二度と、奏音の歌を聴くことができない。会えない。
それでもなにひとつ変わらない世界は、優しくて苦しい。
届かないから、愛しい名を呼ぶのだと知った。
「奏音」
あれからしばらく経った頃。
私は人気もまばらな夜のオフィスの片隅で、上司を捕まえると話を切り出した。
「先日の転勤の件ですが……お断りします。身勝手な話ですが、相談室の移転のタイミングで退職を考えています」
上司は一瞬、ポカンと口を開けて固まったけれど「転勤が嫌なら、東京に残れるように部署異動を検討してもいい」と提案してくれた。その言葉に、私はゆっくりと首を横に振る。
「本当にやりたいことがあって、勉強したいんです」と続けると「そうか、わかった」と、頷いてくれた。
今夜は冷えるなと思った。
オフィスを後にすれば、冬の風が、音を立てて私の身体を通り抜けてゆく。
あの日、奏音への想いは灰になり、風に流され散り散りになってしまった。
私をギリギリのところで奮い立たせてくれたのは、剥き出しの心の奥に最後に残った、音楽が好きという想いだけ。
足早に家路を急ぎ、帰宅した私は、着替える時間も惜しいと机の上のタブレット端末を掴んだ。
「よかった、ギリギリ間に合ったぁ」
アクセスしたライブ配信チャンネルに、大きなロゴが浮かぶ。
‘Ash Live Tour -Flame Rises Final in Tokyo-’
映像を通しても伝わってくる、大歓声の中、
ステージの上で鮮やかに生きる彼は、どこか遠くを見つめていた。
その横顔に影が見え隠れする、メランコリックな空気を纏った、美しいヒト。
どうか彼がステージの上から見つめている世界が、光に満ちた美しいものでありますようにと、指を絡めた。
ライブも終盤に差しかかった頃。
どこかで聴いたことのある曲が、私の耳に飛び込んできた。
「……っ!」
私は、この曲を知っている。
もう何度も聴いた、きっと誰よりも。
コインランドリーで、流れ星が降ってきた夜の帰り道で、それから朝の淡い光がこぼれる窓辺で。
「’Afterglow’ ってタイトルにしたんだね…」
映像の中で歌う彼の瞳の中に、一瞬のきらめきが見えた気がした。
きっとこれから、彼は一瞬を積み重ねて、途方もない夢を見せてくれる──胸の奥がふいに熱くなった。
本当は、あの場所にいるはずだった。
熱狂の渦に呑み込まれ、酔いしれているはずだったのに。
もう一度だけでいい。
完成したこの曲を隣で歌ってもらえたら、どんなに幸せだっただろう。
……私はもう二度と、奏音の歌を聴くことができない。会えない。
それでもなにひとつ変わらない世界は、優しくて苦しい。
届かないから、愛しい名を呼ぶのだと知った。
「奏音」
