午後五時。
太陽が落ち、オフィスの外は夜の帷が下りる時間。
「月森、ちょっといいか? 会議室に…」
「あ、はい。すぐに行きます」
私はそう声をかけられ、やりかけの仕事をサッとまとめ、席を立った。
会議室に出向けば、待ち構えていたのは神妙な面持ちの上司。
促されるままに席に着いた私は、何の話かと背筋を伸ばす。
「さっき役員の視察があっただろう。責任者の月森には先に伝えておこうと思ってな」
「なんでしょうか」
上司の口から飛び出したのは、まったく予想できなかった話だった。
「一年を目処にお客様相談室を地方移転して、拡大することが正式に決まった」
「え?」
「早い話が、転勤の準備をしておけということだ」
降って湧いたような話に、すぐには頭が回らなかった。
「新規立ち上げ案件だから補助も手厚い。社宅も用意される高待遇だ。オフィスまで徒歩圏内で……」
新しい環境でスタートを切るには最高の条件じゃないか、と。
同意を求められ、あいまいに頷くことしかできなかった。
渡された資料に、なぜか胸の奥がずしりと重くなる。
熱弁をふるう上司の声が、耳を通り抜けていった。
会議室にひとり残され、ぼんやりと窓の外を見遣れば、
見慣れた夜の街が、ふっと自分の外側にずれていくような錯覚に陥った。
灯りも、喧騒も、少しずつ遠のいていくような──東京を離れたら、奏音と同じ空の下にいられなくなってしまう。
いやだ。
奏音のそばにいたい。
流れ星が降ってくる夜も、手を取り合って迎える淡い朝も、私は彼の歌の愛おしさに耳を澄ませていたい。……でもロマンチックな恋心だけで生きていけるほど、人生はたやすくないことも知っている。
地方移転という現実が、突然タイムリミットとして襲いかかってきた気がした。
私は、本当は何がしたいんだろう。
今も毎日、クレーム対応と人の怒声に晒され、心がすり減っていく。このままでは、もう一度灯った音楽への想いすら、日常の重圧に押しつぶされ、再び灰になり埋もれてしまいそうだった。
奏音がくれた言葉が、遠くの灯台の光のように胸に浮かぶ。
『碧空は本当に音楽が好きなんだね』
『じゃあ、来ればいいのに。こっちに』
こっそり音楽専門学校のウェブサイトを見たこともあったけれど──あの時はまだ、どこか他人事だった。見るだけで満足していた。あぁ、楽しそうだなって。
遠い遠い先に、でも確かにある光。
好きなら、それをもう見失いたくない。
私はスマホを開くと、ブックマークに入れておいた音楽専門学校のウェブサイトを開いた。
「あ! 夜も社会人向けに見学会やってるんだ……行こう、今夜」
うまくいかないかもしれない、失敗するかもしれない。
それでも、もうこのままじゃいられない。
私はようやく、自分の足で一歩を踏み出そうとしている──そんな思いが、夜の底に浮かぶ淡い灯りのように、胸の奥で静かに揺れた。
太陽が落ち、オフィスの外は夜の帷が下りる時間。
「月森、ちょっといいか? 会議室に…」
「あ、はい。すぐに行きます」
私はそう声をかけられ、やりかけの仕事をサッとまとめ、席を立った。
会議室に出向けば、待ち構えていたのは神妙な面持ちの上司。
促されるままに席に着いた私は、何の話かと背筋を伸ばす。
「さっき役員の視察があっただろう。責任者の月森には先に伝えておこうと思ってな」
「なんでしょうか」
上司の口から飛び出したのは、まったく予想できなかった話だった。
「一年を目処にお客様相談室を地方移転して、拡大することが正式に決まった」
「え?」
「早い話が、転勤の準備をしておけということだ」
降って湧いたような話に、すぐには頭が回らなかった。
「新規立ち上げ案件だから補助も手厚い。社宅も用意される高待遇だ。オフィスまで徒歩圏内で……」
新しい環境でスタートを切るには最高の条件じゃないか、と。
同意を求められ、あいまいに頷くことしかできなかった。
渡された資料に、なぜか胸の奥がずしりと重くなる。
熱弁をふるう上司の声が、耳を通り抜けていった。
会議室にひとり残され、ぼんやりと窓の外を見遣れば、
見慣れた夜の街が、ふっと自分の外側にずれていくような錯覚に陥った。
灯りも、喧騒も、少しずつ遠のいていくような──東京を離れたら、奏音と同じ空の下にいられなくなってしまう。
いやだ。
奏音のそばにいたい。
流れ星が降ってくる夜も、手を取り合って迎える淡い朝も、私は彼の歌の愛おしさに耳を澄ませていたい。……でもロマンチックな恋心だけで生きていけるほど、人生はたやすくないことも知っている。
地方移転という現実が、突然タイムリミットとして襲いかかってきた気がした。
私は、本当は何がしたいんだろう。
今も毎日、クレーム対応と人の怒声に晒され、心がすり減っていく。このままでは、もう一度灯った音楽への想いすら、日常の重圧に押しつぶされ、再び灰になり埋もれてしまいそうだった。
奏音がくれた言葉が、遠くの灯台の光のように胸に浮かぶ。
『碧空は本当に音楽が好きなんだね』
『じゃあ、来ればいいのに。こっちに』
こっそり音楽専門学校のウェブサイトを見たこともあったけれど──あの時はまだ、どこか他人事だった。見るだけで満足していた。あぁ、楽しそうだなって。
遠い遠い先に、でも確かにある光。
好きなら、それをもう見失いたくない。
私はスマホを開くと、ブックマークに入れておいた音楽専門学校のウェブサイトを開いた。
「あ! 夜も社会人向けに見学会やってるんだ……行こう、今夜」
うまくいかないかもしれない、失敗するかもしれない。
それでも、もうこのままじゃいられない。
私はようやく、自分の足で一歩を踏み出そうとしている──そんな思いが、夜の底に浮かぶ淡い灯りのように、胸の奥で静かに揺れた。
