はなのゆめ


     *        *         *

「桜……」

 文台に向かっていた太郎君がこちらを振り返った。水晶を思わせる冴え冴えとした顔立ちに柔らかく優しい笑みを浮かべて、そのひとは于子を穏やかに見つめた。衣擦れの音がして、貴く甘い伽羅の香りがあたりに揺らめく。于子は微笑みを返し、床に手を突いて頭を下げた。

「今日まで、大変お世話になりました」

「きみが縫う衣が着られなくなると思うと残念だけれど、君の幸いを祈っているよ」

「……もったいないお言葉です」

 于子は頭を下げたまま笑みを浮かべた。それから、少しだけ昔のことを話して、于子は西の対を後にした。

 渡殿から庭を見渡せば、初夏の日の光に向かって、桜の木が勢いよく枝を伸ばしていた。薄紅の花びらは散り、代わりに青々とした葉が枝を彩る。庭に敷き詰められた白い砂に、風にそよぐ枝葉の影が揺れる。朱い橋が架かった池も熱をふくんだ光をきらめかせていて、まばゆいほどに美しい景色だ。ものがたりの、中のように。

 ――まさみちさま。

 そっと、口の中でひそやかに呟いた。この美しい景色の中で、自分が見てきた夢を思い返す。苦しくて痛くて、切なくて狂おしくて――穏やかで幸せな夢だった。

  よのなかにたえてさくらのなかりせば
  はるのこころはのどけからまし

 もしもこの邸に仕えなかったのなら、眠れぬ夜を過ごすことも、息が詰まるほどに涙を流すことも、浅ましく情けない自分を知ることもなかったのだろう。けれどもそうしたら、優しい眼差しで見つめられることも、穏やかな声で名を呼ばれることも、懸命な声で幸せを祈られることもなかったのだ。

 夢の記憶は思い出となった。この思い出があれば、太郎君の妻となるひとを呪わずに、兵衛佐様の妻になれる。

 光をふくんだ風が、髪を背中側へなびかせた。けれども于子は振り返らず、懐かしい自邸へと戻る牛車に乗った。