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ねえ桜、縫物をするところを見せて。
伽羅が強く香って、早鐘を打つ心の音が身体の中に響いて、針を刺す手元が覚束なかった。背中に覆いかぶさるように後ろから布を押さえていたひとは、ああ、と小さく声を上げて、身体を少し横にずらした。風が通り、伽羅が空に散り、はあ、と大きく息を吐いた。横から愉快そうな笑い声が聞こえた。
押さえてもらっていた隣をまっすぐに縫った。やはり上手いねと太郎君が感嘆の声を上げた。于子は嬉しくなって笑った。そうして、ふと、あるものがたりを思い出したのだった。
おちくぼのものがたりのようですね。
何ともなしにそう言ったなら、なるほどと太郎君は笑った。桜が姫君で私が少将だね、と太郎君は言った。
その言葉で、たいそうけしからぬことを言ったのだと気づき、すみませんと于子は肩をすくませた。どうして謝るのと問う太郎君は、けれどもどこか楽しそうだった。上手い言葉が見つからず、于子はうつむいて針を進めた。
おちくぼのものがたり。継母に苛められていたおちくぼの姫君が少将に見初められ、幸せになるものがたり。ものがたりの中に、少将が姫君の縫物を手伝う場面がある。まさか、その姫君と少将に自分と太郎君を重ねてしまうなんて。
落窪の物語が好きなのと問われ、それには、はいと頷いた。
少将は右大臣の姫君との縁談も断って、ずっと姫君だけを大切にしました。ものがたりの中のことですが、憧れてしまいます。
そう言ったなら、男としては耳が痛いねと太郎君が苦笑した。自分がまたもやけしからぬことをいっていると気付き、違うのですと于子は慌てて言い募った。
おちくぼのものがたりは、ものがたりですから。高貴な男君が数多の姫君のもとに通うのは当然のことです。それに、殿方の栄達は妻次第とも言いますし、だから、そういうわけではないのです。
それでも、それが女君の……きみの、本当の心なのだろう。
太郎君は、確か穏やかな声でそう言ったはずだった。
女君はただ男の訪れを待つばかり。待つことの苦しみを、切なさを、理解できるほどには、私の心は枯れていないつもりだよ。
穏やかに、そう微笑んだはずだった。
