苔のむすまで


「悪天候で臨時休業、ですか」

 スマホの向こう側にいる連絡係が、そうなんです、と申し訳なさそうに言う。窓には、大粒の雨が激しく打ち込まれている。

 嬉しさのあまり荒ぶる心を押さえ付けながら、失礼しました、と電話を切った。

 洗面台の鏡には、歯ブラシをくわたまま、右手にネクタイ、左手にスマホを持つ自分が写っていた。

 これから急いで電車に駆け込む必要はないんだ。そう思うと、自然に瞼が持ち上がり、口角も上がっていく。

「よっしゃあ!」

 鼻歌を歌いながらスマホを洗面台横の棚に置き、ネクタイを床に叩きつける。大粒の雨が窓にぶつかる音で、こんなに心踊ることがあっただろうか。

 せっかくの休みなんだ、いつもなら出来ないことをやろう。

 シワだらけのくたびれたシャツから、同じものが何着もある白いTシャツに着替え、気分はまるで、三連休前の小学生だった。

 買ったあと平積みになっていたあの本を読もうかな、そういえばダイエットのために買って押入れに入れたままのヨガマットがあったな。

 何をしよう、と引き出しを横切ろうとしたとき、足の小指に激痛がはしる。

「いったあ!」

 どうやら足が先走ってしまったらしい。靴下越しに小指をさすっていると、自分の影の上にもう一つ、長方形の影が落ちていることに気付く。

 だが、気付くのが遅すぎたらしい。

 ゴツン、とそれは僕の頭に直撃して、バサッと音を立てて床に落ちた。

 今日は冴えないな、と思いながら自分のすぐ近くに落ちたものを見る。

 どうやらこれは、紙に穴を空け、ひもを通して作った手作りの本らしい。

 頭をさすりながら本を拾い上げると、紙特有の何とも言えない落ち着くにおいと、墨のにおいが鼻を通り抜けた。

 この本を一言で例えるなら、「社会の教科書に出てくる書物」だろうか。きっと真似しても書けないような達筆な字で題名が書いてあった。

吾が國草紙(わがくにそうし)

 筆で書かれた文字を指でなぞりながら、そう呟く。そう言えば、こんなこと、前にもあったような気がする。