猫だまり日和商店街で恋をしよう


 猫だまり日和商店街に古い本屋がある。
 その本屋は今どきの本屋と違って、品揃えが多いわけではないし、お洒落なカフェが併設しているわけでもない。
 そこは埃っぽい匂いと、古い紙のインクの混じった、独特の空気で満たされていた。
 天井まで届く本棚には、背表紙が擦り切れた本がぎっしり。誰も手入れしないまま、何十年もそこで眠っていたような本たちだ。
 ここは、学校の図書館や街の図書館と違い、誰の視線も気にしなくてすむ。俺のお気に入りの場所。
 自分の好きなページを、好きなだけ読むことができる、秘密の隠れ家みたいだ。


 元々俺は読書が好きだ。だから、小学校の頃から友達と外で元気に遊ぶというより、教室で静かに本を読んでいるような子供だったし、それは今も変わらない。
 今日もゆっくり本を選ぼうと本屋に立ち寄った。
 本を手に取ってページをめくると、インクの文字が滲んで読みづらいけど、その一冊一冊が、何十年もの物語を背負っているように感じる。
(今日はなんだか日本史の本が読みたい気分だ)
 そう思いながら本棚に並べられている本を指でなぞりながら、面白そうな本を探していく。
 この本屋の店長さんは小石川さん。かなり年配のおじいちゃんで、店番をしているのか、居眠りをしているのかわからないくらいだ。
 だから、好きなだけ立ち読みをしたって怒られない。
(あ、これ面白そう)
 俺が本棚から一冊本を取りペラペラとめくっていると、となりで大きな欠伸をする音が聞こえてくる。欠伸をした犯人は湊だ。
「どうせ湊は本なんか読まないでしょ?」とついてこないよう説得したのに「嫌だ、行く!」と子どものように駄々をこねたから、仕方なく連れてきたのだ。
 それにもかかわらず、たった数分で飽きてしまったらしい。
 先ほどから本を取っては棚に戻し、また手に取って、を繰り返して退屈そうだ。


「ねぇ、湊。退屈なら帰ってもいいよ?」
 そう声をかけると、湊が頬を膨らます。まるでハリセンボンのようだ。
「嫌だ。俺は瑛太君と一緒にいたいんだもん」
「でも湊は普段本なんて読まないでしょ?」
「そんなことないよ。電子書籍で漫画を読んでるもん」
「電子書籍かぁ……。そうだよね、今の若い子は紙の本なんてあんまり読まないか」
「あははは! なにそれ? ジジ臭い」
「うるさいなぁ」
 それでも湊は毎日俺の後をついてきては、隣で本を読んでいる。
 今まで本に触れてこなかっただけで、読書自体が嫌いではないようだ。
 それにいつの間にか、店主の小石川さんと仲良くなったようで、囲碁の話で盛り上がっていた。
 特に買いたい本が決まらなかった俺は湊に向かって「帰ろう」と声をかける。
「じゃあ、小石川さん。今度囲碁で勝負しようね?」
「おお。楽しみにしてるからな」
 なんて楽しそうに会話をしていた。


「本当に湊は誰とでもすぐに仲良くなれるんだね」
「まぁね」
「それに囲碁もできるんだ?」
「うん。小さい頃にじいちゃんに習った」
「へぇ」 
 意外なところで湊の特技を知ってしまった。
 こうやって一緒にいると、湊の知らないことを知ることができる。そんなことも楽しく感じられた。
「今度は瑛太君()で豚カツを食べたいなぁ」
「はぁ? また俺ん()に来るの?」
「いいじゃん。別に……。揚げたてのサクサクの豚カツは美味いよ」
「それは美味しそうだなぁ」
 チラッと商店街の隅に視線を移すと、精肉店に美味しそうな肉が並んでいる。脂が綺麗にのった豚肉に、思わず見惚れてしまう。
 最近は湊が家に押しかけてきて、何回か一緒に夕飯を食べた。
 少しずつ縮まる湊との距離。そんな関係に戸惑いを感じながらも、こんな関係も悪くないかな? と思える自分もいる。
 ずっと一人で食事をしてきたから、誰かと食卓を囲むっていう経験も、人より少ないのかもしれない。食事をするときに話し相手がいるということは、楽しいものだ。
「じゃあ、今度豚カツを作るか」
「ヤッター!」 
 一人で食事をとってもつまらないなんて、ただの口実で。本当は今みたいに喜ぶ湊の顔が見たいだけなのかもしれない。
 サクサクの豚カツのことを考えただけで、俺のお腹の虫がグルルル……と鳴り出したのだった。

◇◆◇◆

 数日後も、学校帰りに本屋に立ち寄ろうとしたら「俺も行く」と湊がついてきた。
 最近湊は絵本が気に入ったらしく、絵本が並べられているコーナーにいることが多い。
 絵本っていうものは、大人になってから読んでも面白いものだ。小さい頃とまた違った目線で見ることができるから。
 それにしても、今日はやけに真剣に絵本を選んでいるようだ。
 俺は棚の隙間から、そっと湊の様子を窺った。すると一冊の絵本を持ってレジに向かっていく。
(湊が絵本を買うなんて珍しい……)
 そう思って見ていると、紙袋に入れてもらった本を持って湊が俺の所に戻ってきた。
「何を買ったの?」
「絵本だよ」
「どんな話なの?」
「内緒。瑛太君が本を見終わるまで待ってるから、ゆっくり見てていいよ」
「うん」
 そう言うと、湊はまた店の奥に向かって行った。


 俺も推理小説を一冊買って店を後にする。
 本屋を出てから精肉店で豚カツ用の肉を買う。いつもなら隣で大はしゃぎしているはずの湊の様子が先ほどからおかしいのだ。
 話しかけても会話は途切れがちだし、なんだかソワソワしている。
 先ほどから何度も何かを言いかけて飲み込み、地面のタイルをじっと見つめたりしている。
「ねぇ、さっきから変だよ? 何かあった?」
 俺が顔を覗き込むと、彼はビクッとして、視線を忙しなく泳がせてから俺を見た。
「……いや、別になんでもないんだ」
 そう言って、ぎこちなく逸らす。
 いつもなら冗談を言って笑わせてくれるのに、今日の湊はどこかよそよそしくて、ひどく緊張しているみたいだ。


「湊、今から豚カツを揚げるよ」
「あ、うん。お願い」
 いつもなら俺が料理をしているとちょっかいを出してくるのに、今日の湊はベランダから猫だまり日和商店街をただ黙って見つめている。
 夕暮れの光が、湊の横顔をオレンジ色に染めている。その横顔があまりにも真剣で、なんだか話しかけてはいけないような不思議な空気に包まれている。
(何があったんだろう?)
 この静寂の先に何が待っているのか、俺にはわからない。
 とりあえず、湊が食べたいと言っていた豚カツを揚げることにした。
 我ながらサクサクッと揚がった豚カツを、湊は「おいしい」と喜んで食べてくれた。
(よかった、いつもの湊だ)
 そんな普段通りの湊を見て、俺はひどく安堵する。やっぱり湊は笑顔がよく似合うから。
「ご飯のおかわりまだあるよ」
 そう声をかけると、「じゃあ、遠慮なく」と三杯もおかわりをしていた。


「そろそろ帰るね。ご馳走様でした」
 湊は使った食器を綺麗に全部洗ってから、帰り支度を始める。
 湊が帰るときに、俺は毎回玄関まで湊を送っている。
 それはいつも通りの光景だけれど、やっぱり普段の湊とは違っていた。
 なんだかソワソワして落ち着きがないのだ。それを感じ取った俺まで、なんだか落ち着かなくなってしまう。
「じゃあ、湊。また明日ね」
 そう声をかけると、湊がドアノブに手を伸ばしながら「うん」と小さな声で呟く。
 しかし突然振り返り、「これ、瑛太君にあげる!」とさっき本屋で買った絵本を鞄の中から取り出した。
 突然の湊からのプレゼントにびっくりしていると、顔を真っ赤にした湊に紙袋を押し付けられる。


「俺が帰ってからこの絵本を見て」
「帰ってから? 今じゃ駄目なの?」
「今じゃ駄目! 帰ってからにして」
「わ、わかった……」
 湊のあまりの剣幕に、俺は突きつけられた紙袋をとりあえず受け取る。
(湊は一体どんな絵本をくれたんだろう)
 想像しただけでワクワクするのと同時に、ドキドキしてきてしまう。
「しおりが挟んであるから、そこのページだけ読んでもらったので大丈夫だよ」
「へぇ、しおりが挟んであるんだね。わかった。ありがとう」
「別に、大したもんじゃないし……」
「でも、嬉しいよ」
 俺は戸惑いながらも、もらった絵本を抱き締めた。
「じゃあ、瑛太君。また明日」
「うん。気を付けてね」
「わかった」
 湊はそう言い残すと、振り向きもせずアパートを後にしてしまった。

◇◆◇◆

 湊が帰ってからもらった絵本を紙袋から取り出す。
 きっといつもと様子が違ったのはこの絵本が原因だ。そう思うと、紙袋を開ける手が少しだけ震える。
(落ち着け、俺……)
 俺は深呼吸を繰り返しながら、そっと絵本を開く。
 その瞬間、少し古くなった紙とインクの香りが部屋中に広がっていく。
 湊がくれた絵本は、これと言って細工がしてあるわけではない、ごく普通の絵本だった。その可愛らしい絵本に思わず笑みが零れてしまう。
『しおりが挟んであるページを読んで』
 俺は湊に言われた通り、しおりが挟んであるページを開いた。
 それは猫の絵と、猫だまり日和商店街と書かれた可愛らしいしおりだった。


 俺はその絵本の中に不自然なものを見つけてしまう。
 ある文字にペンで(まる)がつけられているのだ。それはきっと湊が後から書いたものらしく、ペンのインクは新しい。
 俺はその丸がついた文字を順番に目で追う。そして読み終わった瞬間、顔がカッと熱くなるのを感じた。
『だいすき』
 絵本に〇がつけられた文字を順々に読んでいくと『大好き』という言葉になった。
 嬉しい。嬉しすぎて、どうしたらいいかわからない。それと同時に恥ずかしさが大波のように襲い掛かってくる。もうどうしたらいいか分からない。
 こんな気持ち、初めてだ。
 胸の奥がふわふわと甘いものでいっぱいになって、なんだか全身が擽ったい。つい口角が上がってしまう。
 この『大好き』という言葉が、素敵な魔法をかけてくれたみたいだ。


 俺はパラパラとページをめくりながら、文字を探す。
 無意識にある文字が揃っているページを探してしまった。
「あった……」
 その文字を見つけた瞬間、俺の心が高鳴る。鼓動が少しずつ速くなっていくのを感じる。
 俺はその文字にペンで〇をつけていく。俺が〇をつけた文字は……。
『ありがとう』だった。
 恥ずかしい気持ちを抑えて必死に〇をつけた。情けないことに手も少し震えていて。
 明日この絵本を湊に渡そうか……。俺は少しだけ躊躇ってしまう。
 そしてその本をギュッと抱き締めた。
 今すぐには恥ずかしくてこの本を渡すことができないかもしれない。でも、もし渡せるチャンスがあったらこの絵本を湊に渡そうと思う。
 それにもしかしたら、〇をつけたい文字が変わっているかもしれない。
「ありがとう、湊」
 俺はそっと呟きながら、絵本を本棚に大切にしまったのだった。